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続・サンタロガ・バリア (イギリス旅行記) |
イギリスには以前から行こうと思っていたのだけど、新型コロナ騒ぎもあって諦めかけていたところ、ここ3年ほどエジンバラ在住の宮城氏が帰国のたびに、近場の名所に日帰り観光するのに同行していたことがひとつ、またロンドンから列車で1時間40分(新幹線なら広島大阪間くらい)のノリッジに住んでいる、御年91歳の元英連邦軍兵士(昭和10年ノリッジ生まれ、29年に兵役で朝鮮戦争休戦後の英連邦軍(国連軍)兵士として呉に駐留、翌30年に帰国)に、以前から会いに行けたらいいねとメールに書いていた手前、そろそろ限界かと思ったことと合わせ、6月ころにイギリス行きを決心。以下は、日程を追って書いた旅行記です。
ネットや地元JTBでエジンバラ・ロンドン一人旅を探したところ、阪急交通社のWeb申込のみのブリティッシュエアウェイズでいくロンドン直行便プランに手ごろなのがあったので、Web登録して申し込んだら、空きがあるというのにちっとも受け付けてくれない。仕方がないので地元JTBに阪急交通社で具体化したプランを相談したらおんなじコースを見つけてくれて、当初もくろんでいた日程にぴったりのものは残り1席といわれ、思わず予約してしまった。エジンバラは宮城氏にお任せできるけれど、ロンドンの方はさっぱりなので、情報集めに専心。
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| ロンドン上空 手前右がバッキンガム宮殿 |
10月1日に広島からは新幹線。品川で京急に乗り換え、天空橋のホテルで前泊。夕食がてら羽田の出発ロビーを見に行ったけれど、羽田の食い物は高くてホテル前のドトールで軽く食べた。
翌朝は8時50分のフライトということで、6時過ぎにはホテルを出る。出国手続きは昔とずいぶん変わっていて戸惑う。とはいえ無事搭乗。
飛行機では眠れなかったような気がするが、ロンドン上空を旋回しながらヒースローへ向かってくれたので、グーグル地図で見たテムズ川付近の街並みを窓から何枚か撮影した。
ロンドンは雲はあるけれどそれなりに晴れていたのに、乗り継ぎのエジンバラ行きが悪天候で1時間余りの遅延、悪天候というだけあって揺れるので落ち着いて軽食が食べられなかった。
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| コーヤード・エジンバラ |
空港ではホテルまで車(タクシータイプ)の出迎えがあって、案内は気のいい日本人女性。ホテルでのチェックインまでしてくれた。
ホテルはコートヤード・エジンバラという中心街の近くで、外観は古い3階建ての建物だった。部屋は676号室だけれど、カードキーに番号はなく、受付の兄ちゃんがカード入れの厚紙に手書きで書いてくれたちょっと読みにくい数字のみが頼り。エレベーターのGマークの次が6階表示になっていて、ヘンな感じがしたが、少なくとも表通りから見る限り当方の部屋は2階だった。
夜10時ころについたにもかかわらず、宮城氏がホテルを訪ねてくれた。宮城氏はたくさんのパンフを持参、翌日からのスケジュールをいろいろ考えていてくれて有難かったけれど、当方は眠くて1時間ほどで解散。
部屋は最初17度しかなく、22度に上げたけれど体感温度は変わらず。熱いシャワーを浴びたあと、ホテルの部屋着がないので、持参した長袖Tシャツとトレーナーを着用。もちろんスリッパもないのでこれも…以下同前。テレビはホテル案内画面から番組に切り替えると料理番組が映った。これはロンドンでも同じだったので、デフォルトなのかもしれない。
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| ホテル近くの広場に立つ シャーロック・ホームズ像 |
坂道の下にある本屋 | 『虚ろなる十月の夜に』 刊行30周年記念版表紙 |
翌朝は宮城氏と11時出発の予定だったので、一人でホテルの周囲を散策。近くの広場に何やら銅像が立っている。近寄ってみたらなんとシャーロック・ホームズだった。びっくりして銘板を見ると「コナン・ドイルはこの近くで生まれた」とあって、二度びっくり。すっかり忘れていたよ。
宮城氏からホテルのあるブロックの坂道の下側角にそれなりの本屋があるというので、覗いてみたら、階上に大きなミステリ・コーナーとひと部屋分のSF・ファンタジー・ホラー・コーナーがあって、時間もないのでザーッと見渡したところ、やはりほとんどがファンタジーとホラー。SFでひと棚近く占めていたのはピーター・ハミルトンだった。
棚を最後まで見ていくとZelaznyの作品が3冊。『光の王』『ベスト短編集』『虚ろなる十月の夜に』どれも古典SFシリーズみたいな扱いになっていた。このうち“A NIGHT IN THE LONSOME OCTOBER”が30周年記念版と銘打ってニール・ゲイマンの序文付きとあり、発行年を見たら2023年だったので買って帰った。ゲイマンはこの作品についてゼラズニイに感想を述べたのが彼と会った最後で、またゲイマンはこの作品が大好きでトリビュート短編を書いたという。ペイパーバックで9.9ポンド。2000円超だけど、イギリスの物価からするとそれほど高い感じはしない。
