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続・サンタロガ・バリア (第282回) |
めずらしく地元映画館で『スターウォーズ マンダロリアン・アンド・グローグー』を公開日から上映し始めたので見に行った。ただし吹替え版。
前情報はできるだけ入れたくないのだけれど、『子連れ狼』だという噂だけは耳に入ったので、「ちゃんの仕事は刺客ぞな」が頭の中で鳴ってしまった。ということで別に原語IMAXでなくてもいいかと思ってしまったのであった。
で、見た感想は、「まあ、そうね」というくらいのもの。『子連れ狼』のリアルは何もないので、スターウォーズものとしてはスケールがかなり小さい。無敵の賞金稼ぎの話だから仕方がないけど、反帝国共和軍の現場司令官に頼まれた人探しと情報取りがメイン。となれば、帝国の残党との戦いも出先潰しだし、クライマックスは一種族の正義の実現でしかない。もとがTVシリーズでそのスピンオフらしいのでこの程度かなあ。
『ローグ・ワン』は面白かったけど。
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| ポン・ヌフとサマリテーヌ ひろしま美術館蔵 |
「ひろしま美術館」でアルベール・マルケ展をやっていたので、見たいと思い機会を窺っていたら、ちょうどその期間中の午後に「イマジニアンの会」として広島市中心部の天瀬裕康(渡辺晋)さんのご自宅に伺うことになったので、その昼前に見ることができた。
今回はアルベール・マルケ(1875-1947)の生誕150周年記念回顧展ということで、20代から最晩年までの作品が並んだ。画家としては20世紀前半のパリ(主に冬)の景色を描いて見る者を魅了することができた唯一の画家だったかもしれない。当方はいつのころかひろしま美術館の常設展で、「ポン・ヌフとサマリテーヌ」を目にして以来、この美術館に企画展を見に行った時は必ずこれを見て帰ったものだ。
今回は常設展から企画展に移されて、「ポン・ヌフ連作」の中の一枚として展示されていた。撮影OKだったのでスマホで撮ったのを紹介しておこう(光が足りず手ブレ、ドーム屋根の右上の白い点は照明の反射)。1940年の作品というから65歳の作。すでに世界大戦に突入してパリ占領の年だけど、マルケは占領前にパリを脱出、行き慣れたフランス領アルジェリアへ向かった。パリに戻るのは戦後になってから。亡くなる年にもこれと同じ構図の作品を描いている。
マルケは若い時にマティスと知り合って以来親友といっていい仲だった。共にフォーヴ時代の影響を受けて独自の画風になったらしいが、マティスの変化は誰が見ても一目瞭然だけど、マルケの方は素人目にはイマイチよくわからない。ただ20代後半からの10年で描き方が少しずつ整理されていくのが分かる程度だ。あと南仏とかアルジェなどの海岸風景の明るい水色は格別の魅力を湛えていて当方には新鮮だった。
なお、その日の午後、天瀬(渡辺)さん宅では、現イマジニアンの会メンバーが60年前のイマジニア結成とその後の経緯を伺った。当方としては、当時の会員名簿の中に森美樹和の名前があったのに注目。森美樹和氏が昔作ったファンジン『ヒアデス』に渡辺さんの作品が掲載されていたのを思い出したのでした。
では、読んだ本の感想へ。今回はノンフィクションから。
朝、郵便受けに書籍小包があったので、アマゾンか楽天だろうと思い、居間に投げて外出、帰ってから開けようとしたら差出人が岡本俊弥さんだった。
何かと思って開封すると出てきたのは、岡本俊弥編『SF大会は関西から始まった ファン活動のはじまりといま』。岡本さんはこんなものをつくっていたのかとビックリ。
早速岡本さんにはお礼のメール送ったけど、その時は以前にBookreview-OnlineでDAICON5に至る「夏をめぐるSFの物語(Infinite Summer)」は読んでたし、1週間もかからず読み終えそうですと書いてしまった。しかしジックリと読んでいると大抵のことは忘れていた(当たり前だ)し、新しい情報(特に筒井康隆をはじめとする関係者の思い出話)にはいろいろ引っかかることが多くて、読み終えるのに時間を要した。
