続・サンタロガ・バリア  (第279回)
津田文夫


 2月8日(日)に広島で第8回文学フリマがあって、イマジニアンの会も会長の宮本夫妻がメインで毎回参加しているのだけれど、今回当方が午前中に家を出て広島行きのバスに乗るころには、日が差しているのにかなり雪が舞っていた。11時前に会場についてブースの宮本さんに挨拶してからざっと会場を見て回ったところ、今回は前回の倍近い出展者があって、はじめのうちは入場者よりも出展者が多いくらいだった。
 で、昼過ぎブース番をして座っているうちに、外の雪がどんどん強くなるので、周囲のブースで県外から来た出展者が次々帰り始めた。当方も高々呉までの足が止まることはないだろうと思っていたが、JR呉線が止まるかもという心配もあって、午後2時前には会場を後にして会場前の食堂で遅い昼食をとったあと、市内の繁華街に出て本屋をのぞいてバスセンターから4時30分過ぎの呉行き高速バスに乗った。この頃にはかなり吹雪いていて、大丈夫かと思っていたら国道2号線の雪が溶けておらず大渋滞、呉に着くまでいつもの倍の90分かかった。まあ帰れたので良かったけど、家までの歩道も積もった雪で真っ白。ニュースを見たらこの冬一番の降雪だったらしい。

 文学フリマではSF関連のブースもあって、Kaguya Booksとか海猫沢めろん・佐藤友哉・滝本竜彦のエリーツにひかわ玲子プロジェクトあたり、それに大学SF研では九州大学が参加していた。郷土史関係では、広島と呉にある(あった)ユーカリの木を博捜した冊子をイマジニアンの会のメンバーが買って来たので、見せてもらうとこれがよくできていたので資料にと思いブースに行ったら売り切れていた。まあ、価値が分かる人にはわかるものではある。

 文学フリマで買った本で最初に読んだのは、森見登美彦・円居挽・あをにまる・草香去来『城崎にて 四篇』。2024年 書肆imasu刊。もちろんモリミーが読みたくて買ったのだけれど、著者4人のサイン入りとあったが、朱を使った落款印を捺した紙(あをにまるのみローマ字書きで落款なし)が表紙見返し(遊び)に貼ってあって、その境にはご丁寧にも「書肆之印」が割印として捺してある。おまけに書肆imasu主宰のあいさつ文が別紙で挟んであって、大量の出版流通返品システムの現状が変わりつつあることを宣言している。なかなかリキの入った独立出版社なのであった。
 しかし、『城崎にて 四篇』の収録作は、志賀直哉の有名短編にちなんだパロディともいうべき作品が収められており、書肆の意気込みは川名潤装幀のハードカヴァーと本のつくりに現れているという感じである。なお収録作のタイトルはすべて「城崎にて」。作者たちは4人とも奈良県出身で、実際に全員で城崎温泉へ行ったらしい。
 巻頭は、あをにまるの「注文の多い料理店」城崎温泉名物カニ料理版。ということでこれは軽いジャブみたいなもの。
 巻末の著者紹介によると、あをにまるは94年生まれで4人の中では一番若い。22年web小説コンテスト大賞を取ってデビューという。
 円居挽の作品は、大学生協の冊子の編集をしているメンバー3人を率いて現編集長が城崎温泉へ向かう電車のなかで「俺にゆで卵を食わせたやつを次の編集長にしてやる」と宣言するところから始まる1篇。編集長は2回生の男だけれど、メンバー3人は語り手を含めて全員1回生の女ということが読んでるうちに分かる。語り手の強引な編集長希望が引き起こすドタバタだけど、百合小説でもある。
 草香去来は、「みなさんは知らないかもしれないが、かつて城崎温泉には、パンダのいる動物園があった」と始まる1篇。これは素人のおっさんが城崎に動物園を開き、そのオッサンの知り合いだった叔父に紹介されて奈良県の青年が動物園でアルバイトした経験を語る。パンダはもちろん着ぐるみ。後半はその後奈良県に戻って一人前に仕事をするようになった青年の城崎再訪譚。そんなハッピーエンドはイヌにでも食われてしまえな1作だけど、モリミーがトリなので、モリミーへのつなぎとしてはよくできている。
 森見登美彦のは、この本に寄稿した4人の作家たちを模した「温泉小説家」たちが経験する城崎温泉での怪異譚。遊びでやった「こっくりさん」で志賀直哉を呼び出してしまい、小説家のひとりに志賀直哉が憑いてしまう・・・という1篇。作家としていろいろスランプのあったモリミーらしい話だし、オチはいつものモリミーだった。
 この本を読んでいたら、昔KSFAのメンバー他で、毎年夏に泊りがけで山陰の海水浴場へ行っていたころ、民宿の主人が「冬に2万円持って泊まりに来たら、旨いカニが腹いっぱい食えるよ」と言っていたのを思い出した。

