続・サンタロガ・バリア  (第283回)
津田文夫


 今回は訂正とお詫びから。
 老人ボケが進行しているせいか、前回の記事のうち、誤字誤植以外の記憶違いがあったので訂正を。
 何かというと、岡本俊弥編『SF大会は関西から始まった ファン活動のはじまりといま』のページ構成について書いたところのページ数間違い。
 これは岡本さんのあとがきが289ページなので当然大森望解説は290ページから始まっていて、296ページで終わり。余白宣伝ページを入れて300ページ丁度になっていたのでした。
 いかに老人ボケとはいえ、いい加減なことを書いて申し訳ありません(もっとも「訂正する力」があるだけ某国首相よりまだマシかなあ)。

 あと、柄谷行人『力と交換様式』のところでSFファンとしての感想を書くのを忘れていたので、一文を追加しておこう。
 昔のアメリカSFでは、未来の通貨を「クレジット」とするパターンが散見されたけど、「貨幣物神」とは別に、「交換」が可能なのは「クレジット/信用」に基づいたものであるからじゃないかということが頭に浮かんだ。理屈の上では、通貨の信用力は国家/権威/共同幻想によって形成されているわけだけど、どれも保証力/信仰が失われれば崩壊せざるを得ない。しかしそれらを度外視して、「クレジット」の積み上げだけがヒトの欲望を満たすことができるというような信仰が長い間持続しているところ見ると、「貨幣物神」といわざるを得ないのだろう。まあ、クレジットカード1枚ですべてが済んでしまったイギリス旅行の衝撃がそう思わせるのか。
 なお「クレジットを未来の通貨としたSF」をググると、redditに「OED Science Fiction Citations Project が直接確認した最も古いエントリは1937年、E.E. Smithの「Galactic Patrol」(小説1950年)の連載です」という回答があった。レンズマンかあ。もっともエドワード・ベラミーの方が古いという投稿もあって、考え方によるようだ。

