内 輪   第324回

大野万紀


 SF大会に参加しました。レポートはこちら。星雲賞授賞式を見ながら、星雲賞・解説部門とか、文庫の帯の署名付きコメント部門とかないのかしら、と思っていました。まあ星雲賞じゃなくてもいいけど、そういうのがあれば面白いですね。特に、文庫の帯のコメントは、どこかにまとめて残してほしいように思います。一言の傑作が多いので。

 この夏は、ドラクエ11を購入。ずっとやってました。わが家ではドラクエは特別な地位にあって、1から全部リアルタイムにやっています。11も期待どおりの面白さでした。PS4の3D画面のきれいな、それでいてリアルすぎないバランス。先週、魔王を倒したのですが、終わった後も色々と楽しみの残っているところがいいですね。そのぶん、他のことに使える時間が激減するのですが。おかげで、今月も本が読めず、読み終わったのは4冊だけです。
 ところで、今度のドラクエでは、懐かしい「復活の呪文」が使えるのです。はるか昔のドラクエ・ノートを掘り出してきて、復活の呪文を入れると、主人公の名前が「おまえ」になってしまいました。思い出してみると、あの時のドラクエは「おまえ」「こいつ」「べるの」でやってたんだなあ。みんな桜玉吉のせいだ。でも序盤には出てこないすごい武器を装備しているので、そのまま続けると、呼びかけられるときの名前が「おまえは」「おまえさんは」となって、これはこれで風情があるな、と。仲間からも親しみをもって、ため口されているようです。
 仲間といえば、奥さんがこの前の誕生日で60歳になったので、「わーい、仲間や、ナカーマ」というと、冷たい眼をして、「ちっ仲間になってしもーた」と嘆かれました。仲間になるのがいいことばかりとは限らないようです。

 それでは、この一月ほどで読んだ本から(読んだ順です)。

『5まで数える』 松崎有理 筑摩書房
 松崎有理の新作は、雑誌「ちくま」に掲載された2編に、書き下ろし3編とウェブ掲載のショートショート1編を加えた短篇集。帯に「新感覚の理系ホラー」とあるが、確かに著者のこれまでの作品に比べ、内容的にはかなり暗く、悲劇的で、ホラーといってもいいだろう。何か、著者が自らに課していた制約を取っ払ったような感覚がある。ただ、その中にも、コミカルな要素や心に訴えかけるような部分も含まれており、それがよけいに残酷で不条理な物語をきわ立たせている。
 舞台は多くが外国で、明らかにこちらの歴史とは違うパラレルワールドでの物語もあるが、現実の世界の、どこかの国が舞台のようなものもある。どこの国かは、雰囲気で想像はできるものの、はっきりとは書かれていない。
 「たとえわれ命死ぬとも」は、動物実験が禁止され、行った者は極刑に処せられるというパラレルワールドの日本の話。感染症から人々を救おうとする医者は、自らの体で人体実験するしかないのである。極端なシチュエーションで、あり得たかも知れない社会のシミュレーションを描くことはSFの常套手段だが、この作品ではそれがうまく機能しているといえる。
 「やつはアル・クシガイだ」はアメリカっぽい国で、科学者と奇術師が疑似科学と戦う〈疑似科学バスターズ〉の物語。コミカルな要素はあるが、社会の不条理の中で、それが恐ろしく悲劇的な結末を迎える。
 「バスターズ・ライジング」はその前日譚。〈疑似科学バスターズ〉の科学者と奇術師が、どのように出会い、暗い過去を乗り越えて協力し、犯罪的な疑似科学と闘うようになったか――。だがその結末はあらかじめ示されてしまっているのだ。
 「砂漠」は傑作。オーストラリアっぽい砂漠に、様々な罪を犯した少年犯罪者たちが(うち一人は冤罪を主張しているが)、手錠で数珠つなぎにされたまま、飛行機事故で置き去りにされる。水も食料も乏しい中、自由な行動もできない犯罪者たちが打算的に協力しつつ、生き延びようとする。ホラー的な結末はむしろ蛇足で、そこに至る彼らのサバイバル、死闘に迫力があり、読み応えがある。
 表題作「5まで数える」では、マカオかフィリピンか、アジアのどこかの国で、数学の能力がまったくない少年が(ある種の障害で数の認識ができないのだ)、風変わりな子ども好きの数学者の幽霊と出会う。数が数えられなくても数学はできる。数学は論理であり、論理は言語なのだから。この風変わりな数学者は、おそらく『放浪の天才数学者エルデシュ』の、ポール・エルデシュがモデルだろう。ホラー味は少なめで数学味が濃厚。ただ、この長さではちょっと物足りない。著者にはぜひ本格的な数学SFを書いて欲しいと思う。
 「超耐水性日焼け止め開発の顛末」は題名どおりのショートショートだが、とても面白かった。