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| カールトンヒルの丘と、その向こう北側のFIRTH OF FORTH湾 | |
宮城氏がホテルで今日の予定を説明してくれて、天気予報では午後からかなり荒れた天気になるというので、まずホテルの裏にあるカールトンヒルという見晴らしのよい丘に上る。丘の上にギリシャ神殿の大柱とその上の梁が再現されているのだけれど、宮城氏によると昔どこぞの人が神殿のレプリカを建てようとして資金難で最初の部分だけ造ったところでで建設中止になったそうだ。
北側にFIRTH OF FORTH(ジェネシスの曲名にもある)の湾とエジンバラの町が一望でき、東の方にアーサーズ・シートと呼ばれる鞍(ふたこぶ)型の小山が見える。
丘から降りて、パラパラと小雨が降りだす中をエジンバラ城へ向かう。途中ロンドンへの鉄道始発駅ウェイヴァリー駅を通るが、この駅は道路からでは屋根しか見えないという窪地に作られていて、翌日宮城氏に案内してもらった。
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| 雨のエジンバラ城 | |
エジンバラ城につくころには雨が本降りに。入口広場に入場を待つ人がいたが、観光客やアジア系の人が傘をさすぐらいで傘を持たない人も多い。エジンバラ城は丘の上の石造りの大きな城ではあるけれど、城としての機能は日本の戦国時代の城と違いはない。エジンバラ自体が城下町であり緩い坂が多いところも後日訪れたノリッジという城下町と共通している。もちろんともに大きな教会が建っている。
エジンバラ城内は広くて様々な建物が立っているが、一番長くいたのは戦争記念館で、スコットランドの各部隊がイギリス王国との戦いや第1次及び第2次世界大戦でどう活躍したかなどが展示されている。もちろん日本軍との戦いもあるが、武運長久の寄せ書き国旗が飾られているのを見るとさすがにウンザリする。
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| ホリルード宮殿横廃墟の教会 |
だんだん強くなる雨の中、メアリ女王が愛したというホリルード宮殿を目指すが、エジンバラ城からは町の反対側にあるので、途中で軽い昼食をとる。宮殿の中はスコットランド王族の肖像画がズラーっと並ぶ部屋からメアリの私室などいろいろあるが、一番気に入ったのは宮殿に付属する形で残された古い大きな教会の遺跡。屋根は全く抜け落ち床はがれきが散乱しているが、雨に打たれてなかなかの風情があった。
大体2キロ四方とはいえ歩き回って疲れたので、ホテルに戻って休憩。
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| ホールの外の看板 |
夜は宮城氏が予約しておいてくれたロイヤル・スコティッシュ国立管弦楽団(日本では以前スコットランド国立管弦楽団と表記されていたけれど、今回のパンフ表紙でもRSNOと略号を大書しているのに、通常表記ではSCOTLAND'S
NATIONAL ORCHESTRAとROYALを省いた表記が目立つ)を聴きに、エジンバラ城の裏にあるアッシャーホールへタクシーで向かう。物価の高いスコットランドで2000円台で着いたので、たぶん2キロもない。
ちなみに宮城氏にはクラシックを聞く趣味はなく、今年のグラストンベリのロックコンサートにテントを担いで行き3日間聴きまくったことが生涯に残る経験だった、というロック・ライヴ命のヒトです。
ホールは19世紀末に建てられたという建物で、3階席まであり、3階席舞台から見て右側中央寄りに座った。席は段差がきつく、間違って前に転げたらそのまま1階席に落ちそうだ。
指揮者はトマス・セナゴーというデンマーク出身の中堅どころ。曲目はオリヴァー・ナッセンの5分ほどの華やかな現代曲の後、ラヴェルのピアノ協奏曲。ピアニストは全然知らなかったけどフランチェスコ・ピエモンテージというスイス出身の人。指が動くという意味ではめちゃウマい。鞭の音から始まる曲だけど、ここでは拍子木でパチッとやっていた。
20分の休憩後は、なんとマーラーの7番。生で聞くのは初めてかも。ひな壇最後列にズラッとパーカッションが並ぶ。なぜか6番で使われるカウベルセットもあった。生ギターは目立つところに一人で座っている。70分を超える大曲で、超一流オケに比べるとやや細身だけどオケの頑張りがすごい。当方は疲れがたまっていたので、第4楽章「夜の歌」でウツラウツラしていたら、最終楽章の冒頭、打楽器が打ち鳴らすところで目が覚めた。この楽章では大きな金属板を左右に2枚ずつ並べて叩きまくる姿が目に焼き付く。
終演後は客席の盛り上がりがすごく、指揮者がソロイストを立ち上がらせるたびにものすごい声援がとどろき渡る。オケよりうるさいぞ。もちろんアンコールはナシ。
外へ出たら10時過ぎていた。帰りはバスに乗ってホテル近くまで。爆弾低気圧のせいで瞬間風速30メートルという強風が吹いて、歩道を歩いていると体が勝手に押されていく。宮城氏とホテルで一休みして解散。
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| スコットランド国立美術館内 |
エジンバラ散歩2日目は、疲れがたまったせいか朝から当方の体調が悪く、長距離を歩く気力がなく、宮城氏には翌日ロンドン行きの列車が出るウェイヴァリー駅を案内してもらってから、近くにあるスコットランド国立美術館を見た。
