みだれめも
第283回
水鏡子
ゴールデンウイークは例年通りSFセミナーに行く。2泊3日だが恒例の5月4日が5月6日になって、東京での古本市がひとつもない。まんだらけに行って4000円分なろうを買うことしかできなかった。
当日は、本会、クリスティーでの二次会、喫茶店での三次会と、顔見知りとだべり続けた。二日目は30年ぶりくらいで横浜に住む妹夫婦の家に行く。その他特段他に行くこともなく帰途に就く。
失敗したのはひさびさに本を読んでいて乗り過ごしたこと。新幹線だったのだがいつもの新大阪止まりでなかったので、気がつくと新神戸駅に着いてしまった。しかたがない、西明石か姫路で降りようと考えていたら、なんとのぞみは新神戸の次は岡山まで止まらないではないか。結局岡山からまた新大阪まで戻ることになった。
5月の購入冊数233冊。購入金額42,818円。クーポン使用7,500円。
なろう本78冊。コミック18冊、だぶりエラーと買い直しは24冊。
新刊は『陽の光が消えた町で』、『ジュン 0』、『騎士爵三男の本懐』、『シートン動物戦記②』、「昭和39年の俺たち7月号」など10,290円。+『ハヤカワ文庫異装版』『塩の魔女』などファンジン6冊。
頂き本にスティーブン・キング『もし血が流れれば』、『SF大会は関西から始まった』多謝。
『ジュン 0』は石森章太郎の「ファンタジーワールド ジュン」関連の5冊本の1冊。『②魔法世界のジュン アパッチ版』『③魔法世界のジュン リリカ版』は古書で1000円で購入済み。『④FANTASY
JUN』は新刊書店なのに帯がないので購入保留。『①ファンタジーワールド ジュン』は原本が家にあるのでこれも保留。古本屋で小学館文庫版『佐武と市捕物控①~⑬』を各100円でまとめ買いした勢いで購入。
それにしても石森章太郎の書店での扱いは、昔だと手塚治虫の次だったのに、最近だと藤子不二雄、横山光輝、松本零士、永井豪などの後塵を拝するようになってしまった。あっても仮面ライダー系と009ばかりだ。寂しいことだ。
2度目の四天王寺古本市では、100円コーナーでかなりきれいな新書版『風太郎忍法小説全集』8冊とハヤカワSFシリーズ3冊を買い直す。
高額購入本は、すべて300円なので高額本と言えるか微妙だが、東京創元社『バルザック全集』(全26巻中10巻)、『復刻版「科学と文芸」①②③⑤』、堀雅昭『戦争歌が映す近代』、「まんだらけLIVE 創刊号」など。
雑誌名に惹かれて買った「科学と文芸」は大正デモクラシー時代の、民衆芸術運動とかの系列の総合雑誌。SFっぽさはかけらもなく、当時の「科学」という言葉は社会主義に絡んだものだったように見える。ざっと流し見ただけなので誤解かもしれない。当時のトルストイブームの旗振り役を果たしたらしい。
5月に買った主な本242円以下(ブックオフが390円以外に、220円本を242円に、110円文庫本を132円に引き上げる。まあ、ぎりぎり許容の範囲内)
ちょっと別のところでティプトリーの伝記の感想を書く機会があって、スタージョンの「孤独の円盤」を読み返してみた。
わりと意味不明な言動であるが、アリス・シェルドンにとってこの小説は深く共鳴できるものだったようだと、ぼくの中でビンゴっぽく昂揚したのだ。
じつは昨年のSFマガジン2月号のオールタイムベスト海外短編部門で、ぼくは1位に「孤独の円盤」を、3位に「われらなりに、テラよ、奉じるはきみだけ」を選んでみた。ちなみに2位は「アルファラルファ大通り」、4位は「エンパイア・スター」である。
その話は繰り返さない。
問題は『一角獣・多角獣』収録の「孤独の円盤」を読み返したあとのことである。この作品にはもうひとつ畏友白石朗による訳がある。両方を読み比べて思ったのは、白石朗訳だとよい話だと思っても、オールタイムベストの1位に推すことはなかったろうな、ということだった。
初読の衝撃と興奮が心に刻みこまれた面ということも一応はある。たとえば浅倉久志というSF界を代表する翻訳家の訳業があるにもかかわらず、『宇宙船ビーグル号』は沼沢洽治の翻訳を、チャールズ・プラットの「ジェイムズ・ティプトリー・インタビュー」はこれも畏友である倉林律によるものを是としている。
ただ小笠原豊樹訳については、それだけではすまないものがある。
『火星年代記』や『太陽の黄金の林檎』を読んで感じたのは、軽やかに宙を舞う透けるような幻想風景だった。
それに比べて『10月はたそがれの国』をはじめとする他の翻訳者の訳したブラッドベリは、幻想がなんか重く泥臭く思えた。当時、それは単純に翻訳の技量の差であるのだと思っていた。
けれどもその後いろんな訳者の本を読むうち、おかしいのは小笠原豊樹訳の方ではないかと思うようになった。ほとんどすべての翻訳が、宇野利泰の『10月はたそがれの国』に寄った印象があり、軽やかに舞う透徹したものでなく、土に根差したような重たさがあった。それこそがブラッドベリの幻想世界の本道であると思うようになった。『さむけ』や『縞模様の霊柩車』でロス・マクドナルドを読み耽った頃、小笠原豊樹と中田耕治訳を片付けたあたりで急速に読む気が衰えたことなども思い出した。
小笠原豊樹の翻訳は、言葉づかいとリズム感で、原作をコーティングして、印象を微妙に変えるところがあったのではないかと思った。もちろん良い意味のつもりだが、それは翻訳としてほんとうによい意味となるのだろうか。
今回、買ったまま棚ざらしにしていた元々社『火星人記録』を読んだ。
訳文は若干硬めながらちゃんとしていて、解説もしっかりしている。なんと格調高い挿絵もあるではないか。
そして『火星年代記』。「ロケット・サマー」で始まる掌編群は、詩的色彩が強いぶん、詩人岩田宏としての言葉とリズムが存分に発揮されていたのだなあと読み比べてみて改めて思い知った。