続・サンタロガ・バリア  (第249回)
津田文夫


 暑い毎日が続いて、週に1、2回海水パンツをはいてチャリンコで30分の海水浴場へ泳ぎに行くんだけれど、家に帰り着く頃にはヘロヘロになっている。KSFAの年中行事で毎年泊まりがけで山陰へ泳ぎに行っていたのはもはや15年以上前のこと、年寄りの冷や水かねえ。
 今回は主催の大野万紀さんがSF大会参加のため締め切り日が早めになったので、月末刊行のハヤカワ文庫JAは読めてません。
 そういえば前回もレムの『砂の惑星』とかボケ噛ましてますね。これで今後は『インヴィンシブル』と書けるようになるかしらん(『本の雑誌』で牧眞司さんが当方と同じような悩みを抱えておられると表明されてましたね。当方も見習わなくては、と思えればいいんですが、もはやねぇ・・・)。

 今回もノンフィクションから。

 澤地久枝『記録 ミッドウェー海戦』は、ちくま学芸文庫6月刊。親本は1986年刊。1930年生まれで、ご存命の作者による文庫版あとがきを読むと、文庫化は初ということである。
 ミッドウェー海戦についてはWikipediaに、詳しすぎて読むのが途中でイヤになるくらいの膨大な情報が書かれているので、興味のある方はそちらをどうぞ。
 当方は大和ミュージアムにいたものの、太平洋戦争の個別戦史には殆ど興味が無いまま、必要部分の勉強だけで済ませたので、ミッドウェー海戦についても通り一遍の知識しか無い。ちなみに本書の解説は財団法人史料調査会(作者は当時の通称だった「海軍文庫」と書いている)の司書時代に作者の調査に協力した戸高一成(かずしげ)・大和ミュージアム館長(当方が直接の部下だったのは1年だけだったけど、お世話になりました)。
 それはさておき、本書は作者がミッドウェー海戦で亡くなった日本人とアメリカ人について一人一人の記録を作成し、その足跡を追う形で文章化できる人々について書き上げた膨大なノンフィクション『滄海(うみ)よ眠れ――ミッドウエー海戦の生と死』(未読です)を書き上げた後、その過程で得た資料を生の形でまとめた1冊。なので、正味600ページの内、通常の文章は、作者による本書成立の経緯とさまざまな疑問点の再検討からなる短い第1部「彼らかく生き かく戦えり」と、取材申込に対する日米の戦没者の遺族の回答からなる第2部「戦死者と家族の声」だけで、最初の250ページのみ。
 あとは第3部が「戦闘詳報・経過概要」、これは当時の防衛庁戦史部所蔵資料である「機動部隊戦闘詳報」のうち「経過概要(抜粋)」を一部加工して活字化したものをメインに、アメリカ側の短い戦闘詳報と日本側の航空機に搭乗して死亡した者の一覧表からなる。そして分量的にはメインボディとなる第4部「戦死者名簿」。これは日米戦没者全員の名簿と記録。そして40年前にコンピュータを使って(オペレーターを雇って)作成した犠牲者の多種多様な統計分析データである第5部「死者の数値が示すミッドウェー海戦」。このタイトル扉ページの脇には「2023年4月28日」と印刷されていて、鬼気迫るものが感じられる。その付録としてやはりコンピュータのデータによる死亡年齢分布と階級別死亡分布を収録。
 文章部分はいつものように読むだけだったけれど、「戦闘詳報」を読むのは十数年ぶり、活字化されているとは云え、作者によって淵田・奥宮の(その筋では)有名な共著『ミッドウェー』から関連部分を挿入していることもあり、読むのに時間がかかった。なお、現在は原本がアジ歴で公開されている(「昭和17年5月27日~昭和17年6月9日 機動部隊 第1航空艦隊戦闘詳報 ミッドウェー作戦」C08030023800~C08030024000)。
 艦艇別にまとめられた戦死者名簿は、当時のコンピュータの漢字のJISコード規格(いわゆるイイ加減音読み)の読みを五十音順に並べ、なおかつ規格外は先頭、一部は通常読みという面倒くさい並びなので、検索性が非常に低い(いまならexelで1発だけど)。