地元の画家の作品を紹介することに主眼が置かれているので、知らない画家たちの古風なリアリズム絵画ばかりを見ていたら、だんだんどうでもよくなってきた。ということで、館内のカフェで一休みして退散。
宮城氏はエジンバラ唯一のSF書店訪問や夜のプログラムでエジンバラの地底都市探検も用意してくれていたのだけれど、当方はダウンしたままだったので、すべてキャンセル。
宮城氏には申し訳なかったけれど、翌日以降のことを考えるとこれはこれで仕方のないことだった。
ちなみに地底都市探検は前払いだったけれど、返金してもらえたとのことで宮城氏は喜んでました。
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翌朝はいい天気で、早起きしてまた本屋に行ってSFアンソロジーの棚を眺めていたら、ラヴィ・ティドハー編の1冊が厚さ6センチくらいはあろうかという3巻本のSFアンソロジーがあったけど、荷物になるのであきらめて、R・F・クァン編のベストSF2023というトレードペイパーバックを買って帰った。収録作家の半分以上が女性でいわゆる白人以外の作家がほとんど。そういえば、アッシャーホールのロビーで拾ったこの8月にエジンバラで開催された国際ブックフェアのカタログにもR・F・クァンは写真入りで紹介されていたなあ。人気作家なんだ。
R・F・クァン編
The Best American SF&Fantasy 2023 表紙
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| 乗り間違えた4番ホームの列車 |
で、ホテルをチェックアウトして、一人でスーツケースを押しながら緩い坂道をウェイヴァリー駅まで歩いた。イギリスの列車は出発30分前になっても何番ホームから列車が出るのか表示されないので、広い待合室に座ってじっと掲示板を睨んでいた。
やっと掲示された番号は6番ホーム。なのになぜか当方は4番ホームの列車に乗り込んでしまい、当方が座った席にあとから来た兄ちゃんが「そこ僕の席だけどチケット見せて」というので、見せたら「これ6番ホームのじゃないか、6番ホームはあっちだよ」という。すると隣の席のおばちゃんが、「あんたの列車あと10分で出るわよ、早く早く」と当方の手荷物を持ってくれ、周りの乗客も棚のスーツケースを下すのを手伝ってくれた。おばちゃんは乗降口までを運んでくれた。なんて親切な。
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| キングスクロス駅に到着したAZUMA号 |
お礼もそこそこ急いで6番ホームの改札に行くと、当方のチケットをチラ見した黒人の警備員はすぐに扉を開けてくれたのだった。ヒイハアいいながら6番ホームの列車に乗り込むと、当方の座った席の周りはまだ誰も座っていなかった。4番ホームの列車が満員状態だったのに比べ、なんという違い。とても同じロンドン(終着駅が違う)に向かう列車とは思えなかった。そしてこの列車は、前日宮城氏が説明していたイギリスの日立工場で製造のAZUMAと名づけられたものだった。客車の内装は日本の特急列車によく似ていた。
列車はエジンバラから海岸線を通り、ニューカッスルなど経由して4時間半でロンドンに着く(新幹線の広島東京間所要時間と同じ)。ずーっと車窓から景色を眺めていたので、眼前に広がるのは、いわゆる緑と茶色の牧草地と時折の集落、そして海岸線の灯台や立ち並ぶ風力発電の風車だった。
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| 車窓から見えた海岸付近に並ぶ風力発電の風車群 |
到着駅はキングスクロス(エジンバラ駅の掲示板ではクロスはXと略されていた)。ホテルまでは車で10分もかからない。4連泊したこのロイヤルナショナルホテルというのは室数が700もある巨大ホテルで、チェックインの時「2階の部屋と7階の部屋があるけど、どっちにする」といわれ、階段のことを考えて2階にしたら、JTBにシャワーのみといわれていたのに巨大な浴槽があるのを発見、カランとシャワーの切り替えが不十分(カランの湯が止まらない)という不具合はあったけれど、熱い湯に浸かれてラッキーだった。
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| ユーストン駅 |
午後5時前にホテルを出て、まずは北を目指して、翌日ノリッジに行くときの出発駅である(と思い込んでいた)ユーストン駅まで15分ほど歩いた。出発前の調べではユーストン駅につながるビルの大きな階段があったので、それを見つけて上がってみたら入口は封鎖中だった。実際はその手前のいわゆるバスセンターみたいな場所の通路を抜けるとユーストン駅なのだった。
この日はホテルに帰り着いて、もはや夕飯の店を探す元気がなかったので、ホテル1階のテナント(いくつもある)のピザ屋でピザを注文したら、30センチのフルサイズ8枚切りだった。無理して半分食べて、半分はお持ち帰り。翌朝もホテルの朝食の代わりにピザを食べてました。
そういえばエジンバラのホテルでは朝食がついてなかったので、主にコンビニでサンドイッチなど(エジンバラで出迎えしてくれた現地送迎担当の世話好きな日本人の女性が、飲み物などと3点セットで買うと10ポンド以下になると教えてくれた)を買って朝食にしていた。その後湯船に熱い湯をためて体を温めてから就寝。
