内 輪 第425回
大野万紀
「日経サイエンス 2026年3月号」に面白そうな特集記事があったので購入しました。「真空崩壊 物理が予言するこの世の終わり」という特集です。
真空崩壊という言葉を知ったのはもうずいぶん昔のことで、どこで読んだのかは忘れてしまいましたが、簡単にいえばこの宇宙の真空が真の真空ではなく偽の真空で、ごくごく小さな確率ではあるがそれが真の真空に落ち込む可能性があり、そうなるとまさにこの宇宙の終わりとなるというものです。
M・フォン・ヒッペルによる「宇宙を破壊する量子の泡」によると、ヒッグス粒子の発見とその後の研究によって真空崩壊の可能性が計算できるようになり、つい最近までその確率はほとんどゼロといっていいくらいのものだったのが、ちょうどいいサイズのマイクロブラックホールがあればそれが大幅に高まることが発見されたというのです。ただし、それでもこの宇宙ができて138億年、われわれがまだ生きているという事実こそ、その確率が不安になるほどのものではないことを証明していると、筆者は結んでいます。
とはいえ、真空崩壊の真の恐ろしさはそれが光速で伝播していく現象であるということでしょう。宇宙のどこかでヒッグス場が量子力学に従って真の真空に遷移したとき、それは素粒子レベルの小さな泡として始まるけれど、その膨張は光の速度で広がっていくのです。光の速度なので誰もそれに気づくことはできません。ある科学者はもし真空崩壊が起こったと知ったらどうするかと聞かれて、「そうだね……ビーチにでも行きますか」と答えたそうです。
マイクロブラックホールはSFで便利な小道具として使われることが多いのですが、こんな話を聞くとぞっとしますね。
SFで思い出すのはグレッグ・イーガン『シルトの梯子』です。ここでは真空崩壊に近い現象が起こるのですが、その伝播は光速より遅いので、人類はその広がる波の境界面に宇宙船を飛ばして研究するのです。『三体』の2次元宇宙にも似たような雰囲気がありました。
でもSFなら、超光速があってもかまわないので、真空崩壊が進行している宇宙を舞台にしてもまた違った物語が描けるのではないかと思います。誰か書いてみませんか? ぜひ読みたいです!
それでは、この一月ほどで読んだ本から(読んだ順です)。
なお、短篇集についても原則として全部の収録作について途中までのあら筋を記載しており、ネタバレには注意していますが、気になる方は作品を読み終わった後でご覧になるようお願いいたします。
冲方丁『マルドゥック・アノニマス 10』 ハヤカワ文庫JA2025年5月刊行。早く続きを読もうと思いながら長い間手に取れていなかった本だ。前巻の衝撃的な結末からどうなるのか。
愛する人を何ものかに殺された〈クインテット〉のバジルはバロットやイースターズ・オフィスの面々と協力して犯人を探そうとする。その真摯な姿にバロットは心の通じるものを感じるが、ウフコックはまだ裏があると言う。最初の手がかりは〈天使たち(エンジェルス)〉と〈戦魔女(ウォーウィッチ)〉たちだ。ハンターは捜査に協力しつつもこれを機会としてオフィスを政治的に叩こうとする。葬儀を大々的に行い、そこでバロットやオフィスの不手際を責めるのだ。ハンターはこの事件の背後にいるのは〈シザース〉だと睨んでいる。ハンターに力を貸す反市長派〈円卓〉のノーマもそうだと言う。
初めは悪辣な現市長派の集団としか思えなかった〈シザース〉は次第にその超常的でとんでもない不気味な姿を明らかにしてきており、〈オフィス〉とバジルやハンターたち〈クインテット〉が部分的にだが共闘するようになって以後、実はこのシリーズの最大最強の敵である可能性が高くなってきた。超能力者(エンハンサー)が山盛りのこのシリーズだが、それらの一つ上のレイヤーにいる神か悪魔のような存在だ。自分がシザースに支配されていることを知らない人々がこの街には大勢いる。これまでの登場人物の中にもシザースの影はしっかりと入りこんでいる。それこそウフコック自身にも――。