 まさにミッドウェー海戦の日米を問わずの墓銘婢(紙碑)であるが、作者の視点はこれがすべての戦争の犠牲者に対するものとして作られうることを示していると思われる。
 もう大分記憶が薄れたとは云え、各艦艇の死者の出身地を見ればその艦艇がどの鎮守府に属していたかぐらいはわかる。その伝で行くと、沈没した4隻の空母の内「赤城」と「蒼龍」の2隻が横須賀、「加賀」と「飛龍」の2隻が佐世保で、呉所属はなかったようだ。重巡「三隈」は呉だったらしい。ちなみに「赤城」と「加賀」大正時代のワシントン条約の影響で、それぞれ巡洋艦と戦艦から空母に改装されたもの。「蒼龍」と「飛龍」は最初から空母として新造された。また「赤城」と「蒼龍」が呉工廠で建造され、「加賀」が横須賀なのはすぐに分かるんだが、「飛龍」の建造が何処だったかはもう忘れている(Wikiに横須賀とあり、「蒼龍」の姉妹艦で、姉の「蒼龍」よりちょっとおシャレな妹。ムムッ、艦コレマニアにゃ成れません)。
 戦争は知らない年寄りになりつつある当方からみても、この記録が既に80年前の死者たちの記録であることを思うと、若い世代に対してメッセージになってくれるのだろうかという懸念は持たざるを得ない。

 そろそろ賞味期限かなと思い、天児慧『中国の歴史11 巨龍の胎動 毛沢東VS鄧小平』を読んでみた。親本は2004年で2021年の講談社学術文庫化に際し、習近平時代に触れる第10章を増補。
 賞味期限が来そうだと思ったのはこの第10章のこと。リアルタイムな歴史的現象へのコメントはすぐに傷みやすい。
 それはさておき、本書第1章の冒頭で著者は「本書は毛沢東と鄧小平の伝記ではない」と宣言している。それでも読後感はやはり、第2次大戦後の中国において最初のチャンピオンとなったのち、約20年にわたって中国を混乱の渦中に陥れた毛沢東と、戦前から毛沢東の下でその能力を発揮しながら、2度の失脚を生き延び、1976年に毛沢東が死んだ後に長命を保ち(毛沢東より10才若い)四半世紀に亘って権力の座にあって現代中国への地均しをして見せた鄧小平を描いた作品として読めてしまう。
 著者曰く、毛沢東を「軍事芸術家」、鄧小平を「政治芸術家」と評していて、これがとても印象に残る。
 全体としては中国共産党内の政治闘争史(もちろん毛・鄧両者の政策の歴史的評価もある)といっていい内容だけれど、未だに「林彪失脚/墜落死」事件が多くの謎に包まれたままというには驚いた。
 問題の第10章は、やはり現在動いている習近平についてあまり「歴史的」な情報は書かれていない。しかしこの『中国史』全巻の締めとして「共産党王朝史」の始まりという視点を打ち出しているのは、まあ納得のいくところではある。
 酒見賢一版『三国志』がきっかけで読み始めた中国史だけれど、これで宋時代から現代までを続けて読んでしまった。残るは隋・唐時代以前の5冊。緊急性は全くないので、気が向けば読もう。

 最近科学系を読んでないなあと思い、『本の雑誌』で服部文祥が「昨年の腰抜かし本チャンピオン」と書いていたブライアン・グリ-ン『時間の終わりまで 物質、生命、心と進化する宇宙』が、ブルーバックスになっていたので買って来た。5月刊で6月に2刷。
 ところが、第5章「粒子と意識」を5ページ残したところで、我慢が出来なくなって投げてしまった。著者の理系バカっぷりについていけなくなったのである。
 そこで、ボロアパートにあったよなと探し出したのが、フレッド・ホイル『新しい宇宙観 宇宙・物質・生命』原書1977年、翌年ブルーバックスで翻訳が出たⅠ冊。初刷りの定価480円。
 定常宇宙論者で悪口だったのに「ビッグ・バン」の名付け親となって歴史に残るフレッド・ホイルだが、いまから50年前の最新宇宙観測と数物理的研究が現在から見れば多くが書き換えられてしまっていても、その書きっぷりには豊かな知性が感じられる。パラパラとめくった程度で、読んだとは云えないけれど、それでもブライアン・グリ-ンの執筆態度への解毒薬にはなった。まあホイルのSFを再読したいかというとあまり食指は動かないけれど、読むとすればICEか10月1日だなあ。