 久しぶりにクラシックではないコンサートに行った。モノは上野耕平×山中惇史×石若駿トリオ。サックスとピアノそれにパーカッション。全員芸大出だけど、1992年生まれの石若駿は10代からジャズ畑で活躍、バークリー出でなおかつ芸大の打楽器科主席卒業という経歴。石若の名声は早くからジャズ方面で聞こえていて、当方は石若を聴きたいと思い、ちょうど地元ホールで開催ということで、ホールにチケットを買いに行った。
 ちょっと驚いたのは受付の女性が昨年まで入船山記念館(当方は定年までの数年ここにいた)にいた人で、入船山記念館/大和ミュージアムの指定管理者が今年度から変更になったので、入船山記念館は職員が入れ替わったとのこと。そういえばこれまでTOPPAN系列だったけど、今年から広島テレビが代表企業になったんだった。
買った席は前から8列目左側。当日行ってみると渡された曲目一覧は、棚田文紀「ミステリアス・モーニング」(サックス・ソロ)、山中惇史「SAKURA Ⅰ・Ⅱ」(ピアノとパーカッション)、モーツァルト「デュポールのメヌエットによる変奏曲」(ピアノ・ソロ)、藤倉大「ブエノウエノ」(サックスとパーカッション)、山田耕作(山中惇史編曲)「赤とんぼ」(サックスとピアノ)
 以上が前半、後半はトリオ演奏で、石若俊「playgroundz (for Trio)」に吉松隆「サクソフォン協奏曲「サイバーバード」Op.59」。サクソフォン協奏曲は本来オーケストラ曲だけど、ソロイスト3人で演奏してしまうというもの。
棚田文紀は当方も知らなかったけど、ググると1961年生まれ芸大出身の作曲家・ピアニストで、昨年亡くなっている。無伴奏サックス演奏はソプラノ・サックスでの演奏。いろいろな音色が出てくるので、最初はペダルでも使っているのかと思ったけど、当然すべてブレスでコントロールしていた。「SAKURA」は有名な「さくら」の変奏ではなくてオリジナル。石若俊はヴィブラフォンを叩いていた。
 モーツァルトは当方も初めて聴く珍しい変奏曲。ウィキによると死後出版で、演奏機会は少ないとあった。グールドもピリス/ピレシュも録音がないみたい(ググったら、昔懐かしのイングリット・ヘブラーの録音が出てきた)。藤倉大は当方でも知っている人気現代作曲家。初めて聴く曲だけど、石若俊が和太鼓を叩きまくる。サックスはタンゴっぽいのかわからず。「赤とんぼ」はあのメロディーにかなりアドリブ風な編曲を施したもの。
 休憩前に3人のトーク。1階がほぼ満員の観客の反応が良く、笑い声が何回も上がる。ちなみに前半のプログラムは、朝から夕方に向かう曲順になっていたらしい。
 後半は石若俊のオリジナルでトリオ演奏。サックスの打ち出すテーマらしきフレーズ以外は、かなり即興演奏風になった。サックスはソプラノとアルトの持ち替えで、久しぶりに50年前に京都会館で聴いた渡辺貞夫の音色を思い出した。確か「カリフォルニア・シャワー」のツアーだった。石若俊がドラムセットを叩きまくるので、どうしてもジャズっぽさが感じられる。
 吉松隆の曲は吉松の代表曲の一つ。この曲はサックス奏者須川展也の依頼で作曲、初録音も須川でCDになっている。この3人は数年前にバッティストーニ指揮の東フィルをバックにCDを作っていて、その意味では堂に入ったアレンジになっていた。曲紹介トークでも曲の成り立ち、妹さん病室で第2楽章から書き始めたが、曲が完成した時には亡くなっていたとか、結構詳しく話していた。演奏の方ももともとバラエティに富んだ現代曲なので、オーケストラ伴奏なしでも、これがこの曲を初めて聴く人には何の違和感もない迫力のある演奏になっていた。
 アンコールは「報道ステーション」の天気予報BGMだという「Voices (weather report ver.) (feat. 上野耕平、山中惇史、石若 駿)」の生演奏。ここでも上野がトークで客席を沸かせていた。思ったよりも客が付いているんだなあ、と思わせられたコンサートだった(後でスマホのニュースを見ていたら上野はNHKの某有名女性アナウンサーと昨年結婚していて彼女は妊娠中との記事を目にした。あの機嫌の良さはこのせいだったかも)。
 終了後、3人のサイン会があるというので、石若俊が角銅真美(芸大打楽器科出身らしい)と作った「Songbook Ⅶ」を買っておいたら、あまりに長い行列ができたので、早々に退散。
 帰ってからCDを聴いたら、曲は二人のオリジナルだったけど、石若俊はピアノしか弾いておらず、角銅真美が歌っているのだった。静かな矢野顕子みたいな感じ。
 なお、石若俊は3月に椎名林檎のツアーで、地元ホール2日間をこなしているけど、当方はそのこと自体を知らなかった。

 では読んだ本の感想へ。

 『SFマガジン』最新号の海外SF書評欄を見て、これ読んだよなあ、と思い出したのが、ベルナール・ミニエ『猫、そして14の不思議で恐るべき残酷な物語』。ハーパーBooks文庫4月刊。前回取り上げるのを忘れていた1冊。筒井康隆を読み終えるのに忙しかったせいもある。
 基本的には「グランギニョル」系コントといっていいんじゃないかと思われる短い話が多いので印象に残ったはやはり長めの短編。
 巻頭の「死の体験ツアー」は90ページもあって収録作品中最長の1篇。軍政時代アルゼンチンをモチーフにした作品で、マリアーナ・エンリケス『秘儀』を読んでいなければ、感心したかもしれないけれど、『秘儀』を読んだ後では、エンターテインメント性が強く浮ついたものに見えてしまう。ただアルゼンチン軍に拷問のやり方を教えたのはフランス軍だという話は印象に残った。
 表題作「猫」も50ページ近いホラー。ある女性が親友の女性に出し続けた手紙という形で進行する。予想の範囲内といえば予想の範囲内。
 SFマガジンで冬木糸一が触れていた「オーガニックで地球規模の脅威」は副題が(クリフォード・D・シマックとシオドア・スタージョンへのささやかなオマージュ)とある25ページほどの短編。まあ、いうほどのことはない昔懐かしいタイプのSFだけど、著者の付記にシマック、スタージョンそれにファーマーを含むSF黄金時代の作家の作品が、著者「12歳から15歳までの文学的生活圏(ビオトープ)」だったとしている。そういうものだったんだよねえ、あの頃は。
 巻末近くに入っている60ページの中編「交換--あるいは戦争の惨禍」は、導入部が第1次世界大戦の撃墜王に匹敵するドイツの撃墜王と対峙したフランスのパイロットは敵が女だと知ってびっくりするが・・・、という話かと思っていたらいつの間にかエロチックなヴァンパイアものになっているヘンな話。それにしても「死の体験ツアー」やこの話は女の扱いが男の都合に良すぎるような気がする。

