続・サンタロガ・バリア  (第253回)
津田文夫


 今年も早12月、今年も当方より大分若いSF作家たちが逝去して、残念としかいいようがありません。古稀も間近でいろいろと故障しつつある当方は取りあえず来年も長らえるのであろうか。みなさまは良いお年を。

 月中にお袋の入院騒ぎでテンヤワンヤして、やや落ち着いたところで見に行ったのが、『ゴジラ-1.0』IMAX版。いつものとおり前情報は入れないはずが、戦後間もない東京にゴジラが現れる、というぐらいのことはスマホの情報サイトに流れてくるのだった。
 戦後の日本にゴジラが現れて占領軍と戦うような話を、昔藤元さんが紹介されていたように思うが、実際に見た映画の設定は、占領軍どころかボランティアがゴジラとの戦いに乗り出す話になっていた。
 プロローグは、特攻機の零戦が故障のため大戸島に着陸、班レベルの僅かな数の整備兵しかいないところへ、この島に伝説として伝わる「呉爾羅(ゴジラ)」が出現、特攻機のパイロットが零戦の20ミリ機関砲の引き金を引けず、結局パイロットと整備班長だけが生き残る。故障と偽って生き延びたパイロットはそれを知る整備班長と共に復員船で帰国の途に就く。
 舞台設定はそれなりに工夫されていて悪くはないのだけれど、東京の焼け跡のセットの中をうごく主人公のパイロットと疑似家族となる若い女性にリアリティはなく、隣のおばさん役の安藤サクラだけが生き生きとあの時代のリアリティを匂わせていた。
 メロドラマ部分には時々眼をつぶってしまったが、主人公が掃海隊員に志願するあたりから当方の現役時代の知識(基本的には防衛大学1期生で後に同大教授となった故平間洋一先生の受け売りだけど)が蘇ってきて、やや画面が上の空になる。それでも相模湾でのゴジラ再上陸に備え、駆逐艦「雪風」以下旧海軍艦艇4隻を使って作戦準備するシーンで、伊福部ゴジラのテーマソングが響き渡って、いきなり涙が出たのには驚いた。条件反射だねえ。
 戦後史に関するくすぐりがアチラコチラにちりばめられているけれど、それが主眼では勿論ないので、第1作へのオマージュを含めゴジラ登場場面を楽しむのが吉な作品でしょう。 

 前回、単行本になったので読んでみようと書いた川野芽生『奇病庭園』は、「文学界」に掲載された部分がそのまま冒頭の数編をなしている。
 目次は4部からなり、第3部が90ページの中編1本だけで立てられている以外は3部とも1ページ足らずから十数ページの掌編からなる。
 目次の前に「序」が置かれそこで、角、翼、鉤爪、尾、鱗、毛皮、中には魂を奇病で失ったものたちが出て来て、健常者(それらを保ったものたち)がかれらを庭のような所へ集めて去って行くと、「何千年の何倍の時」を経て庭園に再び失ったものを生やしたものたちが生まれるようになったと解説され、そして「物語はそこから始まる・・・始まらないのが一番ではあったにせよ」と結ばれている。
 序文を読むと山尾悠子を髣髴とさせるけれど、この作者は幻想への集中的な志向がある一方で、どうしてもストーリーラインを語りたい、お話を展開したいという衝動が強く、物語が駆動し始めると幻想がストーリーによって背景へと後退してしまうように感じられる。いかに硬質な言葉でイメージや奇想が語られようとも、第3部のようにストーリーでドライヴすると通俗性が勝つのである。それは読み手次第なのかも知れないが。

