内 輪   第402回

大野万紀


 2月のSFファン交流会は2月24日(土)に、「2023年SF回顧(海外編、メディア編)」と題して開催されました。
 出演は、中村融さん、冬木糸一さん、柳下毅一郎さん、縣丈弘さん。
 写真はZoomの画面ですが、左上から反時計回りに、中村さん、冬木さん、柳下さん、縣さんです。
  なお、当日のリストはSFファン交流会のサイトにあります。
 以下は必ずしも発言通りではなく、チャットも含め当日のメモを元に記載しているので間違いがあるかも知れません。問題があればご連絡ください。速やかに修正いたします。

■海外編
 冬木:昨年の海外SFトピックスから。中国SFの刊行ラッシュは落ち着いてきたようだ。一方で韓国SFに勢いがある。『どれほど似ているか』は非常に素晴らしかった。『蒸気駆動の男』のような変わった企画も良かった。他には『チク・タク~』『宇宙探査SF傑作選』のような懐かしい企画があった。『未来省』『ギリシャSF傑作選』のように気候変動SFも増えてきた印象がある。
 中村:冬木さんが選ばないようなベスト5(順不同)を選んだ。まず『サイエンス・フィクション大全 映画、文学、芸術で描かれたSFの世界』。これは普通のビジュアル本だと思ったらとても高度な評論集だった。小説・映画の他にゲームや現代アートにまで目を配っている。大変面白い。この本は高いんだけど、高いと思って買わずにいると、あとでもっと高い値段で買うことになるから。
 冬木:この本は科学史についても専門家が書いている。自分でもやりたかったけど科学史は無理だった。
 中村:次に『デューン 砂漠の救世主』。古い作品の新訳が色々出たがこれが一番すごい。全部読み込んだ上での新訳なので過去抜けていたものが素晴らしい新訳になっている。解説もすごい。
 『七月七日』
はグローバル化を反映していて韓国で出た本だが、藤井太洋やケン・リュウ、レジーナ・カンユーなど日本、アメリカ、中国からも参加している。ひと言でいえば東アジアSF。日本SFもこれからは日本SFとしてではなく東アジアSFとして紹介されていくのではないかと思う。
 『ラブクラフト・カントリー』はラブクラフトが出てくるわけじゃなく、人種差別の国という意味で人種差別がテーマの連作アンソロジー。そこにコズミックホラーがからむ。書いているのは白人。
 冬木:幽霊譚なのだがSFにつながる宇宙的なところもある。黒人女性が白人に変身する薬が出てきたり。斜線堂さんの短編にも通じる。
 中村:『最後の三角形』はジェフリー・フォードのSFよりの幻想小説集。SFとホラーとファンタジーの混じり合った短篇集となっている。
 冬木:前半は幻想系が多く、後半はSF系が多い。ネタはありがちだが扱い方が面白い。
 冬木:23年の海外SFで個人的に一番面白かったのが『宇宙の果ての本屋 現代中華SF傑作選』。その前の『時のきざはし』よりもSF度が高い。時間が流れなくなった世界で時間発生機の周囲だけ時間が動き出すという話(「時間点灯人」)が特に面白かった。ジェンダー問題を扱った「円環少女」や仏教テーマでロボットが悟りを開くことができるかという話(「仏性」)も面白かった。
 スラデック『チク・タク~』。40年前の作品を訳者が竹書房の編集者を巻き込んで出した作品だが、古いかと思ったらそんなことはなかった。現代のAIを反映したところがある。
 気候変動SFとして『未来省』。気候変動にどう対応していくのかひたすら議論と対策を描いていて小説としては評価しにくいが、ノンフィクション的側面がとてもすばらしい。
 『文明交錯』は歴史改変SFだが、原題を見たらわかるようにゲームの「シビライゼーション」をリスペクトしている。そもそもインカ帝国がヨーロッパを征服するなんて無理なはずだが、それを可能にするために数百年前から歴史改変している。内政面にも気を配っていて面白い。
 『星、はるか遠く: 宇宙探査SF傑作選』。ジェイムズ・ブリッシュの「表面張力」とコリン・キャップ「タズー惑星の地下鉄」はぜひSFファンに読んで欲しい傑作。
 中村:この本はもともと出したい作品が先にあった。いつかセイバーヘーゲンの「故郷への長い道」やブリッシュ「表面張力」を今の読者に読んで欲しいと思っていたが、それをこの形で出すことができた。古い作品が中心となったのは版権の問題があったからだ。

