内 輪   第404回

大野万紀


 編集後記にも書きましたが、4月から本のデジタル化(自炊)を始めています。本を裁断していると斜線堂さんの「本の背骨が最後に残る」という言葉が現実として実感できます。何冊か裁断するとゴミ箱の中は本の背骨でいっぱいですよ。

 それでは、この一月ほどで読んだ本から(読んだ順です)。
 なお、短篇集についても原則として全部の収録作について途中までのあら筋を記載しており、ネタバレには注意していますが、気になる方は作品を読み終わった後でご覧になるようお願いいたします


斜線堂有紀『本の背骨が最後に残る』 光文社

 昨年9月に出た短篇集。『異形コレクション』シリーズ(50~55)に掲載された6篇と書き下ろし1篇の7篇が収録されており、まさに「異形」な作品集となっている。奇想に満ちた異形な世界での、登場人物に襲いかかる執拗で残酷な苦痛と恐怖。それをさらりと書いてのける。こういうものを書かせては、著者は当代有数の書き手だといえるだろう。また『異形コレクション』の各テーマにも忠実な物語となっている。

 表題作「本の背骨が最後に残る」は『異形コレクション50 蠱惑の本』が初出。既読。「肺の無い本」と呼ばれる紙の本が禁止され、本は生きた「背骨のある」人間(なぜか女性のみ)が記憶して語るものとなったある国の物語。本が人になっただけならいいのだが、おぞましいのは「版重(はんがさ)ね」といって同じ物語を記憶した二人の本のどちらが正しいかを判定する競技がしばしば行われることだ。炎の上に吊された鉄の籠に入れられた「本」が、自分の記憶している内容が正しく相手が間違っていると主張し合い、「校正使」が誤りと判定した本は炎の中に落とされ、生きたまま焼き殺される。それを大勢の観客が娯楽として喜んで見守るのだ。何と悪趣味な。ヒロインは自分の中に十の物語を宿しているという十(とう)。今回の彼女の相手は赤毛の少女で二人はそれぞれ記憶している「白往き姫」(ほとんど「白雪姫」)の物語の正誤をかけて舌戦を繰り広げることになる。原本といえる紙の本は存在しないので、二つの本は物語を様々な論点から論じ合ってどちらが論理的で校正使を納得させられるかを競うのだ。なのでそれは細かな事実(かどうかはわからないが)を巡って相手のミスを指摘し推理を戦いあわせるミステリ的な謎解きの物語となる。これはこれで大変面白い。そんなの言ったもの勝ちじゃないかと思えるところもあるが、それでつじつまがあえばそれでいいのだ。しかし結末は……。どう考えても設定が過剰であり、無茶だと思うのだが、こういう残酷な儀式を日常的にやっていた文明も実際にあるという話だからねえ。それはともかくとして、確かにヒロインは蠱惑の本に違いない。

 「死して屍(しかばね)知る者無し」は『異形コレクション51 秘密』に掲載。この作品の世界も異様で、ここの人間は誰しも時がくれば転化(てんげ)を迎えて動物になってしまう。歳をとって動けなくなったり、意識を維持できなくなったり、重い病気にかかったり、つまり普通に言えば死ぬことによって、人は動物に変身し生まれ変わる。人間としての意識は失われ動物になってしまうのだ。この小さな世界ではそれが当たり前のことなのである。転化した動物はまた死んで転化しても同じ種類の動物になって、人間に戻ることはない。主人公の12歳の少女は自分は転化したら兎になりたいと思っている。特別なことがなければ大体自分の希望している動物に転化できるようだ。彼女のおじいさんは山羊に、おばあさんは牛に転化した。彼女には同い年の好きな男の子がいる。彼は転化したら驢馬(ろば)になりたいと言う。そうすればみんなの農作業の役に立てるから。でも兎と驢馬だといっしょに暮らせない。彼女は少年にいっしょに兎になろうよと勧める。彼はわかったそうしようと答えるが……その三日後、川の事故で転化した彼はやはり驢馬になっていたのだ。そのことを何とか呑み込んだ彼女だが、ある時まさか、ありえないはずのものを見て恐怖のあまり……。それは転化の「秘密」の暴露であり、異形が異形でなくなる逆転の時である。その慣れ親しんだ世界が変わってしまうことの恐怖。

