内 輪   第427回

大野万紀


 4月1日に水鏡子、岡本俊弥と三人で、渡辺英樹さん睦夫さん兄弟が運営する名古屋のSF資料館(愛知県春日井市)を訪問しました。
 あいにくの雨模様でしたが、バス停まで英樹さんが迎えに来られ、バス停から歩いてすぐのところにある団地の一室へ。そこがSF資料館です。睦夫さんもそこで待っておられました。

 正直いってわれわれ三人はSF本がたくさん所蔵されているというだけでは何も感じないというくらい感覚がマヒしているところがあるのですが、ここは違います。書庫ではなく資料館なのです。数だけなら水鏡子書庫の方がずっと多いでしょうが、ここは訪れた人が実際に手に取って見られるよう空間を十分にとり、出版社や作家、テーマなどをもとにとてもわかりやすく整理されているのです(誰かのところみたいに本人にはちゃんと分類の基準があるんでしょうが、他人にはわかりにくいというのとは違います)。
 そのぶん蔵書の数は絞られていて(約1万冊とのこと)例えばハヤカワ文庫SFは1番から1500番まで(全部初版で帯付き美本)といったように、展示されているのは渡辺さんが所有されている本の一部だけです。それでもなかなか手に入らない珍しい本もあり、水鏡子があっというような本もありました。
 しかも初心者には初心者向けに、マニアにはとてもマニアックな渡辺さんの解説つき。もとが学校の先生ですからそこはお手のものなのでしょう。とりわけSFマニア(特に海外SFのマニア)なら、一日ずっと話していても話題が尽きることはないと思います。

 ぼくらが特に興味あったのはファンジンコーナー。ぼくらが作っていた大昔のファンジンから主に2000年までの1200点ほどが整理されて並んでいます。ペラペラのものはきちんとファイル化されていて見やすい。特に渡辺さんの地元、中部圏のものが充実していて、名大SF研の日誌や殊能将之さんがSF研にいたころの貴重な資料には目を見張りました。そのぶん関西系は「レベル烏賊」が最後の1冊しかないなど、これはぼくらが協力しなければいけませんね。

 この資料館で目につくのは本だけではありません。まず何といってもSFに出てくる宇宙船などの模型、ブラッドベリコーナーには「霧笛」の灯台と恐竜、ディックコーナーには電気羊、アシモフの胸像や、様々なサイバーパンク風ガジェットまで。これらは渡辺さんの友人であるフリスクPさんの製作したもので、本当にすばらしい造形物です。知らなかったのですが、フリスクPさんという方はサイバーパンク方面では大変有名な方だったのですね。このYoutubeチャンネルを見ればそのすごさがわかります。

 そのフリスクPさんに勧められたということで、渡辺さんたちも「SF資料館よもやま話」というYoutubeチャンネルを立ち上げて、SFについて語られています。とても面白いのですが、1本20分近くあるので全部見る人は少ないのだそうです。ついつい語ってしまって長くなるのだという話。もっと短めに分けて配信してみようかということでした。

 それはさておき、高齢になったSFファンの蔵書問題というのがあります。水鏡子のように書庫があるならともかく、ダンボールにしまい込んで何がどこにあるかもわからない。結局二度と見ることもなく最後は(古本屋へ売れるならいいけれど)そのまま廃棄してしまうことに。そういうことにならないよう、ダンボールのまま資料館に送ってくださいとのことでした。ぼくもそのうち何か送ろうと思っています。

 ダブり本は自由に持って帰ってくださいというコーナーもあります。カンパも受け付けていて特製のサイバーパンク風ストラップももらえます。来館は金曜~日曜の10時から17時。完全予約制で、ここへメールを送って予約できます。どうぞみなさんも訪問してみてください。

*写真をクリックすると拡大表示できます。

文庫は全部初版帯付き 2005年まで揃っています ファンジンコーナー 毎月の特集コーナー 宇宙船などの模型 ブラッドベリコーナー ディックコーナー

 それでは、この一月ほどで読んだ本から(読んだ順です)。
 なお、短篇集についても原則として全部の収録作について途中までのあら筋を記載しており、ネタバレには注意していますが、気になる方は作品を読み終わった後でご覧になるようお願いいたします


サラ・ピンスカー『いつかどこかにあった場所』 竹書房

 2025年10月刊。訳・あとがき、市田泉。著者待望の第2短編集。書き下ろし1編を含む12編が収録されている。ネビュラ賞、ヒューゴー賞、ローカス賞の受賞作も含まれており、評価の高さがわかる作品集だ。訳者あとがきには各作品の解説もついている。