この本のタイトルは、解説の大森望が書いているように、今現在の筒井康隆さんにメールインタビューして、そのファン活動の始まり(『NULL』創刊)が柴野さんの『宇宙塵』を知る前であって、『宇宙塵』の存在を知ってからはさらにファン活動に拍車がかり、第1回「関西SFのつどい」を主宰したことなどを聞き出して、それが第1回SF大会「MEG-CON」より先に開かれていることを編者として指摘しているところから来ている。
その意味ではこのタイトルは岡本さん視点の一種のショッカー的なタイトルともいえる。
それはそれとして、筒井さんの次に堀晃さんへのインタビューで『NULL』以降の60年代SFファン活動の動向が述べられていて、名前だけは知っていた当時のBNFのことが分かって興味深い。またそれとは独立に当時の若手SFファンが手がけたという71年の第2回DAICONを元「パンパカ集団」の青木さんと「星群」の石坪さんが対談で回顧していて、青木さんらは先輩SFファンたちとは切れた形でSF大会を開いていたという。そういうこともあるんですね。その意味ではのちに関S連がやったことはそういう伝統だったのかも。
そして前半のメインディッシュのSHINCONが膨大な資料と実際にスタッフを担当した岡本さん、大野万紀さん、水鏡子(角さん)、小笠原さんの回顧座談会が登場。資料の方は「夏をめぐるSFの物語(Infinite Summer)」である程度分かっていたので、やはり興味は座談会に。
1975年当時、当方はそれまでSFファン活動というものを知らない一人SFファンで、SHINCONはこの年同志社大学SF研に入り先輩らに連れられて初めて参加したSF大会だった。もちろんその時点ではこの座談会のメンバーとはまだ一面識もなかった。その後、同大SF研創立者でKSFA創立にもかかわった桐山さんに誘われて大阪の集まりに参加、現在までお付き合いいただいている。
この座談会で、へぇーそうだったのか、と思ったのが、米村秀雄さんが大会スタッフなってなかった理由。バイトがあって筒井さん宅の集まり参加できなかったのか。ウーム。
さて、ここからはちょっとSHINCON当日の同大SFメンバーとしての当方の回想をしてみよう。

SHINCONに向かう途中、水分補給中の同志社大SF研メンバー
(背景に今は無きストリップ劇場「新劇ゴールド」の看板が見える:筆者撮影)
ここには顔が見えない人も含め8人のSF研メンバー(右端に1回生女性会員2人)が写っているが、ここに写っていない他のメンバーが桐山さんはじめ10人以上いるので、同大SF研からは20人あまりがSHINCONに参加した。来なかったメンバーも10人以上いたので当時同大SF研は40名前後の大所帯だった。
さすがにこれだけ仲間がいると一人で行動することはなく、内輪のコミュニケーションで終わっていたらしく自分が何をしていたのか全く覚えていない。記憶にあるのは、岡本さんが再現して見せた舞台のショーのイメージばかりである。
ここに載せたオープニングでの筒井康隆のカラー写真は当方の撮影ではなくて、SF研の誰か(たぶん当時4回生の伊藤さん)からもらったもの。もう1枚はパネルディスカッションでこれは当方が撮影した。これをみれば、客席の盛況ぶりが偲ばれますね。
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| 半世紀前のプリント(色調整なし) | 真ん中の給仕役が半村良 |
閑話休題、SHINCONの思い出はこれくらいにして、DAICON3・4の武田康廣×高橋安司対談での当方に関するものと思われる話題に移ろう。
関西学生SF研究会連盟(関S連)結成に関して、武田さんが同志社大学SF研にも声を掛けたらケンもホロロにあしらわれショックだったと回想されている。云われるように、これが1977年ことだとしたらたぶん当方が会長をしていた時で、当方が対応したのか前会長が対応したのかまたは渉外係担当会員が対応したのか、全く記憶がない。さきほど同大SF研が大所帯だったことを書いたように、会長としては会内のゴタゴタを調整するだけで精一杯、武田さんには申し訳なかったけど、会外の事なんかにかかわっている暇はなかったというのが当時の事情だった。そこらへんは、岡本さんも本書でフォローして下さっている。