■メディア編
 縣:昨年のSF、ファンタジー、ホラー、幻想的な作品リストから。まずジョージ・ミラー『アラビアンナイト 三千年の願い』。これは柳下さんも○をつけている。
 柳下:ジョージ・ミラーといえばマッドマックスの人と見られちゃうが、これは三つの願いの話。そんなの叶えてもらったらろくなことにならないと思ってOKと言わないのだけれど……。物語論であり女性論である映画。
 縣:ダニエル・クワン、ダニエル・シャイナート『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』。アカデミー賞を総なめにした。監督は映像的にクセのある作品を撮っていた人。アカデミー賞をいっぱい取ったから格調高い立派な映画と思ったら、ずっと軽い面白い映画だった。多元宇宙もので家族もの。今どきの海外SFに通じるものがある。マルチバースというテーマは以前からアメコミでやっていたネタだが、それがこの作品やアメコミ映画でぱっと拡がった。
 アメコミ映画ではアンディ・ムスキエティ『ザ・フラッシュ』
 柳下:ザ・フラッシュは足が速い超人。光速を超えるほど速くて時間を超えて過去へと行ってしまい、過去の歴史も変えてしまう。現代に帰って見るとバットマンが変わっている!ティム・バートン版のバットマンが一番バットマンだと思っているぼくにはとても染みた。スーパーガールもとても良かった。
 縣:マルチバースで歴史が変わってしまうと良くないという話。過去は変えちゃいけないし、いじるとよけいひどくなる。
 ホアキン・ドス・サントス、ケンプ・パワーズ、ジャスティン・K・トンプソン『スパイダーマン:アクロス・ザ・スパイダーバース』。これもマルチバースもの。マーベルの世界には宇宙が山ほどある。
 柳下:宇宙に番号がついている。
 縣:各宇宙のスパイダーマン同士はあまり交流してはいけない。宇宙が乱れるから。多元宇宙をまたがって活動している人たちと、愛する人を守ろうとするスパイダーマンというメタ的な話。
 柳下:アニメにものすごい力が入っている。レオナルド・ダビンチの絵で動くキャラもいる。
 みいめ:マルチバースとタイムパラドックスは関係あるの?
 柳下:マルチバースのある世界でタイムパトロールが出てきたりするとSF的には矛盾があるんだが、気にしない感じ。マルチバースがあります。過去を変えることができます。でもあんまりやるとマルチバース全体が壊れちゃうので危険、とそんな感じ。
 紀里谷和明『世界の終わりから』では女子高生が世界を救わなければいけなくなる。ネタバレだが謎は解けない。いわゆるセカイ系。紀里谷さんは本気でセカイ系をやっている。カルトな感じ。
 縣:山口淳太『リバー、流れないでよ』。毎年、低予算の気の利いた時間SFがあるが、去年はこれ。一昨年が山口淳太『ドロステのはてで僕ら』。どちらも昔から時間ものにこだわっているヨーロッパ企画の作品だ。時間ものはアイデアがあれば閉鎖空間なので低予算で作れる。『リバー』では同じ2分間(たった2分間!)が繰り返される。旅館が京フェスやセミナーの旅館みたいに込み入った作りになっているのが楽しい。
 柳下:デヴィッド・クローネンバーグ『クライムズ・オブ・フューチャー』。帰ってきたクローネンバーグ。体内に変な臓器が出来てそれをアートだとする。老人になって体が不自由になるが、それもいいかなと思わせる作品。

 メディア編は例によってぼくの見ていない作品が多く(特にアメコミ系)、大変参考になりました。

 なお3月のSFファン交流会は、3月16日、みんなで藤子・F・不二雄ミュージアムへ出かけるおでかけ例会になるとのことです。オンライン(Zoom)はありません。申込みされる方は3月4日までにSFファン交流会のサイトからどうぞ。


 それでは、この一月ほどで読んだ本から(読んだ順です)。
 なお、短篇集についても原則として全部の収録作について途中までのあら筋を記載しており、ネタバレには注意していますが、気になる方は作品を読み終わった後でご覧になるようお願いいたします


