続・サンタロガ・バリア  (第242回)
津田文夫


 明けましておめでとうございます。みなさんお年のせいか年賀状を止める方が年々増えて、今年も5、6名おられました。当方も考え時かしらん。

 年末は話題作の映画を2本見てきた。ひとつは『すずめの戸締まり』でもひとつは『アバター ウェイ・オブ・ウォーター』。まあ、どちらも映像が素晴らしい作品ではありましたが、話の筋はどちらもピンとこないまま見終わった感じ。 

 『すずめの戸締まり』の方の筋がピンとこないのは、これが民俗学的なファンタジーとして構成されているせいだと思うのだけれど、作品から受け取れる真摯な祈りが、かならずしもストーリー的な緩急と一致していなかったように思えた。『君の名は』の時間操作や『天気の子』の超能力に無力感は記憶に残ったといえるけど、この作品は部分部分が突出したイメージを残すとはいえ、全体としての印象が不明瞭というところかな。
 この作品でカタストロフ3部作みたいになったので、次は全く別のテーマで見せて欲しい。

 『アバター2』はIMAX3Dで見たのだけれど、異星の映像の素晴らしさだけで2千円払った価値はある。しかし物語自体は無くても良かったと思うくらい退屈だった。一体いつまで海兵隊精神や理想の父親などをストーリーの骨子に据えるのか、共和党支持者のためのシナリオかい、と云いたくなるくらいなうえに、続編ありきの結末なので、3時間あまりも見させてコレかよと云わざるを得ない。なにしろクライマックスが狭い船上での殴りあいや沈没中の船の中で、せっかくのIMAX3Dの効果が効いてないのだから作り方を間違えてるよ。『エイリアン』なら納得するけど。
 これが3時間ずっと異星のトラヴェローグだったら、何回でも見たいのに。

 まずは積ん読なりかけのものから。

 川野芽生『無垢なる花たちのためのユートピア』は6月刊のハードカヴァー短編集。表題作と巻末の書き下ろし作品が中編で、それに短編が4編(内1編が書き下ろし)で構成されている。短篇の内2作が既読。
 既読は東京創元社のオリジナル・アンソロジー掲載作で(他の作品も掲載先はすべて東京創元社の刊本)、読後感はけっこう手の込んだ幻想小説だなあ、というものだったけれど、当方の感覚では幻想の質が硬質なのかどうかピンとこないところがあった。今回、表題作と書き下ろしの中編「卒業の終わり」を読んで、一番感じたのは、これは70年代の当方が学生時代に読んでいた少女漫画家たちの作品が持っていた硬質さと近いかなということだった。その印象は、悲惨な地上から無垢の少年たちを集めて空を行く船で展開されるミステリアス・ホラーの表題作と、まさに選ばれてある少女の不穏な学園生活と男性たちのファンタジーが実現したようなディストピアに放り出された少女の社会生活を描いた書き下ろし作品がテーマ的に対になるように置かれたところから来るのだろう。
 作者は山尾悠子との交流もあるみたいだけれど、山尾悠子の幻想と文体のドライな感触に較べると、オビで皆川博子が書いてるように「鋭い知性を芯とした」文体と内容であると思われる。

 昨年9月刊で買うのを忘れていたのが、ラフカディオ・ハーン作、円城塔翻訳『怪談 KWAIDAN』
 円城塔が日本の古典文学に取り組んで、いろいろ操作しているみたいだけれど、これはハーンの人口に膾炙した怪談話を英語による再話の異化効果を反映するように訳して見せたもの。話自体は子どもの頃読んだものが多いが、子ども向けにリトールドされていない作品もあるらしく、初めて読んだと思われるものもあった(単に忘れてるだけかもしれない)。巻末の「虫の研究」の方は間違いなく初めて読んだ。
 これがハーンの最晩年の書だったとは、いまさらながら感心してしまった。これは「怪談」部分を含めて、どちらかというとノンフィクションとして読めたような気がする。