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| 避難した宿泊客(青いライトが消防車) |
で、寝入ったと思ったらいきなり大音響が響き渡り、一体何事かと飛び起きたが時計を見ると深夜1時過ぎ、いつまでたっても鳴りやまないのでこりゃもしかしてとドアを開けて廊下を見ると、ほかの宿泊客も同じことをしていた。向かいの部屋の兄ちゃんはパンツ一丁だったし。これが火災警報だとようやく気づいたが、煙も見えず何の放送もないので、パジャマの上にセーターとズボンをはいて貴重品入れをもってほかの客たちと階段を下りる。2階でよかったよ。
ホテルの裏通り(ロンドン大学筋)に次々と人が出てきて見渡す限りの避難客だったけれど、みんなケータイで写真を撮っている。しばらくして消防車がやってきたけど、何もせずすぐに帰っていった。と思ったら、みんながぞろぞろとホテルに戻り始めた。その時は何にも思わなかったけれど、帰国後に何回かイギリスへ行ったことのある師匠に話したら、それは抜き打ちの避難訓練じゃなかったのか、俺もおんなじ目にあったことがあるぞ、とのこと。ヤレヤレ。
さすがに朝は眠気が残っていたけど、持ち帰ったピザを朝飯代わりにしてから、歩いて再びユーストン駅へ。出発前に買っておいた往復9800円のチケットの予約情報を発券機に打ち込むとチケットが出てきた。チケットにはロンドン市内中心部(ゾーン1という)のどの駅からでも列車の始発駅であるリヴァプール・ストリート駅にいけると書いてあった。
日本にいた時の調べではユーストンがホテルから一番近そうだったが、もっと近いラッセルスクエア駅からでもOKだったのだ。ただし、どちらにしても1度地下鉄を乗り換えないといけないことには変わりないんだけど。現地に行く前は地下鉄の乗換ホームの見分け方が気になっていたが、路線ごとにホームの壁に伸びる10センチ幅くらいの帯の色が決まっていて、東西南北で方向もわかるようになっていた。
リヴァプールストリート駅はそれなりに大きな駅で、大勢の人が行き来していた。その中を車いす押す制服を着た何人ものボランティアがいて、広い通路の真ん中に詰め所が立っていた。10時出発の特急に乗り込み一路ノリッジへ。この特急はAZUMA号に比べると大分庶民的で短い区間で乗り降りする人が多い。昨日以来の上天気がこの日も続いてイプスウィッチなどという聞き覚えのある街を通って、目的地まで着く間この時も車窓から明るい外の風景を眺めていた。
こちらは内陸の路線なので、海は見えないけれど、ロンドン市街を抜け出てしまえば、基本的には牧草地が続いているので、当方の見た範囲ではイギリス本島の東側は牧草地だらけだった。
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| リヴァプールストリート駅構内 | 典型的な車窓からの眺め |
ノリッジ駅の改札を出ると、90歳の元英連邦軍兵士Wilfred Aldridge さん(当方はWilfさんと呼ぶ)が奥さんと一緒に待っていてくれた。
ここで再度彼との関係を説明すると、当方は1995年ころから仕事で、1946年から1956年の10年間、占領軍(朝鮮戦争以降は国連軍)として呉(一時は江田島)に本部をおいた英連邦軍を調査する必要があって、オーストラリアとイギリスを中心とした部隊の元兵士たちの手記を集めたことがあり、イギリス兵たちの手記集めに献身的に協力してくれたのが、最初は手紙のやり取りで知り合った彼だった。彼の熱意はその後ますます高まり、1999年以来元英連邦軍兵士の旅行団を毎年結成して11年連続で呉市を訪れてくれた。その間毎回当方も接待担当になって親交を深めたという訳である。その彼も寄る年波には勝てず最後の来訪から15年近く経って、ようやく当方から彼に会いに行くことができた。
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| ノリッジ駅前のWilfさん夫妻 | ノリッジ駅前通り |
歩くことが難しい奥さんとは駅のそばで別れ、あとは抜けるような青空の下、彼の案内でノリッジの街歩きをした。ちょうど昼に着いたこともあり、まずはノリッジ大聖堂近くの軽食屋で軽い食事をした。当方は食欲がなかったのでソーセージを巻いた小さめのデニッシュにミルクティーを注文したのだけど、出てきたものをみたらソーセージが直径4センチくらいあった。長さは5,6センチとはいえソーセージはしょっぱく、残すわけにもいかないので完食したけど、これが当方の便秘を促進したようだ。
食後、まずは大聖堂内を見学。ちょっとびっくりしたのは、ここ数百年のうちに亡くなった人の大きな銘板(墓石)が通路の床に埋め込んであって、その上を歩いているのである。日本人の感覚だとちょっと不安な感じがする。
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| 蒼天のノリッジ大聖堂 | 床にある墓銘碑(これは廃教会カフェ(後述)で撮影) |