 以前に出た短編集にはあまり関心がなくて読まなかったけど、今度のナオミ・イシグロ『雨影(レインシャドウ)の孤児たち』上・下はSFっぽいということで読んでみた。
 読後感はよくできたヤングアダルト向けのハイ・ファンタジーというところ。SF的な設定も顔を出す。読み始めてすぐ戸惑うのが、主要な登場人物の名前が作者のルーツを感じさせる日本人名(ヒロインはトシコ、敵役はサイトウで、皇(女)帝はアサヨでその幼い皇太子はハル)が大量に出てくる上、古風な日本風俗(履物が下駄だったり)も取り込んで、いわゆる「色眼鏡のラプソディー」っぽい異和感。もっとも読んでいるうちにストーリーに対する興味が勝って、それらがエキゾティックなネーミングとして受け取れるようになるので、特に問題ではない。
 設定はかなり複雑で、上巻の帯から引用すると、「科学と魔法が融合した管理都市国家、レインシャドウ・シティ。宮殿での華やかな暮らしの裏に潜む、貧しき者たちの怨みと憎しみ。復讐に燃えるレジスタンスの少女は謎の真珠を盗み出し、帝国の尖兵から追われる身となるのだが……」と紹介されているけれど、実際の物語は大分印象が違う。で、下巻の帯には「貧民区〈守り人の三日月〉での騒乱が、帝国の秩序を揺るがしていく。宮殿を抜け出した幼き皇太子はレジスタンスの若者たちと手を取り合い、心を通わせたドラゴンとともに巨大な陰謀へと立ち向っていく!」と激しく要約的なストーリー紹介がしてあって、これまた読後感からすると随分違う印象がある。
 この点はSFマガジンのファンタジー書評欄担当卯月鮎の紹介が良くできていている。冬木糸一も取り上げていて、両方読めばある程度の内容の理解は進むかも。ただし「色眼鏡のラプソディー」的なことについては何も触れていないけど。とはいえ設定の要約は巻末の牧眞司さんの解説が一番わかりやすいだろう。
 主要視点人物はヒロインのトシコと皇太子のハルそれに一種のエスパーである気の弱いセオ君だけど、セオ君のエピソードが続巻を意識してかちょっとねじ曲がっているような印象がある。
 あと気になったのは、母親を殺された10歳くらいの少年が、いくら同志だとして母親を殺した人物と屈託なく付き合えるものだろうかという疑問が湧くクライマックス後のストーリー運び。さすがに気になる。

 読んでいる最中から、これは好きかもと思ったのが、シルヴィア・パク『ロボットが泣いた夜』。その割には読むのに時間がかかったのはなぜだろう。訳者の藤沢町子はSF界では見ない名前だけど、訳文は読みやすい。
 原題の”LUMINOUS”に対して邦題があまりにも凡庸という感じもあるけれど、内容からすれば間違っているわけでもない。ただ「ルミナス」という単語の持つカッコ良さが失われているのは残念。とはいえ「ルミナス」が日本語になるかといえば、なかなか難しい。『内光―ロボットの魂』じゃ二番煎じだし。
 作者は名前から分かるように韓国/朝鮮系アメリカ人で、そのバックボーンを生かしてか、半島統一戦争で北朝鮮人民が旧韓国へ流れ込んだ近未来の「大韓統一共和国」のソウル市を舞台にしている。
 多視点といえば多視点なストーリー構成だけど、主な視点人物は歩行補助機を使っている中国人の少女と、元女性だったが兵士として行った戦争で瀕死の重傷を負い体のほとんどを再生する過程で子宮も除去、現在は男性として警官となった人物に、優秀なロボットプログラマー(なんちゅう古臭い語感)としてロボット製造会社に勤めるその妹の3人。中国人少女のエピソードには、廃品(ロボット)置き場に暮らす少年型アンドロイドや学校では同級生だが廃品置き場に出入りする北朝鮮から叔父に連れられてきた少年などが絡む。
 この物語の大枠の設定として半島統一戦争があるが、物語のディテールを支える背景として、警官とその妹の父で、若いころ妹が勤めるロボット製造会社の創業者とロボットプログラムの共同研究開発をして、後にたもとを分かったアニマルロボット研究者がいる。彼と創業者の乖離は謎として残されるが、その後父はアニマルロボットへ転身、創業者は最終的に自殺している。
 そして邦題にある「泣いたロボット」は、登場人物たちには示されないが、読み手にはそれが兄妹のために父の手で造られたものであり、一方で戦争に駆り出された殺人兵器でもあったことが分かるようになっている。
 その因果は妹のつくった傑作ロボットプログラムに反映される一方、妹が私用に特別に造った男性アンドロイドの「心」を破壊する。
 物語は少女が廃品置き場を探検中に少年型アンドロイドと遭遇したところから始まり、まるでジュヴナイルSFのような感じだが、その一方で、行方不明の旧式少女型ロボットの捜査をする警官のエピソードはユーモアを含みながらも不気味である。そして妹は私用男性アンドロイドとの関係に悩む。物語の舞台はあちこちに移るものの、メインステージは廃品置き場で、本来ジュヴナイル設定に課されていたはずの控えめの暴力描写が爆発するステージにもなっている。
 小説としての完成度はやや疑問だけれど、現代SFとしての魅力は十二分に備えた1作だった。
 あと、邦題でググったら「読書メーター」とかいう感想文投稿欄に「そもそもこの小説の解説に大森望を連れてきている時点で、センスがない(特大悪口)」とあって、笑ってしまった。