 S・B・ディヴィヤ『マシンフッド宣言』上・下は、タイトルと帯の惹句や登場人物一覧からして積ん読候補だったけど、作者名が普通じゃ無いなと思って見返しの作者紹介蘭を見たら、インド生まれのアメリカ在住でバリバリの理系女性だった。おまけにデビュー長編ということで読んでみた。
 ヒロインが元海兵隊の腕こき、今は警備会社のエースになっているというのはいまやお約束だけれど、強くてカッコいいサイボークお姉さんというのは、もとを辿れば『モナリザ・オーヴァードライヴ』とか『ハードワイヤード』あたりかしら。まあ40年前の当時は、どっちも作者は白人男性だったが。こちらのヒロインは強化剤(ピル)依存で腕が震える症状を抱えているところも、なんだか昔のアル中ガンマンっぽい。
 裏表紙の設定紹介では、「21世紀末、AIソフトウェアに仕事を奪われた人間は心身の強化薬剤を摂取し、労働は高度専門職か安い請負仕事に二極化した」世界。ヒロインはピル資金提供者の富豪の警備をしていたところ、〈機械は同胞(マシンフッド)〉を名乗る何者かに富豪を殺されてしまう。ヒロインはマシンフッドとの対決に赴くが・・・。
 基本的な設定だけからだと、悩めるヒロインのアクションものという感じで、それだけだとあまり食指は動かなかったろうが、実際読み始めると超高度資本主義が行き着くところ、ヒロインの行動は多数のマイクロドローンで撮影されていて、アクションはもちろん、恋人とのセックスシーンも視聴者からのポイント稼ぎに使われているという有様、なかなかオフビートな近未来劇になっている。また作者がインド人女性と云うことで、ヒロインの中毒症状を解明しようとするのは、弟のパートナーでインド人の女性だったりするので、キャラクターの多様性に不足はない。
 物語はヒロインがマシンフッドの正体を突き止め対決に至るまでが全体の9割を占めていて、そこまでは普通だったけれど、マシンフッドが海兵隊精神を出し抜く東洋的原理を押し出すところがミソで、これまでならヒロインは勝って終わりだったのが、作者は別の選択肢を用意していた。
 エンターテインメントとして十分こなれたレベルとは云えないけれど、これもまたLGBTQ時代の用心棒物語として、これまでとは違ったものになっているのは確かだろう。
 なお、「マシンフッド宣言」をしているのはマシンではありません。

 松崎有理『シュレーディンガーの少女』は、巻末の作者解題曰く「ガール×ディストピア」をコンセプトに書かれた短篇を集めたものとのこと。個々の作品の設定はてんでんばらばらであるが、作品によってはパーソナルAIが「モラヴェック」だったり、ディストピア日本が「ニポーン」だったりして一部の作品は繋がりがあるようだ。
 これまた東京創元社のオリジナル・アンソロジー掲載の2編が既読(こちらは収録にあたり改題)。巻末に書き下ろしが1編。川野芽生と同様既発表作は(1編を除き)すべて東京創元社の出版物に掲載したもの。こうしてみると創元がSF短編賞で入賞した作家たちを大事にしているお陰で、日本のSF短篇の大きな供給元になっているんだなあ、立派。
 冒頭の「六十五歳デス」は寿命が限られているというところは、川野芽生の作品の少年少女と似ているが、こちらは65歳を迎えようとしている「死ぬまでやりたいこと」が実現ができなかった人々を成仏させるハードボイルドな女性コンサルタントが、泥棒猫みたいな少女を弟子に取る話。なんとなく椎名林檎の歌舞伎町の女王の歌を思い起こす。
 「太っていたらだめですか?」は初出時「痩せたい人は読まないでください」というタイトルで既読。これはホラーですね。
 「異世界数学」も既読だけれどアンソロジー収録時は「数学ぎらいの女子高生が異世界にきたら危険人物あつかいです」という内容を表したタイトルだった。作者は収録に合わせ一番手を入れたという。そういう意味では異世界がクッキリした感じがあるけれど、クライマックスは今回も読んでる方が照れる。
 「秋刀魚、苦いかしょっぱいか」はサンマが居なくなってしまった世界で、自由研究にサンマを作ってしまう女の子の話。なんとなく上々颱風を思い出す。
 「ペンローズの乙女」は、この宇宙に異星人が見つからないことについてフェルミのパラドックスやドレイク方程式などをエピグラム的に引用しながら、南の島で目が覚めて美少女に世話をされ恋に目覚めたけれど、彼女に降りかかる運命を止めることが出来なかった少年の物語と、この宇宙の終わりに存在する「ペンローズの乙女」の話を佐用姫伝説で結びつけるというアクロバットな1作。さすがに野望が大きすぎて物語が空中分解ぎみだけれど、面白いことは面白い。
 巻末書き下ろしは「シュレディンガーの乙女」で、ペンローズに続いて作者の稚気満々な意欲が窺われるタイトルだけれど、有名な猫の話を自殺願望の少女に持ちかけるAIの話を「あなた」が見るという2人称設定で、ホラータッチで仕上げてある。観測問題がメインの話だけれど、間に量子力学の講義もはさまれ、哲学的ゾンビにも言及がある。まあ、ホラーだし。
 全体として冒頭作の緊張感が目新しいのを除けば、ホラーと雖も松崎有理のノホホンとしたトレードマークが楽しめる1冊。