 「二つの真実と一つの噓」は2021年のネビュラ賞、ヒューゴー賞の受賞作。読んでいるととても心がゾワゾワしてくるような不気味な感触の傑作だ。
 主人公のステラは虚言癖のある女性。悪意はないのになぜか嘘をついてしまう。自分でもなぜ平気で嘘を言ってしまうのかわからない。時にはその言い逃れにますます嘘が膨らんでしまう。彼女の高校時代の親友だったマーコが30年ぶりに町に戻ってきた。彼の兄デニーが亡くなりその葬式に帰ってきたのだ。デニーは変人で、ゴミ屋敷と化した自宅に一人で住んでいた。葬儀の後、ステラはマーコにゴミ屋敷の片付けを手伝うと申し入れる。だがそれは大変な作業だった。何だかわからないゴミの山、悪臭、その中に貴重なものも混ざっている。
 古いビデオの山を見つけたとき、ステラは何げなく「『アンクル・ボブ・ショー』って覚えてる?」と言ってしまう。覚えているはずはない。ステラがいつもの思いつきで口走った嘘だから。ところがマーコは覚えているといい、デニーが子どものころその番組に出たというのだ。実際、そこにあったビデオにそれが映っていた。嘘ではなくただの記憶違いか? マーコがいうには地元のローカル・テレビ局で制作されていた番組で、アンクル・ボブという司会者が子どもたちを集めてお話をするというものだった。だが司会者はとても不気味で子ども向けではないホラーな物語をひたすら話すばかり、その間子どもたちは勝手に遊んでいるという番組だったとのこと。デニーが変わってしまったのはこの番組に出てからだ。
 家で母に聞くとステラ自身も出演したことがあるという――だがそんな記憶は全くない。ネットにも情報はなかったが、テレビ局に行って聞いてみるとその時のビデオが見つかった。そこに出てきたボブはまるで彼女に話しかけるように嘘つきの女の子の話を始めた……。
 話はさらに続いてぞっとするような結末に至るが、はっきりとしたホラー的・超常的なものは現れず、SF的な飛躍もない。にもかかわらずこの異界に切り離されたような得体の知れない感覚。虚と実、意識と記憶、現実と時間、因果関係の揺れ動く曖昧さが際立っていく。これは確かに傑作だ。

 「われらの旗はまだそこに」では近未来の右傾化したアメリカが描かれる。愛国心が称賛され、〈国旗スクリーン〉がそこら中に設置されている。人々は監視され反政府的な言動は罰せられる。だが多くの人々はそれに満足し、むしろ積極的に自分の愛国心を吐露するのだ。
 主人公のわたしは〈国旗センター〉に勤めている。そこでは〈国旗〉、抽選に当たった1人の人間がまる1日薬漬けにされ、特殊インクを注入された国旗となって掲揚され〈国旗スクリーン〉に映し出されるのだ。〈国旗〉になるのは名誉なことであり、報酬も大きいので人々はこぞって抽選に応募する。わたしも応募したことがあるが倍率はとても高い。だが長年この仕事をしている同僚のベテラン、マギーは内心違う意見を持っているようだった。そして……。
 ディストピアものではあるが、人間=国旗についてはヒト=モノの扱いがSF的であり、往年の筒井康隆や最近では斜線堂有紀の作品を思い浮かべた。

 「ぼくはよく、騒音の只中に音楽が聞こえる」。1920年代のニューヨーク。その喧噪の中に育まれたジャズ・ミュージシャンたち、作家、芸術家、歌手、俳優、画家、彼らの渾沌とした活動の坩堝を描く、小説というよりはエッセイ的な作品である。ジョージ・ガーシュウィン、スコット・フィッツジェラルド、ジョージア・オキーフ、デューク・エリントン、ルイ・アームストロング、そして時代は違うがもっと最近のデヴィッド・ボウイも。人間ばかりではない。摩天楼、ホテル、オーティスのエレベーター、ティン・パン・アレイ、コットン・クラブ。訳者あとがきによれば中の一人とホテル一つは架空のものだそうだ。
 しかしこの豊穣さ。ぼくも決して詳しくはないが、ジャズエイジのニューヨークには憧れというか郷愁を感じるところがある。それは映画「キングコング」や昔のアメリカ製テレビドラマからくるものだろう。
 ところでこの騒音に溢れた輝かしい豊饒に、ノスタルジーばかりではなく、作者は無限に部屋を増やせるヒルベルトのホテルの話を組み込み、アンドレ・ブルトンの「夢と現実という、一見まったく矛盾する二つの状態が、将来的には解消され、一種の絶対的現実、こう言ってよければ、超現実に変わることを」という言葉を引用している。様々な(無限といっていい)事象の重なり合いとその収束、それは本書全体を通じていえる作者の方向性であり、「いつかどこかにあった場所」というタイトルの意味するところではないだろうか。ぼくはそこにSF性を感じる。