多くの勢力が絡まり、超能力ととんでもない暴力が吹き荒れるこの物語で、それにも増してしっかりと描かれるのは政治と法の支配という原則である。イースターなどこれまでのオフィスの主役たちがやや影をひそめ、バロットが(バジルもそうだ)学び信奉する大学教授で集団訴訟の弁護士であるクローバー教授が単なる正義の味方ではない複雑な策略を巡らす者として大きく前面に出てきているのだ。彼もまたハンターやウフコック同様、真実に一歩近づいている人物である。
この巻でも精神的・肉体的な様々な戦いが描かれるが、ハンターやバジルに託されていたラスティがシザースに影響され、とんでもないことをしでかす。多くの重要人物を人質にとり、要塞ともいえる施設にたてこもったのだ。それは部分的にはハンターたちの意に沿って〈オフィス〉の力を削ぐ行動であるが、一方でハンターたちの仲間を攻撃し、内部分裂させる無茶苦茶な行動でもある。ハンターはそれがシザースの意図であることを察し、〈オフィス〉や市警とも全面的に協力して彼らと、そしてシザースと徹底的に戦うことを決意する。そしていよいよ決戦が始まる……。
というところで本書は終わっている。早く続きを読みたいが、大人しく次巻を待とう。
上田早夕里『成層圏の墓標』 光文社2025年4月刊行。〈異形コレクション〉に掲載された作品を中心に、書き下ろしを含む10編を収録した短編集である。著者あとがき付き。
「化石屋の少女と夜の影」は『ダーク・ロマンス 異形コレクション49』で既読。大正時代を思わせるがおそらくは違う時間線の日本が舞台だ(メガネが何かのディスプレイになっているような描写がある)。
海辺の小さな町で海岸の断崖から〈鮫竜〉の全身骨格が見つかり大勢の人が押し寄せて評判になった。主人公の少女紗奈は化石を採取しては町に来る人に土産物として売る仕事をしている。そこに化石で一攫千金を狙う怪しげな男が帝都からやってきて彼女に化石の出る場所まで案内を頼む。横暴な態度のその男は化石掘りの地味な作業に嫌気がさして、見つけたら持ってくるように命じ、さっさと町に帰ってしまう。
せいせいしている紗菜の前に見たことのない不思議な年配の女性が姿を現し、彼女に話しかけて化石図鑑――異形生物の図譜を見せ、自宅にまで案内してくれる。化石のことをもっと知りたいと願う、紗菜のような子を探していたのだと言い、たくさんの本を見せてくれるのだ。次の日、あの男がまた現れて紗菜に化石を出せと迫り暴力をふるうが、そこにあの女性が現れ……。
そこから物語にはSF的な要素が加わっていき、科学的な知へのあこがれを抱く紗菜に、美しくも魅力的な、瑞々しい結末が訪れるのだ。読後感がとても爽やかだ。
「ヒトに潜むもの」はタイトル通りのSFサスペンス。仮想現実が普及した近未来。多くの人々両耳に装着するか体内に埋め込むかどちらかのインタフェース装置〈me〉を身につけている。つけていないのは極度の貧困層か不法滞在の無国籍者くらいだ。それは個人の身分証明にも使われる。ところが最近普通の生活をしている一般人なのに突然倒れて死亡する人が増えており、その中に〈me〉をつけていない者が多いという不可解な現象が多発した。家族から行方不明の届けが出ていない場合、身元がわからず「行旅死亡人」となってしまうのだ。
主人公は市の福祉課に勤めているが、その謎に頭を痛めていた。ところがある時、遺品にあった〈me〉が突然生きているように動き出しどこかへ行ってしまうのを目撃する。都市伝説のサイトで同様なケースを耳にし、それを調べようとするのだが、彼はそこである組織の存在を知ることになる……。
SF的なアイデアと倫理的な恐怖感が相まった作品である。
「封じられた明日」はホラーというか、洋館に巣くう魔物に立ち向かう退魔師を扱ったファンタジー。ただし結末はSF的で重いものがある。
戦前か戦中の日本を思わせる国の帝都で、子爵家に嫁いだ佳代という女性がその館の秘密を知る。そこには子爵の先祖が強い力をもつ魔物と契約して手に入れた未来を映し出す鏡があった。魔物はこの国に訪れるかも知れない未来の災厄を鏡に映す(小さな犯罪から国家規模の災厄まで様々だ)。祈りの力を持つ子爵家の人間が一心に祈ることで、鏡に映った災厄を起こさないようにすることができる。だが祈りのたびにその人は生命力をすり減らしていくのだ。