 Kaguya Booksで買った本は3冊。まずは、1月に出た最新刊の文庫、堀川夢・秋永真琴編『北海道SFアンソロジー 無数の足跡を追いかけて』から。
 堀川夢の「はじめに」では、各作者が北海道のあちらこちらを舞台にして作品を仕上げていること、そして実際に北海道を知っている人にその場所への想いを持ってもらうことの2点を強調してたけれど、当方は北海道に行ったことがないので、後者の点については対象外ですね。
 巻頭は、うるさいと言われて修理途中のスノーモービル。「あなたは特産品です。広まってください。」。目次では「うるさい・・・」以下がタイトルの後に小ポイントでおかれていて、副題に見えるけど実は作者名。
 各作品の最後には編者解説があるので、それによるとこの作品では、副題と見えたものが、草野原々、宮本道人、麦原遼の3人からなるユニット名(合作)ということらしい。内容には言及できないが、ポスト・ヒューマンなドタバタコメディ。最後は「特産品」が宇宙進出する。
 阿部登龍「馬たちの時間」は「ばんえい競馬」に取材した1篇。戦時中の中国戦線に使われた馬の話が印象深い。編者解説に作者は獣医だとある。
 伊藤なむあひ「不完全なQたち」は、昭和新山熊牧場の熊たちの中で、「熊」として扱われた熊ではない「にせ熊」がいて、それがのちに何かである「Q」となって続く物語。新鮮さが漂う1篇。作者は短編を中心に書いている北海道出身の作家とのこと。短編集が1冊あるらしい。
 福雪蕗乃「桂園」は、初期乳ガンかもしれないのに無視して、自然公園に野鳥撮影に行った女性が、鳥を追いかけて小川に降りるとそこに「裂け目」を見る。すると亡くなった叔母そっくりの女性が「見えてるでしょ」と話しかけてきた・・・。幽霊譚だけど妙にSFっぽい1篇。表題は叔母が愛した湯治で有名な温泉の名前。編者解説によると、これがデビュー作とのこと。なかなかの出来。
 収録作家のうちでは、最も名の知られた作家であろう林譲治「デレッキ」は、『地球壮年期の終わり』でも言及していた少数民族に対するアビューズを、アイヌをテーマにすることでストレートに語った1冊。長編でのユーモアはかけらもない怒りの強さが印象に残る。
 貝塚円花「ヒナタとアメンコ」は、ほとんど人が住まなくなった釧路で、指令を受けた語り手が札幌から要人が来るのを待つ話。要人はいつまでも来ないが、その間に語り手は市街地には珍しい野生化したソーラーパネルとそれに付き添う少女に遭遇する・・・。ソーラーパネルが「アメンコ」で少女が「ヒナタ」。今現在の状況を極近未来に反映したオーソドックスな抒情的SF。作者は釧路在住で単独中編と短編集が1冊ずつあるとのこと。
 秋永真琴「夜会」は、ヒロインがメンバーとなっている不死人の結社「夜会」の派閥抗争的アクションと彼女が経営するスナックを舞台とした日常のエピソードを描いた作品。割と落ち着いた雰囲気がある。
 みちのみそ「時はその背に」は意味不明なタイトルだけど、語り手が雪かきに出ると目の前に馬がいて、ビックリしているうちに子供がやってきてウマをデロリアンと呼ぶ・・・。
 ということで、タイムマシン馬なのでこのタイトルなわけですね。後半、着信音が巨大活字あらわされるが、これがサカナクションの曲らしい。北海道ネタはわかりません。デビュー作とのこと。
 ラス前の永山源「ひかり、極まる」は、短歌20作からなる作品。解説で「もしも、地軸が傾いて北海道の夜が明けなくなり、道北でいつもオーロラがみられるようになったら」という設定で詠まれた作品群とのこと。そういわれると確かにSF短歌ではある。
 オーラスはisihara mai「センノセカイ」。これはかなり抽象的な世界を作り出しているが、病院で死を迎えようとしている「紫の目」を持つ人物を前に「かのじょ」が語るこの世界の成り立ちの物語。
 解説には、この物語の設定は、ふるくから島で暮らしてきた赤い目の人間と、後からやってきて滑走路を作った青い目の人間がいて、二者がまじわって生まれた紫の目の人間と、紫の目の人をみとる「かのじょ」という形になっているとのこと。この設定を読み取るのにも一苦労するほどの高密度の叙述に翻弄される。
 また解説によると、著者は元大学教員(という表記だと高齢かと思うが若いらしい)。アイヌをテーマにした民族誌の著作(学位論文のち北海道大学出版局から2021年に刊行)がある。タイトルは「線の世界」とも「千の世界」とも読めるが、「線」の方が強調されている。
 バラエティという点では確かに広いアンソロジーだった。

 Kaguya Booksで買った本はほかに「KAGUYA群星文庫創刊!!!」のシールが貼ってある薄いオンデマンドスタイルの新書版2冊。昨年出たもので岡本俊弥さんや大森望がすでに紹介済み。