 「ドッペルイェーガー」は『異形コレクション52 狩りの季節』に掲載。これはSFだ。そしてまたとてもエグい話。一言で言えばプライベートなVR空間に自分の少女時代のコピー(ちゃんと自意識がある……ように見える)を作成し、狩人となって彼女を追い詰め拷問してむごたらしく殺すことに喜びを見いだしているサディストの女性が、恋人にそれを知られてしまい、でもこれは現実じゃなくて仮想のもので相手は他人じゃなく自分自身だから誰も傷つけているわけじゃないのと抗弁する話。物語はそこにもう一ひねり加わって少女となった自分の視点からの結末が描かれている。残酷描写はともかく、これは空木春宵の「地獄を縫い取る」、山本弘の「悪夢はまだ終わらない」、長谷敏司の「allo, toi, toi」とも通じる仮想と現実、AIの人格、リアルな犯罪と被害者のいない脳内犯罪、社会の倫理と個人の内心の自由の関わりを描いた小説として読める。内心の自由は当然認めるべきものだが、それが外部に表出しないとは断言できない以上、彼女の恋人が示したような態度も常識の範囲だろう。とはいえ、VRゲームな仮想世界も小説の中のフィクションの世界も同じようなものだと拡大解釈が可能であれば、非日常な世界を好んで描く作家――例えばSF作家やホラー作家、ミステリ作家なども彼女と同類だといえるのでは。

 「痛妃婚姻譚(つうひこんいんたん)」は『異形コレクション53 ギフト』に掲載。今度は他人の肉体的な苦痛を引き受けることのできる能力が描かれる。特殊な装置を身につけることで、苦痛に苦しむ人から苦痛を受け取るのだ。人の痛みを引き受けることができるのはなぜか女性だけであり、彼女らは「痛妃(つうひ)」と呼ばれる。一人だけではなく何十人もの苦痛をギフトとしてわが身に受け取る彼女らは痛みの伴侶たる特別な人間として絢爛豪華に着飾り、舞踏会の花となるのだ。その豪華なドレスの下で、相手(臣下と呼ばれる)の恐ろしい痛みを感じつつ、平然とにこやかに微笑む美女たち。物語はそんな痛妃の中でも際だった存在である石榴(ざくろ)と、彼女を美しく飾り付ける絢爛師(けんらんし)の青年・孔雀が舞踏会に臨むところから始まる。石榴が痛妃になる前、石榴と孔雀は幼なじみだった。この物語は哀しみをたたえた二人のラブストーリーでもある。石榴は美しさと激しい痛みを押さえ込む余裕とで舞踏会一番の人気を誇っているが、そこに玉髄(ぎょくずい)という二番手の痛妃が挑戦してくる。舞踏会で主役の印である椿の花を百回手にすることができれば「百夜通し」の称号を得ることができ、痛妃を引退することができ、石榴はあと1回で「百夜通し」となるのだ。そして百回目の舞踏会が始まるが、そこには玉髄の恐ろしい陰謀があった。石榴の臣下を捕らえて激しい拷問を加えていたのだ。その想像を絶する痛みが本人ではなく石榴に襲いかかる……。いかにもグロテスクなおとぎ話ではあるが、純粋なラブストーリーの要素が救いとなっている。

