みだれめも 第255回

水鏡子


○近況(9月)

 SF大会の飯田一史企画でのぼくの発言に、大野万紀が驚いていたけど、何度か口にしている意見なのだが、彼とは話したことがなかったかなあ。
 じゃあ、一度まとめて書いておこう。以前に喋ったこと以外に思いついたこともいくつかある。

 鏡明『二十世紀から出てきたところだけれども、なんだか似たような気分』を読んでて、正直意外だったのは、はしばしに見え隠れする鏡さんの「SFとはなにか?」についてのこだわりだった。もちろん鏡さんは「SFとはなにか?」に答えを出すことに否定的で、現象としてのSFから総体としてのSFであるところのものを引きずりだしたいという立場である。答えを出すのは否定をしても、「SFとはなにか?」と問いかけることには執心していた。10年以上前の読書記憶であるので、もしかしたら誤解や美化があるかもしれないが。

 そしてそのときふと気がついたのは、最近のSFについての文章に「SFとはなにか?」という根源への問いかけが見当たらないなあということだった。
 たぶんそのいちばんの理由はSFが自明の存在となり、空気のようにたゆとってわざわざ説明する必要がなくなったからではないかと思い、得心した。石を投げれば「ちゃんとしたSF」にあたる状況で、こうした問いかけをすることにいったいどんな意味があるのだろう。

 昔は、というか二十世紀においては、SFの歴史と地理を語るにあたってその根源的な意義として「SFとはなにか?」を語ることは不可欠だった。そこからひもづけられて「センスオブワンダー」について、ときには「文学」「文化」「社会」「未来」「宇宙」、そしてなにより「科学」が<概念>として検討の俎上にあがる日々があった。
 英米における「SFとはなにか?」事情についてはひとまず置くことにする。
 それらをベースに展開された日本の第一世代とその薫陶を受けた(ぼくを含む)読者世代にとって、「SFとはなにか?」という問いかけは、福島正実、柴野拓実を筆頭に本家英米を凌ぐ戦闘的な意味合いをもって語られる命題であったのだといま振り返って思う。
 そこには、発見された新しい文学への興奮と、周知唱導せんとする使命感、そしてなにより子供だましのポンチ絵とみなして蔑視し、一知半解で勝手な言を口にする世間やメディアに対する憤りがあった。
 かってわくわくしながら読んだ小松左京の「拝啓イワン・エフレーモフ様」や筒井康隆「現代SFの特質とは」とかを軽く読み返してみたのだが、すべての文学ジャンルに喧嘩を売って、SFの優位性を声高に論ずる挑発的な文言で、少なくとも下位に見られた文芸ジャンルの関係者には好意は持たれなかったのではなかろうか。もちろんぼくはガチガチに洗脳された側だけど。

 第一世代の作家にとって、「SFとはなにか?」「自分にとってSFとはなにか?」ということへの答え合わせこそが創作の「第一原理」であったのではないか。一人一派とも表現されたそれぞれがそれぞれに異なる「SFとはなにか?」「自分にとってSFとはなにか?」の答えを導き出そうとしていたのではなかったか。彼らが小説を書きエッセイを書き人気作家となり文庫化され広く流布される中で、SFはこういうものだという共通了解は共有され、自明の、空気のように受容されるものとなり、「SFとはなにか?」は語られなくなった。コミックでもラノベでもミステリでも純文学でも恋愛小説でもなろうでも、「ちゃんとしたSF」は偏在し、テンプレート化した素材として活用されるようになった。現在のSF作家は「SFとはなにか?」を所与のものとし、「自分にとってSFとはなにか?」を上書きできるようになり、あるいはそんなこだわりすらなく、らくらく「ちゃんとしたSF」を書くようになった。いまもへんなSFは大量にあるが、昔のピント外れではなく意識的無意識的に「ちゃんとしたSF」を踏まえて書かれた作品がほとんどである。
 なろう系を読み始めたころ、異世界転生ものを念頭に「センスオブワンダーのないSF」と評したことがあるのだが、なんだかここに繋がった。

 ただしSFを高級知的なエンターテインメントとして戦略的社会的認知を目指した初期の発信において、蔑視への危惧、同類とみなされることへの警戒から排除された要素が思いつくところで二つある。「こどもっぽさ」と「通俗性」である。それらもまたSFの特質を表している。

 石川喬司「SFでてくたあ」で立風SFシリーズの『アンドロイドお雪』『地球〇年』の紹介で、

「日本SFの底辺拡大のためにはこのようなシリーズが数多く生まれることも必要だろう。ただし、一歩間違うと<悪貨は良貨を駆逐する>的な危険な落とし穴が待ち構えていることも忘れてはなるまい。」