で、ここまでが144ページで本書のちょうど半分、次のページからDAICON5に移り、岡本さんの「編者あとがき」の末尾が289ページ、300ページ目からは大森望の解説である。いかに岡本さんのエディトリアルが徹底しているか、まさに「仕上げを御覧じろ」てなもんであります。
DAICON5自体は岡本さんの云うドキュメントが微に入り細に入り恐るべき精度で再現されているものの、当方は当時そんな苦労はいざ知らず、一般参加者としてノホホンと楽しんでました。久しぶりに大森望の若き司会姿の写真を見て、そういえばこんな格好だったなあと思い出した。しかし当方は当時典型的な大会ゴロ的参加者だったので、酒井昭伸さんに紹介されて嬉しかったとか、その他何人かの翻訳SF関係者に挨拶できたことが一番の思い出になっている。そういえばハリスンの印象はないけど、目の前で見たホーガンはかなり印象深い人物だったなあ。
などと書いているうちに長くなったのでそろそろ終わりにしよう。第6回と第7回のDAICONは、当方の本業が忙しい時期だったこともあり、あまり書くこともないし。
この本を読んで、この時のスタッフのうち今回(DAICON5)四〇周年企画発起人として名を連ねている方たちのほとんどが、これまでSFとの濃いかかわりを維持されてきたことに感心してしまう。
岡本さん、ありがとうございました。
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で、この本を読み終わって、突然思い立ったのが、筒井康隆の思い出話や昔のエッセイ集がたくさん出ているから読んでみようというものだった。
最近読んだのは『筒井康隆自伝』だったけど、それ以外に積読になっていた、ほぼ単行本未収録の昭和時代の筒井康隆の文章を網羅したという日下三蔵編『筒井康隆エッセイ集成1SFを追って』、同『筒井康隆エッセイ集成2 記憶の断片』、文庫化された『不良老人の文学論』そして最新刊の『筒井康隆、九十歳のあとさき─老耄美食日記─』を並べてほぼ並行して読み始めた。さすがに全部は読み切れず、結局『集成2』は後半流し読み。さすがに変な感覚が生じた読書になった。
たとえば『集成2』の冒頭に出てくる子供時代の町の思い出を読みながら、これって手書き地図がなかったっけと思ったら、それは『自伝』で見たものだったとか、『文学論』は作品解説そして文学賞の選考委員時代の選評など主に平成時代の文章を集めたものであるけれど、『集成』に見られる、一方で溌溂としたもう一方で不安に満ちた昭和時代の文章に比べると随分と落ち着いた文章が続いてるなあ、とか思っていたら根本的なところで気質は変わってなかったり。
これが『美食日記』の令和時代の文章になると、さすがに老齢をテーマにした作家の文章らしくなるけれど、90歳前後の作家の書く文章としては技巧的なアイデアを盛り込んでいるところがすごい。あの外食メニューの律儀な書き写しなどちょっと恐ろしい。それにしても奥さんともども健啖で驚くなあ。これ自体がフィクションみたいだ。
そういえば『集成2』に1977年の1週間の食事メニューが収録されていて、それと比べると『美食日記』の外食ぶりはやっぱりスゴすぎる。
そのほか『集成2』に1970年代初期に東京を引き払って、神戸垂水に自宅を建てる話が収録されていて、自分でデザインした家の見取り図を神戸の大工に渡して、下見に行ったら東京の団地サイズの間取りで書いたつもりが京間になっていて、ビックリするほど広い家になっていたという記事がある。
これを読んでピンと来たのが、岡本さんの本に掲載されたSHINCONに参加したのスタッフを務めたメンバーの回顧座談会で、はじめて筒井邸に行った時の印象を、大野万紀さんが「応接間が豪華だった」続いて岡本さんが「二階のソファのある大きな部屋でした」と発言すると、聞き手が「男子学生が十二人もはいれる部屋だから、かなりの広さですよね」と受けているところ。なんでそんなに広かったのかがよくわかったのでした。
そういう意味では『集成2』の70年代前半の神戸時代の雑文は、SHINCON開催への筒井康隆の気持ちの動きを頭に入れて読むと興味が増すかも。