彼に「教会なので一応帽子は脱いでね」と言われ率直に従う。本堂の脇室に司祭らしき人が疲れた顔で座っておられた。本堂には洗礼に使うというピカピカの銅製の大きな水鉢があったけれど、彼の説明では長くノリッジでチョコレートを作っていた会社が廃業するときにチョコレート製造に使う銅鍋を教会に寄付したので、それを使っているとのこと。ウーム。大聖堂を出る前にお土産コーナーに案内してもらったので、いろいろ物色したけれど、なぜか高さ5センチくらいの僧服や兵士姿のネズミの置物がいっぱいあって、そのうちの一匹と目が合ってしまったので、買うことにしたら彼がお代を払ってくれた。
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| ノリッジ大聖堂本堂 左下にチョコレート製造会社が寄付した洗礼用桶が見える |
十字軍の騎士? |
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| ノリッジ城址下の遊歩道 |
大聖堂を後にして、街のあちこちを歩いて回る。テント群のマーケットやアーケード街を見て回った後、古城のノリッジ城の下の道路を散歩、91歳の彼も当方も足が悪いので、城に上る気はなくベンチに座って一休み。その間彼は、当方のためにメモしてきたノリッジ城の歴史を読み上げてくれたのだった(ちゃんと聞き取れてないんだけど、相槌は打ってました)。
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| ノリッジの古い路地 |
そのあとは、彼が生まれ育ったというノリッジの街の一地区を丁寧に解説。ここは子供の頃よく遊んだとか、祖父さんはここで商売していたとか、奥さんの実家はここだったとか、彼の育った世界が当方の育った東京郊外の町の横丁同様の、狭い地域だったことが実感できた。その後、ここは祖父さんと祖母さんの墓があるんだけど今は教会の機能自体はなくなったという。
なお、この街区のもとは店舗と思われる建物には、「To Let」と書かれた札がかかっていることが多い。彼の説明ではノリッジでも小売店が次々とつぶれていて、Toiletならぬ「To
Let」ばかりが目立つようになったとのこと。日本語なら「貸出物件」というぐらいか。
で、今はその元教会の建物を保存する団体がその元教会でカフェを経営しているので、ここでお茶にしようとなった(先に提示した「墓銘碑」はここで撮影)。
ステンドグラスの嵌った美しい壁を見つつ雑談をした後、再び散歩。街にはお濠みたいな流れの緩やかな川があり、白鳥がいっぱい群れていた。帰りの列車の発射時刻30分位前に駅に戻り、思い出話をして彼と別れ、列車に乗る。
夕刻5時30分発の帰りの列車でも車窓から夕景を見ていたけれど、トイレに立って席に戻ったら10代の女の子が当方の席に座ってスマホのマイクとスピーカーで延々とおしゃべりしている。「そこは当方の席なんだけど」と話しかけたら、「ゴメーン、アタシちょっと今この席動きたくないんで通路側に座ってくれる?」とのお返事。まあ、その言に従いましたけど。結局彼女は途中の駅で降りて、当方は無事窓側へ戻れたんだけれど、夕日はもはや沈みかけていて、車窓の楽しみが短いものになったのは遺憾とするところ。
ホテルに一番近いラッセルスクエア駅のホームで降りて細い螺旋階段を昇ろうとしたら、びっこを引く当方に、黒人の兄ちゃんが「その階段は長いよ、こっちにリフトがあるから付いてきな」とエレベーターまで案内してくれた。到着したエレベーターから、どっと人が降りるのを見てびっくりしてたら、すぐドアが閉まってしまった。お兄ちゃんは「まあ、次がすぐ来るから、God Bless You!」とか何とか言って去っていった。ご親切は身に染みたけど、よく見るとエレベーターのドアに「出口専用」と書いてあった。すなわち、こちらはホームに降りる乗客用のドアで、地上へ上る乗客は反対のドアから乗るようになっていたのだ。まあ、当方は兄ちゃんの好意を無駄にせず、客が全員出た後のドアが閉まる間に乗り込んだ。本来のドアから入ってきたオバちゃんにオーっといわれたけど、旅の恥は掻き捨てだ。
夜8時前にホテルに到着。今日も歩き回って、疲れ果てていたので、再び外へ出る気力がわかず。まだ2枚残っていたピザを食べても大丈夫かとググったら、ロンドンでは24時間くらいではピザは腐らないとあったので、コンビニで買ったジュースで流し込んで、風呂に入って寝た。
翌朝はホテルのビュッフェに行ったけれど、8時過ぎということもあって、受付が長蛇の列。ようやく席に案内してもらって、料理を取りに行ったけれど、野菜系はほとんどなく、卵系とソーセージ系、揚げ物に焼き物はお肉系で、当方にはトゥーマッチ。結局スクランブルエッグを中心に、豆類を食べてました。中国人が多いせいかおかゆ系もありましたが、味見せず。
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| 入館を待つ行列 | 有名な大英博物館正面玄関 | 正面玄関から見た前庭 |
この日は、大英博物館の英語ガイドを渡航前に予約(2時間で5000円超)していたので、10時前に門に並んで入館を待った。持ち物検査を抜けて、当初の通知ではギリシャ神殿風の表の柱付近が集合場所だったので行ってみたら誰もいない。もう一度メールをチェックすると中の大ホール受付付近に変更になっていた。で、入ってみるとすでに人がいっぱい。ガイド付き団体もそこら中にいてどれがどれだか分らないので、電話したら聞き取りにくい英語で案内されたのだけど、本来の指示とは逆方向に歩いたらしく、誰もいないところまで行って振り返ったら、ガイドのお兄さんが手を振っていた。