 王城夕紀『バイ・タイム─整時士佐藤スバルの哀切─』は新潮文庫NEXレーベルから出た1冊。連作中編集。3篇プラス10ページほどのエピローグを収録。このレーベルではすでに『青の数学』とその続編が既刊とあった。知らんかったなあ。
 王城夕紀はこれまで読んだところ、時間SFを書くことにこだわっているみたいな印象があるけれど、これも「高次知的生命体(OT)との偶発的衝突(ファーストコンタクト)。それから2年、人々の日常は、頻発する“時が歪む”異常現象〈渦〉に悩まされていた。」(裏表紙のあらすじ紹介から)という設定で、これに副題から主人公が「時の歪み」を整えるという「時間SF」であることが分かる。
 主人公は人口80万人の地方都市に住む中年男性。ファーストコンタクト時の衝撃による事故で妻を失ったうえ、救えた就学前の息子の脳はOTと絡まってしまった。しかしそのために息子が〈渦〉の原因となった人間を確認できるので、息子/OTとの絆により主人公は政府の傭員として整時士を請け負っている。
 連作短編ということで、設定の構えの大きさと実際のドラマのローカルエリアでの話の組立には大きなギャップがあるけれど、物語としてはほとんど気にならないだけの滑らかなナレーションが施されていて、普通にエンターテインメント小説として泣ける人情小話が成立している。
 牧眞司さんの【今週はこれを読め! SF編】書評では、テッド・チャン「あなたの人生の物語」を引き合いに出しているけれど、物語の構造的類似はともかく読後感が違いすぎて、その比較にはちょっとビックリした。
 この作品自体はこれまでに読んだ王城夕紀の作品同様、その美点は十分発揮されていると思う。