『宇喜多の捨て嫁』 木下昌輝 文春文庫
 2014年に出た、戦国時代の備前の梟雄、宇喜多直家の生涯を描く、直木賞候補の連作短篇。今年4月に文庫化された。これが作者のデビュー作だというのだから、すごい。
 タイトルは表題作の題名だが、ちょっとミスリードだと思う。嫁の話は本書のごく一部なのだから。でも、娘を嫁に送り込んでは、その家を滅ぼすというような、親子の愛も権謀術策のツールとしてしか見ない、非情・非道な恐ろしい男の姿を、まずはつかみとして描いているわけなので、これでいいのかも。そして続く短篇では、時代は戻ったり進んだり、視点も変わりながら、さらに深く、多面的にそれが描かれていく。
 備前、美作、播磨と、戦国時代ではあまり目立たないが(大河ドラマの軍師官兵衛では描かれていたし、官兵衛は本書にも出てくる)、ぼくにとっては身近な地名が出てきて、史実そのものではなく、むしろ戦国ファンタジー的なキャラクター小説だとは思いつつも、とても興味深く読めた。
 「宇喜多の捨て嫁」は直家の娘で東美作の後藤家三星城へ嫁ぐ気丈な於葉(およう)の物語。残酷な親とはわかっていても、そこに情を残しつつ、敵として滅ぼすと言い切る姫の姿が魅力的だ。三星情というのは姫新線の林野あたりにあったようだ。戦国時代の中国山地の山城の描写がいい。
 「無双の抜刀術」では時代が直家の少年時代に戻る。二人称で描かれているのに驚く。おそらくは直家本人の声なのだろう。幻想的というか、一種ファンタジー的な臭いが強い。
 臭いといえば、本書は血や膿や汗の臭いに満ちている。直家が血膿を噴き出す業病に犯されているということもあるが、裏切った者の一族に加えられる残虐行為の描写も含め、グロテスクでおぞましいテーマが、ずっと奥底に流れている。しかし、物語の面白さ、キャラクターの描き方により、それが中心に現れることはないのだ。
 「貝あわせ」は直家の若い頃の話だが、恩人を手にかけなければならない直家の心の動きが描かれ、読み応えがある。ここで出てくる小道具の貝あわせが他の作品でも重要な役割を果たす。
 「ぐひんの鼻」も傑作。これは直家の主君の浦上政景と直家の関係性を描く話で、ここで描かれる政景の悪辣非道さ、異常さが際立っており、まさに悪役そのものだ。
 「松之丞の一太刀」は浦上政景の嫡男で、気の弱さのある松之丞の物語。そして「五逆の鼓」はこれまでの伏線をすべて回収し、まさに大団円といえる作品だ。血膿に満ちた話ではあっても、結末の読後感はさわやかともいえる。