 スマホのニュースアプリにインタビューが何回か流れていた小川哲『君が手にするはずだった黄金について』は、作家になる大学院生時代の頃から長編第2作で山本周五郎賞を受賞する頃までの自身の経験を連作小説にした形の1作。
 SF作品でデビューしたことは一切書いていないので、SFとの関わりも冒頭の1作にハインラインが自室の散らかった本の中にあり、次の作品「三月十日」には、彼女に貸した本の中にテッド・チャンがあり、そのほか伊藤計劃が言及される程度。ということで、いかにも「小説家小川哲」が実在しているかのような私小説を装ったつくりになっている。
 「プロローグ」と題された冒頭の1篇は、大学院在学中の語り手が新潮社の編集部を受けようとエントリーシートを埋めようとしたところ、ある質問に引っかかり、彼の部屋にいるガールフレンドとそのことで会話するところから始まり、結局語り手は小説を書くことになり、ガールフレンドは身を引く形で去って行く。ちょっと村上春樹っぽさを感じさせる。
 「三月十日」はタイトルからも見当されるように、あの大震災の前日に語り手は何をしていたかを掘り起こす話。ここでも大震災の頃から付き合ったガールフレンドとの思い出話から現在の別れ話になって、『あなたの人生の物語』はその時彼女から返された本の中の1冊。
 「小説家の鏡」は最近結婚した友人から、妻が怪しい占い師に入れ込んでいるので助けて欲しいと頼まれ、語り手が占い師と対決する話。表題は占い師のつくるフィクションが小説家の作業とうり二つではないかという意味。
 表題作「君が手にするはずだった黄金について」は、大言壮語癖の大物ぶりっこだった高校時代の同級生とのその後の関わりを書いた1篇。この男に懐かれて語り手は閉口したが、その後は数年前に偶然顔を合わせた程度だった。同窓会でその男が羽振りの良い投資コンサルをしていると知ったが、この男が元クラスメイトの誰にも信用されていないことがわかる。結局その同級生が詐欺罪で逮捕され、彼との関わりは終わる。そして語り手は以前交わした彼との会話から、そのやり口は小説家の持つニセモノ性に似ているのではないかと思い至る。
 「偽物」は、取材帰りの新幹線で出会った漫画家との関わりから、彼のニセモノ性が彼の生きる方法であることに思いいたり、それもやはり作家である自分に返ってくるのだった。偽物の象徴として超高級腕時計のニセモノが出てくる。
 巻末の「受賞エッセイ」は、早川書房から出した長編第2作が山本周五郎賞候補になったとという話とクレジットカード情報が抜き取られアメリカで使われた話に、締め切りに追われて短篇を書くという不慣れ経験を加えて、結局注文を受けて書くプロ作家を決意するまで、まさにエピローグになっている。
 読後感からすると、オビにある〝承認欲求のなれの果て”が描かれているとも思えない。その言葉は作中に出てくるけれど。
 まだ片手ほどの単行本しかない小川哲はSF小説コンテスト大賞作でデビューして以来、新作を出すごとに何らかの賞を取るという世間的な評価の高い作家となっている。おそらくこの作品もそれなりの評価を受けると思うけれど、今後SFプロパーな方向はないかもしれないな。 