 「宮廷魔術師」は短めのダーク・ファンタジーだが、ヒューゴー賞、ネビュラ賞、ローカス賞、世界幻想文学大賞にノミネートされた作品である。
 市場で魔術師たちが披露する様々な奇術(普通に種も仕掛けもある)に興味津々な少年がいる。彼はその種を見破り、自分でもできると思う。一方彼を見守る存在がある。宮廷魔術師となる候補を探しているわたし、語り手だ。わたしは少年をある魔術師の弟子にし、その技を身につけ自らも新たな技を編み出せるようにする。才能のある少年はやがて独り立ちして立派な奇術師となるが、彼が本当に身につけたかったのはトリックのない本物の魔術だ。わたしはまた人をやって彼に本物の魔術を学びたくないかと誘う。そして宮廷にやってきた彼に、しばらくして指南役が本物の魔術師はある言葉を口にすることで摂政が抱える問題を消滅させることができるが、その代わりその代償を払うことになると話す。それでも魔術師になるか、と。その残酷な代償とは――。
 本物の魔術師となった男の矛盾する心情を描く物語だが、ぼくは純粋な探究心が実ったときの副作用を描く、現代的な科学者の寓話として読んだ。

 「今日はすべてが休業している」は例えばコロナ禍のような異変があったとき、日常生活の中でどのように市民活動を始めるかというお手本みたいな話。ピンスカーの長編『新しい時代への歌』と同じ世界設定で書かれているとのこと。
 パートで図書館に勤めているスケートボートの得意な女性、メイが主人公。爆弾テロがあったということで学校も図書館も閉館となる。ショッピングモールも閉まり、開いているのは病院とコンビニくらい。インターネットは大混雑でほとんど通じず、電話もたまにしか通じない。報道も混乱していて一体何が起こっているのか状況がほとんどわからない。看護師をしているパートナーのダナは病院に行ったきりでたまにしか戻れないのだ。混乱が長引くにつれ、差し迫った問題はパートの収入が得られないことだ。コンビニで食料は手に入るが割高だ。
 さしあたってやることもなくメイは同じアパートの少女たち、休校で行き場のない姉妹にスケボーを教えることになる。やがてその人数は増え、家賃のことを管理会社に話し合いに行くとか、ダナの助けもあって前向きな活動を目指すようになる。
 本当の大きな問題はこの後に出てくるのだろうが、目の前の日常的な問題を力を合わせて一つ一つ解決していく姿にはストレートで心強いものがある。

 「センチュリーはそのままにしておいた」は何かが起こりそうで起こらないホラー風味な掌編。
 その池に飛び込んだ人が消えてしまうとことがあるという池。いくつかルールが伝わっているが本当かどうかわからない。語り手であるシェイの兄も車で来て池に飛び込んだまま消えてしまった。その車は母がそのままにしておくようにいい、今では朽ち果てている。消えてしまった人は出てこない。死体もなく、水着だけが浮かんでくるという。池の底をさらえたこともあるが、遺体も骨も何もなかった。シェイは実際に同じクラスの二人が池に呑み込まれたのを見たことがある。
 今、シェイはキャットとオーティスのカップルと一緒にここに来て、兄の部屋で見つけた詩に肩を押されるように池に飛び込んで行く……。
 不気味ではあるが、日常の延長上にある光景。消えた後を想像するというのは死とはまた別のあり方を思うことなのかもしれない。