ケン・リュウ、藤井太洋ほか『七月七日』 東京創元社

 韓国で編まれたアンソロジー。9編が収録されており、それぞれに作者紹介と、作者による後書きがついている。韓国作家7人に加え、日本の藤井太洋、中国系のケン・リュウとレジーナ・カンユー・ワン(王侃瑜)の作品が収められている。各地の伝説や昔話、神話などを現代的なSF・ファンタジーとして再話するという趣旨のアンソロジーなのだろうか、実際そのような作品が多い。

 表題作のケン・リュウ「七月七日」は七夕伝説を現代中国に再話する幻想小説である。牽牛(牛郎)と織女にあたるのはともに中国の地方都市に住むユアンとヂィンという愛し合う二人の女子高校生。大都市ならともかく、ここではまだ二人のような関係は奇異の目を向けられる。だがヂィンがアメリカへ留学することになり、二人は長い別れを迎えることになる。空港へ行く前、ユアンは幼い妹から七夕の話をするようせがまれ、牛郎と織女が愛し合って結婚するが、仕事をおろそかにしたため天帝によって引き離され、哀れに思ったカササギが七月七日に銀河に橋を架けて二人を一晩だけ会わせるというお話をする。妹がやっと寝たのでユアンは喫茶店へ向かい、ヂィンと会う。だがすでにアメリカでの生活に心を奪われているヂィンとユアンの話は噛み合わない。そしてユアンがもやもやした気持ちのままヂィンと歩いていると、突然カササギの群れが現れて二人を天上に運び上げるのだ……。何ともロマンチックでほのぼのとして可愛らしく、そしてどこか苦みのある物語だ。若い二人と何千年も年を経た古(いにしえ)の恋人たちとの出会い。決して説教臭くならず、現代的な雰囲気のままハッピーな結末に落とし込む腕前はさすがにケン・リュウだといえる。

 レジーナ・カンユー・ワン(王侃瑜)「年の物語」では〈年(ねん)〉という怪物が登場する。年は日本ではなじみがないが、正月に現れて人を喰うという化物だそうだ。それを追い払うために中国では正月に派手に爆竹を鳴らすのだという。この物語はその伝承をSFにしたもの。遙かな未来、仁というロボットが長い眠りについていた年を召喚する。この時代、致命的な大気汚染から人類は地下に引きこもり、季節も新年の喜びも忘れて仮想現実の世界に閉じこもっている。仁はそんな人類を目覚めさせ、年の伝承を復活させて新年を祝おうというのだ。お話になじみがないのでちょっとピンと来ないところもあるが、怖いけれど本当は優しい年の化物がなかなか可愛い。

 ホン・ジウン「九十九の野獣が死んだら」は、済州島に伝わる九十九の谷の伝説を宇宙SFにアレンジしたというもの。お話は普通に宇宙冒険SFである。銀河港にベテランハンターの俺とジジイのコンビがやってくる。今回請け負ったのは人体改造実験から逃げ出した特殊能力をもつ実験体〈野獣〉を狩る汚れ仕事だ。視覚と臭覚を強化するマスクをつけて、俺とジジイは野獣を探す。なかなか見つからず無駄話ばかりしていると……。ついに見つけて追い詰めた野獣は幼い姉妹だった。俺はそこで驚くべき真実を知ることになる……。世界観が広がるその謎解きもいいが、今回で雇われハンターを引退するというジジイが加齢臭を振りまきながら何ともいい味を出しているのが好き。

 ナム・ユハ「巨人少女」では済州島の5人の女子高校生が宇宙人に拉致され、また戻ってくる。一見何ごともなかったように見えるが拉致された時の記憶はない。彼女たちは研究所に保護されていたが、ある時異変が起こる。突然体が巨大化したのだ。立ち上がると建物の3階くらいの高さの巨人になってしまった。女性の研究員が色々と面倒を見てくれるが、彼女からあなたたちは妊娠していると知らされる。ショック。宇宙人の胎児を育てるために体が大きくなったらしい。2人が死に3人になった少女たちは研究所から逃げ出す。彼女たちを追って軍隊まで出動する。みんな何も悪いことはしていないのに。家に帰るが、母親にもどうすることもできない。親からも見捨てられたと思った彼女らは、伝説の島を目指して海へと踏み入って行く……。人としての意識を持ったまま怪獣となってしまった少女たち。悲劇である。済州島にはハルマンという巨人のおばあさんの伝説があるという。その伝説もまた悲劇に終わるそうだ。巨人と人間が共存することはできないものなのだろうか。そこには現代的なテーマもある。