ガイドから受信機をもらい、他の客と一緒に中に入る。ガイドのお兄さんの発音ははっきりしているものの、いわゆる英語ネイティブとは違うものだったので、ちょっと考えていると、次の説明が耳に入らない。ロゼッタストーンは大人気で、先行団体が去るまで待って、説明が始まる。先行団体が触っていたのでみんな触っているがすり減ったようには見えない。その後モアイ像などを見て、メインのひとつエジプトコーナーあたりで当方は気分が悪くなって、ガイドにそのように言って離れ、博物館の玄関の庭に出て、息を整えてから、歩いてホテルに戻った。ゆっくり歩いても20分もかからない。
まだ12時ぐらいだったので、ホテルのシーツ替えが終わっておらず、ホテルの中庭のパティオのテーブルで2時間近く水分だけで過ごした。すると、だんだん元気が戻ってきたので、3時前に再び大絵博物館に向かい、朝に比べて人がいなくなった玄関の警備の人に、スマホのチケットを見せたらそのまま通してくれた。
この時から閉館の5時に追い出されるまで、エジプト・中東・インド・中国・韓国のコーナーを見て回った。ヴィシュヌ像にハヌマーンにガネーシャと、ちょっとみてみたかったものが見られてうれしかった。やはり日本人なのでここら辺の遺物が親しみやすい。まあ、これらは大英帝国の略奪の結果でもあるわけだけれど、元の所にほおっておかれたら現在も残っていたかはわからないので、一概に非難するわけにもいかないか。
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| ヴィシュヌ像 | ハヌマーン像 | ガネーシャ像 |
大英博物館を出て、腹にやさしい夕飯にしようと中華飯店がこれまたホテル1階のテナントにあったのを思い出して、ちょっと薄暗くて入りにくそうだったけれど、外のメニューで野菜焼きそばが2000円程度で食べられるのがわかって中に入り、半分金髪の中国系のお兄ちゃんに、焼きそばとお兄ちゃんが一番有名なビールだというチンタオビールを注文。お兄ちゃんが、テーブルに箸しかないがフォークがいるかというので、日本人だから大丈夫と伝える。
出てきた焼きそばはちゃんとした焼きそばで、青物野菜の旨いこと。とくにチンゲン菜のジューシーさが口に広がって、しょっぱいものばかり食べてきた身としては、思わず目をつぶって味わってしまった。
翌日はまたホテルのビュッフェで朝食、受付で部屋番号(2階だけど1205室)とファミリーネームを伝えると、案内係が開いた席に案内してくれる。やはり当方が食べられるものは少なくスクランブルエッグ中心の選択。
朝食後、ロンドン最終日で当初はハイドパークを歩いてロイヤルアルバートホールへ抜け、午後はテムズ川をわたってウォータールー周辺(戦争記念館が目的)へ行こうと計画してたのだけど、突然気が変わり、以前誰かのブログで読んだベイカーストリートからアビーロードへ歩くことを思い立ってしまった。
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| 雰囲気がいいベイカーストリート駅 |
ということで、ユーストンスクエア駅からすぐのベイカーストリートの地下鉄駅に行き、その薄暗さに感銘を受けたものの、地上に出てみれば、普通のロンドンの街並みだった。シャーロックホームズ像に挨拶することもなく、そのままベイカーストリートを北上。シャーロックホームズ博物館もビートルズショップにも寄らず、まずはリージェントパーク横の道を延々と歩いた。
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| 歩道の左側にアビーロードの表示 |
ところがグーグルマップで、アビーロードの位置を確認するたびにちっとも近づかず、かえって遠ざかっているようにも見えて、焦ったせいか、ぐるぐる歩いているうちにアビーロードを通り過ぎていたことに気づく。で、あの横断歩道は北にあるとの思い込みが手伝って、ようやくヴァイオレットガーデンという、すぐそこの角を曲がればアビーロードというところまで来て南(右手)に曲がればよかったのに、北へ向かって歩いてしまったのだった。
いつまでたってもそれらしい横断歩道に出くわさないので、とうとう諦めてベイカーストリートに戻ろうとアビーロードを南下していたら、何やら道の周りに人だかりが見えてきた。ようやくこれがあの横断歩道だったことに気が付いて、近づいてみるとオッサンオバサンたちが20人くらいで横断歩道を囲み、時折オッサンどもがポーズをつけて渡っていた。
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| ようやく見つけた横断歩道 | ポーズして横断歩道を渡る観光客 |
当方はしばらくそれを見ていたけれど、日本人観光客が見当たらず、白人系の観光客ばかりなので、写真を取ってくれと頼む元気もなく、とりあえず目的を達成したので、再びベイカーストリートを目指して歩いた。ホテルを出たのが10時くらいで、アビーロード探しは2時間もあれば十分と思っていたのに、ベイカーストリート駅に戻ったのは午後2時近くだった。