 1冊目は総タイトルのない大木芙沙子「かわいいハミー」蜂本みさ「せんねんまんねん」の2作を収録してタイトルも上下独立というもの。どちらも40ページほどの短編。エース・ダブル日本版という訳ではない。
 大木芙沙子「かわいいハミー」は、研究所の博士がもうすぐ死ぬ場面から始まり、脇に控えて、事実を確認する以外何の感情も示さない「ハミー」に博士は「かわいいハミー、幸せになるんだよ」と云って死んでしまう。そして「ハミー」は博士が選んだ次の仕える人の所へ行く、胸のリセットボタンを押しながら・・・。
 ということで、これはいわゆる「人間の役に立つこと」をプログラムされたメイドロボットの遍歴譚。最後に「ハミー」は研究所に戻って、博士をはじめ、いなくなった人々のことを考える。ここが本編のクライマックス。
 蜂本みさ「せんねんまんねん」は、急に親友が口をきいてくれなくなった小学生の女の子が、〈対話のラッパ〉の伝言機能を初めて使って、仲直りのヒントを教えてくれるよう誰かに願った。すると、ちょっと「今」の大阪弁と違う言葉遣いの女の子の声でアドバイスが返ってきた・・・。
 こちらは現在と過去の小学生の女の子同士の会話から浮かび上がる戦争の時代(最初の女の子の方が未来で戦争はシステム化され、後者は戦時中だけど)をメインに据えた大阪弁満載の1作。始まりは未来側だけど、最後は戦時中側に絞られていき、語り手の事情が判明する。
 内容的には全く違うが、どちらも「祈り」が感じられる作品に仕上がっている。

 もう1冊の木江巽『真夜中あわてたレモネード』は100ページ余りの中編。こちらは男の子が隣家の庭にいっぱい生えているレモンの木からレモンを盗もうとする話がメインだけれど、男の子には髪留めになるくらい小さな「シンディ」と名付けられた「宇宙生物」がついているところがミソ。この「宇宙生物」は、前に海辺を散歩していて見つけたもので、小さな巻貝そっくりな形をしていて、頭に接触させている間のみ話しかけてくるというもの。
 基本的にイマジナリーフレンドみたいなものだけれど、目がなくても空間把握できる能力で主人公の窮地を救ってくれたこともある。
 いかにもジュヴナイルな語りの1作で、世界は狭いけど、読み心地は悪くない。結末のハッピーエンドもほほえましいが、年齢差を考えるとちょっとどうかなと思うところもある。
 まあ、強き愛は万難を克服するか。

 あと加藤一輝という人が訳したレーモン・クノー「ある歴史モデル」という文庫サイズで100ページの小冊子を買ったのだけれど、これが1942年、ナチス・ドイツ占領下のパリで書かれた1回あたり数行から数十行の短文形式の真面目な歴史考察だった。
 『地下鉄のザジ』や『聖グラングラン祭』のクノーを期待すると、ただの知識人の退屈な公式的歴史考察(小説ではない)を読まされて、これが邦訳で13巻もあるクノー作品集にも収録されなかったのは当然だという思えるものだった。
 訳者はクノーマニアらしく、これを「訳者与太話」と題する巻末解説で、「生真面目ゆえに可愛らしい『典型的な物語』となった」と贔屓の引き倒しをしているけれど、著者自身が作家として名声を博したあとの1966年まで公刊しなかった作品だという。

 では読んだ順から。

 以前1冊読んだことのある田中空『忘らるる惑星』は、冒頭で「絶対記憶者」の夢を見た語り手は、AI管理社会でAI裁判の結果を「紙」で確認する仕事に出かけたが、同僚がこの仕事で一番大事なのは担当者の記憶だという。そして珍しく殺人事件のAI裁判記事を読んだときに違和感を覚えると・・・。
 「絶対記憶者」の語り手が社会管理AI(のアヴァタ―)を相手にAIが作り出した一種のVR世界からAIの関与を排除するまでの一種の革命譚。いわゆるライトノベルタイプなので、少人数の主要登場人物によって秘密が暴かれ世界改変が成就するパターンは既視感があるけれど、この作者は物語を面白く読ませる力がある。

 SFの新刊が途切れたので文庫落ちを2冊読んだ。

 1冊目はローラン・ビネ『言語の七番目の機能』。これは2020年の単行本刊行当時すでに話題になっていたような気がするけれど、こうして読んでみるとかなり変なスタイルの現代フランス思想をネタにしたファルス物語だった。
 作者は、1980年2月にロラン・バルトが交通事故に遭って、病院に連れていかれるも回復せずに死んでしまったエピソードから、未知の言語機能(最後まで読むとベネゲセリット風)をめぐる大掛かりな陰謀によってバルトは暗殺された、という設定を作り出し、この陰謀をめぐってエピソードのすべてが駆動される話をつくり上げた。
 話のメインキャラは、殺人事件を追う中年刑事とその助手として雇われた現代フランス思想(言語学と記号論)に詳しい博士論文準備中の青年の凸凹コンビ。
 とにかく作者は言語学と記号論を中心に20世紀後半のフランス現代思想の主なスターたちを勢ぞろい(イタリアではウンベルト・エーコが大活躍)させて、あることないこと(というよりは無いこと無いこと)をてんこ盛りして殺人狂騒曲を奏でてみせる。
 結末に向かっては大統領選に絡む話が強くなって、だんだん普通の政治的ミステリになってくるけれど、面白いことは間違いない。ただ、この饒舌さには途中で満腹する人もいるだろう。訳者が『7』と同じ高橋啓でリーダビリティは抜群。