佳代にはその力があり、子爵は妻をいたわりながらも彼女の祈りと魔物の力を借りて起こるべき未来を変えていくしかなかった。だが子爵が妻の身を思い魔を退かせるよう退魔師の一朗に依頼した時、魔物は牙を剥く。
強い力を持つ一朗は館に乗り込み、佳代に魔弾の入った拳銃を渡してともに魔物と戦うのだった。二人の戦う姿には迫力があり、力に満ちていて美しい。そしてついに……。
だが魔物の力が失われた後、この国は運命のままに翻弄されることになるだろう。そこにはル・グィンの「オメラスから歩み去る人々」と同じような多数の幸福か一人の犠牲かという倫理的な葛藤がある。それでも一朗と佳代ははっきりと決意するのだ。
「成層圏の墓標」は『超常気象 異形コレクション54』で既読。これははっきりとSFである。
夜になると雨が降り続くようになった近未来。コンビニで夜勤している私の前に新たに入って来たお客さんは人間のような形をしているが目も口もなく、全身が光沢を帯びてゆらゆらしていた。店長に聞くと、今ネットで話題になっている雨坊(あめぼう)じゃないかと言う。異常な降雨が始まってから世界中で目撃されている謎の存在だ。
店長は雨坊を捕まえようとしたが、モップが触れたとたんに破裂し、大量の液体がまき散らされた。私は逃げ出したが、店長は救急車で運ばれていった。
私は翌日、ギャラリーで知人の絵を見てそれが雨坊に触れてから見る青い世界を描いたものだと感じる。彼女と話し、雨坊が降雨型微生物叢として科学ニュースになっていることを知る。それは高空で雲の核となる微生物を大量に含む雨水なのだ。私は彼女の兄が会ったという雨坊の出たアパートの部屋に二人で行くことになる……。
そしてホラーから始まった物語は完全なSFとして展開していく。成層圏にあるだろうもうひとつの世界、そこには確かにSF的なロマンがある。
「車夫と三匹の妖狐」は妖艶な雰囲気のある綺譚だが、読後感はほんのりと品があって気持ちがいい。文明開化の時代、人力車は最先端の交通手段だったというのは面白い。父が祖父から聞かされたという、その車夫だった高祖父の物語である。
煉瓦作りの西洋建築が並ぶがまだ人通りの少なかった銀座の煉瓦街まで、謎めいた二人の女性を運ぶことになった。一人乗りの人力車にするりと乗り込んだ二人だが、不思議に軽くて奇妙に思う。目的地には別の人力車で来たもう一人の女性がいた。二人より少し年上で琵琶に似た外国の楽器を携えていた。二人は彼女を姐さんと呼び、高祖父に帰りもまた乗せてくださいという。
金回りのいい彼女らはその後も週に二回は高祖父の人力車で銀座まで行き帰りする常連客となった。三人目を乗せてきた庄助という車夫もその娘を常連客としていた。彼は高祖父とあの娘たちは一体何なんだろうと想像をたくましくする。そんな日々が続いたある日、庄助が高祖父に、あの娘たちの正体を暴こうと持ちかける。そして……。
タイトルにある通り、三人の正体は妖狐であり、行き先の建物には文明開化でいなくなったと思われた妖怪たちの巣くう不思議な空間があったのだ。庄助は消え去り、残った高祖父に妖孤たちはこれからもあなたの車に乗せてくださいと頼む。断れなかった高祖父はその後も妖孤の専属車夫となった。秘密を抱えたまま家庭を持ち、時代は明治から大正と変わり、人力車は自動車となり、ある日突然高祖父は妖孤から運転手の仕事を解くと告げられる。家族と共に東京から逃げなさいと……。
結末はやはりSF的だ。それにしても妖怪たちのいる世界の豊穣さ、妖孤たちの色香。とても素敵でかっこいい。作者の妖怪ものは大好きだ。
「龍たちの裔、星を呑む」は中国の「科幻春晩(春節SF祭り)」に掲載された春節を言祝ぐ作品で、龍という伝説の妖怪を宇宙規模に拡大して見せ、壮大な宇宙SFとしたロマン溢れる作品である。SFだが妖怪ものであり、だから大好き。