『年刊日本SF傑作選 行き先は特異点』 大森望・日下三蔵編 創元SF文庫
 今年の日本SF傑作選はついに10作目となり、またバラエティ豊富で傑作ぞろいだ。藤井太洋の表題作をはじめとする19編(マンガ3編を含む)と、第8回創元SF短篇賞受賞作、久永実木彦「七十四秒の旋律と孤独」およびその選評が収録されている。他に大森望による2016年の日本SF界概況もある。本当に盛りだくさんだ。こういう傑作選が10年も続いていることはすばらしいとしかいいようがない。少し長くなるが、全作品に触れてみよう。
 藤井太洋「行き先は特異点」。この特異点はAIのシンギュラリティのことであると同時に、作品中ではもっと普通の意味(数学的、物理的、コンピューター・ソフト的)での特異点を示す。近未来のAIによる自動運転(車、ドローンの制御など)が、GPSの既知の問題(一応現実では対応済み……のはず)によって、ユーザ(人間)にとってはちょっと不思議な、異常な状態をもたらす。とてもリアルなごく近い未来の話だが、最後の一言がいかにもSF的ですばらしい。作者自身の体験を元にしたシリーズの一編だとのこと。
 円城塔「バベル・タワー」はこれまでの円城塔とは少し作風が異なり、日本のローカリティを重視した奇想小説といえる作品。日本に古来から、山や谷など、上下・垂直方向の移動・案内をなりわいとする一族と、水平方向の移動・案内をなりわいとする一族がいたとする(伝奇小説的リアリティはなくて、あくまで奇想だ)。現代ではその垂直方向の一族が高層ビルのエレベーターを支配している。そして……。水平・垂直の軸で世界を切り取ろうとするあたりは数学的といえるが、不思議な読後感のある小説だ。
 弐瓶勉「人形の国」はBLAME!と同様な雰囲気の、遠未来を舞台にしたコミック。連載中の作品の前編にあたるというのだが、短いのにとても雰囲気があって面白い。文明崩壊後の新たなサイバー世界での人間とも機械ともつかない者たちの物語だ。
 宮内悠介「スモーク・オン・ザ・ウォーター」は四話からなる連作ショートショートで、セブンスターの公式サイトにのったタバコのPRでもあるストーリー。それがしっかりSFしている。もちろん主役はタバコの煙だ。軽い話だが面白かった。
 眉村卓「幻影の攻勢」は、老人が日常の中でふと見る幻影。それがただの幻影だとすればリアルな日常のスケッチなのだが、差し挟まれる科学用語が、それがもっと大きなものの顕現ではないかと思わせる。
 石黒正数「性なる侵入」は、陰毛は寄生生物であるという、まるで昔の筒井康隆のようなバカ話をそのままマンガ化したような話。面白いんだけど、博士の行動はやっぱり犯罪でしょう。
 高山羽根子「太陽の側の島」は林芙美子文学賞の大賞受賞作。短篇集『うどん キツネつきの』の解説で、短篇集には未収録だったけれど、ぼくがどうしても言及したかった話である。ひと言で言えば奇想小説なのだが、この奇想は世界構築にまで及んでおり、ぼくはSFだといっていいと思う。すばらしい傑作。
 小林泰三「玩具」は官能小説として書かれたという話だが、あからさまな描写はないのに、とても官能的。著者の「玩具修理者」にストレートにつながる話でもある。
 山本弘「悪夢はまだ終わらない」は、小学六年生の少女を残虐に殺害した凶悪犯が、新技術により、刑罰として被害者と同じ体験を受けさせられるという話だが、もともとはこれを児童向けアンソロジーのために書いた(ボツになった)というのがすごい。そりゃそうでしょう。だって、これ、恐怖や絶望というより、主人公の犯罪者がマゾヒスティックな快楽を求めているかのようにも読めてしまうから。
 山田胡瓜「海の住人」はコミック。ぼくはこの人は知らなかったのだが、ストレートにSFしていて、大変面白かった。ヒューマノイドと呼ばれるロボットたちが、人間と同じ権利をもって共存している世界の話だが、それが(アシモフ的な)古典的なSFではなく、もっとポストヒューマン的な雰囲気に描かれている。
 続く二編は、スミダカズキの写真に物語をつけたというショートストーリー。飛浩隆「洋服」は、町の古びた洋服屋の看板をもとに、想像をふくらませてポストヒューマンの生きる荒廃した未来の情景を描き出した作品。ごく短い断片のような作品だが、その情景は強烈である。もう一編、秋永真琴「古本屋の少女」は、古本屋で足を伸ばして本に読みふけっている少女の写真から、魔術のある世界のミステリを描き出して、短いながらしっかりした物語性のある作品となっている。
 倉田タカシ「二本の足で」は本書で一番長い作品で、スパムメールが二本足で歩いて家までやってくるという、それだけ聞くと奇想小説か、SFバカ話かと思うところだが、これが本格SFの傑作である。未来の日本。主人公たちは移民の親を持つ大学生である。ずっと引きこもっている友人の様子を見に行くと、そこは歩くスパムでいっぱいだった。人を騙して金を取ろうとするスパムメールが進化して、薄っぺらなロボットのような人型になった時代。それらはAIで、かつてのスパムメールと同じようなことを話しかけてくる。そこに本当の人間がスパムメールとしてやってくる。ちゃんと人間的で知的な会話をするのだが、はたしてその意識は本人のものなのか。人工知能と意識の問題に踏み込んだ、本格SFだ。スパムをインストールされた(?)人間との会話が刺激的だ。
 諏訪哲史「点点点丸転転丸」は、芥川賞作家が業界紙に書いた掌編で、消失した印刷の記号「・(中黒)」を全国の書店、図書館から探し出して復活させる話。著者も「まさかSFと解釈されるとは」と語っているが、確かにこの奇想は、筒井康隆や円城塔に通じる「文字SF」といえないことはない。編者の選択眼のユニークさだといえよう。このような小説をSFとして読むことで、さらにワンダーが広がるのだ。
 北野勇作「鰻」は、小林泰三と同じ官能小説のアンソロジーのために書かれた作品。鰻女を捕まえた男の話だが、全体がもやもやした悪夢の中のような、不穏な雰囲気が漂っていて、著者の幻想世界とつながっているようである。
 牧野修「電波の武者」はまた異様な迫力のある言語SFの傑作。『月世界小説』と同じ世界を舞台にしている。実世界では死にかけていたり、死んでいたり、力をもたない存在が、電波の武者となって虚構を武器に戦う。相手は物語の力を失わそうとする存在だ。物語もすごいが、何といってもその中で語られる異言がすごい。
 谷甲州「スティクニー備蓄基地」は新・航空宇宙軍史の一編で、本書の中ではあまりにも普通にSFである。フォボスの備蓄基地に外惑星連合からの攻撃がかかるのだが、その武器は見たこともない生物兵器だった。それを守るのはたった二人の人間。だがその戦いは双方とも、致命的だがとても地味なものとなる。
 上田早夕里「プテロス」は太陽系をはるか離れ、メタンの大気がある惑星での、飛翔生物プテロスの生態を描いた作品。語り手は改造された人間だが、視点はもの言わぬ異星生物に向けられている。美しく、静かで、壮大な傑作SFである。本書の中でもぼくの特に好きな作品のひとつだ。
 酉島伝法「ブロッコリー神殿」は、植物が繁茂する世界で、屹立する巨大な孚蓋樹(ふがいじゅ)の繁殖のときが描かれる。それを司る知的生命はおそらくこの生態系の中に組み込まれている。そこへ外世界から人間(の意識をダウンロードした存在)が何度目かの調査にやってくる。著者の特長的な特異な用語がふんだんに使われるが、ストーリーはきわめて正統な異星生命SFの傑作である。「ただ花粉が飛ぶだけの生態系SF詩のようなもの」と著者はいうが、この作品が別冊文藝春秋に掲載されたということで、もはやそういう時代なのだなと思わせられる。
 さて、創元SF短篇賞を選者の満場一致で受賞したという、久永実木彦「七十四秒の旋律と孤独」は、これまたとても正統的な本格宇宙SFである。ワープ航法が実用化されたが、人には意識されないその遷移の瞬間、特別なAIでは74秒の時間が知覚できることがわかる。その時間を利用して、無防備になった宇宙船を襲撃することができるのだ。語り手は、宇宙船に搭載されたAIロボット。乗組員たち(特にメアリー・ローズと呼ばれる新入り)との関係と、74秒の激しい戦いが描かれる。確かに面白く、読み応えがある。あー、でもこの作品、ハードSF的な用語も使われているが、これってコードウェイナー・スミスですね。著者がオマージュを意識したのかどうかはわからないが、テーマ的にも、キーとなるキャラクターの扱いにしても、ぼくにはスミスを強く思い起こされた。こういう話は好きです。