 ナム・セオ「徐福が去った宇宙で」。始皇帝の命を受けて不老不死の妙薬を探しに行った徐福の伝説は日本だけでなく韓国、そして済州島にも残されているという。徐福はその旅に兵士ではなく三千人の子どもと技術者を連れて行った。なぜ子どもや技術者を? これはその伝説をモチーフにした長めの宇宙SF。コレル恒星系(韓国を意味する)の一番端にある惑星耽羅(タムナ)。地殻活動が活発で大きな青い海があり、人々は散らばった小さな火山島に暮らしている。耽羅星の周囲では多数の衛星が岩のカケラとなって軌道を巡り、それは死んだ月の海と呼ばれる。主人公のモンナは宇宙船では入れないこの海に宇宙服を着ただけで潜り、貴重な鉱物を採取する潜り手だ。ちっぽけな宇宙船に乗った相棒のダルマンと二人でこの仕事をしている。金を稼いで危険な火山島から引っ越すのが二人の望みだ。死んだ月の海には銀色の竜の伝説がある。それは異星の宇宙船だともいわれている。モンナはそれを見つけて広い宇宙へ旅立ちたいと思っているのだ。あるときモンナは本当にその宇宙船を見つけ、限界を超えて突っ走り、宇宙船に救助される。彼女を助けたのはチナイ恒星系から来た徐福(ソボク)と名乗る男だった。チナイ恒星系は最近ある皇帝によって統一され、徐福はその命で不老草を探しにここまで来たのだという。宇宙船には三千人の子どもたちと技術者が乗り込んでいる。徐福は耽羅星に危害を加える気はないというのだが……。話としては後半ちょっと納得のいかないところもあるが、設定がいい。活発で向こう見ずなモンナのキャラクターはありがちだけど魅力がある。済州島の海女をイメージしたという潜り手という仕事も面白かった。

 藤井太洋「海を流れる川の先」の舞台は作者の故郷である奄美大島。関ヶ原の戦いの9年後、薩摩による琉球侵攻でのエピソードが描かれる(当時の奄美大島は琉球王国の支配下にあった)。戦慣れした薩摩の船団が島の港を次々に攻め、今は南端のクジュ村まで近づいている。村の人々は村長の指示のもと、それを向かいの浜で待ち伏せしようとしているのだ。主人公のアマンはその夜、巫女(ノロ)の伝令として一人海を渡って村長のところへ向かおうとしていた。そこに声をかけてきた者がいる。千樹と名乗る薩摩の僧だった。彼は一人で村々を回って、無駄な戦いをしないように説得して回っているのだという。鉄砲で武装しついこの前まで万を超える敵と激しい戦いを繰り広げてきた島津のサムライたちに島民が立ち向かってかなうわけがないのだ。アマンは彼の言うことを無視して丸木舟に乗るが、そこに千樹も一緒に乗り込んできた。千樹は元は薩摩のサムライだったが味方に殺されかけ、今は僧となって人々が血を流さぬよう説いて回っているのである。アナンは丸木舟を海の中を流れる川に入れる。そうすれば漕がなくても想像を絶する速度で進むことができる。それを知って千樹はもしかしたら勝てるかも知れない策を思いつくが、アナンはそれを否定し、もう一つの道を選ぶのだった……。ファンタジーやSFの要素のない短い作品だが、千樹のキャラクターが魅力的で、重い背景のある作品を印象的なものとしている。

 クァク・ジェシク「……やっちまった!」では済州島の最高峰である漢拏山(ハルラサン)で猟師が天に向かって矢を射たところ矢が天に突き刺さり、それを怒った空の王が山の頂上を切り取ってしまったという伝説が再話される。済州島で応用フォノンビーム学会が開かれることになり、やってきたキム博士はその主催者が以前同じ研究チームにいた魅力的な先輩、ジョンヒだと知る。再会した二人は楽しく語らい、漢拏山の伝説を聞いてそれって宇宙人の仕業ではなどとジョークを言い合い、楽しい気分でいると夜が更けて二人はつい……やっちまった! 気まずい朝を迎えたが、二人は突発的に漢拏山へ登山することになる。山頂付近で二人はドローンを飛ばしてみる。高度を上げると、何も無いのにドローンのセンサーが衝突注意の警告を表示した。何か巨大なものをセンサーは感知している。ドローンが虚空に向けて電撃を発し、何か強い振動が上空で発生したような感じがした。山を下りて二人はあれが何だったのかと思い、もしかして伝説には意味があったのではと想像する。だとすれば……やっちまった! というユーモラスな物語である。

