大野万紀
6月のSFファン交流会は6月28日(土)、『『伊藤典夫評論集成』に日本SFの歩みをみる』と題してzoomにて開催されました。
出演は、樽本周馬さん(国書刊行会 担当編集者)、白石朗さん(翻訳家、元編集者)、牧眞司さん(SF研究家)、大森望さん(翻訳家、書評家)、大野万紀です。
写真はZoomの画面ですが、左上から反時計回りに、樽本さん、牧さん、大森さん、みいめさん(SFファン交流会)、白石さん、大野です。
以下の記録は必ずしも発言通りではありません。チャットも含め当日のメモを元に簡略化して記載しているので間違いがあるかも知れません。問題があればご連絡ください。速やかに修正いたします。
まずは樽本さんから『集成』が20年かかってどのように作られたのかという話。
この企画が始まったのは2005年くらい。樽本さんが鏡明さんや高橋良平さんと話していたとき、高橋さんがその昔、東京創元社で伊藤さんや浅倉さん、野田さんのSFMでの連載を集めた叢書を出そうと考えていたが、結局野田さんの(『「科學小説」神髄』)だけが出て、伊藤さんも浅倉さんも立ち消えとなったという話を聞く。
そこで樽本さんは国書刊行会で企画を書き、浅倉さんの『ぼくがカンガルーに出会ったころ』を出した。元原稿はあるのだから、伊藤さんの本も400ぺーじくらいですぐ出せる気でいた。ところがリストにないものがいっぱいあると気づく。SFM以後に映画関係とか知らないものがいっぱいあって、それを集め出すと延々と時間がたっていく。そして約10年。
どんどんページ数が増えていったが、どうせなら急いでもしょうがないのでカンペキを目指そうと。カンペキな索引も作るのだ。そして20年――。伊藤さんからはあれどうなっているかとか催促するようなことはなかった。
鏡さんも高橋さんも、絶対に伊藤さんにゲラを見せてはいけない、徹底的に手を入れようとするので、いつまでも出せなくなるからと言っていた。でも最後の最後、刊行の数ヶ月前に覚悟してゲラを持って行ったら、まあよろしくとおっしゃっただけだった。見本を持って行ったときに感想を聞いたら、これはもう太刀打ちできないなと(自分の本なのに)おっしゃった。
読者の方から何で1冊なのか、2冊、分冊にしてもいいんじゃないかと言われるが、分けたら最初の方しか買ってもらえないのは確実。国書では千何百ページ1冊なんて本はよくあるので平気。
大森さんはまず本書の凡例と索引が如何にすばらしく出来ているかを力説する(SFM8月号「大森望の新SF観光局」)。これだけの本が通読することを前提に作られていて、これを読み終われば立派なSFマニアになれると話す。
次は各ゲストによる伊藤典夫さんとの出会いや印象に残っているエピソードについて。
最初は(最年長ということで)ぼく、大野万紀から。ぼくが最初に伊藤さんの存在を知ったのは70年代初めの高校生のころ、SFマガジンを読み始めたころで、当時は作家に比べて目立たない存在だったはずの翻訳家が、こんなにキャラ立ちしているとは! とにかく面白くてのめり込んだ。
大学に入ってSF研に入り、海外SFファンの安田均さんと知り合ってKSFA(関西海外SF研究会)の一員として活動するようになり、いつの時だか忘れたが、安田さんに連れられてKSFAの仲間と東京SF旅行に行った。そこでまだ木造だった早川書房や、伊藤典夫さんのマンションや野田昌宏さんのマンションも訪れ、部屋中いっぱいの洋書にびっくりしたことを覚えている。二人とも部屋の中は同じような印象だった。今でこそSFがいっぱいの部屋など珍しくもないが、当時のぼくらには衝撃だった。それから(別の時だったと思うが)「翻訳勉強会」にも連れて行ってもらった。海外の人を呼んで翻訳の勉強をするという趣旨の会だったと思うが、翻訳をしない水鏡子が一番のめりこんで一時期は毎回参加していたと思う。というのもぼくらにとってはSF大会の合宿のノリで、SFの偉い人と会って気楽に話ができるのが楽しかったのだ。(注1)
伊藤さんのSFマガジンの文章では海外SFの小説家の話と同時にファンの話もいっぱいあって、そこでSFプロダム、SFファンダムとはどういうものなのか、「SF界」とはどういうものなのかという情報を知った記憶がある。ファニッシュとサーコンという用語も知ったが、伊藤さんにはその両方の要素があった。これはお手本にしなくてはと思った。伊藤さんのいるところがSFだ、という雰囲気があった。
仕事の方ではSFマガジンに伊藤さんと浅倉さんの監修で「SFエンサイクロペディア」を訳した時のことが特に印象に残っている。ぼくの訳したゲラに伊藤さん、浅倉さんが赤を入れて返してくださるのだが、伊藤さんと浅倉さんでは全然違って、浅倉さんがきちんと間違いや曖昧なところを指摘して下さるのに対し、伊藤さんのはほとんど全面に赤が入って、伊藤さんならこう訳すという感じのものだった。どちらも大変勉強になったのだが、伊藤さんの指摘どおりにしたらこれは伊藤訳になってしまうと困惑した記憶がある。