 全くSFではないという点では小川哲よりもさらに遠い小山田浩子『小島』が文庫化されたので読んでみた。400ページ弱に14編を収めた短編集。
 前回までに読んだ短篇集は、それでも些細な日常がマジックリアリズム化する印象が強かったのだけれど、ここに収められた作品群は些細な日常が更に細かくなって、マジックリアリズムというよりスーパーリアリズムもしくはハイパーリアリズム化しているように見える。この作者は描写も会話も独白もすべて1段落の中に入れてしまうので、1段落が複数ページに亘ることもあって各ページが黒い。あと作品のタイトルからはその内容が全くわからない。
 冒頭の表題作「小島」は、作者の地元広島の水害(平成30年?)被災場所に行って災害ボランティアをする話。語り手は集合場所から他のボランティアとバスで移動し、以前最初にボランティアに行った場所とは違う人家での作業に精を出しながら、見たこと思ったこと聴いたこと行動したことを書き尽くす。登場人物名は「尾畠さん」みたいな有名人以外カタカナだ。
 ではタイトルの「小島」とは何かというと、土砂撤去作業の中で「泥の海に出来た小島のように見えた」庭の一部。休憩中何人かのボランティアはそこへ座っておしゃべりしているという場所。読んでるときはそこがハイライトされてるようにも思えないけれど、でもタイトルになっている。
 今回の作品集の特徴はなんと云っても「見たこと思ったこと聴いたこと行動したことを書き尽くす」ことだろう。
 「けば」という20ページの小品では、出社途中に道を歩いていると幼児の声が聞こえ、顔を向けると幼い兄弟が「踏んだ?」と聞くので足下を見たら潰れた動物の死骸があり、幼児たちとのやりとりとこれは何の死体かという思いがその家の父親の帰宅により断ち切られたことを僅かな段落で数ページに亘り綴ったあと、場面は退勤時に課長の誘いで始まった飲み会の細密世界に移る。
 最終ページで報告されるのは、飲み会の翌日に休暇を取ってから出社したら、飲み会に来ていた新人の男子と女性陣の内自分と2人しか参加してなかったもう一人の女性が退社していたこと、そしてあの幼児たちの家が空き家になっていたこと。この感覚が日常を奇想小説みたいに変貌させるのだ。
 目次を見ると、巻末に近い掌編3編のタイトルが1字下げになっていて、なにかと思ったら広島3部作とも云うべきものだった。
 「異郷」は夫の転勤で東京から広島に来た若い女性が、生まれて初めての就職をした小さな会社の事務所に初出勤して、広島弁満載の和気藹々とした雰囲気に安心したところ、翌日にはそれが一瞬にして冷たいものへ変わり、3日目には再びもとへ戻るまでを描く。
 「継承」はカープファン一家のエピソード。母親は筋金入りのカープファンなのに観戦どころかテレビでも試合をリアルタイムで見ない。なぜかというと以前見に行った試合すべてで負けたかららしい。そんな話が続いた最後、娘も見に行く試合は負けている。しかし娘は思う。そこには何かルールがあるはずだ、私が見るとカープが負け続けるのは、どこかに私が知らない世界のルールがある・・・。なんか高山羽根子みたい。
 最後の「点点」は、東京の本社から転勤で広島へ来た少し年上の彼に好意を持ったカープファン一家の娘の語る1編。娘は彼と一緒に飲みに行くくらい仲良くなって、技術者だった彼の父親が仕事で広島にいたとき、カープファンでもないのに山本浩二に声を掛けられて舞い上がった話を聞き出す。そのために彼の名前は浩二になったというのだ。この掌編にはそこら中に新旧のカープ選手の名前がちりばめられていて笑ってしまうが、結末で彼は東京に戻ってしまうのだった。
 いや、すばらしい。

 素晴らしいのは、内田昌之さんの訳者あとがきでこれが作者の遺作になった経緯が綴られているルーシャス・シェパード『美しき血』も変わらない。これで「竜のグリオール」シリーズもおしまい。ありがとう竹書房。
 これはシリーズ唯一の長編(でも短い)で、時代的にはシリーズ第1作の中編「竜のグリオールに絵を描いた男」(そうか訳者は内田さんだったか)とほぼ重なる。
 今回の主役は絵描き(脇役で出てくる)ではなく、エキセントリックな医学生として登場し、益体もない揉め事で偶然竜の血の効用を発見して町の名士にのし上がる、グリオールに見込まれた/呪われたとおぼしき青年の一代記になっている。
 主役が意識を失う度に時間が経過し、コマ落とし年代記になっているため、260ページのコンパクトな長さの中に長い時間とドラマが詰め込まれている。グリオールの身体にかかわる描写は相変わらず美しいが、主人公は後半中米とおぼしき外国との争いに駆り出されるのでグリオールから離れてしまう。
 そのように話は紆余曲折するが飽きることなく読めるし、これが最後の作品になるだろうと覚悟した作家の遺作であることがピンとくるような書きっぷり(特にエピローグ)でもあった。改めて合掌。