龍とは太陽系が誕生した46億年ほど前に地球に住み着いた宇宙生命の子孫である。その体の大半は高次元の空間に折りたたまれており、次元を自由に行き来できる存在だ。この龍が原始地球のマグマの海に浸かり、温泉に浸かるように体の疲れをほぐしていくという描写が素敵だ。この初代の龍はたくさんの子どもを作って消えていく。子どもたちは各地に散っていった。
時が過ぎ、地球に様々な生物が生まれ、人類が誕生しても龍たちは特に興味を示さなかったが、人間の方に龍の存在を察知する者が現れた。龍の中にもそんな人間に幻覚を見せ、人間の姿で接するものもいたが、たいていは何らかの悲劇に終わった。
そこで若い龍たちは新たな喜びを求め、宇宙へと昇って行くことにしたのだ。それは天文台では激しい電磁波の放出として捉えられたが、人間には見えない祝宴だった。何とめでたい光景。だがまだ終わりではない。宇宙へ昇った龍たちの銀河中心へと向かうその後の話も語られている。小品ではあるが、何とも規模壮大で、喜びに満ちたお話だ。
「天窓」は書き下ろし。あるとき世界中で50カ所の都市が突然巨大なドーム状の網に覆われた。網は都市をすっぽりと覆った後、15分ほどで消滅した。都市には何ごともなく、ただ道路や建築物の表面に青緑色の金属光沢をもつ物質が多数貼り付いて残されていた。日本では1カ所、B市がこの現象に会い、調査隊が派遣される。
主人公の私はその調査隊の一員だ。B市の人々はまた現象前の生活を取り戻している。だが少数だが行方不明となった人たちがいた。彼らに何が起きたのか。私に知り合いの元宇宙飛行士、倉本千絵美(ちえみ)が接触してくる。彼女の友人(女性)がB市で行方不明になっているというのだ。私は現象の発生地で重力異常が起こっていること、宇宙からの強い電波が観測されていることを告げる。詳しいことはまた報告書が出た後で連絡することになった。
その後、あの青緑の物質は宇宙苔(ごけ)と呼ばれ宇宙産業分野で利用可能な便利な物質であるとわかった。さらに電波については発生地の上空に「時空の窓」とでもいうべき存在があることがわかり、それは二点をつなぐ管のようなもので、一方が地球に、もう一方が宇宙のどこかへ繋がっているらしい。
私が倉本にそれを話してから数年後、今度は彼女の方から話があるという。宇宙飛行士として復帰し、時空の「天窓」の向こうへ行ってくるというのだ。天窓に無人探査機が到達し、また帰ってきた。そして天窓からは電波に載って人間の声が聞こえるのだと。そこに彼女の友人の声もはっきりと聞こえたのだ。それは危険だという私に、彼女は強い意思をもって行くことを伝える。そして……。
彼女の想いは通じたのだろうか。物語は結論を示さないが、希望をもって終わる。彼女と友人の関係性の強さが心に残る。
「地球をめぐる祖母の回想、あるいは遺言」はアンソロジー『地球へのSF』に掲載された作品。これは著者のデビュー長編と同じく火星SFである。本書では空の描写がある作品が多いが、この作品の空は火星の地下都市の天井に映された映像の空だ。
あたしは祖母の住むマンションを訪れる。祖母は火星移民の第一世代である。祖母は地球では人間から精神の自由を奪う政策が行われているといって地球を嫌っている。そしてあたしになぜ火星に来たのかという話をしてくれる……。
祖母は地球で底辺の生活をしていた。学校へもほとんど行かず危険なバイトをして暮らしていた。政府はそんな底辺生活者に生活管理デバイスを埋め込んで管理しようとする。祖母は逃げようとしたが捕まり、地球で管理されて生きるのが嫌なら火星に行き惑星開拓の現場で働けといわれる。火星でも管理デバイスは必要だが、それは危険な環境から身を守るためで、思考制御は行われないとのことだった。祖母は火星に労働者として行かざるを得なかった。
第一世代は過酷な労働で多くが命を失ったが祖母は生き残った。そうして築いた今の火星だが、安定すれば火星でも思考制御が始まるだろうと祖母はあたしにいう。そこへ管理デバイスの違法改造をした容疑で警察がやって来た。有罪判決を受けた祖母はやがて死亡する。だがあたしは自分の管理デバイスが祖母の手で改造されているのではないかと思う。なぜならあたしは見上げた空に本物の空の幻を見たような気がするからだ。