 ちなみに先ほどWikiでホイルを見たら、この本が著作リストから漏れていた。

 ここからは感想でも何でも無くて、この手の本を読むと時々妄想が湧いてくるので、今回の妄想を書いておこう。そこまでするのはブライアン・グリーンの本への怒りがそれだけ強かったんだろうなあ。
 今回頭に浮かんだのは、E=MC2で、数学に何の理解力を示さない当方の頭だけれど時々変なことに気がつく。何が気になったかというと、Cは光速だよな、そうすると速度だから微積分が出来て、距離と加速度になるんだったな。エッ、Cって、定数じゃ無かったっけ? 光速度不変とか。ということは、微積分が出来ないのに「光速度」と呼んでいる訳か、なんか変じゃね?、と云うところから妄想が止まらなくなった。
 確か加速度・速度・距離は時間に関して微積分ができるんだったから、それができないC=光速度は時間に対して独立していると云うことだな。でも宇宙の距離は「光年」を使っている。即ち光速度に時間を掛けて距離を出している。アレッCは時間に対して独立しているんじゃ無かったっけ。ということは1光年の距離は絶対値なのか?1天文単位とか1パーセクはもしかして10億年経ったら数値が変わっているけれど、光年の距離は不変と考えられるなあ。ここまで来た所で妄想はますます膨らむ。
 宇宙は「ビッグバン」以来膨張しているとしたら、「変化」が宇宙の常態ということになるけれど、光速が不変の定数Cなんだから、「変化」が「時間」だとすると、宇宙が始まって、光速度が一定になって以来、光はずっと宇宙を「光速度」で動いているんだよな。ということは宇宙の時間というのは、宇宙が始まって光速度が定数になって以来の光が動いた距離を微分したら出るんじゃないのか?うーん、どうなんだろう?(読み返すとトートロジーですね)。
 と、分からなくなったところで妄想は方向転換、エーッと、「1光年」は光速度Cに(絶対値ではない)地球の公転時間を掛けたんだから、光速度Cは絶対値として距離を返す。即ち、「光速度」は「万物は流転する」中でおそらく不変な唯一の実在(目に見えるしエネルギーでもある、数物理学上の概念定数ではない)ではなかろうか。もしも宇宙の年齢が「光速度」で進んだ距離ならば、宇宙の変化を知るにはその距離がわかれば良いわけで、「時間」はその結果じゃないのか(妄想です)。もしそうだとすると、「光速度」というのは絶対値であることが重要であって、「光速」を超えるというのは「意味不明」になるんではなかろうか。ということは、「光速」は速度ではなくて「時間」を規定していると考えた方がわかりやすいような気がする(妄想です)。ということは「宇宙の晴れ上がり」以前は「光速度C」は無かったので、「時間」は一定していなかったということになる。それが何を意味しているのかは当方の頭では考えられないが。
 妄想はまだ続いて・・・、
 となると空間に光(電磁波?)速度Cがあるから、観測可能な宇宙の限界というのがあるようだ。しかし、宇宙空間は光速より速く膨張しているという話はどうなんだろう?、観測者の位置から光が到達した距離の空間内では時間に意味(因果律)があり、光速が到達していない空間から意味を取り出すことが出来ないということになるのか? ああ、だからブラック・ホールの中の光は空間が膨張する宇宙と同じような状態になっているから情報が取り出せないのか。しかし、ブラックホール内でも光速度Cは不変の筈だから、そこには光速度の動きは通常空間と同じように時間を生じさせているのだろうか。とすれば観測できない宇宙空間でも光はあり、そこではやはり観察者がいれば、こちらには分からないが、時間が流れているのだろうか。もしかして、このビッグバン宇宙は、現在観測不可能な空間でも光速度Cが一定の筈だから時間秩序は守られていて、時間が一様に流れているのか?