 「ケアリング・シーズンズからの脱走」は近未来の高齢者向け住宅地〈ケアリング・シーズン〉が舞台となる。主人公のゾラはこの住宅地の設計者の一人だったが、82歳となった今はそこへパートナーのアニャと共に住んでいる。ゾラたちが設計した街はAIが高齢者の健康状態をモニターし、ポイント制で隣人との協力関係や介護を支援し、病院や公園や公共施設も完備、住人は互いを知り合って健康で社交的な生活ができるはずだった。
 ところが施設が海外資本に売却されてからそれがおかしくなった。AIによるモニターは住人の監視網となり、外部との連絡が制限され、一人で外出することもできなくなった。街全体がまるで監獄のようだ。アニャが発作を起こして入院することになったが、すでに自宅介護で十分なくらい回復しているにもかかわらず退院が許されない。ここから出してほしいというアニャの言葉でゾラは脱出を計画する。
 まずは腕に埋め込まれたモニターをえぐり出し、監視網を避けて森の中に入る。だがそんな彼女を追跡していたドローンが発見し、彼女に話しかけてくるのだ……。
 これは面白かった。自由のない老人ホームからの脱出という話は小林泰三を含めこれまでもいくつもあったが、いずれも傑作だった。そこにまた1つ傑作が加わったといえる。この作品ではドローンがゾラを見つけてからの後半の展開も意外性があって面白い。施設そのもののディテールもよく描かれていて、理想を目指して作られたものが反転するという恐ろしさがある。

 「もっといい言い方」はささやかな魔法の話。語り手は少年のころ姉と映画館でサイレント映画のセリフを叫ぶ仕事をしていた(彼の姉ジュディ・セリグと、姉の友人ベス・モリスは「ぼくはよく、騒音の只中に音楽が聞こえる」にも登場している)。
 当時の字幕にはおかしな言葉が多かったが、セリフ係にはそれをそのまま読むことが要求されていた。だが彼はそれに我慢できず、ついもっと適切な言葉に直して叫んでしまう。雇い主には怒られたが、あるとき、そういう風に言い換えた字幕がその後彼の叫んだ言葉どおりに直っていることに気づく。それが彼のささやかな魔法の発見だった。
 やがて姉は女優の道に進み、彼も脚本家になろうとしたが、結局うまくいかず新聞記者見習のような仕事をする。そして、ダグラス・フェアバンクスがホテルの屋上で射った矢が通行人に当たったという事件(実際にあったことらしい)の当事者となるのだが……。
 主人公の回想として話が進むが、脚本家になろうとした故か、話が行ったり来たりしてストレートではない。そして消えてしまっていた彼のささやかな魔法が、ここでまた一度だけ再現したのだった。ピンスカーは20年代のニューヨークがとても好きなんだなあ。そう思わせる一編である。

 「わたしのためにこれを憶えていて」は才能ある老画家のボニーが語り手。だが彼女は認知症を患っていて、一緒に暮らしているヘルパーのパティのことも、姪のローリのことも常に書いているメモを見ないと思い出さない。思いだしてもすぐに忘れてしまう。ボニーをおばさんと呼ぶローリを見ても若いころの記憶しかなくて、こんなに老けているはずはないと思う。
 そんなボニーの頭の中には”ミューズ”がいる。それこそ彼女の芸術の才能そのものだ。ミューズがビジョンを示し、ボニーはそれを形にする。うまくいけば大体いいと満足してくれる。そうやってボニーは画家としての名声を得、高い評価を得たのだ。
 また新たな回顧展が企画されていて、ローリとパティはボニーと1年前からその準備をしているのだった。でもボニーの記憶はすぐにリセットされてしまう。そして回顧展のオープニング・レセプションに来たボニーは、自分の展示を見て頭の中のミューズが喜ぶのを感じる。わたしのためにこれを覚えていてと……。
 認知症の描き方のリアルさ。例え日常のあれこれをすぐに忘れてしまっても自分の中の大事なものは残っている。こんな風に歳を取るのもいいかも知れないなと思わせてくれる。

 「山々が彼の冠」は異世界ファンタジーだが、かつての科学技術を皇帝たちが独占し、農民たちは昔ながらの生活をしているという設定。
 語り手のわたしは若いころに北の山岳地帯から出て来て、今はここでパートナーのララと二人の子どもたちと暮らしている。そのヒマワリ畑に皇帝のマシンがやって来て一部を直線上に焼き払って行った。どうやらこの近所の土地でも同じ事をされたようだ。皇帝の使いが来て、その意味をわたしたちに伝える。飛行船から見るとこのあたりの地形が皇帝の衣装に似ているため、皇子たちが地上にそれをタペストリーとして再現したいと進言したのだ。皇帝の使いたちも心から納得しているように思えないが、それが皇帝の命令である。わたしもララも表向き逆らうことは出来ない。だがわたしには心に秘めた計画があった……。
 帝国への反逆といった大きな話ではなく、農民たちに出来るささやかなものだが、それは皇帝の考えを変えさせる力があるのだ……。弱者が自分たちの力でできるささやかな抵抗で大きなものに立ち向かっていくという物語である。