 著者自らこれが最後の作品集と云っているらしい筒井康隆『カーテンコール』は小品25編からなる1冊。ただしこの前に出版された短編集『ジャックポット』から「花魁櫛」と「川のほとり」が再録。こういうのはちょっと珍しい。この短編集の企画に見合う作品として入れられたか。
 いつのまにか文芸誌の常連みたいになった作者だが、この短編集に収録された作品も文芸誌や文芸PR誌に掲載されたものがほとんど。第1世代の作家がバリバリとSFを専門誌に発表しだした60年代から中間小説誌といわれたエンタメ系文芸雑誌で普通に活躍するようになった70年代の頃からするとまさに隔世となった気がする。半世紀は長いのであるな。
 そして収録された25編は、その半世紀に以上に亘る作者の作風のカタログ集とでもいえる様相を呈している。すなわちスラップスティックから人情小話まで、言語実験から老人小説までをわずかなページ数(それ自体は作者の年齢から来る省エネ術だろう)でこなしてみせている。
 個々の作品はスゲェなと感心するものからさすがにちょっと古めかしいと感じるものまで様々だけれど、こうした作品を次々と書き続けられること自体、筒井康隆がこれまで作家として積み重ねてきた膂力の賜物であることに違いない。

 新☆ハヤカワ・SF・シリーズの新刊は、そんなのあったんだ、な、アーシュラ・K・ル・グィン『赦しへの四つの道』。30年前近く前に出版された〈ハイニッシュ・ユニバース〉ものの連作短編集。しかも訳者は小尾芙佐というのだからビックリ(小尾さんお元気なんだ)。巻末用語集のみ鳴庭真人氏訳なので表紙には「小尾芙佐・他=訳」と記されている。それにしてもこのタイトルはポール・サイモンの曲名を思い起こさせますね。
 収録された中編4作の舞台は、伝統的に奴隷制が維持されている惑星ウェレルとその隣にある植民惑星イェイオーウェイ。植民惑星の方は、自由民となった住民が力を得てウェレルと戦争した後、〈エクーメン〉に援助を求めた。
 ということで大テーマは奴隷制だけれど、それはまた女性の置かれた立場すなわち所有者の奴隷でなおかつ男奴隷の奴隷というものも含む。充分に経験を積んだ作家であるル・グィンは現実のアメリカの黒人奴隷史を再演しながら、〈エクーメン〉から派遣された人物も含めて自在にキャラクター動かして、若いときの真面目一方ではない多面的な考察を施している。もっとも、ウェレルの支配階級が黒人で奴隷階級が白人ぽいのはサタイアとしてクリシェともいえるが、読んでいるとどうしても黒人に見えてしまうのは仕方がない。
 ある意味大先生の講義のような面も感じられるけれど、読み終わって一番印象的なのは、各作品の主要登場人物の老若男女が恋愛をして、なんとハッピーエンド風に終わっていること。

 6作中4作が既読の宮澤伊織『ときときチャンネル 宇宙飲んでみた』は、一応社会人らしい十時さくらが同居人の天才的科学者/発明家の多田羅未貴をネタに配信を始めて、毎回現代数物理学のトピックを使った大風呂敷なアイデアで起こるテンヤワンヤが生配信される様子を描くコメディ。大風呂敷なアイデアとその展開の元となる情報は、同居人が偶然繋げてしまった高次元空間を流れる通信網《インターネット3》から得られたものらしい。個人が宇宙と繋がって狭い範囲で無限の可能性を消費するという点では、一種のセカイ系でもある。
 この作者の趣味である女性コンビ設定にはあまり興味が湧かないが、この作者の現代数物理学のトピックをエンタテインメント話を仕上げるパワーは尋常ではない。なので、初読再読に限らずそのムチャブリには感心するのであった。
 そういや現役時代に調べた人物で「十時菊子」がいたな。「菊」と「さくら」なら子孫かも(違います)。