 しかし最大の驚きは、この本が呼び寄せた現実の偶然にあったのだった。2月8日の大雪の日の広島文学フリマについては冒頭に書いたけれど、帰りがけに行きつけの古本屋を見にいったら、海外文学の棚のタイトルがかなり入れ替わっていた。それをザァっと見てたら、目に入ったのが、巽孝之『盗まれた廃墟 ポール・ド・マンのアメリカ』2016年刊。フィギュール彩という彩流社の叢書の1冊で、巽さんの還暦頃の作品。この本のことは知らなかったし、帯に「ソーカル事件」の文字もあって面白そうだったので、買ってみた次第。
 読んでみると、「あとがき」には巽さんがコーネル大学院時代の指導教授がジョナサン・カラーだったことでド・マンの孫弟子にあたるとあり、冒頭の「はじめに」では、ド・マンがアメリカにわたる前の戦時中にブリュッセルの新聞紙面にいくつか反ユダヤ主義的な文を書いていたことが死後に判明し、それをきっかけにアメリカではド・マンへの言及がほぼ無くなったこと(「ド・マン事件」)が紹介されていた。
 巽さんはド・マンの生い立ちから、アメリカにわたってメアリ・マッカーシーに気に入られてニューヨークの知識人仲間に入り、その後のアカデミックな経歴を築き上げていくド・マンのアクロバティックな実人生と文学理論を大変面白く綴っていて、ここでも「書くことのSF」を実践しているように見える。オマケに水村美苗が大学院生時代にジョナサン・カラーも感心したようなド・マンに関する論文をイェール大学の学会誌で発表していた話なんかもあって、小話的にもオイシイ。
 しかしこの巽さんの本の内容が衝撃に変わったのは、同時進行で読んでいた『言語の七番目の機能』の中盤、主人公コンビが捜査の一環でアメリカのイサカに出現、その理由が1980年秋にジョナサン・キュラー(!)を開催責任者としてコーネル大学で開かれた「言語論的展開へのオーヴァードライブ・シフト」と題する学会の発表会にフーコー、デリダ、ガタリにクリステヴァらが参加したので、それを追いかけてきたという設定だった。
 アメリカ側からはチョムスキーにF・ジェイムソン、E・サイードにR・ローティそしてド・マンにマンの高弟(女だけど)ガヤトリ・スピヴァクが顔を並べ、「言語の七番目の機能」の出どころだったはずのR・ヤコブソンまでが顔を出している。ド・マンも登場人物の一人としてチョイ役が与えられているが、J・キュラーはド・マンのところの若造扱いだ。そしてこの発表会が作者のデッチ上げであることは参加者にデヴィッド・ロッジ『交換教授』のキャラも交じっていることで分かる。それにデリダがここで犬に襲われて死んでしまうのだから、メチャクチャである。もちろん巽さんの本にコーネル大学でこんな学会の発表会があったとは一言も書いてない。
 いやぁ、それにしてもこんなシンクロニシティは久しぶりに経験したよ。コワイねぇ。

 もう1冊は朝日文庫刊のジョナサン・スウィフト『ガリバー旅行記』。これは柴田元幸訳で、「文庫版訳者あとがき」によると親本は2022年刊。長い巻末解説には朝日新聞の夕刊に連載されたとある。初めて知った。
これまで何回も書いたように、当方は児童文学というものを読んだことがないので、『カリバー旅行記』は絵本で読んだっきりである。記憶にあるのは第1話のリリパット族につかまって地面に縛り付けられたシーンのみ。もちろんいろいろ本を読むようになってからは『ガリバー旅行記』の内容については知ったつもりになっていたし、実際500ページの本書を読んでも、その内容は大まかなレベルでこれまでの知識を埋めるものだった。
 でも読み終わって一番印象に残ったのは最後の第4部、いわゆる「馬の国訪問記」である「フウイヌム国渡航記」で描かれたガリバーの運命だった。帰国後のエピソードがこんなに暗いままで締めくくられているとは思わなかったので、最後までガリバーが人間に戻れなかったことにびっくりしたのだった。
 あと、第3部の「ラプータ、バルニバービ、ラグナグ、グラブダブドリブ、日本航海記」もタイトルにある多数の訪問先からもわかるように、「ラプータ」は冒頭の一部分でしかなく、飛べる範囲が限られていたことにもちょっとビックリ。宮崎駿の『ラピュタ』のイメージが強いから、思い込みがあったというべきか。あと解説では「ラプータ」がスペイン語で「娼婦」だというのは、スウィフトがそれを意図したかどうかは全く分からないので、俗説だとあった。そうだったのか。
 柴田訳は、大量の訳注が施されていて、ほぼ毎ページのように出てくるが、これがとても面白く、本文も現代語的なリズムが採用されているため、新聞連載用に読みやすさ優先という策は十分達成されているようである。解説によると新聞連載中に高山宏訳が出たそうで、これが本作とは正反対の訳注なしの高踏的名訳だと柴田元幸は持ち上げている。多分読まないと思うが、図書館で探してみよう。