 「『金魚姫の物語』」は『異形コレクション54 超常気象』で既読。これまた作者らしい残酷さと痛みと、それに魅了される心の物語である。これは本書の中でもとりわけ印象に残った作品だ。あるとき、ごく普通の人々の間で、突然その人にだけ雨が降り続けるという奇怪な現象が発生する。まさしく超常気象だ。その人が何かしたというわけではなく、事故に遭ったかのように唐突に雨に包まれるのである。晴れていても屋根の下でも建物の中でも同じ。どこへ逃げてもその人間だけに雨が降り続け、服の中にも止むことの無い雨が降ってくる。その人は水浸しとなり、やがて皮膚はふやけ、生きたまま水死体となっていくのだ。その現象は「降涙(こうるい)」と呼ばれた。何と強烈でグロテスクなイメージだろう。物語は降涙に見舞われた一人の美少女と、彼女の写真を撮り続ける年下少年の哀しいラブストーリーである。初めは余裕を見せていた彼女も状況が悲惨になるにつれ、絶望と苦痛に押しつぶされそうになっていく。ある意味、難病もののパターンに似ているが、ここでは二人の死に対する意識が強く心を動かす。それが最も露わになるのが、少年が文化祭で彼女の写真展を開く場面である。同情やお涙ちょうだいへの強烈で悪趣味ななアンチテーゼ。タイトルの意味もそこで明らかとなる。

 「デウス・エクス・セラピー」は『異形コレクション55 ヴァケーション』に掲載。19世紀か20世紀初頭のような世界。精神病を疑われた者は病院と名付けられた収容所に送り込まれ非人間的な「治療」を加えられていた時代が舞台である。躁病と診断され精神病院に入院していたフリーデは、そこから離島にあるヒース医師の療養所へ短期転地療養(ヴァケーション)をして「精神安置」というヒース医師の考案した特別な治療を受けることになっていた。だが島に渡る船の中で、彼女は未来が見えるというおかしな青年(彼もロス医師という医者らしい)から、「精神安置」というのはデタラメで、彼女の眼を抉り耳を潰し、拷問して自分の意思のない空っぽの人間にすることだと聞かされる。彼は「ぼくは君を助けに来たんだ」と言うのだが、彼女はこのおかしな男の言うことを信じない。島に着き、優しげで温厚そうなヒース医師の話を聞き、人間扱いされなかった精神病院とはあまりに違う待遇に安心した彼女は、再び彼女の前に現れてここから逃げようと言うロスを拒む。だがロスの言ったことは正しかったのだ……。結末はSFになる。だが誰かを救おうとすることが本当に良いことだったのかというロスの悩みは最後まで余韻を残すのだ。

 「本は背骨が最初に形成(でき)る」は書き下ろし。表題作の主人公である十(とう)の物語であり、表題作の前日譚といえる作品である。視点人物は十を囲っている本屋の年若い娘、綴(とじ)。彼女の父親はこの本屋の主人だ。偏執者(へんしゅうしゃ)と陰口をたたかれる職業である。だから彼女は本というものがどういうものかをたたき込まれて育った。一冊の本にあまり思い入れてはいけないと。だが十は綴にとってあまりにも特別な本だったのだ。本は一つの物語だけを記憶するものだというこの国の掟を破り、その結果目を焼き潰された十は、そんなことはたやすいものだと哄笑する。綴は彼女を尊敬し、憧れるようになるのだった。そして目の傷が癒えぬ間に十の初めての版重ねの時が来る。「姫人魚」という本の正誤を決める戦い。人魚姫は王子を殺さず泡となったのか、それとも殺して泡とならずに消えたのかという争点で、十と相手は舌戦を繰り広げる。ここでも詭弁ともいうべき十のロジックが冴え渡り、校正使を納得させるのだ。そして綴は当然そうあるべきある決断をする……。本に関する本というメタな存在は、しかしこの小説そのものがそうではないだろうか。