 毎回書く話が全く違うので何がトレードマークなのかわからない倉田タカシ『タフな狩り』は、読み始めると何が何だかわからないままシチュエーション進行だけで読者を引きずりまわして見せようという野心作だった。
 巻末の初出を見ると『小説すばる』に2021年から翌年にかけて3回連載して、4回目が2025年となっていて、目次との対応を見ると4篇目を仕上げるまでに3年をかけたということになる。しかし物語の方はスピード感重視、読者に設定のディテールを考えさせないままに追いつ追われつの「タフな狩り」が進行する。
 話の設定は帯裏によれば「2063年、国の存在と概念が消え、都道府県は〈工場〉とされ、その設立が全国で進んだ。日本国民のおよそ90パーセントが海外企業に安価な労働力として売り渡され、海外では規制されていた業務を受けることで生活していた。」とあるけれど、実際の物語は、短いプロローグが置かれ、「工場」でこき使われる主人公谷のシーンから始まっている。そこでは「茨城県には、この谷の暮らす〈創生サイエンスガーデン〉を含めて工場が五つある」と書いてあって、この帯の説明自体がいい加減なことが分かってしまうが、作者が仕掛けたのは、昔ベスターが言ったように、のっけから読者を引きずりまわして見せようというアドヴェンチャーであって、設定の考察は後回しだったのだ。たから全体のまとめが難しかったのだろうと推測される。
 谷を含む「狩り」のメンバーは4人で、現在のトクリュウみたいな裏世界での依頼を紹介する請負仕事募集があって、それが〈獣〉を狩る仕事。ということでこのメンバーは初めて顔を合わせチームとして〈獣〉を狩っているという話が第1話。とにかく谷の視点で謎の仕事と謎のメンバー、謎の世界状況に谷を慰めてくれる謎のアプリキャラ・・・と、読者にもナゾだらけで、「狩り」だけがリアルなアクションとして転がっていくのである。
 もう一つのひねりが主人公の性格設定で、谷クンは「工場」育ちで、「世間」知らずの短慮が他のメンバーに突っ込まれるというなかなか主人公には珍しいキャラの持ち主。おかげで他の3人のメンバーの素性のナゾが非常に興味深いものになっている。なにしろ話の途中で、中年男性のメンバーは妻から車イスの娘の保護を任されて、4人のメンバーは「タフな狩り」の獲物にされたんじゃないかとビクビクしながら車イスの娘を連れて逃避行に移るんだから、読んでいる最中に「これは何の話だ」となるのも無理はない。でも話のドライヴはかかったままなので、谷クンが故郷へ帰る終章まで読み手は引きずり回されるのだった。
 ドライヴ感の強さという点では天沢時生の作品を思い出すが、こちらは世界像が五里霧中なので、それだけSF的設定が効果的に使われていてSFファンには受け入れやすい作品になっている。

 P・ジェリ・クラーク『精霊を統べる者 カイロの死せる精霊(ジン)』は、エンターテインメントSFファンタジーとしてとても楽しかった長編『精霊を統べる者』の続編ならぬ、同世界を舞台にした中編3篇を収める1冊。なお、この3篇は長編より前に発表されたものとのこと。
 長編のヒロイン、ファトマちゃんは冒頭の表題作で活躍するのみ。タイトルにある「死せる精霊」は冒頭でその巨体の威容が描写されているけれど、ファトマちゃんが目にするのは、一緒にきた下卑た中年警部がアゴで示した「死んだジンのむき出しのペニス」で、「暗青色(ミッドナイトブルー)のモノが膝のあたりまでたれさがっている」のだった。(鍛冶靖子訳は絶好調)。
 さすがにこれを表紙に描くわけにはいかんわねえ。ということで表紙のシーンは謎解きが終わった後のクライマックスである狂気の「天使」との対決シーン。ステッキを持ってる後ろ姿がファトマちゃんで、その後ろ(画面構成上は手前)でライフルを構えているのが、この事件をきっかけに親友となるシティちゃん(2人が後ろ姿なのは正解ですね)。
 2篇目は「ハーン・アル=ハリーリの天使」と題されて、こちらは20ページの短編。ストーリーは、ある願い事をするため「天使」を訪ねてきた少女が「天使」に告解を強要されて秘密を告白するというストレートな1篇。
 「空中ケーブル〇一五号憑依物事件」は110ページ余りの長中編。主人公は魔術省でファトマの同僚だというエージェント・ナスル・ハメド。そっして準主役がハメドに新人教育を任されたバディ役のオンシ君。
 タイトルにある「空中ケーブル」はワイヤではなくていわゆるケーブルカーの本体。で、この運営会社から「〇一五号」車に憑きモノがいて、客を脅して商売にならないので何とかしてくれということで駆り出されたのが今回の担当2人。
 話が長いのはミステリの常で真相が二転三転するからだけど、最後が冒頭の聞き込み捜査を始めた運営会社に戻るところを含め、ミステリの常道を踏まえている。優秀な新人君とのやり取りも見事にセオリー通りに決まっていて、なおかつ解決に手を貸すのがシティちゃんで、エピローグではファトマちゃんも顔を出し、表題作の事件に言及したりして、よくできている。
 この作品世界の魅力を作り出した作者が、大学の先生で歴史学者の男性ということを考えると、勝山海百合の解説で、ファトマが自らの英国風ファッションを「エキゾティック」であることを意識しているように、この作者は読者に「エキゾティック」の魅力を伝えているのかもしれない。