 で、当然妄想は量子力学に向かうのだが、量子力学の世界はまったく訳が分からない。時間と量子力学の関係をググってみても、量子力学で因果関係(時間)を証明したというヤツもいれば、量子力学の世界に時間は必要ないというヤツもいる。中には「量子力学の時間反転」などという発表もあって、ますます訳が分からん。しかし妄想は、そのような難しい話を一切切り捨てて、量子論的世界の特徴はそれが確率でしか語れず、人間レベルの世界では「シュレディンガーの猫」という形でしか観察できない、というそれだけの知識で、量子的世界の光速度Cはどうなっているのだろうという方向に向かったのである。その妄想のお告げは次の通り。
 もし光速度Cが定数であることにより時間秩序をつくり出しており、光速度Cが存在しない「宇宙の晴れ上がり」以前は時間秩序がないとすれば、量子論的世界においても光速度Cはその定数性/絶対値が失われているのではかろうか。だからすべては確率の世界になってしまっており、「シュレディンガーの猫」の状態がが確定するのは、観察者が光速度Cの絶対性が支配している、すなわち時間秩序が成り立つスケールの世界になったからではないのかということだ。言い換えると観測可能宇宙というものは光速度Cが定数として有効な宇宙であり、そこでは時間が流れているが、量子論的世界では光速度Cが定数ではなくなるため、われわれの世界からは時間秩序が失われた状態としてしか捉えられないので、確率でしか語れないのではないのかということである。
 ワハハ、光速度C絶対値ということだけで「宇宙の謎」を解いてしまったぞ、これからは「光速エスパー」と呼んでもらおう(←完全に酔っ払っている)。
 アー、疲れた。

 フィクションに移ろう。

 なんとなく新刊が途切れたようだなあと思い、積ん読になっていた本たちを眺めていたら、西崎憲編『kaze no tanbun 特別ではない一日』が目に付いた。そうか、第2作3作は読んだけど、第1作は読み逃していたらしい。ということで読んでみた。2019年の刊なので、その後それぞれの作家の単行本に収録されて一部既読になったものがある。
 この本の特徴のひとつとして、頁の左下を見ない限り作者名が分からないので、わざと眼を下げずに作品を読むと、ものによってはその作風から作者当てが可能になるという遊びが出来る。もっとも再読作では遊べないが。
 冒頭の「短文性についてⅠ」と巻の半ばに出てくる「短文性についてⅡ」は、山尾悠子の作で既読。「Ⅱ」は「特別ではない一日」という文章で始まる。で、驚くのが山尾悠子の「Ⅱ」より少し前に置かれた皆川博子「昨日の肉は今日の豆」も末尾の一文が、「・・・特別な一日になっちゃうじゃないの」。多分偶然だったんだろうけれど、最初からこういうことがおきるところに、西崎憲のアイデアが(人選も含め)優れたものだったことを証明している。
 岸本佐知子「年金生活」は、「ネンキン」ファンタジー。
 柴崎友香「日壇公園」は、北京滞在中に公園でダンスや体操そして太極拳をする老若男女の中国人たちを観察する掌編。
 勝山海百合「リモナイア」は、友達の新居にディナーに呼ばれ、友達が子ども時代に庭に檸檬の木があったといっていたのを思い出し、檸檬の鉢植えをお土産に買ったときに話し手の頭に浮かんだのが「檸檬温室(リモナイア)」・・・。話は途中で化物語に変化するような方向に行くが何事もなく終わる。
 日和聡子「お迎え」は、保育園でなかなかお迎えが来ない男の子に保育士が紙芝居を見せている話。当たり前の話だが、時間断層の発掘でもある。