 「オークの心臓集まるところ」はヒューゴー、ネビュラ、ローカス賞受賞作。普通の小説とは違い、ネットの掲示板(コミュニティノートやクラウドソーシングのように、共通の話題について議論を深める場)で議論されている内容をそのまま収録したという形式で書かれている。だから横書きで、発言と発言者のハンドル名、それへの応答が字下げ(インデント)されて対話形式で続く。ただし発言にタイムスタンプはなく、スレッド形式なので頭から読んでいくと混乱するところもある。スレッド全体は時系列だが、スレッドの中の応答には後から追加されるものがあるので、インデントの深い発言に後のスレッドよりも新しい内容が含まれている場合がある。ここは要注意だ。
 この掲示板のテーマは「オークの心臓集まるところ」というかなり薄気味悪い内容の古い英国のバラッドについて、その歌詞をみんなで解釈しようというもの(このバラッドは実際に存在するものではなく、ピンスカーの創作らしい。彼女自身が歌っている動画がある)。議論はボニーラス67という寄稿者が始めたもので、20連ないし21連ある歌詞が連ごとにスレッドとなり、それぞれに解釈が加えられ、ダイナマム、ホーリーグリール、ヘンリーマーティンといったハンドル名の人たちが自由に発言していく。中にバロウボーイという人がいて、始めは真面目に加わっているのだが、途中からは混ぜっ返すような発言を繰り返すようになる。
 バラッドそのものは娘が恋人(?)の男の心臓を抜き出してオークの木に埋め込むといった不気味な内容だが、歌詞には矛盾もあり、意味が取れないところもある。そこを実証的に解き明かそうとする者、想像で膨らませる者、面白半分に話す者、他の発言をdisる者など様々だ。重要なのはこのバラッドについてかつて論文を書いた学者がおり、英国の現地に行って調査していたのだが行方不明になってしまった。ヘンリーマーティンは彼のドキュメンタリーを作ろうとしており、熱心に寄稿していたのだが……。
 このあたり、ネット怪談の様相を呈していて不穏な雰囲気が高まり、なかなかに気味が悪い。ホラーとしてもよく出来ている。

 「科学的事実!」は書き下ろし。
 12歳のガールスカウトの少女6人をチームカウンセラーの女性2人がサマーキャンプに連れて行く。だが出発直前に事故があり、カウンセラーの1人が急遽交代することになるのだが。新たなカウンセラーのディーヴァは山歩きの経験に乏しく、自己中心的で、もとからいる頼りがいのあるカウンセラーのキラとは仲が悪い。その上夜に少女たちに怖い話を聞かせて、少女の中にはそれで悪夢を見る子も出る始末。とはいえサマーキャンプそのものは楽しい。
 タイトルの「科学的事実」とはキラがみんなと行うゲームの名前。一人ずつが科学的事実と思われる話をしていく。ヘンテコな事実やキラの知らない事実にはポイントがつく。一人が終わると次の人は前の人の挙げた事実に何らかの関わりがある話題を紹介しなければいけない。少女たちは結構知識が豊富で、面白く発展していく。少女6人は2人ずつ組になっている。リーダー的素質のあるタフなルシアと、いつも彼女に従っているジャスティナ。もともと友だち同士のアンドレアとケイティ。アンドレアは理知的だが、ケイティはモンスターや異界を信じている怖がりだ。そしていつも大人しくほとんど話をしないニッキーとメガン。ニッキーは読書家で、メガンは背が高くまわりがうるさくてもぐっすり寝られる特質をもつ。彼女たちはにぎやかに楽しく山奥へ入っていくが、ディーヴァを中心に次第に不穏な要素も高まっていく。そしてある夜、ついに……。
 ここで起こる異変は不可思議だが、恐怖とは別のものであり、ホラーというよりはSFである。そして意外でハッピーな結末へと至るのだ。
 この作品を読んでいて最初から出てくる語り手のわたしが誰であるのかずっと気になっていた。わたしは6人の少女の一人に違いないのだが、叙述は基本的に三人称で、あちこち腑に落ちない引っかかるところがある。おそらくはニッキーだろうと見当をつけていたが、この結末でそういうことではないのだと思った。なるほどね。そうだとしたら完全にSFだといえる。面白かった。


田辺青蛙・他『シン怪談 小泉八雲トリビュート集』 興陽館

 2025年10月刊。田辺青蛙、峰守ひろかず、円城塔、柴田勝家、田中啓文、最東対地、真藤順丈による、小泉八雲をトリビュートした8編を収録するアンソロジーである。田辺青蛙によるまえがき付き。タイトルからNHKの朝ドラ「ばけばけ」のタイアップ本だとばかり思い込んでいたが、THATTAで津田さんの書評を見て、これはほとんどSFアンソロジーじゃないかと購入した次第。