 SFらしいというので手に取ったのが、篠谷巧(しのやたくみ)『マウントウィーゼルを知ってるか』。実際、『本の雑誌』では大森望が取り上げていた。
 この物語の基本的なアイデアのヒントが、第一章の扉に引用されたアメリカの大学出版社の百科事典から引用されたマウントウィーゼルという女性写真家の項目。文末に小さく The New Columbia Encyclopedia (Columbia University Press 1975 訳・篠谷巧)とあるのがミソ。
 物語は、大学の軽音部の先輩バンドの女性ヴォーカルに憧れていた女性が、就職して先輩とは音信不通になるも、しばらく後に突然先輩の親から呼ばれ、精神を病んで無言のまま遠くを見ているだけの先輩を見たことから始まる。そのきっかけが、プロローグで語られた先輩との最後の会話で訊かれた「マウントウィーゼルを知っているか」という言葉にまでさかのぼるところからが本筋となる。
 物語内で紹介されているように、第一章の扉の記事は実際にコロンビア大学が出した百科事典に項目があるが、実はこれは架空記事で、勝手に複製を作られないようにする著作権保護対策だったらしい。このほかにも不正複製防止のために架空の街が載せられた地図とかもあったらしい(『非在の街』だ)。
 これを記憶の改変と実在するパラレルワールドの謎を追うミステリに仕上げたのがこの作品。記憶改変なのか陰謀論なのかそれとも現実なのか、語り手の真実性をどうとらえるかによって読み心地が変わりそうな気がする1作。話の運びはストレートなのであっという間に読める。ただし、語り手の先輩への執着が説得力を持っているかどうかは、読者によるだろう。当方は疑問派。
 SFかといわれればそうかもしれない。
 なお、「マウントウィーゼル」をググると、百科事典への掲載は1925年版からあるとする記事(英語)がみられる。

 広島丸善の本棚は、SF・ミステリ・ホラーが1列に並べてあるので、ホラーのところにあったのが、田辺青蛙編『シン怪談 小泉八雲トリビュート集』。いつもホラー棚は素通りするのだけど、円城塔、柴田勝家、田中啓文と並んでいれば、読んでみようかとなる。昨年10月に興陽館という出版社から出ていた。
 収録作家はほかに、峰守ひろかず、最東対地に真藤順丈、編者は2編寄せている。
 円城塔「シンシナティのセミ」は、ハーンがセミの声を聴いているという設定で、円城塔らしい言語論的な話が繰り広げられる掌編。シンシナティのセミといえば17年ゼミ。
 これは、全く怖がらせようとしていない幽霊譚でもある。『怪談』を訳したし、編者が同居人だし、その作品が収録されて当然。
 柴田勝家「原作者監修・映画『ジキニンキ』」は、八雲マニアの脚本家が書いた脚本を好き勝手に改変する監督と脚本家の理屈争いコメディ。「原作者監修」なら幽霊譚だが、こちらはメール合戦。面白く読める。
 田中啓文「小泉八雲はなぜ八雲と名乗ったか」は、学校の新任教師として松江にきたばかりで、入居希望の家が空かないので、一時的に化け物寺に滞在した話。化け物が次々と出てきてハーンを脅すが、動じずに一夜を明かす。
 タイトルは、その一夜の中でハーンが自ら口にしたセリフこそ「八雲」を名乗るきっかけとなったというもの。久しぶりに読んだ田中啓文作品は相変わらずのオチだけれど、エンターテインメント力は強力だ。
 田辺青蛙の2作の一方、「ゴリラ女房のいた島」は、怪談収集家のような語り手が沖縄で聞かされた二つのエピソードからなり、タイトルは後半のエピソードにかかる。オーソドックスな語りで読ませる。
 もう1作「紅玉」は、バスタブに入れられ飼われている語り手の身の上話。ある日気が付くと雪の上に転がされていた孵化したばかりの語り手を男が拾って帰り、以来こうして飼われている・・・。ホラーというよりは被虐的ファンタジイという感じの掌編。
 巻頭の峰守ひろかず「怪談嫌い あるいは一番怖い八雲の怪談について」は、昔松江に住んでいて幼くして両親を失い義父に育てられた初老の男性が、法事のため久しぶりに松江を訪れ、幼い時の記憶を思い起こす話。それが子供の時に読んで義父にそんなもの読むなと怒られた話を図書館で探すことで、惨劇の記憶がよみがえる・・・。よくできた物語で何の不満もないがこういうものが読みたいかとなるとそれはない。
 最東対地「玉塵」は時代設定が江戸時代か明治かわからないような1作。冬でもないのに視点人物は林の中で凍り付いた野兎の死体を見つける。一方、彼が住む小さな村のはずれにが絶世の美人を嫁にしたぼんくらな男が大勢の子供と暮らしているが、女房はいつの間にか去り、不気味な子供たちが残された・・・。
 「雪女伝説」のバリエーションらしいけど、子供の不気味さが印象的。
 トリの真藤順丈「神々の国の旅人」は、臨終を迎える八雲が「耳なし芳一」をはじめとした『怪談』の各エピソードを視力が失われた左目で見る話(でいいのか)。芳一が般若心経を唱えているらしくその経文が何度も出てくるが、話の重点は日本神話にちなむ八雲のつま恋譚にあるようだ。
 ホラーとして怖い話かどうかは知らないが、SF作家たちの作品の方が楽しく読める。