思い立った時の午後の予定は大英図書館で昼飯を食って中を見て回ろうというものだったけれど、キングスクロス駅で降りて大英図書館に着いたらすでに午後3時、セントパンクラス駅の巨大な教会みたいな外観にびっくりしながら、大英博物館なみの建物を期待していたら単なるモダンな建物だった。中に入るとこれまた現代的なつくりの広い玄関ホールになっていてやや期待をそがれる。
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| モダンな大英図書館正面玄関 | 広々とした玄関ホール |
背中のリュックは当然ロッカーに預けなきゃと思い、案内板に従って、地下の広いロッカールームに行き、同じようなロッカーがズラッと並ぶうちの壊れていないロッカーにリュックを入れて、ロッカールームを出たとたんロッカーの番号をちゃんと覚えてないことに気がついた。確かめに戻って、これだと思ったロッカーに暗証番号を打ち込んでも開かなくて、我ながらボケ老人ぶりを嘆いたが、仕方がないので、地下のホールで見かけた制服をビシッと決めた黒人のお兄さんに、ロッカーが開かないことと当方の記憶が怪しいことを伝えた。
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| 大英図書館のロッカー (右上に「番号を撮れ」の注意書き) |
お兄さんは万能電子カギをもってきてひとつ開けて見せてくれたけど、当方の荷物ではなかった。お兄さんはちょっと考えた後、当方の暗証番号を聞いて付近のロッカーを片っ端から試し、10回目くらいでついに当方が使ったロッカーに行き着いた。
「ありがとうございます。助かりました」と伝えたら、お兄さんは「ロッカー番号の写真を撮っておくといいよ」と言って去って行きました。御尤も、ですね。
ロッカールーム騒ぎが一段落したところで、図書館の各部屋を見るのに必要なと図書館利用証を作る受付に行ったら、なんと長蛇の列。しばらく待って人が減ったところで、受付のおじさん(やはり黒人系)に、「今日はあと2時間くらいしか滞在できないんだけれど、リーダーズパスはもらえるのか」と尋ねたら、おじさんは渋い顔して「今日は客が多くて手続きに時間が掛かってるんだ」とそこらじゅうの机で申請手続きをしている連中を示して、「ちょっと今日は無理じゃないか」といわれた。
仕方がないので、通路をいくつか回ってトイレを借りた後、大英図書館を後にして、ホテルに6時ごろ帰着。
ロンドン最後の夕飯は昨日の感激をもう一度、ということで同じ中華飯店に行って、同じ焼きそば(ヴェジタブルチャーメン)を頼む。この日は前日と違って、中国人の団体客が入っていて、数少ない店の給仕人たちは大忙しで、あまり相手をしてくれなかったが、それでも焼きそばとチンタオビールは同じ味で、じっくり味わった。
ホテルの部屋に戻ってからは、これまで適当にスーツケースやボストンバッグ、リュックにほおり込んでいた土産や洗濯物その他のあれこれを引っ張り出して、帰りの機内で必要なもの以外はスーツケースに詰め込む。翌日ヒースロー第5ターミナルまでは、旅行会社が用意した車が9時に来る予定と聞いていたので、念のため朝5時起きを目指し、最後の熱い湯船に浸って早寝する。
前2日は朝8時ごろにいくと混雑していたので、ビュッフェの入り口の掲示板にあったに「朝6時から8時までが空いてます」という言葉を信じて、予定通り早起きして6時過ぎに行ったらまだ開いてなかった。嘘ツキ。
まばらながら、ほかの待ち客と一緒に列を作っていると30分にオープン。まあ早くいったからと言って料理の種類に変わりはなく、やはりスクランブルドエッグを中心に食べた。出発前にロイヤルナショナルホテルのビュッフェはまずかったというブログを読んでいたので、それほど失望はなかったけれど、もう少しおいしくならないものかとは思いました。
で、荷物をまとめて中庭と抜けて、レセプションに行きチェックアウト。受付のインド系の女性に「ご滞在はいかがでしたか」と聞かれたので、おもわず「よかったです」と返してしまったが、よかったのか?
チェックアウト後、ロビーで、迎えを待っている間、日本のオッサンの声で「みんな、弁当もらったか」というのが聞こえて振り向いたら、高校生くらいの男女がぞろぞろとロビーの奥でたむろしていた。女の子たちの何人かはAKB48スタイルの化粧と制服の着こなしをしていて、近くにいた女の子に君たちどこの高校と尋ねたら、石川県の私立高校だった。いまだにこんな贅沢な修学旅行をしているところもるんだと妙に感心したりした。
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| ホテルのチェックインロビー |
そうこうしているうちに、ホテル玄関からロビーに入ってきた女性が、当方の苗字をローマ字書きした紙を掲げた。近寄ってみると、スラックススーツをビシッと着こなし長い金髪を結い上げた30代半ばぐらいの白人女性だった。
ちょっとドギマギして後をついていったら、車はなんと黒のベンツ。女性は当方の荷物を軽々とトランクに入れて後部座席のドアを開けてくれた。なんとまあ、黒ベンツに黒制服お姉さまのショーファーが、しょぼくれた格好の日本のジイサンを乗せて走るとは。
当方の下手な英語と緊張を察したか、お姉さまが「音楽を流していいですか」と聞くので、「ハイ」と一言。ラジオから流れたのは60年代70年代のヒット曲。これまたなんとまあ、であった。