 イ・ヨンイン「不毛の故郷」でも済州島の火山活動が描かれる。主人公は年老いた異星人。その若い頃にあった話を手記として記している。彼らは(明記されてはいないが)エネルギー生物のようで、地球の人間にも動物にもその姿は見えず、せいぜい強い風が吹いているとしか認識できないようだ。彼らは昔から地球に関心を抱き、特に彼の一族(家門)は土着生物に影響を与えないよう気をつけながら”星見”をしていた。地球における自分たちの子どもの教育の場として、地殻を操り溶岩を集めて火山島(耽羅=済州島)を作り上げたのだ。だが何度目かの”星見”で、いつの間にかその島に原始的な人間たちが住み着いていることがわかる。大人たちはやむなくその放棄を決める。しかし子どもだった主人公はそれに納得できない。ここでは気流、海流、溶岩流を素早く泳ぎ切る競争が開かれることになっており、主人公はそのためにずっと練習をしてきたのだ。大人たちに従うふりをしつつ、彼は勝手な行動をとる。耽羅で火山噴火が起こったとき、宇宙船を抜け出して一人でそれを見に行ったのだ。島の人間たちは右往左往し、泥流に飲まれ、海に流されていく。哀れに思った主人公は海の中に小さな岩礁をいくつも作り、そこに人間が逃げられるようにした。しかしそれは生態系への干渉だと大人たちから叱られる。助けようとした気持ちはわかるが、自分たちの存在が知られてしまうと。やがて人間たちはお互いに知恵を働かせて助け合い、災害を克服してまた島に戻って行った。その後主人公は島の歴史を見守ることになる。不毛の島を故郷として生きる人々の進んでいく先を見ながら……。この物語は済州島を作ったという巨人、ソルムンデハルマンの伝説をモチーフとしているという。それだけにSFとしてはやや納得できないところもあるが、ストレートで力強い物語となっている。

 ユン・ヨギョン「ソーシャル巫堂指数」は近未来SFで、人々は脳にチップを埋め込まれて暮らしている。そのチップは世の中のあらゆる情報を検索しダウンロードできるのだが、その能力は人によって異なり、それがソーシャル集団知能指数として数値化されている。主人公の姉はそれがずば抜けていた。しかしあまりに高い指数を持つ者は科学で理解できない情報まで手にするようになり、異常者と見なされるようになったのだ。多くの人はチップをダウングレードしたが、姉はそれを拒み、データ分析家として生きることにした。そのため今や占い師やら怪しげな商売の店が軒を連ねるうらぶれた一角に住まざるを得なくなっている。弟である高校生の主人公もいっしょだ。彼は姉の指数を巫堂(ムータン)指数と呼んでいる。巫堂とは韓国のシャーマンのことで姉のデータ分析力はほとんど人間の理解を絶した予知能力に近い。姉弟の家には同居人がいる。猫のロータスと外国からの難民で韓国語が満足に話せない娘メイル。それにカメやリスも。そこに隣に住む天下菩薩という巫堂のおばさんがロータスを探して怒鳴り込んでくる。そんな日常。その天下菩薩と姉貴が何やら話し込んでいる。姉は正しい情報と雑多な情報の区別について、天下菩薩は神様と悪霊について話している。そこへメイルの旦那だという男がやって来て暴力沙汰になり、猫やリスやカメもみんないっしょに警察署へ行ってさらなるドタバタが……。そして彗星が地球に向かってくるというのだが……。姉(オヌル)もメイルも済州島に伝わる巫堂の神話に出てくる人物だという。そしてオヌルは西洋オカルトの「アカシックコード」と同様な「運命の書」を書き写す韓国の「時間と運命の女神」なのだそうだ。現代の広大なネット情報の海はまさにその再現なのかも知れない。それはともかく物語はドタバタでコミカルで乱雑な力に溢れた力作である。