 峰守ひろかず「怪談嫌い、あるいは一番怖い八雲の怪談について」。作者は妖怪や伝承を扱った作品を多く手がける作家とのことだが、これは八雲を題材にしたミステリ。
 主人公は二十年ぶりに法事で松江に帰ってきた男。幼少期に両親を一酸化炭素中毒で亡くし、養父母に育てられた。その養父の法事に来て、時間があるので松江の町を歩くと、いたるところに小泉八雲の名が現れる。そこで子どものころ読んだ小泉八雲の作品に飛び抜けて怖い作品があったことを思い出した。もともと怪談やホラーは苦手だったが、その話はとんでもなく恐ろしくて嫌な話だった。だがタイトルも内容も思い出せない。短編集を買い込んでみても、人に話を聞いてもよくわからない。ただ小泉八雲には「雪女」のような美しい怪談も多いが、一方で「耳なし芳一」のような、生きた人間の肉体を力まかせに引きちぎるといった、グロテスクで残虐な怪談が目につくことがわかった(この観点はいわれてみればなるほどと思う)。だが肝心の彼の心に残っている話にはなかなか行き着かない。そんなとき、旅館の仲居の一言から新たな展開がある。それは彼の幼少時の封印された記憶へとつながっていくものだった……。
 結末には重く深い哀しみが残る作品である。

 田辺青蛙「ゴリラ女房のいた島」は、沖縄に来た主人公が現地の怪談や伝説を地元の人に聞いて回る話。
 そんな彼にある老人が、このあたりの洞窟に住み着いた男がいて奇妙な話を知っているようだから訪ねてみてはと言う。彼が行って見るとそこには西洋人風の男がいたが、船乗りだったという男はなまりのある日本語しか話さない。男は船が難破して無人島に漂着し、そこに住んでいたゴリラたちと暮らすようになり、ついにはその一人と結婚したという話をする。だが二人の子どもが産まれたとき、恐ろしいことが起こる。自分にはその子が愛せないとわかり、男は島を逃げ出したのだ。そして……。
 男の話を聞いたがこれは自分の求める話ではないと思った主人公は彼に礼を言って洞窟を去る。だが帰ってきた主人公にあの老人が思いがけないことを言うのだ……。
 小泉八雲が実際に琉球を訪問したという記録はないようだが、この主人公には確かに八雲を思わせるものがある。

 円城塔「シンシナティのセミ」はホラーでもSFでもないが、言語をめぐる作者らしい思弁が繰り広げられる作品である。
 小泉八雲が東京の家でセミの声を聞くところからこの掌編ははじまる。彼は(というか作者は)そこからセミの声について言語学的考察を始める。クマゼミ、ハルゼミ、ヒグラシ、ミンミンゼミ、ツクツクボーシ。そこから(ダジャレみたいだが)セミコロンの話となり、またセミの話に戻ってくる。シンシナティは日本に来る前にラフカディオ・ハーンが暮らしていた町で、シンシナティでセミといえば素数ゼミである。17年ごとに大発生するセミ。だがその大発生の前にハーンは最初の妻を残して町を去っていた。そして次の大発生の前に八雲は亡くなっている。ハーンがシンシナティのセミの大発生を見ることはなかったのだ。
 あなた、セミが一面に、というその妻の声を東京にいる八雲は耳にし、時間と空間、そしてそれぞれの意識が溶け合っていく。

 柴田勝家「原作者監修・映画「ジキニンキ」」は小泉八雲の「食人鬼(ジキニンキ)」を低予算の配信映画にしようとして繰り広げられるドタバタコメディ。面白かった。
 少しでも原作に近づけようとする八雲マニアの脚本家と、とにかくゾンビ映画にしたい監督とが、映画の内容について対立と妥協を繰返し、どんどん改変を加えていく。二人とも互いに小泉八雲を差出人とするメールで意見し合うが、すでにそのメールが自作自演であることも互いに承知の上だ。そこに原作者(この場合は小泉八雲じゃなくて柴田勝家)が天の声となってネタバレOKで介入し、解説するので、わかりやすいといえばわかりやすいが、話はどんどん変な方向に転がっていく。さらに撮影場所の廃研究所で本物のゾンビが発生し、クライマックスシーンはまあえらいことになるわけです。