ついでに『文学界』6月号に一挙掲載と謳われていた筒井康隆「殺し屋はデトロイトからくる」も読んでしまった。上下2段組で34ページ、400字詰原稿用紙なら100枚越えの、しかも探偵が主役のミステリで、最後は長い謎解きのクライマックスが用意されているという大変な一作。たとえ昔描いた作品の補筆版だったとしても凄いことである。おまけに連作らしい。
ノンフィクションをもう1冊。
朝日新聞に連載されていた柄谷行人「私の謎」は読んでいたけど、単行本は買ってない。かわりに文庫化された柄谷行人『定本 力と交換様式』を読んでみた。柄谷行人の本は20年くらい前までは割と熱心に読んでいた(初期の翻訳書エリック・ホッファーも買った)んだけど、ここ20年くらいは手に取ることもなかった。
「私の謎」連載を読んでいた時も最近の関心らしい「交換」と一種の「生協活動」みたいな話を読んでも、なんじゃそりゃ的な感想しかなかった。それが変わったのはおそらくローラン・ビネ『言語の七番目の機能』と巽さんの本を同時に読んでシンクロニシティを感じたせいかもしれない。
読み始めると、マルクス『資本論』第1巻の〔貨幣〕物神/フェティシズムを中心に論じられていて、以前マルクスの「商品論」について書いた当方の感想と繋がっているようにも見える(ウヌボレです)。
柄谷行人は、これまでのマルクス主義の教義(下部構造と上部構造)から離れた、主に文化人類学者たち(物神を否定したレヴィ=ストロースは除かれている)の研究成果を導きの糸として、マルクスの「物神」から「交換様式」の3段階を引きして、見事な説得力をモノしている。ここでの「交換」は常に共同体(それが原始社会の集団であれ、現在の核家族であれ)外部との交渉を意味している。
「様式A」は、モースの『贈与論』に見られるような縄文(旧石器)時代的な氏族社会(いわゆるダンバー数150名程度が限界)同士の交換である「贈与」は返礼を強制する「力」を持っているとするもの。それが弥生(新石器)時代以降の定住集団での社会規模拡大に伴う「様式B」への変化(権威/権力の発生)が生まれるという。
「様式B」は国家の成立と同時に始まる、それはホッブスの「リヴァイアサン」にあるがごとく「支配(保護)と服従」という形の「交換様式」に基づいたものだという。この「様式B」は武力による征服とカリスマによる支配を成立させるが、柄谷行人はやはり文化人類学知見を引用して、「様式A」の氏族/部族社会でも戦争が頻繁にあったが、それが「国家」の形成につながることはなく、「様式B」が生む戦争+支配者(カリスマ)という構造によって国家が維持されるようになったとする。
そしてほぼ同時に「様式B」に商品/貨幣が加わり、ついに『資本論』第1巻でマルクスが見抜いた「物神」が支配する「様式C」へと発展して、それは現在まで続く「交換様式」として論じられている。
この「交換様式」論が強力なのは、少なくとも柄谷行人視点から見る限り、宗教の発生は「様式A」や「様式B」の発展から生じるもので、その逆ではないとの主張が真実っぽく響くからだ。仏教やキリスト教や古代中国の儒教や道教などの発生と発展をすべて「交換様式」論で説明してしまうのである。ここら辺は唯物論的な感じもするけど、柄谷行人が違うのは、将来到来するであろう「様式D」にキリスト教的というか聖書におけるキリストの教えを取り込んでしまうところだ。
「交換様式」論とマルクス主義の最大の違いは、目に見えない力(マルクスなら「物神」)が交換様式論の根幹をなしているところで、その行く着く先として柄谷行人が提唱しているのが「様式D」なんだけど、本人も「残念ながら」と云うように具体的な形としてそれがいかなるものなのかは明言していない。
柄谷行人がいうには、「交換様式」そのものは「向こう」からもたらされるのであって、人間の想いでどうこすることができないものなので、「様式D」はあくまでもこういうものであろうという想定に過ぎず、「共産主義」のようにそれを目指して運動すればよいとはならないのだとのことである。
これを腰砕けと見るか、そりゃそうだと思うかは「交換様式」論の説得力をどうとらえるかによる。
もはや十分に長くなったけど、フィクションに移ろう。さすがに冊数が減った。