『ししりばの家』 澤村伊智 角川書店
 澤村伊智の新刊は、『ぼぎわんが、来る』『ずうのめ人形』と同じシリーズであり、強力な霊能力者である比嘉琴子が再び登場し、活躍する。また例によって、第三者的に明らかな超常現象というより、主観的で、人の心に入り込んでくる化け物が描かれる。いや、物理的に存在する物質界の化け物より、著者の手にかかれば、こっちの方がずっと怖いのだが。
 物語は、比嘉琴子が小学生のころ、主人公の男の子、僕に誘われて友人宅に行き、幽霊を見るところからはじまる。場面は移り時代も変わり、忙しくて家に帰ってこない夫をもつ専業主婦の笹倉果歩が、幼なじみの平岩敏明と再会し、彼の家に招かれて、平岩の妻、梓や、彼の祖母と交流するようになる。一見普通の家庭のように見えて、平岩家には異常なところがあった。部屋中に砂が散っているのに、誰も何とも思っていないようなのだ。
 やがて怪異は凄まじさを増し、平岩家の人々の異常さに、果歩と夫も巻き込まれていく。また、僕の物語も続く。20年前、小学生の僕は友人や比嘉さんと、町の幽霊屋敷を探検に行ったのだ。そこで起こった怪異により、僕はその後ずっと引きこもって母と二人で暮らしている。僕の頭の中で、ザリザリと砂の音が聞こえるのだ。そのかつての幽霊屋敷こそ、今の平岩家だった。そんなとき、大人になった比嘉琴子が僕の前にあらわれ、あのときの化け物と対決し、僕の頭も砂から解放するというのだった……。
 かくて、恐怖譚はゴーストバスターと合体するのだが、あれ、比嘉琴子って、『ぼぎわん』ではもっとずっと強力だったように思ったのだが、本書ではその化け物、ししりばに翻弄されている。『ぼぎわん』より以前の話なのだろうか。でも時代はほとんど現代のようだし。
 まあそれはともかく、メインであるホラーは日常が異常と重なっていて、それこそ心を砂でザリザリされるような不快感があるし、化け物との戦いも迫力と緊迫感がある。でも、家につく化け物であるししりばには、どことなくユーモラスな影があるし、その弱点もちょっと意表を突いている。
 だが何よりも、本書の最大の怖さは、普通に生活しているように見える日常の怖さだろう。その日常というものが、人により家庭により大きく異なっており、実はおぞましい異常さとも地続きであることの怖さ。平岩がいう「それは普通やろ」という言葉が恐ろしい。


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