白石朗さんは83年に早川へ入ったが、当時伊藤さんが訳していた『2010年宇宙の旅』の原稿を伊藤さんの家に毎日行って、郵便受けに入っている前の晩にできた原稿をもらってくるというのが仕事だった。すでに伊藤さんのファンだったので生原稿が読めるのが嬉しかった。でも伊藤さんは調べ物があるとそれを解決するまでは翻訳が止まってしまうタイプなので、ある日行くと「今日来るとは思わなかった」と言われ「まあ上がっていけ」と部屋に入れてもらった。「聞いたところによると、お前、<SF>なんだってなあ」とマニアックな話をしたはずだが、緊張していたのでほとんど覚えていない。本は何とか無事に完成した。
牧眞司さんにとって伊藤さんはSFを紹介するプロの側面と、悪童的なファンの側面があって、中学の頃に読んだ『SF入門』に書かれていた(子供向けではない)海外SF紹介に強い影響を受けた。SFマガジンを読むようになって、伊藤さんのプロの側面に触れたが、ファンダムに入って「エドコン」のプログラムブックに伊藤さんが書いたファニッシュさまる出しの文章で伊藤さんのファンの側面にも触れた。ヒンコンではスタッフに入り海外SFの分科会で伊藤さんをゲストに呼んだ。伊藤さんがペリーローダンのファンに皮肉な言葉をかけていたのが印象に残っている。そのころから生身の伊藤さんに接するようになった。それからの話を始めるともうキリが無い。
大森望さんは伊藤さんのSFマガジン連載に洗脳され、高校時代はすっかりニューウェーヴ派になっていたのだが、そこへ伊藤さんの「スターウォーズは素晴らしい」という文章を読んで、ハシゴをはずされた気分になった。水鏡子に誘われて翻訳勉強会に参加し、伊藤さんに京大SF研のことを話すと、「京大SF研は〈ワークブック〉というのを出しているだろう」と言われ「でもこの英保未来というのが卒業すると大丈夫なのかな」と言われたので「ぼくがその英保未来です」と答えてびっくりされた記憶がある。書いていたものが伊藤さんが〈宇宙気流〉に書いていたものと良く似た傾向のものだったのだ(実際は直接影響を受けたわけではなく、KSFAや関西ファンダムが出していたファンジンの影響が強いのだが)。
新潮社に入ってから翻訳勉強会に毎回行くようになり、ブラッドベリの恐竜小説アンソロジーなどで伊藤さんにお願いするようになり、それから『スペースマン』『スターシップ』というテーマアンソロジーを新潮文庫から出すことになる。水鏡子に基本リストを作ってもらったり合宿をしたりしたのだが、水鏡子が自分が関係者であるにもかかわらず「目次評論家」としてこの目次は美しくないといった文章を書いたのが伊藤さんの逆鱗に触れ、『伊藤典夫評論集成』の別冊付録に反省文(全然反省していない)が載るという、様々な事件が起こって面白かった。自分で出したファンジンでもプロの仕事でも文章を書いていただき、結婚する時には仲人までしていただいたが、伊藤さんが結婚式に遅刻して来て大変だった。まあそれはSFとも評論集成とも関係ない話だけど。
第二部は各ゲストによる『評論集成』のここがお勧めという話。
また最初は大野万紀。ぼくのお勧めは「北アメリカSFの旅」。76年のSFマガジン76年に載った、伊藤さんが生まれて初めて海外旅行に出かけ、それも1ヶ月近く一人でSF関係者のところをあちこち回って来るという旅行記だが、とにかく面白い。中でもとりわけ印象に残っているのが、SF大会に参加し、パーティで酔っ払ったラファティに遭遇するところ。ラファティは誰彼構わずふらふらと近づいて来ては、Bang!と言ってぶつかってくる。写真も載っていたがとても可愛い「ぶつかりおじさん」で、ああラファティってやっぱりこうなのねと強く印象づけられた記事だった。もっとも後で実際のラファティと話をした人に聞くと、(酔っ払っていない)ラファティはとてもまともな人だったとのこと。まあそうなんでしょうね。
白石さんのお勧めは〈SF宝石〉に載っていた伊藤さんのブックレビュー。特に海外SFの書評は翻訳SFに興味のある人たちの間でも注目されていた。作品そのもののレビューの他に、その訳文についてチクッと刺すようなことが書いてあって、もし自分がやられたらと思うとぞっとするようなことが書いてある。短い字数の中で海外SFの中での位置づけとか読みどころとか、さらに評論家としての寸鉄人を刺すような一言とか、すごいなと思った。忖度なく、作品評をはっきり書く姿勢は、〈宇宙塵〉などファンジンに書いていたころから一環していてブレがない。日本作家に対してはそこまで辛辣ではないが、中には「かなりいい英米SFを悪訳で読まされている気がした」なんて怖い書評もあった。今読んでもとても面白い。