 順調なペースで刊行され続けている井上雅彦監修『乗物綺談 異形コレクションⅬⅥ』は、タイトルから分かるようにかなり窮屈なテーマ設定で所々で同じ乗物が出てくるのは仕方ないところ。それでも各作家それぞれの工夫は監修者も云うように十分評価できるだろう。
 収録作家は、久永実木彦、坂崎かおる、大島清昭、芦花公園、澤村伊智、宮澤伊織、篠たまき、柴田勝家、上田早夕里、斜線堂有紀、空木春宵、平山夢明、井上雅彦、黒史郎、黒木あるじ、有栖川有栖の16名。久永実木彦と坂崎かおるが初登場、大島、芦花が2作目とのこと。
 久永実木彦「可愛いいミミ」は、いわゆる悪魔の車バリエーション。狂気のまま終わる。この間読んだ作品集でも思ったけれど、ホラー系の作品で筆が冴える作家だったんだ。
 坂崎かおる「封印」は、語り手が兄に話しかける形で叔父のことを語る1作。叔父は昔地方で書かれた新聞記事原稿が鉄道で送られていた時代に貨物列車の車掌をしていたが、ある日封印の剥がれた封筒の記事原稿を読んでその内容が未来の出来ことだったと気づく・・・と云うことで、これはいわゆる時間怪談ですね。
 大島清昭「車の軋る町」は、平安時代から知られる「火車」伝説を現代の山形県の辺境の町に蘇らせた1作。安定した語り口で読ませる。
 足花公園「カイアファの行かない地獄」は、狂気を感じさせる語り手による救いようのない復讐譚。回送電車が悪夢を見せる回想電車になっている。これはこれで好きかも。
 澤村伊智「くるまのうた」はベタなタイトル通り、語り手がライターをやっていた時代の古いハードディスクを再生してみたら、ある時期子供たちの間で流行った怪談でナゾの移動販売車から流れる奇妙な歌に関するPDFがあった・・・ということで、これはコワイ「くるまのうた」の話。上手い。
 最近このひとの作品をよく読んでいるような気がする宮澤伊織「ドンキの駐車場から出られない」もタイトル通りの話で、こちらは車を運転する女子と助手席の女子の2人漫才。ネタは当然SFじゃなくてネットロア系ですね。
 篠たまき「天眼通(てんげんつう)の夢」のタイトルにある「天眼通」とは、未来を見通す能力だと冒頭で解説されているが、ここでは一種の予知夢で、語り手の天眼通はエロチックな執着と化している。
 ここからはSFファンにお馴染みの顔ぶれが続く。
 柴田勝家「電車家族」は、監修者解説でも指摘されているように、作者が研究者として身につけた教養を想像力のバネとして結実させた1作。アンソロジーピースになるかも。好調です。
 上田早夕里「車夫と三匹の妖狐」は、明治初期、銀座煉瓦街が出来た頃の一途な人力車引きがタイトル通り妖狐に見込まれる話。作者の歴史ものへの関心が近代日本にも及んできたことを窺わせる1作。
 斜線堂有紀「帰投」は、いきなり語り手が、自分は腸で他の5人と繋がっているというシチュエーションを語って読者を驚かす。話の方は、さまざまな種類とグレードの超能力者の子供が集められて戦争に使われる世界で、物語は語り手の少女が子供の頃連れてこられ、その施設にいた年上の少年とのエピソードになっている。悲劇的な結末が冒頭へと繋がる。これは超能力SF系。超能力者の戦争動員という点でティドハーの『完璧な夏の日』を思い出す。
 異形コレクションに斜線堂有紀がいればこのひとがセットで入っていると期待される空木春宵「新形白縫譚(しんけいしらぬいものがたり) 蜘蛛絲怨道行(くものいとうらみのみちゆき)」はタイトルも長いけれど、50ページ近くある集中で一番長い1編。
 話自体は、監修者の紹介にあるように、戦国時代の九州を舞台に大蜘蛛を駆って復讐を遂げる姫様という怨念の伝奇物語が原型になっているとのこと。なので話自体は典型だけれど、文体が尋常でなく原型の文章は江戸時代の刷り本みたいな擬古文調、舞台が明治初期に変われば明治風と時代の変化に合わせた文章で綴ってある労作。時代は戦時中からLHCや時速1800キロの列車が走る未来まで延びている。SFかとも思えるけれど、「怨」エネルギーで動いているところがミソ。物語としてやや大味なのが惜しい。
 平山夢明「スイゼンジと一緒」もタイトルからは内容が伺えない1作。「スイゼンジ」は視点人物が車で東京から大阪へ運ばされる猛獣の名前。チンピラにさえクズと見下されるような男二人が車に乗り込んでの道中もの。視点人物は心臓移植が必要な幼い姪のために命を賭ける。しかし皆殺しの唄が奏でられるのはお約束。堂に入ったつくりで上手い。
 井上雅彦「男爵(バロン)を喚ぶ声」は、精神科医レディ・ヴァン・ヘルシングと司書ジョン君がヴィクトリア朝のロンドンで怪奇な事件を追う物語シリーズの1編だと監修者解説にある通り、今回も司書ジョン君の報告書である。タイトルからは何となく狼男が連想されるが、ここではヒネりにヒネられてなんと日本の古物妖怪変化説で迫る。
 黒史郎「カーラボスに乗って」の「カーラボス」って何と思うけど、読めばわかるので調べるな、というのが監修者の弁。これは史上最兇の4人の犯罪者がどうやって処刑されたかを、一番最後まで生き残って最悪の処刑方法を執行された男の視点で語った1編。今回読んだなかで一番ビックリした。50年代SFです。
 黒木あるじ「キャラセルは誘う」も「カーラボス」同様謎なタイトルだけれど、こちらは辞書で調べても分からない登場人物の名前。舞台は100年前に当時の成金が建てた大きな中庭を囲む建物で、現在はサナトリウムになっていて視点人物はそこに収容されている少年。サナトリウムには首なし黒馬の幽霊が出るという噂があって、ある夜少年もそれを見る・・・。なかなか盛りだくさんな因縁話が積み重なっていて面白く読める。なんといっても少年がサナトリウムから出られる結末が良い。
 トリはベテラン有栖川有栖「スーパーエクスプレス・イリュージョン」で、子供にトランプ手品を見せるぐらいとなった引退したマジシャンの男性が語り手。田舎の宏大な敷地に隠棲するマジシャンのところへライターがやって来て、マジシャンが引退するきっかけとなった事件について調べているという。事件とは、山形新幹線の2本の列車が連結した形の片方の列車内で、女性マジシャンが胸にナイフが刺さった状態で死んでおり、彼女は引退したこのマジシャンとの間で何かと噂があった。その事件にマスコミが食いついたのは、連結されたもう1本の列車にこのマジシャンが乗っていたからだった。
 興味本位の連中がこの出来事に付けた名前が表題になっている。ベテランらしい落ち着いた作りのミステリ。良い感じ。
 この作品の初めの方で、トランプ手品をクロース・アップ・マジックといって人間を消すようなのはイリュージョンというと解説されている。で、思い出したのがお気に入りのジャズ・ピアニストのジョージ・ウォーリントンが引退する前に出した「手品師」。原題は“Prestidigitator”で、プレステディジテイターと云う発音はいまだに出来ないのだった。
 そういえばプリーストの『奇術師』の原題は“The Prestige”プレステージでしたね。こちらは妄想・幻想または騙すことらしい。ついでに思い出したのは、昔出たウェットン/ブルフォード時代のキング・クリムゾンの演奏を収めたライヴCD4枚組函セットのジャケットがプレステディジテイターのイメージだったこと。