期待していいんだか畏れをなしていいんだか、恐る恐る読み始めたのが韓松(ハン・ソン)『悪夢航路』。病院三部作の第2弾。英語版からの重訳(訳者はもちろん山田和子)とはいえ、巻末の英訳者(マイケル・ベリー)あとがきによると前作『無限病院』の時のような原作者による改変はほとんどなく、ほぼ中国語版原書に忠実な訳になっているとのこと。
実際読み始めると、視点人物楊偉(ヤンウェイ)が第1作の患者役で主人公だったことさえ忘れていて、前作とのつながりがよくわからないまま、超巨大病院船を舞台に患者と医者、その他のスタッフもすべて男というドラマが展開(?)する。おまけに視点人物は記憶喪失でいつの間にか年寄りになっていた(とはいえ、意識の上ではあまり老人ぽくない)。
最初は新入りとして患者仲間から説明受けながら病棟での状況報告から始まる。患者たちはすべて病名を名前にしていて、患者たちの間にはまるでサルの群れ(または刑務所の囚人たち)のようなヒエラルキーが築かれている。なお患者が読むべき聖典ともいうべき書物があり、テレビ画面からは患者を見守っているという管理者が語り掛けてくる。またここには医者はいないといわれた。
そうこうしているうちに、病棟の患者有志による病院船探訪が始まり、医者もいることが分かるが、医者の役割は病院船のアルゴリズム/AIがすべて代行しており、医者たちは裏世界の存在であることが分かる。医者の名前も病名だった・・・。
ということで、これは赤い海の洋上を航海する超巨大病院船という名の地獄めぐりなのだった。「地獄めぐり」なので、ドタバタでスラップスティックなんだけど、本来は笑えるようなシチュエーションのつるべ打ちのはずなのに、読んでいる最中はどうみても悪夢の中でさまよっているような気分になるため「笑い」には結びつかないのだった。
この地獄めぐりの悪夢感の依って来るところは、英訳者の長い「あとがき」によれば、中国の政治的現実を韓松が作品内でなぞって見せているからだということらしいんだけど、そのように読むには日本人(及び英語圏の人々)にはリアリティが無さ過ぎて、ピンとこないだろう。
原題は『駆魔』で英訳題も"Exorcism"と「悪魔払い」で、内容的には邦訳題の方が分かりやすくまた内容にふさわしいんだけど、ここでいう「魔」がなんなのかという点では、テーマ的に邦題からは本来の意味が抜け落ちていると言えなくもない。まあ、『駆魔』という題に中国語圏の人が何を思うかは全く分からないけど、英語圏の人は英訳題にキリスト教の「祓魔式」を思い浮かべるに違いなく、英語圏読者はこの物語に「悪魔祓い」を見いだせるのかというと疑問に思わざるを得ない。
結局韓松の病院三部作第2部も第1部同様「スサマジイ」としかいいようのない作品だった。とはいえ男の患者ばかりの世界で、患者の死体が大量に消費されているという設定だと、どこから患者が供給されているのか不思議だ。主人公は昔港で乗船したようなことが書いてあるけれど。
鯨井久志の巻末解説によれば、第3部は「二人称」で書かれているという。どんなものやら期待はしてます。
京極夏彦『了巷説百物語』が文庫になったので読んでみた。1100ページ余り。今までの経験からは数日で読み終わるはずだったけれど1週間かかった。トシのせいもあるか。
「巷説」シリーズは最初の1冊と「続」を読んだ覚えはあるけれど、それ以降は読んでない。評判が良いシリーズなので読む気が殺がれたのかも。
ということで、大まかな設定は覚えていたけれど、基本的には初読に近いものになって、おかげでいろいろ驚くことができた。特に中禅寺秋彦のご先祖様の登場にはひっくり返った。
今回の妖怪は、口絵が「葛之葉(上半身が女人の狐)」で、冒頭の書き出し第1行目からして、「下総国酒々井宿にとうか藤兵衛という男がいた」と視点人物を紹介し「狐を狩るのを渡世としていた」というんだから「狐」で、となればメインは「化かし合い」。
しかし、それはこのシリーズ全体のテーマでもあったはずで、視点人物「稲荷藤兵衛」は人の嘘を見抜く「洞観屋」を裏家業としていたという設定は、いわゆる「屋台崩し」を現出させる手法だ。そしてこれは中禅寺の手法とダブるところのある能力でもある。