相川英輔『黄金蝶を追って』 竹書房文庫

 23年8月に出た本。やっと読めた。作者のSF・ファンタジー分野の作品はアメリカで先に人気を呼び、いわば逆輸入という形の短篇集である。6編が収録されている。

 「星は休まない」の主人公はコンビニチェーンの本部に勤めていたが、上司の不正を指摘したために小さな店の店長に降格される。そこで物静かにつましく働いていたが、あるときその店をデジタルトランスフォーメーション(DX)のモデル店舗にするという会社決定があり、自分ともう一人の店員のみを除いて他の従業員もアルバイトもみんな解雇させられる。代わってやってきたのは高度なAI「オナジ」が制御する自動店舗システムだった……。コンビニの日常がリアルに描かれ、かつての上司への怒りは消えていないものの今の生活に満足している主人公の、AIシステムによる極端な変化へのとまどいと、それでもそれに適応して何とかやっていこうとする前向きな態度が心を打つ。そしてAI「オナジ」ときたら……これがいいヤツなのだ。ほとんど自意識をもち、店で暴力を振るう酔っ払いの撃退から過去の不正の調査まで、何でもできて主人公とも話の合うとてもすごいヤツなのである(リアリティレベルは合わないけど、そんなことはどうでもいい)。二人で(一人はタブレット端末だけど)夜空の星を見上げる姿にはとても心に染みるものがある。高度なAIが本当にこんなヤツばかりだったらいいのにな。

 「ハミングバード」は英訳されSF雑誌に掲載されて高い評価を受けた作品。とはいえ、現代日本のごく日常的な風景を舞台にしたSF(すこし・ふしぎ)小説である。主人公は町の小さな不動産屋に勤める三十代半ばの独身女性、裕子さん。彼女が購入した中古マンションの部屋に一月ほど前から幽霊が出るようになった。彼はその部屋の以前の住人、大江さんだ。ここを購入したとき彼女は大江さんに会ったことがある。独り身の実直な男性で、母親の介護のために早期退職し、ここを手放して田舎に帰ったのだ。幽霊の大江さんは半透明で、ここに住んでいたときのように朝6時に起き、洗顔、朝食、新聞を読み、スーツ姿で出勤していく。こちらが見えてはいないようで、体がぶつかってもすり抜けてしまう。このマンションがとても気に入っていた彼女だが、これにはさすがに参ってしまった……。不動産屋の病み上がりの社長、若くてやたらと威勢が良く、実行力はあるがお気楽で調子のいい後輩の樋川くん――彼は裕子さんに気があるようなそぶりも見せるのだが……。そんな人々のごく普通の日常生活の中に、異物ではあるが幽霊もごく自然に溶け込んでいる。SF的に解釈することはいくらでもできるだろう。でもその謎は重要ではない。すこし、いやかなり不思議なできごとだが、世界を揺り動かすようなことではないのだ。ユーモラスでとても楽しめた。

 「日曜日の翌日はいつも」でも主人公の大学生の身にある日突然異常な出来事が起こる。日曜日の翌日がいつもの月曜日ではなく、彼だけが存在し、他の人がいない狭間の1日になったのだ。ちゃんと時間は流れ、電気やガスなどの公共インフラは使えないものの電池式の携帯ゲーム機なら使える。外に出ても誰もいない。そして翌朝目覚めると、ごく普通の月曜日であり日常が戻っている。そんな「日曜日の翌日」が毎週続くようになってしまったのだ。SFとしては珍しくないアイデアであり、過去にも良く似た名作がいくつも書かれている。ところが作者の他の作品と同様、ここでも話はそういう現象の謎や世界がどうなっているかという方向へは向かわない。描かれるのは主人公と友人たちの日常生活だ。主人公にとって自分ではどうしようもない異常事態よりそちらのほうがずっと重要なのだ。主人公は水泳でオリンピックを目指すスポーツ選手。彼はこの「狭間の1日」を誰もいないプールで泳ぐことによってライバルたちよりも多い練習量を確保し、成績を上げていく。彼を気にかけてくれるマネージャーの彼女、そして気楽に話せる友人にも、この現象のことは話せない。彼と彼女の間にはトラウマとなっている過去があるのだが。そして……。結末はもしかしたら残酷で恐ろしい新たな始まりなのかもしれないが、でも短期的に見ればそれは心躍るハッピーエンドだろう。第13回坊ちゃん文学賞佳作受賞作。面白かった。