 さすがに締め切りまでに読み終えられるのかと思った矢野アロウ『マイボディ・オン・ザ・ムーン』上・下。
版元の力の入れようは半端なく、『SFマガジン』最新号でも宣伝グラビアページの大仰さに笑ってしまうし、4月に行われたという、大森望、冬木糸一、あわいゆきプラス作者の座談会も前宣伝にこれ務めた感じが強い。
 実際、読み始めると日本人はサブキャラで出てくるだけだし、京都以外の都市にはほとんど言及さえない(下巻で横須賀が核戦争の犠牲になってるけど)。
 しかし、主要視点人物である4人の外国人の男女(NASA勤務で実は中国のエージェントでもある、子供が生まれたばかりの中国人男性、タイ人の脳神経学者で日本のK大勤務(のちアメリカの研究所へ異動)の若い女性、同じくタイ人の車いすに乗ったVtuberの10代の少女、1934年生まれで事業家として成功して幸せな家庭を築いたのに1984年に暗殺されて現代に復活したアメリカ人の男)と、彼らを通じて伝わるその家族や友人たち言動は、まさに日本のエンターテインメント小説に出てくるキャラクターのもので非常に読みやすい。
 ストーリーは視点人物4人のエピソードで各章が構成され、最初はそれぞれの独立した設定の物語が進行する。それだけでもかなりのページ数が費やされていて、エンターテインメント小説の作法で書かれているので、退屈せずに読み進められる。
 大設定の「月の裏側で発見された頭部のない数十体の遺体」(帯から引用)に関しては、中国の月面探査機が2024年に実際に発見した構造物(実際は自然由来だった)「神秘小屋」からそれらが発見されたというフィクションがNASAの中国人科学者のエピソードを通じて紹介される。そして視点人物たちはそれぞれの立場と行動に従って、この「首のない遺体」の神秘に絡まざるを得ない状況へと向かっていき、物語後半では全員がつながった関係になる。
 ストーリーの大半を引っ張る推進力は、どちらかというと現代の政治経済状況との兼ね合いで生じるサスペンスなので、SF的な面白さは控えめなんだけど、大設定から生じる謎解きの方はSFの面白さをちゃんと伝えている。これだけ複雑なシチュエーションをほとんど読み手に疑問を抱かせること無く推進させられる力は大したものだ。
 ただSF読みとしては、クライマックスの宇宙船同士の追いかけっこがやや書き込み不足で説得力が弱いように思われた。
 エピローグまで読むと、視点人物のうち「反重力派」のキャラが「重力派」キャラに敗れたかのようなストーリーが、実はそうではないかもという問いかけで閉じられていて、続編(「反重力派」の巻き戻し)が期待されるような書き方になっていた。
 これを読み終わって、ちょっと頭に浮かんだのが、P・ジェリ・クラークやシルヴィア・パクをはじめとした、よくできた翻訳SFのエンターテインメントの質と矢野アロウや倉田タカシのもたらすそれには何か違うものがあるように思えること。まあ、文化が全く違うんだから当然なんだけど、やっぱり楽しみ方の落差はあるような気がする。翻訳だから隔靴搔痒があって当たり前という話でもないんだけど、何だろうな。