 今回もSFらしいSFがほとんどないので、いつもは読まない『SFマガジン』2月号の「架空生物特集」の各短編と、生誕110周年記念で訳されたティプトリーのショートショートを読んでしまった。
 「架空生物特集」に参加した作家は、藍銅ツバメ、酉島伝法、溝渕久美子、草野原々、柞刈湯葉、坂永雄一それに中村融氏の訳・解説でアン・レッキーとなかなかのラインナップ。
 藍銅ツバメ「こんとん」は扉のイラストを見る限りウィキにもある中国神話の「渾沌」で、ここでは飼育ケースに飼われるペットとして登場している。図書館に勤める語り手の女性所蔵されている妖怪図鑑を開くと「渾沌」の説明があった・・・と、いうことで最終的に世界は日常へと着地する。語りの滑らかさがポイント。
 酉島伝法「ブリーダーズ」は、耳に音楽フレーズがこびりついて頭の中で延々と繰り返される現象「ディラン効果/イヤーワーム」を肉体の腫瘍から育つ生物として描いたホラー。有名無名の曲名を持った不気味な生き物がワルプルギスの夜のように意識のない裸の人間の周りを徘徊するラストシーンはさすがに気持ち悪い。
 これに対して溝渕久美子「リラクォッカ」は、オーストラリア原産のクオッカ・ワラビーが「笑顔」なのを利用して、ある企業が遺伝子改変して愛玩用ペットとして売り出し、それを手に入れた語り手が取り憑かれるようになるホラー寄りの1篇。結末はオープンエンドかな。
 草野原々「大山鳴獣ネズギガント」は、既知宇宙の辺境で2メートル越えの巨大ヤスデ(人工生物)が配信のオープニングでしゃべくりしているところから始まる1篇。冒頭ページにある担当編集者のコメントの通り、「北海道SFアンソロジー」掲載作同様、相変わらずコメントのしようもない世界を展開している。参考文献が本物なら生物学ハードSFということになる。
 柞刈湯葉「ライフ・アズ・ア・ウェポン」は、わずか数年後のテヘランを舞台に、驚異的な兵器の研究者と目されるイラン人女性科学者を敵対機関のエージェントがつけ狙う1篇。視点はエージェントに置かれている。
 かなり剣呑な設定だけれど、作者はシビアな状況をほんわかと描いている。ここでは架空生物もかなり地味。
 坂永雄一「星の薪」は、翻訳を除く今回の掲載作の中で一番SFらしい1作。入口にエアロックがある巨大洞窟に外へ「龍天樹」を取りに行った「薪取り」一行が入ってきた・・・。
 すでに自分たちが宇宙植民地にいることが伝説となった時代に、空へと上がっていく「龍天樹」を取りに行くことが神聖な行為となった世界の物語。今時珍しいストレートな宇宙SFで、読んで嬉しい作品に仕上がっている。
 アン・レッキー「魂の湖」は、中村融訳・解説。解説によるとレッキーはSFマガジンに初登場という。2024年刊の短編集の書下ろし表題作というから新しい。
 物語は冒頭から異星生物の幼生(最終変態前)が視点キャラになり、この惑星に降り立った女性の視点に切り替わるものの、物語のメインは女性とコンタクトする異星生物側にある。
 いまどきのSFとしては、この書き方だと異星生物キャラを擬人化せざるを得ないので、やや古めかしい感じがないでもないが、我々の世界の問題を描いていると思えば、基本的にシリアスで抒情的な筋運びも悪くないと思われる。問題意識の持ち方はアン・レッキーらしいといえるかも。
 ティプトリー小特集の落穂拾い的3ページの掌編ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア「タイムマシンをオモチャにしないでください、あるいは、わたしはF.B.I.のために《アスタウンディング》誌のバックナンバー15924冊をズタボロにした。」は、異星人編集者が送られてきたいい加減なSFを読んでボツにする話。国書刊行会から出た伝記を読み始めたこと(読み終わるのは当分先)もあって、結構楽しめる。
 解説も短編の訳者小野田和子の翻訳で、もとは2000年に出たデイヴィッド・ハートウェル編のティプトリー未発表作品(小説とノンフィクション)集からこの作品に関する解説を訳したらしいけど、これがハートウェルが書いたものなのかちょっとわかりにくい。
 扉イラストページ下のコピライトは1978年だけど、解説を読むと1955年に原型が書かれ、68年にティプトリー名義で商業誌に送られたものの掲載拒否になり、非商業誌での採用が決まったけれど、その本自体が未刊に終わったように思える。実際に日の目を見たのは、ヴァージニア・キッドの努力で、《アメージング・ストーリーズ》秋号に掲載された1998年だったんだろうか。
 ウーン、当方の頭が悪いだけか。