 「黄金蝶を追って」には実際に魔法が登場する。それは主人公の僕が小学生のとき、1960年代、友人の父親が当時のビルマで1ダースぶん手に入れたという魔法の鉛筆である。それで描いた絵は生命を得て動き出し、ノートから抜け出してどこかへ行ってしまうのだ。学校で一番絵がうまいと思っていた僕は、自分よりもずっと生き生きとした絵が描ける少年がいることを知り、彼と友だちになってその秘密を教えてもらう。魔法の鉛筆で描いた動く絵を見て、その最高の一瞬を目に焼き付け模写するということ。僕が感嘆した彼の黄金蝶の絵もそうして描かれたのだ。僕は魔法の鉛筆を半分もらい、それを使うことでますます絵がうまくなった。将来は絵に関わる仕事につこうと心に決める。友人は成績が良くて進学校に進み、僕と別れ別れになったが、魔法の鉛筆でスケッチブックに名前とメッセージを書くとそれが相手に伝わることがわかり、文通のようなことを続けていた。しかし時が進んで世の中は騒然とし、しだいに交流も減り、高校を卒業してデザイン会社に就職した僕は、彼が大学で過激派に加わわったことを知る。大学紛争は下火になっていたが、生き残りの活動はさらに先鋭化していた。そして僕らが22歳になった時、事件が起こる……。「六十年代まではまだ魔法が残っていた」という作品冒頭の言葉は、主人公と同世代であるぼく自身、色々な意味でうなずくところがある。その魔法が色あせ、やがて最後の光を残して消えていく。この物語もそのように終わる。これは絵画、マンガ、アニメ、イラストといった芸術とその真髄、そしてスランプとその克服の物語であり、そこに実際の魔法が関わっていても何も不思議はないように思える。

 「シュン=カン」は他の作品とずいぶんタッチが異なる。歌舞伎で描かれた平家物語「俊寛」のあからさまなパロディであり、ストレートな宇宙SFでもある。宇宙の彼方の流刑星ニョゴ61、世界統治機構総長のベンジャミン・タイラーへの反乱を図った罪でここに流刑となったシュン=カンは、共に流された部下のタンバ・ナリツネらと辛い労働に従事していた。そこへタイラーの娘の婚礼を祝って恩赦の知らせが届く。だが恩赦されるのはナリツネだけであり、シュン=カンの名前はなかった……。キャラクターといいストーリーといいほとんど歌舞伎そのまんまであり、いったいどうなっているのと思うが、実はこの作品、本書冒頭の「星は沈まない」のセルフパロディとなっているのだった。「星は沈まない」の主人公の名前が俊寛(としひろ)であり、彼の部下が丹波君、悪役の上司が平良なのだから。作者もシュン=カンは俊寛の遠い末裔であると書いている。ということは、読んだ時には全く気がつかなかったが「星は沈まない」自体、「俊寛」がモチーフだったということなのだろう。「星は沈まない」に出てくる人工知能・オナジも、進歩したその末裔が同じ名前でこちらにも登場し、重要な役割を果たしている。コンビニの屋上で夜空の星を見上げた俊寛とオナジの遠い末裔が、その星の世界でこんなふうになるとはなかなか感慨深いものがありますね。