お姉さまの運転はスムースだったけれど、渋滞を避けるためか街の小道をあちらこちら抜けて高速道路へ出た。途中アクトンという街を通ったけれど、あれはU2の「アクトン・ベイビー」に出てくるアクトンかなどと考えていた(今ググったらU2のアクトンはドイツ語経由ということで、この街名のアクトンとは関係がないし、綴りも違った)。
街の景色を眺めているうちに、ヒースロー空港ターミナル5に到着。お姉さまはさっさと荷物を下ろし、さわやかに去っていった。
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| ヒースロー第5ターミナル ラウンジの様子 |
5階が出国ロビーだったんだけれど、出国手続きと荷物検査は空港内列車で移動して、羽田と同じ作業を行った。スーツケースを預けるバゲージドロップ作業はセルフサービスとあったけれど、係りの女性がやってくれたので、手間が省けた。そのあとは搭乗案内があるまで、空港ロビー内を見て回り、最後はラウンジで休憩。ラウンジでは人が多いものの、ロンドンの街中であれほどいた黒人系やインドパキスタン系の人がおらず、ほとんどが白人系の人だった。
ヒースロー第5ターミナルの羽田行き出発ゲートはかなり辺鄙な位置にあったけれど、無事搭乗。午後1時過ぎにフライト。通路側の席だったので、写真は撮れず。
外は明るいけどディナーとやらでパスタを頼んだら、大きなハマグリタイプだった。1枚残してダウン。そのうち外は明るいままナイトタイムになる。行くときは眠れなかった気がしたが、帰りはさすがにちょっと寝たようだ。行きのCAはイギリスの女性だったけれど、帰りは日本人女性だったことも安心材料だった。
午前11時前に無事羽田着。フライト中の機体の揺れは行きよりもすくなかった。帰国時の手続きは行きに比べると大分簡素化されていて、係員もほとんどいない。京急で品川に向かい、そこで昼飯を食って、午後2時過ぎの新幹線で広島へ。夜8時過ぎに帰宅。
この旅行のため文庫本を2冊持って行ったが、1冊も読了できず。1冊は薄いエッセイ集の堀江敏幸『定形外郵便』。もう1冊は読みやすいエンターテインメントということで、梶尾真治『クロノスジョウンターの黎明』。
堀江作品は『芸術新潮』に連載した1編が3ページの短い美術関連のエッセイを集めたもの。行きの新幹線からパラパラめくっていたが、イギリスに着いてからは、ウェストポーチに入れて持ち歩いていたものの、ほとんど手に取ることがなかった。結局、読み終わったのは帰国後だった。
梶尾真治の方は当方未読のまま、エジンバラでの最後の夜に宮城氏に差し上げた。宮城氏は読まないかもしれないと言ってましたが。
これは、最初の朝にエジンバラの街を歩いてすぐ気が付いた。けれど、何の匂いか見当がつかなかった。ホテルのシャンプーやコンビニで買ったBLTサンドやオレンジミックスジュースにも付きまとう香りだった。ようやく思い当たったのが、ミント/ハーブとミルクを混ぜたような香りだということ。
シャンプーの成分表を読むと、そこにはレモングラスを中心にいくつかのハーブが混ぜられていて、これはロンドンのホテルでも同じだった。宮城氏にそれを伝えたら、氏は全然感じないと言ってました。
念のため10ポンド紙幣を10枚用意したけど、エジンバラでもロンドンでも、この旅行のために新規に作ったコンタクトレスのVISAカード1枚であらゆることの支払いが済んでしまい、結局使わず羽田で両替した。行く前は2万円超で両替したのに、帰国して手にしたのは1万8千円台の金額だった。
コンタクトレスのクレジットカード1枚でのキャッシュレス社会がイギリスにできるのなら、日本だって早晩出来そうなものだが。
スマホはYmobileで機種はPixel8a。ほぼ1日でバッテリが100%から20%に落ちるし、旅行中は国際ローミング(ソフトバンクなのでイギリスではVodaphone)と格安esimを入れてグーグルマップを使っていたけど、7GBがあっという間に消費されて通信速度が最低レベルになった。
エジンバラもロンドンも石造りとレンガ造りの違いはあっても、いわゆる中世近世ヨーロッパのファンタジー世界の名残を留めた街並みがあり、古い城下町で街歩きしているとその手のファンタジーの舞台の中で自分が動いているような気分にとらわれる。
それに様々な人種がいて、ロンドンでは2メートルを超える身長の白人や黒人から小柄なアジア系の人たちまで、また超保守的な服装の年寄からタトゥーだらけの体を露出している若い人まで、そのバリエーションは圧倒的で、とても日本の東京の比ではない。もちろん英語だって早口で何を言ってるのか聞き取れないし、英語ではない言語もそこらじゅう飛びかっている。
それでも身の危険も感じす、助けてくれる人も多いし、なんとなく異世界で客としてもてなされていた感が強い。
ということで、当初思い描いていたのとは違う旅になったものの、振り返れば楽しかったと思えるイギリス旅行になった。
大変お世話になった宮城氏には感謝の言葉もないくらいだし、90歳で長時間の散歩に付き合ってくれたWilfさんには帰国後すぐにお礼のメールを送った。
また要所要所でいろんな人が手助けをしてくれたおかげで、大きなトラブルもなく帰国できたのはラッキーといえるだろう。
もう一度行きたいかと言われれば、14時間以上にわたるフライトさえなければ行きたいです。
以上、こんな長大な駄文を最後まで読んでくれた方には心から御礼申し上げます。