 以前、結構面白いイタリアSFを出したシーライトパブリッシングからまたイタリアSFが出たというので買ってみたら、オンデマンド仕様の簡易ペーパーバック製本で500ページもある1冊だった。お値段は4000円超。
 そのルイジ・リナルディ『ブルー・エスペロ』は、読み始めて最初の10ページで読む気が失せた。2021年にイタリアのSF賞を取ったというから、古いわけではないのに、とても現代SFとは思えない書き方で、当方には読むのが苦痛になりそうだったので、放棄した次第。2月末に出た『SFマガジン』の海外作品評で、冬木糸一も古めかしいと書いていた。ちなみに訳者はこの作家の妻で日本人翻訳家とのこと。

長くなったので、ノンフィクションは次回まわしにしようかと思ったけどメモしておこう。今回は3冊。

 高田修『仏像の誕生』は、1987年に岩波新書として出されたものを、このたび講談社学術文庫でだしたもの。元が昔の岩波新書なので200ページもない。なお著者は2006年に亡くなっている。
 なんでこんなものを読む気になったかというと、昨年のイギリス旅行で大英博物館のインド・中国コーナーのヒンドゥー教の神様と仏像を大量に撮影した。それを整理しだしたら、仏像っていつごろからあるんだっけという疑問がわいてきた。確かガンダーラあたりだったようなというおぼろげな記憶があったけれど、よくわからないのでこれに手を出した次第。
 仏陀没後数世紀後の紀元後のガンダーラ時代から仏像が造られるようになったという記憶は間違いなかったようで、それはそれでよかったんだけれど、驚いたのはほぼ同時代に現在のパキスタン最北部のガンダーラからだいぶ東南側に離れたインド北部マトゥラーでもガンダーラ様式と全く違う仏像が造られて、どちらが早いか論争になったことあるということだった(ここではガンダーラに軍配を上げている)。
 もう一つ知ることができてよかったのは、駆け足だったので、巨大ストゥーパ(仏塔)遺跡から持ち出されたブッダ伝の巨大なレリーフ石版が大量に展示されていたのを、解説も読まずにたくさん撮ったが、この本おかげでその経緯がよく分かったことだった。
 著者によると、小山のような巨大ストゥーパは紀元前2世紀ころに建てられたもので、この頃はまだ仏像は存在せず、レリーフ石板に刻まれたブッダ伝物語が周囲に何十枚も貼られていたという。しかしガンダーラ以前には独立した人体という形で仏陀像が造られた形跡はないらしい。
 では、なんでガンダーラで仏像が造られるようになったかというと、ギリシャ文化が入ったおかげで神様の像をつくるのが当たり前になったから、というのがその答え。著者はマトゥラーの独自な様式の仏像製作の開始はガンダーラで仏像が造られたという情報が伝わった後のものだとしている。
 あとこの本を読んで驚いたのは、紀元前最初期の仏陀伝では、足跡とか仏陀を拝む周囲の人とかは描かれるが、ブッダその人は描かれておらず、どうやらブッダを直接描くことがタブーだったらしいこと。その後ブッダが描かれるようになっても初期は普通の人の大きさで描かれていて、時代が下るにつれ巨大にまた超人的に描かれるようになったとある。
 旧約聖書の神様は「俺を目にしたらお前は死んでしまうぞ」とモーセを脅したけど、紀元前の仏教信者もブッダの姿を描かなかったというのが面白かった(理由は根拠経典の違いにより諸説あって著者も自説を開陳している)。

 ちくま文庫から出た野中モモ『デヴィッド・ボウイ 増補新版 変幻するカルト・スター』は、2017年刊のちくま新書を文庫化したもの。
 ボウイが死んだとき、ラストアルバム『★』を買った話は以前書いたし、その後も映画館で古いライヴ・フィルムを見たことを書いた。でもいまだに『ジギースターダスト』をはじめボウイの有名アルバムをちゃんと聞いたことがない。
 なのに、こんな本を読んでしまうのは、魅力を感じているからなのに違いない。1970年頃からよく聴くようになったブリティッシュロックの中でグラムロックは、ヒットナンバーは聴いてもアルバムには手を出さなかった。いま思うとなんでだろうと思うが、当時はロックとして邪道のように思っていたんだろう。
 著者はボウイを実際に目にできたのは2000年のグラストンベリが初めてというから若いが、ここまでボウイが好きになれたのは、やはりボウイ自身のカリスマによるのだろう。久しぶりに『★』を聴いたかというと今のところ聴いてない。
 そういえば最近はCDの話を書いてないな。昨年出たロック系だと、ウルフ・アリスのニューアルバムが、貧相なマドンナ風のジャケ写に笑ってしまうものの、その女性ヴォーカルの声がカワイくて、なおかつドラムとベースのキレが良くて、何回も聴いている。
 クラシックは古本屋で見つけたグノーの『ファウスト』。ゲーテの作品をテキトーに利用した台本のオペラで、いかがなものかという悪口もあるらしいけど、クリュイタンスがパリオペラ座のオケを使って1958年にステレオ録音したというこのCDは評判通りの面白さ。主役とヒロイン役のニコライ・ゲッダとロス・アンヘレスはともに30代でよい声を聴かせている。