 我妻俊樹「モーニング・モーニング・セット」は、一種の自働筆記ジュヴィナイル・ファンタジー。世界はシッカリと存在しているが、現象はシュールレアリスム的表現で進行する。
 冒頭の「可能な文字列というのは・・・」という一文ですぐに作者がわかるのが、円城塔、というより「for Smullyan」というタイトルから昔は(今も?)有名だった数学者のスマリヤンが読めれば、そんなものを円城塔以外の誰が書くのだと云うことになる。
 で、その次が皆川博子「昨日の肉は今日の豆」は、老夫婦の妻が石仏みたいに座っている宿六(夫)の足から靴下を脱がすと、足の肉が豆化して剥がれるという話から入る。ノホホンとした怪奇小説。
 上田岳弘「修羅と」は、「僕は修羅を飼っていて」で始まる詩形で描かれた1作。子ども時代の修羅が大人になった今も傍らに見える。
 谷崎由衣「北京の夏の離宮の春」は、ちょっと柴崎友香の作品と共通する1作。北京のライターズ・イン・レジデンスに参加している作家は、知り合ったドイツの男性作家と共に歴史的名園「頤和園」の見学に訪れ、互いに母国語ではない英語で会話しながら中国文明のあれこれを考える・・・。
 水原涼「Yさんのこと」は、語り手と新人賞を同時受賞した作家のYさんについての私小説的回想。
 ここに山尾悠子の「Ⅱ」がある。
 「ん。」改行「もう来ちゃったの。お客さん。」(原文「」なし)で始まる本巻2作目の円城塔「店開き」は、さすがに予想外の出だしだったけれど、中身はやっぱり円城塔だ。
 小山田浩子「カメ」も小山田節が強くて、いかにもな1作。
 滝口悠生「半ドンでパン」は、土曜日が半ドンだった中学生時代に習った女の先生の思い出と現在パン屋へ向かう話が合わさった文体実験らしい。
 高山羽根子「日々と旅」は、韻を踏んでる割に(凡庸すぎて)ぜんぜん覚えられないタイトルな1作。9日から13日までの、東京とソウルで書かれる日記(SFのようにも見える)。
 岡屋出海「午前中の鯱」は、中学生に上がったばかりの女の子の、幼い頃から遊び相手をしてくれた母の弟(叔父)とのごっこ遊びのなかで、朝わたる道路の黒いアスファルトに鯱の白黒が浮かび上がる・・・。児童文学と云えないこともない。
 藤野可織「誕生」は、帝王切開で出産し、現在は病室にいる女性の視点で描かれる(もしかしたら)既に破滅しているのかも知れない世界の話。
 編者西崎憲「オリアリー夫人」がトリ。1年の内11ヶ月は外国で働く夫を持つ妻(共に日本人)の視点で描かれる1作。妻が勤務先の友人(浮気相手?)「王冠」君のセットしたパーティで、参加者が昔シカゴに大火をもたらしたという牛の持主「オリアリー夫人」の話をリレーするので、このタイトルがある。
 オビの裏表紙側に「小説でもエッセイでも詩でもない」という一節に、マンデリシュタームを思い出す。

 新刊に移ると、ケン・リュウ、藤井大洋ほか『七月七日』は、オビに「日中韓三カ国の作家が紡ぐ、十の幻想譚。」とあるけれども、読めば判るようにこれは「看板に偽りあり」に近い。
 収録10篇中、中国系のケン・リュウとレジーナ・カンユー・ワンのは英語で発表された作品で、日本人は藤井大洋のみ、あとの7人は全員韓国の作家だ。そして韓国人作家の作品はすべて何らかの形で済州島に関わる物語であり、韓国作家の作品だけなら「済州島SFアンソロジー」の体をなしてしているのだった。『蒸汽駆動の男』の解説やキム・ボヨンの短篇集の収録作品解題にもあったように、おそらく、韓国の作家たちが(呑みながら?)相談して「済州島SF」を書きアンソロジーにして出したと思われ、そこへ東京創元社の判断でケン・リュウらと藤井大洋を入れて、一般的な読者層にもアピールする形に作り替えたものだろう。※