 田辺青蛙「紅玉」は異色作。語り手は(性別も、人間かどうかもわからないが)孵化したばかりで雪の中で凍えていたところを男に拾われ助けられた。やがて男にバスタブの中で飼われることになる。男は語り手を虐待し、1日に一度粗末な食べ物を龍の肉の甘酢漬けなどと称して与えるだけ。もう何年もその外の見えないバスタブの中に囚われて暮らしている。
 ある日、男の死期が近いことがわかり、去って行く男を引き留めようと無理やり声をかけようとしたら、目から涙がこぼれ、それが床に落ちると紅玉となった。男はこれは金になると拾って走って行こうとしたがその場で息絶える。この全ては夢なのか。悪夢を味わっている相手に、私は百足退治の英雄譚などを語って聞かせ、紅玉の涙の雫を愛おしげに味わう……。
 耽美で幻想的な物語である。苦痛と孤独に満ちた悪夢の中に紅玉の輝きが目にしみる。この話の元がどこにあるのか、知識がないのでよくわからないが、瀬田の唐橋、百足退治(俵藤太)、そして紅玉の涙というモチーフからは竜宮の人魚を池に住まわせる「鮫人の恩返し」へのトリビュートのように思える。

 田中啓文「小泉八雲はなぜ八雲と名乗ったか」。田中啓文の作品にしてはダジャレが少ないなと思ったが、ちゃんと最後にかましてくれる。
 星雲賞の授賞式に松江に来て(2002年の日本SF大会ゆ~こんですね)、小泉八雲記念館を訪れた時、作者の目を惹いたのはハーン(八雲)が体を鍛えるため使っていたダンベルだった。そこから思いついたという妖怪と戦う戦闘人間ハーンの物語が、小説内小説として描かれている。毎晩妖怪が現れる古寺に住むことになったハーンが次々と現れる妖怪と戦う話だ。そこは面白いけれどごく普通なレベル。でも松江の妖怪が「噛もか!」とは言わんと思う。そして最後に勝利したハーンは妖怪たちの正体を言い当てるのだが……。
 作中小説が終わってまた作者が戻ってくる。そしてラフカディオ・ハーンがなぜ小泉八雲と名乗ったのか(小泉は妻の姓だが、なぜ八雲という名を選んだのか。普通は出雲の国の枕詞からと言われているが)を考察する。ニューオリンズ時代に聞いた曲やブードゥー文化のまともそうな話が出てくるが、やっぱり最後でずっこけるのだった。

 最東対地「玉塵」がトリビュートしているのは雪女。だがとても怖い話となっている。
 村で山仕事をしていた吾郎は凍りついた野兎の死体を見つける。まだそんな寒い季節ではないのに。幼なじみの伊介や他の者にも話したが誰も信じない。病弱な母と暮らす吾郎の家の近所に、巳之吉の家がある。彼はどこの誰だか分からない絶世の美人を娶ったが、嫁はいつの間にかいなくなり、その家には巳之吉とたくさんの子どもたちが残った。その子どもたちがみんな不気味なのだ。みな能面のように無表情でまるで感情というものがない。
 野兎の次は子鹿だった。完全に冷たく凍りついていた。その近くにあの家の子どもがいた。話しかけても何もしゃべらないがその息が白かった。吾郎はぞっとする。こいつがやったのか。家にとんで帰ったが、巳之吉の子どもたちに取り囲まれた。戸を閉め布団をかぶってブルブルと震えていると伊介が来て開けてくれという。吾郎が動こうとしないので母親が戸を開けに行くのだが……。
 二転三転する結末が恐ろしい。グロテスクではないが、心が凍りつくような不気味さがとても印象的だ。

 真藤順丈「神々の国の旅人」は傑作といっていい。小泉八雲が臨終に見たかも知れない光景を描いた作品である。
 心臓の痛みを覚え寝室に伏せった八雲は、暗闇の中に耳なし芳一がいるのを知る。芳一が唱える般若心経に導かれ、八雲は自らが描いた『怪談』の世界を次々と訪れていく。見えない左目に手をかざすと、見えないはずのものが見えてくる。それは地獄巡りだったかも知れない。
 やがて芳一自身となった八雲は亡霊に耳を引きちぎられる。だがそれで終わりではない。しだいに妻、セツの気配が強くなる。この地獄巡りも自分で選んだものだから仕方がないと言う八雲に、案内人の芳一はあなただけでなく、奥様もこの世界に迷い込んでいるのですという。
 『怪談』の多くはセツが語って聞かせたものだった。八雲だけでなく夫婦の二人三脚で作り上げていったものなのだ。非道です、それはなりません、と八雲はいう。私一人、穢れもらいます。あの人には寿命最後まで生きてもらわなくてはなりません! 芳一は八雲に、それならばこの世界でセツさんを探しだし、その穢れを自分の身に移すしかないでしょうという。八雲は無数の怪談世界から愛するセツを探し出し、救おうとする。だがその実体をどうしても捉えることができない。八雲は大きな勘違いをしていたことに気づく。そしてついに……。
 ある意味、究極の夫婦愛の物語であり、イザナギ、イザナミの物語であり、恐ろしくも美しい物語である。