そして最初の「巷説」のヒーローだった「又一」が噂だけの存在として物語全体を駆動していき、ついに天保の改革の水野忠邦も操り人形と判明する「ダイダラボッチ(呼び名はいろいろあるらしい)」が出てきてスーパースケールの「化かし合い」へと発展する。 ということで「了」に当たって作者は大風呂敷を拡げて、ちゃんと畳んでみせるのだけど、「又一」の存在が隔靴掻痒であるがごとく、このモノガタリ全体もどこか「隔靴搔痒」な感じが付きまとった。面白いことでは何の文句もないが。
そういえば解説の貫井徳郎が、この「了」が「続」の直接の完結編になっていると書いていて、へぇーっと思った次第。
『本の雑誌』6月号の大森望コラムを読んで、読むのを忘れていたことに気がついた樋口恭介『Executing Init and Fini』は、大森評から引用すれば、「全19編から成る連作で、LLMが書いた文章が8割を占めるという」短編集。当方が読んだ感想も大森評とほぼ同じ、初期円城塔を思わせるが何かが足りない、というもの。
巻末に「Production Notes」と称する作者(AIに小説を書かせたヒト)あとがきがあって、冒頭に「テキストは機械的なものであり、ゆえにすべてのテキストは機械的に出力可能である」との1行が置かれている。これを読んで当方の頭に思い浮かんだのは当然のごとく、無限にタイプライターを打ち続けるサルがシェイクスピアの作品をものにすることもあるだろうというヤツ(ググったらAIがそれは「無限のサル定理」ですと教えてくれた)ですね。
作者も云うようにもはやLLMといわれるAIは人間が書いた膨大なテキストを読み込んで、「無限のサル定理」で作るよりははるかに短時間で「小説作品」をモノにすることができる。しかし、その小説がどの程度のものなのかを判断する基準が人間読者である限り、これまた作者も云うようにウィリアム・バロウズのレベルの作品を作り出すことは難しい。ジャクソン・ポロックの動きを完全にシミュレートできるからといって、芸術作品ができるわけでもない。
この作者あとがきを読んでいると、楽器を弾けなくても音楽理論を知らなくてもAIソフトを使って誰もが曲作りできるようになったことをなぞっているように感じられてくる。確かに自分の好きな設定で「小説」らしきものが作れるようになって嬉しく思う人には朗報だろう。もっともボカロやユーチューブから出てきた現代のポップスターたちの成り立ちはやはりそれぞれに違いなく、これはそのような人のためのチャンスづくりの一環となるのかもしれない。
一方忘れていなかったけれどなかなか手が出なかったのが、天沢時生『キックス』。集英社3月刊。
暴走族にもスニーカーにも全く興味がないので仕方がないとはいえ、読みだしたら、それなりにドライヴ感で突っ走っていることが分かったので、わりと短時間で読み終えた。
メインテーマそのものは、やはり当方にとってはどうでもいいんだけど、面白かったのが滋賀で始まったという民間航空機の歴史エピソード。関係ないと言えば関係ないこのエピソードをメインテーマと強引に結びつけてしまったことで、SFではないのにSF的な物語空間を生じさせることに成功している。
読了後、版元のHPにある出版時のPR用に行われた小川哲との対談(司会大森望)を読んだのだけれど、歴史エピソードの元になったのが作者が祖母から聞いた話というので、なるほどと思った次第。あと、小川哲が促す埼玉話とあいまって、作者の滋賀に対するアンビヴァレンツな感覚が面白かった。
遺作集となってしまった津原泰水『烏と孔雀』は、帯にもあるように『奇譚集』『11』に続く第3短編集。「全作品単著未収録」とあるのが悲しい。
本来ならば、早川書房のSF刊行物や大森望編集の『NOVA』シリーズに寄せたような作品群で1冊作られていれば、最高だったのだけれど、それも叶わないことになった。
収録14篇中初読の作品も多いが、素晴らしかったのは、「エルビスさんの帽子」と「マスク警察」それに巻末「リサイクル(亀井省吾の場合)」の広島弁てんこ盛り3作品。初出を見るとどれも同人誌掲載作で、少女小説で鍛えた津原やすみの実力を彷彿とさせる。
解説(日下三蔵)によると「リサイクル(亀井省吾の場合)」は生前最後に発表された作品で、掲載先が少女小説形の同人誌「少女文学」とのこと。これも津原泰水/やすみならではと思われる。