 ケン・リュウの表題作「七月七日」は、幼い妹のために寝物語として、夜のデートに出かける前の姉が語る七夕伝説。なぜか百合もの。
 レジーナ・カンユー・ワン「年の物語」は、なんとキム・ボヨンの短篇と同じ中国の「春節」に関わる怪物「年(ニエン)」が出てくる1篇。これももしかして「春節SFアンソロジー」に収録されていたのかな。この訳では「年」は「ニエン」ではなく「ねん」とルビが振ってある。
 ホン・ジウン「九十九の野獣が死んだら」は、「野獣」と呼ばれる人体改造の失敗で生まれた人外の者を銀河を股に掛けて狩るハンターたちの物語。ジジイと呼ばれる引退前のハンターと組む若者が視点人物だけれど、最後の獲物を追い詰めたとき明らかになる真実とは・・・。作者あとがきによると、これは済州島に伝わる「99の谷」の説話からヒントを得たという。
 ネム・ユハ「巨人少女」は、済州島の女子高生5人が宇宙船に拉致されたのち海上に遺棄され、救出された彼女たちは「研究所」で検査のため軟禁されていたが急に身体がどんどん大きくなり始め・・・。巨大化した女子高生が排除される話は悲しいが、作者あとがきによると済州島に伝わる巨人伝説はお婆さんらしい。
 ナム・セオ「徐福が去った宇宙で」は、コレル星系の一番外側の惑星「耽羅(タムナ)星」の複数の衛星が砕けた後の軌道「月の海」で、レア鉱物ハンターとして無鉄砲に活動するモンアといつもその帰りを心配しているダルマンの、いわゆるバディもの。今日もレア鉱物(矮星)を見つけたが、ムチャをして死にそうになったところに他星系からの調査船に拾われる。「徐福」と名乗る責任者はえらく親切なのだが・・・。作者あとがきによると、済州島にも徐福伝説があるとのこと。「コレル」はコリアで「耽羅(タムナ)」は済州島を意味するらしい。
 藤井大洋「海を流れる川の先」は、作者の故郷、奄美大島を舞台にした時代劇。関ヶ原の戦いの後、薩摩藩(作品内ではサツ国)は奄美大島を攻略する。物語はある情報を知らせるために丸太船で海を渡ろうとする少年の前に現れたサツ国の坊主を名乗る男が海の上で会話する形で進められる。表題はたぶん黒潮のこと。奄美繋がりで遠田潤子の『月桃夜』を思い出す。
 クァク・ジェシク「・・・・・・やっちまった!」は、済州島で開かれた「応用フォノンビーム学会」に出席した主人公は、参加者は1機関1人の規定がある学会なので上司の御機嫌取りもせずに済み御機嫌だった。そしてかつての研究仲間で先輩の女性研究者と出会い、話をしているうちに盛り上がって遂に男女の一夜まで・・・と云うところから急転直下でSFになる1作。作者あとがきでは、400年ほど前に採集された「空へ向かって矢を打つ人」の説話が元になっているとのこと。
 イ・ヨンイン「不毛の故郷」は、宇宙には「家門」と称する種族が複数あり、語り手の家門は、太陽系の地球に眼を付けて地上動物の邪魔をしないように、海中火山を爆発させて子供たちの遊び場を作った。名づけて「耽羅(たむな)」。そこへ人間たちが移り住んできたので、追い出そうとしたがそれは家門の決まりで出来ないことだった。人間の運命や如何に・・・。作者あとがきは内容から見当が付くように、済州島の火山にまつわる説話を取り込んでいる。