直球といっていいストーリーである。最近やっていたSFドラマでも火星の人々はタグを装着されて自由を奪われていた(原作小説はまだ読んでいないのだが)。ただこの作品ではそういうディストピア性を強調するよりも、管理社会と自由との関係について社会的な善悪よりも個人的な感覚を重視し、それをあたしが見上げた空で象徴しているのだ。
「ゾンビはなぜ笑う」。これは『異形コレクション』に掲載された独創的なゾンビもの。ある日突然世界中にゾンビが出現したのだが、ゾンビという言葉の既存のイメージによる誤解を防ぐため、政府はこれを「違種」と名付けて対応にあたっている。生態的にはよくあるゾンビのイメージと変わらず、噛み付かれた人間は半日以内に死亡し、違種となって再び動き出す。違種は集団化して人間を襲い、喰らっては仲間を増やしていく。
ただ違種には通常の兵器が非常に効果的で、倒してその動きを止めることが可能だ。その残骸を焼却することで完全に駆除することができる……はずだったのだが。増加はしていないもののその数は横ばいで、どうやら違種は人に噛み付かなくても増えることができるようなのだ。
物語は宅配業の主人公とその同僚が宅配先で違種に襲われるが、民間人でも持つことが許された銃を使ってそれを倒し、後は専門の対策隊に連絡して対処してもらう。だが同僚は気になることがあると主人公に話す。以前に違種が大発生して廃墟となった駅ビルにストリートピアノがあるのだが、それを弾いている若い女の違種がいるという。
彼によるとそれは高校の同級生で、あやはというハンドル名で趣味の演奏を配信していた。その違種が本当にあやはなのか確認し、彼女を焼却場に運んでやりたいのだといい、主人公にその手助けを頼むのだ。二人はサブマシンガンの使えるもう一人を仲間にして現場へと向かうのだが……。
一度死んで違種になった人間に元の意識が残っているということがあるのだろうか。ゾンビの笑い顔は人に会えた嬉しさなのか、それとも獲物をむさぼる喜びなのか。
「南洋の河太郎」は書き下ろしの中編。あとがきでこの作品の書かれたいきさつが述べられているが、それだけ力のこもった傑作である。日本が南洋統治した戦前、パラオに実在した「パラオ熱帯生物研究所」が舞台となっている。
1940年にこの研究所へ赴任した海洋生物学者の鈴木秀和には、幼いころ地元の川で溺れかけ、それを河童に助けられた記憶がある。祖父は人間のようで人間でないそれを「河太郎」と呼んでいた。
パラオは秀和にとって楽園のような良いところだった。研究所では泉というウミウシの研究者と仲良くなった。舟を操ったり海に潜ったりして海洋生物の採取をしてくれる沖縄出身の作業員シゲさん、そして日本語も得意な現地の少年、ウーゴ。彼らと接する中で、楽園と思えたパラオにも差別や階層、支配・被支配の暗い影のあることが見えてくる。そんな中でパラオの人々と人間的に接しようとする秀和は上司にそれとなく注意されたりもする。
あるとき、秀和は泉と海洋生物の探査に行った島の海底洞窟でまるで人間のような異形の生物の存在を知る。ウーゴはそれを「緑の姉弟」と呼び、大昔に海に住むようになった人々の子孫だという伝説を話す。学術的に研究したいという秀和らに、ウーゴはそれなら友だちにならないといけないといい、そのための条件を課す。そしてようやくシゲさんの舟に乗り、ウーゴは秀和と泉、それに写真を撮るのに協力してくれるもう一人の研究者に「海の姉弟」たちを紹介してくれる。その中の一人は舟に上がってきて間近に接することができた。パラオの海に住む河童の河太郎だ。
しかし平和は続かない。やがて太平洋戦争が始まり、海軍がこの話に興味をもつ。「緑の姉弟」が実在するなら、それを軍事利用しようというのだ。秀和は何とかそれを防ごうとするのだが……。
お話はストレート。だが海の匂い、波のしぶき、南洋の人々、様々な生物たち、楽しげな音楽の響き、余韻の残る結末。いい話を読んだという感想である。