 今回最後に読み終えたのは、日本SF作家クラブ編『ショートショートなSF』。無慮50名の作家の作品を集めた本文400ページ余りの1冊。
 目次を見ると割と作家のキャリア順または年代順に並んでいるように思えるし、実際作者紹介には非公表以外年齢が記されている。
 それを見ると1934年生まれの筒井康隆から1990年生まれの稲田一声まで、寄稿者の年齢に50年以上の開きがある。年齢非公表の作家に20代がいるかわからないが、いれば60年以上ということになる。なお、ここに名前のない作家に飛浩隆、牧野修、藤井大洋らがいて、ちょっと残念。
 筒井康隆「楽天ボウル」は別格として、その下が梶尾真治「ユミと私の宇宙論」で40年代生まれは彼一人。50年代生まれが安土萌「ガイコツのいる美容室」を筆頭に高井信「豆か虫か」藤井青銅「ト〇〇〇〇の日」江坂遊「手つなぎ鉄道心中」太田忠司「襖の向こう」草上仁「振込詐欺」深田亨「猫笑いの夜」奥田哲也「鈍色の荒野」あたり、井上雅彦「竜の高み」傳田光洋「六畳の星座」斎藤肇「視線」藤井俊「ショートショート★トーナメント」は全員1960年生まれでショートショートを得意とした作家が多いが、作家のキャリアとして長いのは同じ60年生まれの新井素子「花粉症事始め」で、筒井、梶尾に次ぐ3番目に作品が掲載されている。
 また菅浩江「亜麻色のインヘリタンス」は63年生まれと少し若いが、この年代に入る長いキャリアの持ち主。同年生まれが田中哲也「森の中」。それにしても女性作家が少ないか。60年代前半生まれがほかに矢崎存美「心の声」法月綸太郎「寿限無対反魂香」北原尚彦「希少天使保護実験」北野勇作「亀たち」が作品を寄せていて、それぞれの作家の個性が際立つものが多くどれも面白い。
 ここら辺までの作品はショートショートという古くからのイメージを裏切るタイプの作品は少なく、ちゃんとした形式(オチ)が感じられる作品が多い。しかし60年代中期以降に生まれた作家たちの作品は、どちらかというと短編小説的な書き方や実験的試みの作品が増えてくる。
 高野史緒「ささやかな神」林譲治「天狗党」小川一水「内銀河調停局一〇八号」円城塔「初等魔術教本断片 modulo3」伊野隆之「南へと歩く」松崎有理「海の価値」宮内悠介「衝突」と並ぶあたりはその長さにかかわらず、短編SFの趣が濃くて、読んでいて嬉しい。ここら辺の作家が現在の日本SFの中心あたりかな。
 高山羽根子「JBのシンドン」はさすがに驚く題材で、ソウルの帝王ジェームズ・ブラウンに聖骸布を結びつけた1作。間に坂永雄一「天動説の発見」の見事なSFホラーを挟んで、高山作品を継いだかのような酉島伝法「予鳥」のキリスト像の扱いも驚く(大丈夫かしらん)。
 オキシタケヒコ「蝕」の言葉遊びを楽しんだ後からは、倉田タカシ「脳または、石」で何が何だかわからないけど落語みたいな話があり、山本浩貴(犬のせなか座)「偏秒」は不気味な時間SFホラーで、久永実木彦「帳尻が合う」はオーソドックスなオチがあるコメディ・ホラー。赤野工作「/*ナイジェルによる引き継ぎ書*/」がゲームの設定集としてキリスト教を扱ってこれまた驚く。
 日高トモキチ「ながいながい鼻のはなし」は「鼻」に関するモノ尽くしで、関元聡「冥王星行き貨物船」ではガチガチの宇宙SFを書いて見せている。鵜川龍史「閉域観測」は謎めいていてちょっと驚く一作。坂上かおる「雪のかれら」は、なんと雪の結晶に魅入られた江戸時代の高級士族の姿をその子供の視線で描いてビックリさせる。溝渕久美子「環と線と」は滅びゆく希少言語の最後の話者の物語。
 青島もうじき「鳥はさやかに」は、書かれていることがすっと頭に入らない文章を展開するし、葦沢かもめ「SOUL.md」は、秋田のバアちゃんの方言を記録する話が全編横書きで印刷されていて、末尾にAIで生成したものを加工したという付言がある。この二人に比べると稲田一声「二・七八秒の針」はフェンシングを題材に分かりやすく切れ味がいい。犬怪寅日子「Myxogastria」は独特の文字遣いで何の話なのか見えにくいが、タイトルをググると「変形菌類または無細胞性粘菌(ウィキ)」とある。ティプトリー? 灰谷魚「スイミングプールの底には魂が沈んでいる」は詩的なタイポグラフィ入り実験作だけどこちらもムードは伝わる。これが短編デビュー作という大澤博隆「配慮の衝突」は現代ロボットSFを倫理的に手堅く描いている。現役の工学博士三宅洋一郎「ねごとラーニング」は星新一作品のアップデートいう意味でよくできた1篇。岡和田晃「一四(カトルセ)」は。作者が最近凝っているらしいスペイン語を題材にボルヘスSFともいうべき作品をモノにしている。書籍初収録(デビュー?)作という。
 トリは岡田悠「鳥取空港 手荷物受取所」で、文字通りカーテンの向こうから出荷物が出てくるのを見守る話だけど、時間ホラーともいえない感触がある。ま、カーテンの向こうは覗かない方が良いかも。
 解説は高井信が日本におけるショートショートの歴史とSFの関係を分かりやすく説明していてよくできている。また巻末に作家名と制作スタッフ名があるのもすばらしい。
 この本は、全体としてとても高水準なショートショート作品集になっているので、売れると嬉しいな。