 イ・ギョンヒ「紅真国大別相伝」は長めのSFファンタジー。人々はドームに覆われた大地に暮らし、放射性物質とか遺伝子とかの言葉も出てきて、この世界が大破壊後の遠い未来の物語だということを示している。この世界では人が翼を持って生まれることがある。そんな子は親の手によって殺される。紅真(ホンジン)国の星主によって千年前から定められた掟だ。なぜなら翼を持つ子には特別な能力があり、空の高みにある星主の宮殿まで飛んでいって新たな時代の英雄となると伝えられていたからである。あるとき、この国の出生を司る(人工授精の技術者みたいな)産神(さんしん)と麻姑神(まごしん)が子どもをつくることにし、身ごもった麻姑神が産んだのが翼のある子ども別相(ピョルサン)だった。二人は彼の翼を密かに切り落としたが殺さずに、普通の子として育てた。別相は急速に成長し、その異能が明らかになっていく……。この物語は伝説の通りに別相が悩み苦しみながらも成長し、学校へ通い、やがて英雄・大別相(媽媽神)となって禁忌を破り暴虐な星主を滅ぼすまでの物語である。だがさらに続きがあり、呪いにより彼自身が暴君となってしまうのだ。そこに一人の少女が現れる……。この作品も媽媽神の伝説を始め、済州島の九十九の谷の伝説などの説話をモチーフにしSFファンタジーとして組み直されたものだ。読み応えはあるが、途中まではいかにも定石的なストーリーとなっている。だが後半から結末にかけての展開には現代に通じる問題意識が見て取れ、意外性もあって面白く読めた。


劉慈欣『超新星紀元』 早川書房

 本国で2003年に出版された著者の長編第一作であるが、初稿が書かれたのは1989年とのこと。1963年生まれだから26歳くらいの時の作品だ。それでも後の『三体』につながる筆力と破天荒さがあり、とても面白く読めた。とはいえ、短篇か中篇だったならびっくりするようなアイデアストーリーとして(特に結末にかけて)良い意味でバカSFの傑作といえたかも知れないが、長編をもたせるだけの説得力には乏しく、え、あの話はどうなったのと思ったり、ちょっと中だるみで退屈な場面も多かった。
 ひと言で言えば21世紀初頭、超新星爆発によって世界から14歳以上の人間が死滅し、大人のいない世界を小学生以下の子どもたちばかりで運営していこうという話である。小松左京の「お召し」や、作中でも言及されているゴールディングの『蠅の王』を思い浮かべる読者も多いだろう。だが死に絶える前に何とか現代文明を維持できるよう子どもたちを教育しようとする大人たちの意思に反して、子どもたちの世界はとんでもないものに変貌していく……。
 太陽系からわずか8光年のところに星間物質の雲に遮られた終末期の見えない恒星があり、それがついに超新星爆発を起こす。その恐るべき光と放射線が8年かかって太陽系に到達し、太陽の倍の輝きで夜空の光景を一変させる。それによって文明が崩壊するわけではなかったが、放射線は人類の遺伝子に致命的な影響を及ぼし、その時点で14歳以上の人間はほぼ1年以内に死んでしまうことがわかる。
 中国では爆発から1ヶ月後に、小学校を卒業したばかりのエリート教育を受けた子どもたちが集められ、様々な試練(その中には戦争ゲームもある)を受ける。そのようにして大人たちが消えた後の国家指導者を選ぼうというのだ。リーダー気質の少年・華華(ホアホア)、驚くべき知性をもつ天才少年・通称「メガネ」、成熟した心を持つ少女・暁夢(シャオ・ムン)ら(実は同じ学校の同級生だった)がこの試験に合格する。彼らが本書の主人公となるのだ。