 こうした警戒感が同工異曲を量産する類縁ジャンルに距離を置く、孤高の<純性SFジャンル>文化を積み上げていく。コミック、アニメを皮切りに、らのべ、伝奇バイオレンス、架空戦記、ゲーム、ホラー、web小説と色濃いSF要素を確認しながら距離を取るのがSF界の立ち位置だった。そして各類縁ジャンルから優れた資質を引きずり込み、一人一派の特質を保持しつつ果実を積み上げてきたのが現在の日本SFだといえる。
 閉鎖的な一面はあるが間違いだとは思わない。同工異曲を量産する類縁ジャンルの末端には箸にも棒にも掛からない輩が有象無象に沸いている。それでもたとえば架空戦記のように一線級のSF作家が多数参加しているものを総体として日本SFと認識しない集合体としての共有精神は狭量であると傍からはみえる。

おそらくそこには圧倒的な物量に飲み込まれ主導性を失うことへの警戒感があるのだろう。悪貨とは言えないまでも外で生まれ成長した文化に飲み込まれ埋没していくことへの恐怖。
 たぶんその認識は正しい。「SFとはなにか?」が普遍化され、ちゃんとしたSFといって問題ないものが大量にSF界外部に偏在する状態のなかで、SF界が存立していくためには外のSFと距離を取り、優れたものを恣意的に引きずり込んで内実を豊富化していく道しか残されていないと思う。
 敵は物量である。SF業界のたぶん最大の弱点はその収納量の脆弱さであり、ちゃんとしたSFをすべて取り込みSFの領域を拡大していく力に欠けた歴史にある。
 それが、SFへの敷居を高くし、敬して遠ざけられ、SFと冠すると売れないといった風潮を生むことにもなったのだと思う。その一方で、敬して遠ざけられることは、クリエイティブな感性を引き寄せ、質の高い作品を生み出す契機を生むことになる。それがさらに敬して遠ざけられる循環となるわけだが。

 そんな状況下で「SFはこんなにすばらしい」と外に発信することにどれだけの意味があるのだろうか。うざったがられるだけではないか。「ストレスフリーこそ最重要」などのたまうやからだらけのとこに。個別にクリエイティブな連中に接触し、注目に値する果実を作ることに徹するだけで充分ではないか。もっともこの数年は中国韓国SFの奇禍に恵まれ外への発信力は高まってはいるが。

 なお、なろう興隆の潮流の中で、SFの訴求力は大きく薄められているものの、ここ十年ほどの日本SF界の内実が一つの黄金時代であることに間違いはない。早川、創元、国書、河出、竹書房と編集者が出揃い、ハヤカワ・コンテスト、創元短編賞出身者、なろうとラノベその他の関係者が綺羅星のように集い、「こどもっぽさ」と「通俗性」も合わせ持っている。だから無理に発信しなくても、いずれは心あるなろうやラノベの読者層が大量に見つけ出しに来るだろうと希望的に観測する。 

 9月の購入冊数は287冊。40,628円。クーポン使用8,500円
 なろう83冊。コミック109冊。エラーと買い直し24冊。

 新刊は『蒸気駆動の男』『どれほど似ているか』『天使たちの課外授業⑩』『ダンジョンに出会いを⑲』『本気 終章③』など10,925円。
 小規模の古本市に2回行ったので高額本をそこそこ拾う。
 『モリミノル漫画全集』(4000円)、『面白半分増刊号 決定版野坂昭如』(800円)、野坂昭如『雑文の目』(700円)、300円で、レヴィ・ブリュル『原始神話学』、マルセル・ブリョン『抽象芸術』、ピーター・ゲイ『自由の科学』、メルロ=ポンティ『ヒューマニズムとテロル』、ボロディン『サマルカンドの星 上下』、平田寛『科学の起源』、福島正実『リュイテン太陽』など。
 『SFの本』8号が100円であったので買う。Ⅹ文庫の津原やすみが80円の棚に大量にあって三か月近く睨んでいたのだが、まあいいかと買ってしまう。20冊近く集まり残りは10冊くらいなので一応無理せず探そうかなどと。

 昨年末に『野坂昭如コレクション1』を買ったのをきっかけに、野坂が急に気になり拾い始めている。「黒の舟歌」がエロ歌だと思っていたら子流し歌だと知らされて、こんなものが普通にTVで流されていた昭和は凄かったんだなあと感動したりしている。(もっともこの歌、野坂は歌っているだけで、作詞作曲いずれも桜井順で、実は野坂以上に気にしている。「マリリン・モンロー・ノー・リターン」とかもすごい)
 ところが拾い始めると本がない。新潮文庫『アメリカひじき 火垂るの墓』だけがいっぱいあるけど、明らかにジブリの原作本としてである。背表紙こそ『アメリカひじき 火垂るの墓』だが、表紙は『火垂るの墓』とだけ書いてある。いや古本市とかでは見かけるのだが、高い。この月は、モリミノルを買った勢いで2冊を買ったが、できたら単行本300円までで拾いたいものである。


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