藤原慶・柞刈湯葉・他『鏡の国の生き物をつくる SFで踏み出す鏡像生命学の世界』 日刊工業新聞社2025年9月刊行。生命を作るアミノ酸の左旋性・右旋性を研究する〈鏡像生命学〉の研究者と話し合いながらその社会的影響や未来の姿についてSF短編を作るという、SFプロトタイピング活動の一環として出来上がった短編集である。SF短編5編と、鏡像生命学の専門家による解説、韓国のSF作家チョン・ソヨンへのインタビュー、作者によるディスカッションなどが含まれている。
大澤博隆さんのあとがきによると、もともと慶応大学でのSF研究プロジェクトの一環として同じ慶応大学の合成生物学者である藤原慶さんらと話をしている中で、鏡像生命の研究がもうすぐ細胞を合成するところまで来ていることを知り、さらにちょうどScience誌に鏡像生命研究の危険性に関する科学者たちの声明が発表されたこともあって、その未来についてSFとして書いたらどうなるのか、理系の素養のある作家5人にSFプロトタイピングの手法で作品を執筆してもらったということのようだ。
鏡像生命学がテーマなのだから、まずそれはどういうものなのか知らないといけない。それは冒頭の藤原慶さんのコラムなどでわかりやすく書かれている。DNAやアミノ酸はその立体的な分子構造が左巻きのものと右巻きのものがあるが、地球上の生命のDNAはすべて右巻きである。右巻きも左巻きも基本的には同じものであり、宇宙には両方とも存在しているのになぜ地球の生命は右巻きばかりなのかわかっていない。だが現在の技術では左巻きのDNAを合成することができ、そこから左巻きの細胞を作るのも時間の問題といえるのだ。
アミノ酸の右巻き、左巻きの話はずっと昔からSFでも扱われているテーマの1つだったが、多くは右巻きの人間が左巻きの世界に行っても左巻きの食物は食べられない(体内で消化吸収できない)というものだった。藤原さんによれば、さらに生物からくる匂いも(その分子が左巻きか右巻きかによって)異なってくるとのことだ。その他の生命活動はおそらく(知性も含めて)大きな変わりはないだろう。さてこのテーマを現代の作家はどう料理するのか。
柞刈湯葉「螺旋を左に、ハンドルを右に」は左巻き生物が人工的に作られるようになった近未来を描く。主人公の勤めるベンチャー企業では実験農場を作り、そこで左巻きのDNAから様々な植物を育てている。有望なのは建材となる樹木で、細胞を分解する微生物がいないため成長が早いのだ。
その農場で異臭騒ぎが起き、その調査に(右ハンドル車で)向かった主人公たちは、農場の外に左巻きのミントが繁殖し、それが異臭の原因であることを知る。管理されている農場からなぜ外部に漏れ出したのか。どうやら社長が意図的にやったのではないかという疑惑がある。
作者らしいユーモアや、地球温暖化のCO2対策にからめたオチは面白い。ただし、本来ならここから先の話がメインじゃないかと思う。SFプロトタイピングの問題提起という意味ではこれでいいかも知れないが、長編のプロローグだけ読まされた気がしてモヤモヤ感が残る。
八島游舷「Dワールド」はストレートな宇宙SF。ただ、左巻き・右巻きではなくD体、L体という言葉が使われている。藤原さんの解説では、ラテン語からD体は右、L体は左を意味し、DNAはD体、アミノ酸はL体で、生物を構成するのはほぼタンパク質であるから地球の生物はL体で鏡像生命がD体と呼ばれるとある。ちょっとややこしい。DNAとアミノ酸のどちらを取るかということだが、柞刈作品はDNAを、八島作品はアミノ酸を主体に左右を考えていることになる。
とにかく、この作品では宇宙コロニーに鏡像生命を育てるDワールドが作られ、そこから生まれたD生命を原料にして独特な味わいの食品や香料が高値で売買されている。だがDワールドの奥に環境スーツもなしで遊んでいる子どもたちが見つかる。D体の子どもたち! そこには自らを遺伝子操作でD体に変えた研究者たちとその子どもたちが村を作って暮らしていたのだ。彼らをどうすべきか。そのまま隔離しておくべきという者もいたが、やがて彼らの有用性が明らかとなる。ハッピーエンドは嬉しいが、やはり物足りなさは残る。