 大人たちに指導を受けながら、国家のインフラを維持し、幼児や乳児を育て、戦争に備え、みんなの暮らしを守ろうとする、そんな学習期間が1年続き、何とか形が整ってきたところで、これまでの世界「西暦時代」はついに終わりを告げる。「超新星紀元」の始まりである。しかし、当初こそ何とか大人たちの世界の秩序を維持しようとするがんばりは続くが(これが「慣性時代」)、たちまち事故が多発し、思惑通りには回らなくなる。子どもたちの間ではもうあれこれ言う大人がいないのだから、苦しい労働などせず、大人たちの残した資源を浪費して面白おかしく暮らせばそれでいいという欲望が大きくなってくる。それが「キャンディタウン時代」。お菓子とおもちゃが(幼い子どもの観点からは)無尽蔵に手に入るすべてが遊びのユートピアだ。かくて世界は子どもによる子どもの欲望が第一の世界へと異様に変貌していく……。主人公たちもその流れに大きく逆らうことはできなかった。
 このあたりで物語の視点が中国を越えた世界の状況へと移っていく。とりわけアメリカだ。アメリカ大統領となった少年デイヴィーはまさに遊びこそが命よりも重要だと考えるような人間であり、首席補佐官のベナは美貌だけで選ばれたかのような金髪の美少女、そして国務長官のヴォーンはメガネと同様の知性をもつ少年だった。世界中の子ども首脳たちがワシントンに集まり、そして決定したのが、南極大陸を舞台に各国の軍隊が実際の兵器を使って行う大規模な戦争ゲーム(ゲームとしてのルールこそあるが人命は重視しない!)を行うことだった。そして子どもたちの世界は「超新星戦争」という無慈悲な狂乱の中に突入していく……。そしてその後に来るさらに驚きの展開……!!
 まあ何というか、さすがに荒唐無稽というしかないが、それでも大人と子どもの価値観は違うというところは面白い。とはいえ、南極でのこの展開とその後の発想にはぶっ飛んだ。ここって笑うところなんだろうか。『三体』でも三体人の描き方に似たような無茶ぶりがあって、ブラックユーモアとして読めるところがある。ぼくは何となく筒井康隆を思い起こした。
 本書でぼくが一番気に入ったのはまだ大人たちが生き残っている前半部分である。とりわけ冒頭の超新星爆発の描写には、10代のころに読んだSFのワクワクする喜びを思い出させてくれるものがあった。こういう科学解説的でジャーナリスティックな記述は昔のSF、特に小松左京や光瀬龍のお手の物じゃなかっただろうか。そういう意味ではとても「気恥ずかしい」SFだ。とはいえわずか8光年先に超新星となる恒星が星間物質に隠されていて発見されていなかったというのはいくらなんでも無理がある設定だろうと思う。
 超新星が爆発し、14歳以上の大人が1年程度で死滅するとわかって後の、エリート小学生に国家を任せようと計画する話も無理がある。戦車を操縦するのはもしかしたら小学生にもできるかも知れない。だが、現代のインフラをどう維持するのか。エリート少年に国家運営をまかせる教育よりも、現場をどうやって子どもで回せるようにするかの方が遥かに重要なはずだ。さすがの劉慈欣もそこは唐突に登場する超AIに丸投げしている。と思ったらこのAI、その後フェードアウトしてしまう。まあそういう話にはしたくなかったのだろうが。ちょっともやもやするところだ。