 最後は法蔵館文庫から2024年に出た、大山喬平『ゆるやかなカースト社会・中世日本 増補』。親本は2003年校倉書房刊で、専門書の類。著者は京大名誉教授。
 なんでまたこんな本を読んだかというと、本屋で新刊を見て回った時に、見たことのある著者名だと思い目次を見たら、後半に収録の第2部「日本中世史研究の歴史家たち」と題した物故した日本中世史研究者を取り上げたパートの冒頭に、以前当方が本欄に感想を書いた清水三男『日本中世の村落』の解説が収められていた。当該ページには本文前に著者の解説に対して激烈な反応があったというこぼれ話が追加されており、戦時中の著作である清水三男はそこで国家論を展開できなかったことは思想的転向(いわゆる「転向」)があったためと解説に書いたことで、網野善彦や清水の著作の版元出版社主から強い抗議を受けたとあった。面白く思われたので新刊で買ってみた次第。
 清水三男の次には、当方も読んだことがあるくらい有名な『中世的世界の形成』の著者石母田正に関する一文もあり、続けて読んだところ、ここでも石母田の躓きの石となった論説を批判的に論じていて、この著者はそういう書き方をする人なのかと思い、そこで本を置いた。
 それが最近になって続きを読むようになって、後に続く3人の分を読んだけど、戸田芳實、黒田俊雄、三浦圭一と、あまり一般に知られていない著者と同時代の、著者がよく知る物故した京大系研究者たちを、その学問を真摯に批判しながら紹介している。
 一方、「中世社会論へ、その展望」と題した第1部の本論は、基本的に専門論文で、ここで紹介してもあまり興味を持てるようなものではなさそうだけど、買ったときに読んだ冒頭の表題作「緩やかなカースト社会・中世日本―インド、そして中世日本」は、著者がインドを訪問した知見から、日本中世社会の身分制度の成り立ちを見返す仮説を扱ったもの。その次の「中世の日本と東アジア―朝鮮、そして中世日本」は、似たようなタイトルだけど、こちらは『新猿楽記』を取り上げて、韓国訪問記にちなんで「新猿楽記」にある物の行き来から朝鮮とのつながりを論じたもの。
 このふたつは題材の面白さもあって読みやすかったけど、後の論文は「近衛家と南部一乗院―簡要類聚抄」、「供御人、神人、寄人―自立しなかった商人たち」、「中世の賀茂六郷―系図と戸籍のある中世社会」、「西楽寺一切経の在地環境―平安後期の親族と社会」、「歴史叙述としての『峰相記』」とタイトルを並べただけで、素人には用のない微視的専門論文がならんでいる。
 という訳で当方もなかなか読み終えることができず、たまに開いては1篇読んでという調子だったので、読み終わるのが今になったわけ。
 基本的にはこの欄で紹介するような本ではないのだけれど、最後に読んだ「歴史記述としての『峰相記』」にSFファンの当方がびっくりした情報があったので取り上げた次第。
 本論のイントロによると『峰相記(みねあいき)』は、貞和4(1348)年に語り手が播州峰相山鶏足寺に参詣し、そこで旧知の老僧と出会い、誘われるまま老僧の宿坊において夜を徹して語り合い、さらに翌日にも場所を寺内の常行堂に移して語り合った、その問答の内容の記録ということらしい。
で、著者が紹介するその播磨国に関連する問答の内容は多岐にわたり、問答のテーマが九つ、話題別の全項目は72もあるという。著者の興味は中世史のメインテーマの一つ「悪党」のあるんだけど、当方がひっくり返ったのは第7問の問答中にある、全体として43番目の項目「佐西蔵本丸、五色の大鹿殺害により厳島流罪の事」と51番目の「安志奥の伊佐々王、大鹿退治の事」というエピソードだった。
 論文なので、著者が紹介したいと思ったエピソードしか紹介されていないが、第七問は叛乱譚から始まるとしてそのエピソードを紹介した後、叛乱譚ではないがとして、この二つの大鹿退治物語に言及している。前者は推古天皇の時代に海辺の印南(いなみ)郡に現れた五色の大鹿が島に渡り農地を荒らした。これを退治した人物は、その島の村老だったが、大鹿は帝の飼っていたものなので、村老は安芸の厳島に流された。しかしそののち、彼は厳島明神の縁起に連なることになる。これは反権威譚として著者は興味深いとしている。
 一方、後者について著者は、山地の宍粟(しそう)郡安志(あんじ)郷の奥に現れた「大鹿が数千の、鹿を従えて、人類を「喰食」という」と紹介し、これは背丈2丈あまりの伊佐々王という大鹿で「身ニハ苔生ヒ、目ハ日ノ光ニ異ナラス」と原文を引用している。朝廷から勅使が派遣されて退治されたらしいが、著者はいつの話かも分からず、パターン化しており評価できないとしている。
 しかしSFファンである当方は、これこそ上田早夕里『播磨国妖綺譚 伊佐々王の記』のタイトル作のもとになった伝説だったことを知ってビックリ。作者が参考資料に挙げていたかどうか覚えていなかったこともあって、こんなところで元ネタに出くわすとは。興味が湧いたら読んでみるものだよねえ。とはいえそういって買った本の大半が積読になってるけど。

 いつにも増して長々と書いてしまったなあ。


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