それにしても「カタル、ハナル、キユ」は何回読んでもいい作品だなあ。
前回読んだのが『大きな森』で、大野万紀さんが作ってくれたINDEXを見ると、それはすでに6年前こと。その時に「ちっともドライヴがかからない」と書いていたのに、タイトルに惹かれて手を出してしまったのが、古川日出男『夏迷宮』。なにしろ前半が「夏迷宮」で後半が「冬迷宮」というタイトルなんだから、ちょっと期待してしまうよねえ。
でも読んでいる最中はやはり「ちっともドライヴがかからない」状態が続いて、なかなか読み進められないまま抱え込んでいたのだった。最後の2章ぐらいになってようやくイッキ読みになったくらい。
設定は大きく二つに分かれかつ重なっていて、ひとつは、福島県郡山市に平安京を再現したテーマパークの「郡山ピースランド」があって、これにからむ登場人物たち、なかでもテーマパークの将軍パレードに出演する「将軍マロン」こと坂上田村麻呂(福島生まれらしい)の着ぐるみとその中の人そしてその相手を務めることになるテーマパークのスタッフの女の子がメインキャラクターとなる。またこの二人はパークの大人気ライドショー「夏迷宮」のパフォーマーでもある。
もうひとつは淡水に棲む人魚とその肉を食った者たち、中でも八百比丘尼ならぬ千六百比丘尼こと「アマゼ」という名のハイティーンに見える不死の少女をメインとしたエピソード(いろんな時代のいろんな出来事も含まれる)群からなる。こちらは猪苗代湖やそこから日本海へ繋がる川やテーマパークの下にあるという巨大地下湖にとの縁が深い。
そしてこの二つの設定はテーマパークで重なって「夏迷宮」の裏バージョン「冬迷宮」へと流れ込んでいく。
しかしこの物語の大枠テーマは、現在進行中の戦争であり、東北大震災/福島原発事故への視点であり、それらをちりばめた渾沌とした現在の状況にあることはプロローグや所々で言及される歴史的エピソードから浮かび上がってくる。
こうして紹介していると、この作品がいかにも現代的な物語としての魅力に満ちているように思えるけれど、当方にとっては前作同様「ちっともドライヴがかからない」物語であって、その原因は不明だけど文章がまったく頭に入ってこないのだった。
ウーン、古川日出男の新作はもう読まないかも。
今回最後に読み終えたフィクションは、ナオミ・クリッツァ―『陽の光が消えた町で』。帯に「英米SF賞」8冠と大きく謳っているように、収録作6篇はSF各賞の受賞作だったり候補作だったりの作品を集めた日本オリジナル編集の短編集らしい。
収録作のタイトルだけ先に挙げておくと「小さな図書館の司書さまへ」、表題作、「怪物」、「報酬はネコの写真で」、「海を見渡す四姉妹」、「アルゴリズムでよりよい生活を」となる。
当方の読後感は非常に悪く、基本的には悪口しかないので、まともな書評を読みたいヒトは岡本俊弥さんのナオミ・クリッツアー『陽の光が消えた町で』をご覧ください。
「小さい図書館の司書さまへ」と表題作は基本的に同じテーマで、それは人のつながりの暖かさを描くというもの、「報酬はネコの写真で」と「アルゴリズム・・・」もテーマは共通していて人にやさしいAIの話。「怪物」と「海を見渡す・・・」はSFとファンタジーの違いはあるけれどホラーで、男優位社会への応報(男が悪役の懲罰もの)というのが当方の印象。
なんでこんなものが高く評価されるのかというと、それは小説がスムーズに作られていて読み心地がよく、少なくとも物語と日常との乖離がほとんどないこともあって、抵抗なく読めてしまうからだろう。
しかし昔のSFが評価軸になっているジジイの当方は、現在ならこんなの普通小説の範疇でかける話で、ことさらSFジャンルでどうこういうような話ではないのは、という感想を持ってしまうのである。SF/ファンタジーのアイデア面からするとホラーの2作はまったく使い古されたもので、作者もそれ自体には全く重きを置いていない。
最近の女性SF/ファンタジー作家として、岡本さんもサラ・ピンスカーを引き合いに出しているけれど、当方の目には全く資質が違う作家に見えて、サラ・ピンスカーは支持するけれど、ナオミ・クリッツァーは多分もう読まないだろう。