 「引力」は「ノストラダムスの大予言」の話。そして死んだ猫を埋葬する話である。主人公の葉子は20代後半の会社員だがまだ実家で暮らしている。中学生のころはノストラダムスの大予言に熱中していたが、その日が目前となった今、特集番組をビデオで見てあまりにつまらないのでがっかりしている。彼女は家に来る野良猫にこっそり餌をやっていたが、母からその猫が庭で死んでいるので始末してくるように言われた。死体に触るのはイヤだが何とかダンボール箱に入れ、さてどうするか。合コンで知り合った気のいい大学生の宇佐に電話し、車を出してもらう。山に埋めに行くのだ。というわけで彼と二人のちょっと湿っぽいドライブが始まる。就活の始まった彼と、会社勤めにはもう慣れたがうんざりしている彼女。猫を埋葬し、ちょっと気分が明るくなって山を下りようとしたとき、ラジオに臨時ニュースが流れる……。世界の破滅の予感とごく個人的な日常生活。それがこのように身近につながっていた時期が実際にあったのだなあと、ほとんどノストラダムスに興味のなかったぼくも思うのだった。


キム・チョヨプ『この世界からは出ていくけれど』 早川書房

 『わたしたちが光の速さで進めないなら』、『地球の果ての温室で』に続く、昨年9月に出た著者の短篇集である。2019年から2020年に発表された7篇と日本語版への序文、著者あとがきが収録されている。

 「最後のライオニ」で描かれるのは人類が宇宙に広がった未来の、おそらくはパンデミックによって滅亡した宇宙コロニー「3042ED居住区」の調査に1人で赴いた「わたし」の物語である。そこにははるか昔に放棄された迷路のような巨大都市の廃墟があり、人間は誰一人いなかったが、その中でロボットたちの一群が細々と生き延びていた。そのリーダー格のセルと名乗る機械は、わたしを「ライオニ」と呼び、ついに戻ったんだねと話しかける。だが他のロボットたちはそれを信じてはいないようだった。わたしは彼らにほとんど監禁状態にされるが、セルはそんなわたしこそ彼らを救いに戻ってきたマスターなのだと言い張る。しだいに滅びの色が濃くなる中で、セルはついに故障し動けなくなる。他の機械が彼を修理できないかとわたしに聞きに来て、そしてわたしはこの居住区とセル、そしてライオニの真実を知る……。それは「わたし」自身の真実とも呼応しているのだった。失われた世界、過去にとらわれた機械たち、そして自分が他の人々とは違うことに悩んでいたわたし。そんな孤独と孤立の深みの中で、虚構と現実、物語と救いが淡々と描かれていく。なお、この作品は2022年に出た『最後のライオニ 韓国パンデミックSF小説集』(河出書房新社)にも収録されている。

 「マリのダンス」の語り手はダンス講師のわたし。マリというのはわたしにダンスのレッスンを受けに来た少女だが、彼女は薬物汚染により視知覚異常を発症したモーグと呼ばれる若者たちの一人で、〈フルイド〉と呼ばれる脳内インプラントのネットワークによって外界を認識している。視覚そのものには問題ないが、それをイメージとして組み立てることができず、ソフトウェアによって健常者とは違った形で認識し「見て」いるのだ。日常生活はできるとしても、果たしてそんなマリにダンスができるのか。実際、マリのダンスはわたしが思うものとは異なっている。大きな動きはちゃんとできるのだが、手足の繊細で微妙な表現には全く興味がないようなのだ。そんなマリが仲間のモーグたちとダンス公演をするという。とても観客に見せられる状態ではないとわたしは言うが、マリには別の考えがあったようだ。そして……。わたしも含む健常者である普通の人々と、マリのような感覚障碍を持つ(だがそれは障碍なのだろうか。別の感覚であり世界認識だといえるのではないか)人々の関わり合い。それはジョン・ヴァーリイの「残像」を思わせるが、むしろイーガンの作品とも通じてより今の時代に即した問題意識が現れているように思える。