福田和代『ヴァンパイア・シュテン』 光文社

 2025年4月刊。シリーズになるかどうかはわからないが、今のところ単独長編である。昔でいえば伝奇SFといったところだろうか。大きな設定としては、酒呑童子や茨木童子などの鬼が実在し、人の血を飲んで不老不死となるヴァンパイア的な性質を持っている。鬼に血を吸われた人間は鬼となるが新米がちゃんとした鬼になるにはいくつか段階があるようだ。強い鬼の血を受け継いだ者は鬼となってもその血の親の鬼に服従し、逆らえなくなる。鬼はそうやって自分の仲間を増やしていくのだ。他にも細かな設定が色々ある。鬼は致命傷を受けると石に変わり、何百年も生き続けるというのもその一つ。大量の血をその石に浴びせればまた復活するのだ。
 大江山の酒呑童子=シュテンは武士や陰陽師との戦いで石となり、現代まで眠っていた。何度か復活したこともあり、一番最近は150前の明治10年である。明治のはじめに警察庁の一部門、トクチョーこと特別調査課となったかつての陰陽寮の後継組織と激しい戦いの末、石像に封じられていたのだ。それが何ものかによって復活させられた。見た目はごついが普通の男なのに、巨大な鬼となって暴れることもある。鬼には他にも超能力的な力があって、その戦いは凄まじいものとなる。
 そんな復活したばかりのシュテンをヘリコプターで連れ去った者たちがいる。シュテンを復活させた組織とは別のもので、その中心にいるのが茨木童子。千年以上生き続けている美女、シュテンに鬼にされた大江山の童子仲間だ。シュテンとは血を介する親子でありバディの関係にあるが、彼女は石になったことはなく、ずっと人間社会で生き延びてきた。今では世界的ファッションデザイナーとして大きな会社を経営している現代人としての顔を持つ。茨木は鬼と人間の共存ということを意識しており、人の生き血を吸って殺したりはせず、血液バンクを経営して合法的に血液を入手しているのだ。茨木は電気的な方法でこの150年の記憶をシュテンに転送する。茨木の仲間たちは現代の鬼であり、見た目も意識も普通の人間とほとんど変わらないように見える。戦闘能力を別にすれば。彼らはシュテンの復活現場を見張っていたトクチョーの陰陽師、那智瑞祥を拉致していた。瑞祥は現在のトクチョーのトップにいる那智行人の息子である。二人は安倍晴明の血を引く強力な陰陽師だった。
 シュテンを復活させた組織はシュテンたちよりさらに古い存在、徐福が率いる組織だった。彼らがシュテンを復活させた目的は何なのか。どうやらとてつもないことを企んでいると思われる。徐福は代替者を立てて道場を経営し、そこに来た若者たちを鬼に変えて戦わせる。自分の鬼たちを非情にも使い捨てにし、人間に何の価値も認めていないかのようだ。
 かくて陰陽師=トクチョーたちとシュテンたち、そこに謎めいた徐福の組織が三つ巴の戦闘を繰り広げることとなる……。その戦いは現代の兵器と式神や結界、曰くのある名刀などが入り乱れる、凄まじいものだ。これが面白い。さらに話は発展し、ついには某国からミサイルが飛んでくるまでに至るのだ。
 茨木童子の造形がいい。たぶん多くの読者は彼女に共感し、とっても強いシュテンとともに人類と平和共存してほしいと思うだろう。トクチョーたちは人間だが、ちょっと頭の固いところがあり、柔軟な茨木たちに較べてもどかしく思うところがある。そして最悪はもちろん徐福だが、後半でどうやらSF的、クトゥルー的な存在であることが示唆される。そりゃあ強いよ。
 楽しく読めるエンターテインメント作品であるが、互いに害を為すこともある異種族との共存ということが一つのテーマとなっており、そういう観点から読んでも面白い。それは日本の怪獣ものの多くに共通する観点だともいえる。後半で、ほとんどウルトラマン対大怪獣の戦いのような描写が続くのも嬉しいポイントだ。


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