 ノンフィクションを2冊。

 最近サイエンス本を読んでないなあと思い、今回3冊目の新潮文庫4月刊のジム・アル=カリーリ、ジョンジョー・マクファデン『量子力学で生命の謎を解く』を読んでみた。 原書は2014年刊。翻訳書は翌年刊と当時はホットな本だったらしい。著者は2人とも英国サリー大学教授でジム(名誉教授)が理論物理学、ジョンショーが分子遺伝学専攻と紹介されている。
 10年以上前の情報で書かれていて、増補でもないしどうしようかと思ったが、文庫化に際して訳者解説があったので、この10年余りで研究は進んだが、この本で謎ときがされてない話題は現在でも同様だとあって、じゃあいいかと思った次第。ま、宣伝に乗せられたともいえる。
 最初は、ヨーロッパコマドリの渡りが題材。渡り鳥に地磁気を利用した器官があることは前から知られていたけど、詳しく分析すると量子論的もつれが関連していることが分かったらしい。
 章立ては基本的に量子論特有の現象(コヒーレンス・デコヒーレンス、重ねともつれ、トンネル効果など)を、数学概念を使わずに説明しながら、生物界での量子論的現象の実際を紹介していて、わかりやすいのだかいい加減なのだかよくわからないところもあるけれど、読みやすくするための努力の跡は十分にうかがえる。
 植物の光合成に量子論的現象が大きく寄与していることは確からしいが、生体エネルギー(ADP/ATP)反応にも酵素内のトンネル効果が寄与している可能性が高いという。ということで、生物の活動に必要な様々な現象に量子論的な現象はかかわっているらしいんだけど、中には量子論を使わなくても説明できてしまうものもあって、まだ確たる全体像はないらしい。
 そのせいもあって、脳の活動や生命現象そのものを量子論で説明できるところまではまだまだ遠いということも書いてある。でも、この本のおかげで『皇帝の新しい心』の量子脳仮説の根拠物質は不適当だとわかるし、コアセルベートが必ずしも生命発生の必要条件でもないらしいことがはっきりしたので、当方の古い常識がちょっと更新されたのはうれしい。

 この際もう1冊くらいと思って、ブルーバックスを見たら田島治『宇宙のはじまりと素粒子 ウロボロスの蛇でたどる現代物理学』という薄い本が目に付いた。「京大×ブルーバックス」とオビにあって、京大の先生が担当ということらしい。
 副題にある「ウロボロスの蛇」が章の扉ページごとに漫画風イラストで描かれていて、大口を開けた頭部が宇宙で、口の中から出てきている尻尾の先にあるのが素粒子を表している。なお、口の中のしっぽの始まりのところは「?」となっていて、「ビッグバン」は表示されていない。そして尻尾から頭までの間に「原子核」がら「銀河」まで大きさ順に項目が並べられていて、その章がどのあたりのスケールを対象にしたものなのかを一目でわかるようにしてある。
 それくらい一般向きの現代宇宙物理学の解説書ということでもあるけれど、まあ、なんとなくミクロ(素粒子)からマクロ(宇宙全体)までの物理学の基本的な用語が分かるようなものにはなっているようだ。たとえは、3度Kの宇宙マイクロ波背景放射(CMB)観測の結果に「ゆらぎ」がなかったら宇宙には何の変化も現れなかっただろうという話はこれまでも何度か読んでるけど、ここでまた改めて記憶されたことになる。あと、「ビッグバン」はあくまでフレッド・ホイルのオチョクリネーミングであって、現象的には「大爆発」とは何の関係もないということも再確認できる。
 素粒子に関してもやはりこれまでの一般的な解説書に書いてあることとかが再確認されるけど、「強い力」「弱い力」などの基本用語の意味を再学習するのも当方には良いことのように思われる(すぐに忘れるのは明らかだけど)。
 「ダークマター」と「ダークエネルギー」に関しては、理論上の発見過程はわかるけどここでも謎のままであることはあいかわらずだ。
 『量子力学で生命の謎を解く』を読んだ後でこれを読んでいると、現代物理学が有機的な構造に対してまったく言及しない潔さがあるんだなあという考えが浮いてくる。「潔い」かどうかは読むヒトによって感じ方が違うだろけど。


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