 「ローラ」では心と体の不一致の問題が扱われる。昔、脳の各部位に体のどこが対応しているかという図を見たことがある。人の脳にはそういう固有の身体地図があるという。もしこのマッピングがずれてしまったらどうなるか。あるはずの身体を感じず、逆に存在しない身体を感じたりすることになるだろう。事故で手足を失った人が存在しない手足の痛みや痒みに悩まされるという幻肢という症状の話はよく聞くが、ここでは心の身体と実際の身体が一致しない身体完全同一性障害という「間違った地図」をもつ人々が、自分の四肢を切断しようとしたり人工的に器官を植え付けようとする姿が描かれる。主人公はそんな人々を取材してルポルタージュを書いたジャーナリストのジン。それを書く原因となったのは彼の恋人、ローラがそうだったからだ。彼女は事故がきっかけで三本目の腕の感覚が生じ、その痛みに耐えかねて機械の腕を移植しようとしたのだが……。ジンは彼女の行動を理解しようと各地を取材して回ったのだが、結局理解は出来ず、すっきりした答えは得られない。現在の大きな問題である性同一性障害と同様な構造をもつテーマだが、そんな障害に悩む人々の苦しみはわかっても、健康な手足を切断したり、問題の多い機械を移植したりすることが本当に正しいことなのかと問われたら、何と答えればいいのか悩むだろう。結末のことばにはそんな苦悩と、それでも消えない愛情とが描かれている。

 「ブレスシャドー」は宇宙SF。地上は激しい嵐が吹き荒れる砂漠で有毒な雨が降るため地下で暮らしている地下世界プレスシャドーの植民者たち。時が経つうち彼らは臭覚が発達し、脳にあるマイクロバイオームの力を借りて、音声ではなく呼気に含まれる有機分子によって会話するようになった。言葉は空中に浮遊し、残り香となってしばらくその場に漂う。意味合成研究室に勤める主人公のダンヒはそんな人間の一人だ。初めて勤務先に訪れたとき、ダンヒはこの研究室の地下に「怪物」が閉じ込められているという話を聞く。だが「怪物」とはダンヒと同じくらいの年頃の少女だった。彼女はジョアン。極地方の調査に向かった調査隊が遥か昔に遭難した宇宙船の残骸を発見し、その数百あった冬眠ポッドの中でただ1つ、壊れていないポッドを持ち帰って冬眠中だった彼女を蘇生させたのだ。ジョアンは地球を出発し、数百年前に事故に遭ったプロトタイプ人類の一人だと考えられる。ジョアンは匂い言語を認識できないので、データベースにあった音声言語と匂い言語を対応させた通訳機が唯一のコミュニケーション手段である。ただもはや別人類ともいっていい二人の間で完全な翻訳は不可能だ。ジョアンはダンヒと通訳機を通じて簡単な会話はするようになるが、他の人々とは打ち解けず、他の人々もジョアンを異質で危険な存在と考えている。冬眠したまま蘇生されなかった方が良かったのにとまで言うジョアン。物語はそんな二人のぎこちないが次第に深まる友情と、新たな展開を描いていく……。ジョアンが作ったこれが好きだという匂いのサンプルはダンヒには「砂漠の隅っこで帽子をかぶっている靴下が見つかった」と読めるというエピソードはユーモラスだが、結末で大きな意味を持つことになる。簡単には理解出来ない異質な存在との共存を描き、さらに言語SFとしての味わいもある作品だ。

 「古(いにしえ)の協約」も宇宙SFで、異星の異質な生態系と人間の共存がテーマとなっている。遠い昔に人類が植民した惑星ベラータ。そこに長い間忘れ去られていた地球からの調査隊が訪れる。主人公でベラータ人の司祭ノアは調査隊の地球人イジョンと親しくなるが、二つの文化には相容れない一点があった。それはこの惑星の生態系に関する宗教的なタブーで、ベラータの人々に致命的な障害を及ぼす大気中の成分と、それを生みだしているこの星の原生生物についてのものだ。イジョンはベラータの人々、とりわけノアのために、そのタブーを打破しようとするが、ノアは拒む。地球人たちが去って行く時、ノアはイジョンに心を込めた手紙を渡す。この作品はその手紙の内容なのだ。イジョンや地球人がベラータの人々のことを真剣に考え、善意から提言していることはよくわかっている。だがそれはこの惑星で生きることの古(いにしえ)の倫理に背くものなのだ。その結果が例え非人道的に見えることであっても。二つの異なる正しさは互いにそれを理解することはできるかも知れないが、それを納得して共存することはとても難しいのだろう。だがこの作品の結末にはその希望が垣間見えて終わる。