ローラン・ビネ『文明交錯』 東京創元社

 昨年3月に出た本だが、ながらく積ん読状態になっていて、やっと読み終えた。ピサロがインカ帝国を征服するのではなく、インカのアタワルパがスペインを、神聖ローマ帝国を征服するという歴史改変小説である。これがとにかく面白い。わずか2百人ほどのインカ人が、偶然と必然の交錯する中、ちょうど史実を逆転させたように圧倒的な力をもつヨーロッパを支配下に置いていく年代記なのである。
 全体が4部に別れているが、この年代記となる部分が第3部で、短い第1部と第2部はそれを可能とするための歴史的な伏線を描いている。16世紀にヨーロッパが征服されるためには、新大陸側にもそれなりの前提条件が必要だったのだ。それは作者が触発されたという、ジャレド・ダイアモンドの『銃・病原菌・鉄』で論じられたヨーロッパ人が新大陸を征服できた優位点、鉄を知り馬に乗り、旧大陸の伝染病に免疫があったことをチャラにする設定である。
 第1部は11世紀、バイキングのサガとして描かれた、グリーンランドからアメリカ大陸(ヴィンランド)へとたどり着いた人々のその後の物語だ。幸村誠のコミック『ヴィンランド・サガ』にも出てくる〈エイリークの娘フレイディース〉のサガである。彼女は北米からグリーンランド人を連れて南下し、現地人にトール神の神話や鉄の武器、家畜の飼育、馬の乗り方などを教え、ついにはカリブ海にまでたどり着く。その後の話は伝わっていないが、彼女はこの地に鉄器や家畜、疫病、そして赤毛の遺伝子を残したのである。
 短い物語だが大変面白い。きっかけとしてのIFは十分あり得たかも知れないものだ。その結果が前提条件を変え、その後の歴史に大きな影響を与えることとなる。
 第2部は15世紀のコロンブスの日誌である。黄金の国ジパングを目指すコロンブスの3隻の艦隊はカリブ海のキューバに到達。史実と異なり、彼らは馬を操るインディオたちに捕まり反抗する者は殺される。この島の国王はコロンブスにヨーロッパの話を聞いて厚遇してくれるが、梅毒に冒されたコロンブスの部下が国王を殺してしまう。だが王妃の口添えで彼はかろうじてこの国の一市民として生きることを許される。かくてコロンブスの運命は定まるが、王妃の娘である幼いヒゲナモク姫が彼になつき、彼の話すスペイン語を急速に覚えていくのだった……。
 そして第3部「アタワルパ年代記」。それから半世紀後、16世紀のインカ帝国で皇帝が突然崩御し、二人の皇子、兄ワスカルと弟アタワルパの間で内戦が起こる。始めは優勢だったアタワルパだが、首都クスコを押さえるワスカルに敗れ、北へと敗走する。執拗な追跡を逃れるアタワルパの手勢はとうとうカリブ海に達し、キューバの女王(第2部に登場した王妃である)に救われる。人々は裸だったがその軍隊はコロンブスの一行から伝わった銃で武装していた。アタワルパたちはしばらくここに滞在し、友好を深める。しかしワスカルの軍勢が近くにまで迫り、アタワルパたちはかつて異人が船に乗って来たという東の太洋へと向かうことにする。その数わずか2百人。その中にはヒゲナモク姫の姿もあった。
 この好奇心豊かで聡明な、かつてコロンブスからスペイン語を学んだヒゲナモク姫がアタワルパを助ける第3部のキーパーソンとなる。その後の彼女の活躍はとても魅力的だ。
 インカ人たちはリスボンに到着する。だがそれはちょうど史実のリスボン大地震の直後だった。その混乱の中でいくつかの偶然が味方し、アタワルパたちは戦乱のヨーロッパで生き延びるばかりか、スペイン王にして神聖ローマ帝国皇帝のカール5世を人質にするという快挙を成し遂げる。ピサロがアタワルパを生け捕りにした史実の逆転である。そしてやがてアタワルパはヨーロッパを、分裂し戦いに明け暮れ宗教対立と異端審問と虐殺に満ちたヨーロッパを征服し、人々を宗教の重みから解放していくことになるのだ。
 このくだりはとても長く複雑だが、様々な史実のパロディともなっていて(ちゃんと訳注があるので16世紀のヨーロッパの歴史をよく知らなくてもわかるようになっている。そもそもそんなことがわからなくても波瀾万丈で面白く読める)、さらに実在の人物が多く登場し、とても面白い。16世紀といえば日本でも戦国時代だが、ヨーロッパも似たようなものだった(よけいに複雑だったかも知れない)とわかる。アタワルパがそんな世界を統一していく過程は、本書の原題にもなっている歴史シミュレーションゲーム「シヴィライゼーション」をプレイしていくかのようである。戦争だけでなく外交や交易、内政が重要な役割を果たすのだ。自分の知る世界と異なる文化にとまどいながら知恵を働かせるアタワルパの姿は一種の異世界転生ものとしても読めるだろう。
 第3部の後半ではこれまであまり言及されなかった新大陸のもう一つの文明が前面に出てきて、ヨーロッパ世界にまた大きな変貌が訪れる。ここまでくるともう単純な逆転ではなく、まさに歴史交錯である。
 そのようにして一応の落ち着きを見せた世界の後日談が、短い第4部だ。訳者も指摘しているが、本が大好きな若きセルバンテスと、強烈な信仰をもつイエズス会士の戦士(でも絵心がある)エル・グレコが主人公のこの冒険譚こそ、作者が一番見たかった、描きたかった光景なのかも知れない。犯罪者の嫌疑を受けて故国を終われたセルバンテスがイタリアでエル・グレコと出会い、共に戦う兵士となり、海戦で敗れて海賊の捕虜となるが、ペストがはやっているフランスで逃れ、そこでしばらくモンテーニュ(フランスの哲学者)のやっかいになって文学や哲学、宗教について語り合うのだ。しかし若いセルバンテスはモンテーニュの色っぽい奥さんに一目惚れし、そんなさなかについに追っ手が……。結末の情景がとてもいい。この世界のセルバンテスやエル・グレコがこれからどんな作品を世に出していくことになるのか。作者ならずとも知りたい気がする。
 この世界はこれからどうなったのか。続編が書かれることはないだろうが、アジアがどうなるのか、すでにポルトガル人が来ていた日本との関係はどうなるのか、とても気になるところだ。


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