 ユン・ヨギョン「ソーシャル巫堂(フーダン)指数」は、脳内チップを活用できるソーシャル集団知能指数が世界で上位0.2%内という姉に振り回される弟の話。この姉は世界が超常知能の危険性を懸念してチップのダウングレードを行ったにもかかわらず、それを拒否して社会不適応者になっている。で、姉が選んだ職業が巫女だった・・・。コメディSFとしてよくできている。作者解説では済州島のシャーマン神話からヒントを得たという。
 最後のイ・ギュンヒ「紅真国大別相伝」は、「翼を持って生まれてきた赤子は、その親の手で息の根を止められねばならない」という一文で始まるいかにもシリアスなSFファンタジー。
 舞台は「紅真(ホンジン)国」で星主が支配者。この掟は千年前に空から「核」というものが落ちてきて以来変わることがない・・・、あるとき、産神と麻姑神は子どもを作り、その子を別相(ビョルサン)と名づけたが、後世彼は「紅真国大別相媽媽(ホンジンこくデビョルサンママ)と呼ばれた。
 以上は「『耽羅記』中「紅真国大別相伝」より」という冒頭に引用された架空の歴史書の骨子。ということで、物語は真説「紅真国大別相伝」である。作者あとがきによると、これもまた済州島の「99の谷」の説話を参考にしたとある。
 どう見たって「済州島SFアンソロジー」だよねえ。

 ※東京創元社さんから「このアンソロジーはこの形で韓国の出版社より刊行されたものの邦訳です」とのご指摘がありました。(大野万紀)

 『七月七日』と同じ奥付発行日(6月30日)なのが、藤井大洋『オーグメンデッド・スカイ』。これはオビに近未来青春小説とあるけれど、VR技術を使ったプレゼンテーションコンテストの「VR甲子園」とかそのワールドワイド版である「ビヨンド」もそれほどの未来感を感じさせない。
 どちらかというと、鹿児島の県立高校の古風な慣習を続ける男子寮の1年生たちが2年生になる頃のエピソードから、彼らがのVRプレゼンの全国大会なり国際大会を目指しながら3年生になり、がんじがらめだった慣習を革新していく様子がメインの高校生小説である。
 VRチャレンジのお題が「SDGs」だったり、国際大会へ共同で参加するお嬢様女子高の生徒のこだわりがジェンダーだったり、いかにもな現代振りだけれど、奄美出身の作者は主人公の少年(勉強は出来ないだけれど性格の良さで次世代リーダーになる)にある種の理想を被せて、さわやかな物語に仕上げている(そこにリアリティを感じるかはまた別の話)。
 読後に浮かんだ感想は、「幸福の科学」で、より正確には「幸福のDX」とも云うべきもの。この作品世界の少年たち/DXに対する作者の信頼/肯定感が「幸福の科学」という言葉を湧き上がらせる。

 作品発表ペースが上がったのかと思った小田雅久仁『禍 わざわい』は、なんと10年の間に文芸誌『新潮』に発表された7作の短篇を収めたもの。いくら何でも寡作過ぎでしょう。
 この短編集を読んでも、『本にだって雄と雌があります』が、この作者としては例外的に笑える要素が多かった特殊なものだったことがわかる。なお「禍」というタイトルの作品は収録されていない。
 巻頭の「食書」は、トイレにまつわる思い出からはじまり、最近トイレでトンデモナイ目に遭ったと云うところから始まる。語り手は小説家で、いかにも不機嫌そうな人物であるが、ある日、書店の鍵のかかってないトイレ個室のドアを開けるとそこで目にしたのは・・・。これだけで「食書」というタイトルから語り手が何を見たのかは見当が付くし、語り手がその行為に巻きこまれることも予想できる。ほとんど妄想ホラーだが結末のエピソードにはさすが何ソレという感慨が湧く。