麦原遼「均衡線」でも〈ダ〉と〈ラ〉の二種類の人間が共存して暮らしている。ここは遠い宇宙の植民星らしく、二種類の人類は卵細胞からそこに播種されたのだ。二種類の人々に地球のような非対称性はなく本来平等なはずだが、環境的に自然に分かれて暮らすようになり、自然災害などの発生によりまた排他的な差別意識や嫌悪感が現れてきているのだった。
〈ラ〉であるマニエと〈ダ〉であるレイは互いに〈逆基〉ながら愛し合っていたが、子どもがほしいというとき、マニエが〈ラ〉と〈ダ〉の子どもを一人ずつ申請しようと言うと、レイに反対された。一人だけ〈ダ〉で申請するのがいいのではとレイはいう。悩むマニエだが、そんなとき別の星に植民した人類の宇宙船がこの星にやってくる。ファーストコンタクト。だが彼らは片方のアミノ酸のみをもつ人々だった。そして――。
左旋性・右旋性をもたないグリシンや塩を共通の飲食物とし、互いの異なる臭覚に共に良い香りを感じさせる花束を小道具にするなど、細かいところがよく出来ている。
茜灯里「乙姫なんかじゃない」はほぼ現代の日本が舞台で、モデル志望で痩せようとしているのに突然太りだした女子高校生のエリカが主人公。エリカのバイト先は大学理工学部の喫茶店で、鏡像生命について議論している准教授と特命教授の話を彼女が耳にするところから始まる。
二人はエリカの知り合いで、探査機リュウグウが小惑星から持ち帰ったアミノ酸に左旋性・右旋性の偏りがなかったことから、L型アミノ酸が宇宙から来たというパンスペルミア説は怪しくなったと話していたのだ。エリカは宇宙に竜宮城があったんですか、と聞く。
先生はちゃんと説明するが、それよりエリカは先生の一人にくってかかる。以前エリカが体重のことを相談したら遺伝子検査をしてみるよう勧められたのだ。ところが高い金を払ったのにその会社は検査不能、再検査をお勧めとしか返さないという。その話を聞いていたもう一人の先生が、あれってエリカちゃんなの? それならあなたは地球生命の謎を解くキーパーソンよ!と驚く。
二人はエリカの検査をして、エリカが思春期から急に太りだした原因が彼女の特異な遺伝子と、ダイエットのために食べていた食物に関係があると診断する。だがサンプル扱いされたエリカは怒ってもう協力しないと言い、そして――。
これは面白かった。現実に近い身近なところで物語が進むが、その背後には壮大な生命の歴史と科学のロマンがある。そしてその負の側面もまた。
瀬名秀明「ウィクラマシンゲによろしく」はSF小説というよりフェイク・ノンフィクションと言った方がいいかも知れない。これも大変面白かった。
NASAの探査機〈オシリス・レックス〉の帰還、新作映画「ザ・フライ3」の公開(それは鏡像生命を扱っていた)、そこからアミノ酸や糖、グルコースなどの鏡像異性体の偏りについて語られ、サリドマイドの催奇性とそれがなぜわからなかったかという話に変わる。両方の異性体が共存するラセミ体の話と腸内細菌の話、水素産生菌の話と続き、ついにわれわれの体内には昔から鏡像生命が存在し、それがわれわれの健康を促進していたのだという驚きの結論に至る。
コロナ禍の時代には宇宙から採取した鏡像物質の一部が漏洩したという事件が起こり、たまたまそこで隕石が地球に落下し、その隕石から上がった粉塵は日本に赤い雨を降らせた。日本は大量の鏡像生命に曝露して世界から封鎖され、日本人の生命は3Dプリンタで作られた合成食料に依存することとなる。
そして結論。鏡像生命と共存してもしなくても、結局のところ日常生活にはたいして変わりはないのだった。リアルで科学的な語り口と大胆なフェイク、ところどころのブラックユーモアと相まって、何かすごいものを読んだ気がする。
なおタイトルのウィクラマシンゲはぼくの世代だとフレッド・ホイルと共に宇宙から生命はやってきたというパンスペルミア説の主張者として記憶に残っているが、むしろ2020年にコロナウィルス(COVID-19)は宇宙から来たというエビデンスのない論文を発表してデタラメ科学だと批判されたことを意識しているのかも知れない。隕石と赤い雨の話もウィクラマシンゲに関係があるようだ。