 ノンフィクションは大分前に読んだ1冊だけ。

 ポツポツと読み続けている講談社学術文庫の中国史。今回は川本芳昭『中国の歴史5 中華の崩壊と拡大 魏晋南北朝』。親本が2005年刊、2020年12月に文庫化されて、手元にあるのは翌年1月の2刷。それなりに売れていたらしい。
 「三国志」の続きが終わって「隋」として統一されるまでの約250年余りを扱って、いわゆる「五胡十六国」の忙しい興亡から北魏と南朝のめまぐるしい動きまでを紹介しているが、読んでいる方もさすがに個々の国のアレコレを覚えていられない。所々に英雄的人物の略伝があってそれは楽しく読める。
 しかし日本人読者として興味が湧くのは、巻末の第9章で語られる中国の史書に現れる日本の姿と朝鮮半島との関係、そして終章で披露される、もとは夷狄であった北方征服王朝の北魏が、自らを中華の正統となし、その後に北方勢力が隋唐へと発展することによって秦漢以来の南朝系の正統を逆転したが、そのことが日本を含む周辺国に国家意識を生じさせたのではないかとする国際関係を論じた部分だろう。
 北方の夷狄によって帝国が建国され続ける中国の歴史を読んでると「漢民族」って何だろうと思うなあ。


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