 「耳もぐり」は、この短編集の中ではもっとも見事な形式を備えた怪奇譚。もし現代日本怪奇小説アンソロジーが編まれるとしたら、必ずや選ばれるだろう1作。作者は宮城県出身だが関西大学卒で、そのおかげか最後の大阪弁が効いている。
 「喪色記」は、最近のこの作者のトレードマークと云っていい、話の後半が何でそうなるのかサッパリ分からないタイプの1作。主人公は、子どもの時から視線恐怖症で、大人になってもすぐ視線を外してしまう。作家を目指したが、生活のため仕事に就いたら、やはり視線外しをイジメのネタにされ、結局作家を目指す。ある日夢の中で・・・。と、この夢以降がこの作者独特のファンタジーへの扉となる。この発想の飛躍の落差には、長年SFを読んできて、この作者の単行本も、数冊しかないが、全部読んできた当方もいまだついて行けない。
 「柔らかなところへ帰る」は、ふくよかな女への志向が最終的に何に向かうかという話。ストレートといえばストレート。藤子不二雄のSF短篇に似たようなものがあった。
 集中一番長い「農場」は、語り手が会社を辞めて食い詰めたところに、秘密さえ守ってくれれば衣食住が保証される仕事があるんだがと、うさんくさい男に勧められヤケクソで承諾、関西方面に向かうバスの中で寝てしまい気がつくと・・・。これも題材こそ全く別だが、「喪色記」と同じパターンの物語のように思える。不気味とサスペンスで盛り上げながら、あさっての方向でSF的な結末が訪れる。
 「髪禍」は、大森望のアンソロジーで既読。いま読むと作品の出来の良さとは別に、これも最初から奇想で飛ばしているとは云え、最近のこの作者のトレードマークな造りだったことがわかる。
 トリを飾る「裸婦と裸夫」は、電車で突然全裸ネクタイ中年男が出現して乗客をペタペタ触りまくるという、まるでゾンビもののパロディのように始まり、展開もそれをなぞるが、結末はこれまたアサッテの方に向かっていく。
 発表順では「農場」が2014年で「髪禍」が17年、「裸婦と裸夫」が21年で「喪色記」が22年、その他の作品は2014年以前の発表ということで、現在の作品スタイルは「農場」から始まっているようだ。ある意味他に類を見ない作品を書いている作家であるといえる。当方がついていけないことも多いけれど。

 劉慈欣(リウ・ツーシン)『超新星紀元』は、著者のデビュー長編と云うことだけれど、わざわざ訳す必要があったのかと思えるくらいの下手くそな1作。
 ウィリアム・ゴールディングの『蠅の王』を全地球で展開してみたらという発想は悪くなかったが、大もとのジュール・ヴェルヌの『十五少年漂流記(二年間の休暇)』以来、男の子の集団の話という基本設定が外せないため、結局いま読むと意識低い系なジュヴィナイルを書いてしまったのかなあという感想が湧く。
 劉慈欣自身も言うように、キャラに思い入れがない分、子供たちを魅力的に書くことが出来ず、話の大部分は男の子の遊び(人類社会は紀元前から確かに「男の遊び」で動いているが)しかないため、女子キャラとして目立つのはアメリカの国務長官の見た目優先女子しかいない。
 とはいえSF的設定と大枠の面白さはデビュー作から面目躍如で、特に10章とエピローグまでくれば、これぞ劉慈欣というスケール感が味わえる。作者が還暦を過ぎた今、この設定に再挑戦してもらいたいな。
 


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