 「認知空間」はこの短篇集で唯一SF専門誌に掲載された作品だという。他の作品もSFだが、これは確かにもう一つ頭の飛躍が必要だ。ちょうどテッド・チャンの「息吹」のように普通の人間のようにふるまうが普通の人間とは違う人々が出てくる。夜空に月が二つあるこの世界の人間もたぶん元は地球から来たのかも知れない。その生活も普通の人間のようである。主人公のわたし=ジェナは、生まれつき体が小さくて弱いイヴを事故やいじめから守りかばってきた。この世界がわれわれの世界と大きく違うのは認知空間と呼ばれる巨大な格子状の構造物の存在だ。それは町から遠くにあってもよく見える壮大な物理的構造物で、神が作ったとも言われている。その膨大な数の格子には人々の記憶や情報が記録され、大人になればその中に入って蓄えられた知識や情報を外部記憶として活用することができるのだ。それってVR的なものだと考えれば理解はできるが中を歩き回れる物理的構造物だというのが正直よくわからない。ただ、イヴは体が弱いためそこに入ることができないのだ。彼女は認知空間がみなの言うように絶対的なものではなく、はっきりとした限界があって「大したものじゃない」と断言するようになる。認知空間に入ってその膨大な情報に圧倒されているジェナはそれに反発し、その一方でそんな彼女に同情を覚える。だがイヴは共有の認知空間ではなくもっと個別のものを求めていたのだった。それが宇宙へつながる道だと……。ジェナたちの思考形態が具体的にはよくわからないぼくらは、イヴの方に感情移入するだろう。認知空間とは情報がよく管理されたインターネットのように思える。管理され統一され権威づけられた共有情報のかたまり。だが現実はそこからはみ出すところにあるのだ。

 「キャビン方程式」はほとんどハードSFといっていい、局地的時間バブルという物理的時間に関するアイデアとその検証が、主人公である姉妹の生理的時間認知の違いと重なって独特なSF的感慨をもたらしている。そこに観覧車に現れる幽霊という都市伝説的な要素が加わり、物語にひねりを与えているのだ。舞台はほぼ現代の韓国。蔚山(ウルサン)のデパートの屋上にある古ぼけた観覧車に乗るとその頂上で怪奇現象が起こるというのだ。主人公のわたしはそんなことは全く信じていないが、姉の依頼でそこへ向かった。姉は天才物理学者で、宇宙の暗黒物質が局所的な時空の歪みを引き起こし、極微の時間バブルを生じるという理論を唱えていた。通常は粒子加速器の内部でのみ検出されるが、ある条件下では人間の感覚にも影響を与えることがあると。だが姉は事故に遭って脳に障害を受ける。それは時間認識が変容し、外部の時間が極端に短く感じられるようになるというものだった。姉に話しかけてもそれは姉から見るとほとんど認識できないような一瞬のこととなり、姉の時間はとてもゆっくりと進むのである。介護がなければ歩くこともできない。わたしはそんな姉を引き取って必死に介護する。人が勧める新しい治療法も試す。やがて瞳の位置を認識して文字入力のできる補助装置を使うことで、時間はかかるが姉とのコミュニケーションが可能となる。すると姉は「ありがとう。大好き。もう耐えられない」というメッセージを残して妹の元から失踪する……。爆発する感情。だが物語の後半で姉妹は再会し、あの観覧車へ一緒に乗り込む。わだかまりはもうなく、そして頂上まで上がった二人の出会ったものとは……。二つの謎が重なり合うクライマックスはとても抑制的ではあるがそれだけに心に響くものがある。


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