牧眞司さんは、「みらい子氏に答える。ティプトリーをめぐる問題」と付録についている加藤弘一さんのインタビューが評論家としての伊藤さんのSF論がよくわかるのでお勧めだが、個人的に印象に残っているのは「エンサイクロペディア・ファンタスティカ」の「宇宙創造者たち(1)」。伊藤さんがニューウェーブの話を書いた時、保守派としてJ・J・ピアスのことを書いたら、お便りがあって「日本にもJ・J・ピアスがいる。その人は各方面でニューウェーブSF粉砕!を叫んでいる」という話をまくらにしているのだが、その文章だけでも中学生だった牧さんには、日本にこういうファンクラブがあり、大学にSF研があり、星雲賞というものがあると、多数の生々しくくらくらするような情報を読み取って「すげえな」と思ったそうだ。伊藤さんの文章の続きには、ウォルハイムのアンソロジーの目次が書いてあり、これらの作品は「日本版アメージングストーリーズ」で読めるとあって、そこでこれを探そうと古本心も刺激された。
大森望さんは伊藤さんの書いたSF大会のレポートがお勧め。九州で23日からあるSF大会に20日から行くことに決まったとあり、その前に原稿を書いたり、洗濯物を乾かしたりしなければいけないなどと、タイムリミットサスペンスのような出だしから、鏡明さんとやっと電車に乗って出発するのだが、途中で様々な出来事が起こる。その珍道中がとても面白い(これが後に「北アメリカSFの旅」につながる)。有名な人も無名な人も多数登場するが、それを索引に拾った樽本さんも大変だったろう。レポートといいながら、会場に着いたところで力尽きて終わっている。
こういうファニッシュなノリがSFスキャナーなどにもそのまま地続きに残っており、真面目な部分と笑える部分が絶妙にバランスしている。特にSF媒体では内輪のノリと外向けの文章にあまりはっきりした違いをつけておらず、SFマガジンは〈宇宙気流〉の延長線上にあると思っていたのかもしれない。
『評論集成』というと難い文章をイメージする人が多いだろうが、こういうSFファンの青春記というべき話も多く(伊藤さんはこの時20代だった)笑いながら面白く読める。
樽本さんはもし伊藤さんがゲラを見ると言い出していたら、きっとこういうものは外されたに違いないと語る。残ってよかった。樽本さんのお勧めは〈面白半分〉に載っためちゃくちゃ翻訳。樽本さんは親の買っていた〈面白半分〉を小学生のころから読んでいたのだそうだ。『評論集成』の本が出たとき、わざわざ「ライ病棟の感染者たち」が載っていないねと言う人がいたが、これを外したのはわけがあってちゃんと断りを入れている。このめちゃくちゃ翻訳の連載が伊藤典夫さんの本質だと思っている。今読んでも完成度がメチャメチャ高い。今回の『評論集成』では、もともとのレイアウトをほぼ完全に再現したつもり。
出版後、これがないという指摘がいくつかあったが、一番ショックだったのは「スターウォーズ」についての文章。あるはずだと相当探し回ったのだが見つからなかったものだ。出版後に教えてもらってギャッと言った。
樽本さん提供で、伊藤さんの肉声も(少しだけだが)聞くことができました。今は車椅子生活とのことでしたが、声はまだまだお元気そうでした。
本会終了後の二次会でも面白い話がいっぱい出たが(ぼくはコードウェイナー・スミスと伊藤さんの関わりについて話をした)、長くなりすぎるので割愛します。ごめんなさい。
(注1)ファン交ではこういうような発言をしたのだが、気になって後日水鏡子や岡本俊弥に確認したところ、どうもぼくの記憶とは異なっているようだ。KSFAの東京旅行も1回ではなく安田さん主催でメンバーが変わって何回かあったらしい。岡本さんと水鏡子は、早川書房や野田昌宏邸には行っておらず、NW-SF社を訪問して山野浩一さんや山田和子さんと話をした記憶があるという。ぼく自身の、安田さんに連れられて早川書房や野田昌宏さんを訪問したという記憶ははっきりしているのだけれど、もしかしたら別々の記憶をごっちゃにしているのかも知れない。
翻訳勉強会についても、誘われて最初に行ったのは70年代末か80年代前半で間違いないはずだが、水鏡子が毎回のように参加していたのは80年代末から90年代前半にかけてで、これは複数の証言があるので確かだろう。こういう昔のファンダムの話も記録がほとんどなく、頭の中にあるだけなので、いずれ消えてしまうものなのでしょうね。
7月のSFファン交流会は、7月19日(土)14時から「魔窟王はいかにして二万五千冊減らしたのか?」と題し、日下三蔵さん、小山力也さん、近藤碧さんをゲストに招き、蔵書の管理(管理?)についてお話を聞くということです。今回もzoomによるオンライン開催です。