 20年ぶりに復活したと云うことで驚いたのが、谷口裕貴『アナベル・アノマリー』。更に驚いたのが、30歳前後で書いた連作短篇の続きを50歳になって書き継いで、ちゃんと完成させたこと。普通は、30歳の時に書いたものとは違うタイプの作品で復活すると思うけど。ずっと書き続けてきた山田正紀だって若いとき書いた作品(主に長編)の続きを何作も書いているけれど、書き方はだいぶ変わっているよね。
 巻末解説に伴名練が相変わらず濃い文章を寄せているので、あまり書くことがないのだけれど、20年前に書かれた2編はいま読んでも十分迫力があって面白い。超能力開発で生まれたコントロール不可能な超能力者(12歳の美少女アナベル)を、そこに居た数十人の研究所員が素手で殴り殺したが、何らかの形でアナベルに繋がるもの(アナベル・アナロジー)が成立すると、そのコントロール不能な超能力による破壊が生じる、という設定は、ある意味若いから出来たといえるだろう。いわゆる残留思念バリエーションではあるけれど、新機軸的なところがある。あと、毎回語り手を変えられる構成にしたところも、20年経ってからでも続編を書けた理由かも知れない。
 その点で後半の書き下ろし2編は、伴名練も云う如く、小説作法にややゆとりがあって、ストレートな緊張感とは違う雰囲気が漂っているかも知れない。巻末の締めくくりのエピソードに出てくる、アナベル・アノマリーで変容したオルバニーの街が3万2000人余の市民とともに復活し、市民はアノマリー自体を知らないタイムトラベラーだ、という話は、「アノマリー」繋がりでエルヴェ・ル・テリエの方の飛行機の乗客を思わせる。作者がそれを意識して出したかは分からないが。
 そういえば同期の吉川良次郎も新作短篇を書いていたし、この両名がこれからも書き続けてくれると嬉しい。

 なんだかビジネス書みたいな雰囲気の装幀とタイトルで、あまり面白くなさそうだったけれど、中原尚哉さんの訳だし、まあいいかと読んだのが、カイフー・リー(李開復)、チェン・チウファン(陳楸帆)共著『AI 2041 人工知能が変える20年後の未来』
 いわゆる学者が近未来にAIによって実現するかも知れない社会をSF作家が作品で読者にその世界を実感させるという、よくある構成の1冊。奥付前の著者略歴を見ると李開復は1961年台北生まれ、元グーグル中国社長で、人工知能学者とのこと。陳楸帆の方は81年生まれ北京大学卒だけれど、やはりグーグルに勤めたことがある。といことでAIと社会の有様について想像を巡らせるにはうってつけの人たちではありますね。
 計10篇からなる作品には、タイトルページ見返しに、李開復が作品テーマ紹介及び作品を読んだ後に読者に参照してもらうテーマに沿ったAIと社会の考察のイントロを付したリードが毎回付いており、作品の後ろにはそれなりに長い「テクノロジー解説」がある。
 各作品のタイトルは、「恋占い」、「仮面の神」、「金雀と銀雀」、「コンタクトレス・ラブ」、「アイドル召喚!」、「ゴーストドライバー」、「人類殺戮計画」、「大転職時代」、「幸福島」、「豊饒の夢」で、「コンタクトレス・ラブ」や「ゴーストドライバー」、「大転職時代」そして「幸福島」、「豊饒の夢」あたりは、タイトルからテーマと内容が伺われるだろう。
 実際、目次には「テクノロジー解説」で取り上げるAIによってどのようなことが起きているか起きると予想されるのかが項目立てされており、それを読んだだけで作品の中身がある程度見当が付いてしまうので、SF小説を読む楽しみはちょっと減じてしまう。それにもかかわらず、作品を書くことを引き受けた陳楸帆はなかなかのものではある。
 「仮面の神」はナイジェリアを舞台にしたディープ・フェイクを扱った1篇。フェラ・クティがが象徴的扱われている。
 「金雀と銀雀」は韓国を舞台に、孤児院からそれぞれ引き取られた対照的な性格の双子の物語。AI教育ネタの一種のウサギとカメ寓話だけれど、最後はハッピーエンドで終わる。
 「アイドル召喚!」は男子アイドルに入れ込む中年女性の話。「人類殺戮計画」は、アイスランドのビットコイン泥が偶然知った世界的な破滅を招くアルゴリズムを作ったマッドサイエンティストを食い止めようとする話。
 基本的にサタイアの形で書くしかないので、そういう形の物語が多いが、さすが陳楸帆はつまらない話は書かない。それぞれの作品が世界のあちらこちらを舞台にしているので、目先を変えるというだけでも大変だろうと思う。李開復のテクノロジー解説と考察は至ってオーソドックスで安心して読める。

 冬枯れのハヤカワ文庫SFからは、ブレイク・クラウチ編『フォワード 未来を視る6つのSF』という聞いたこともないオリジナル・アンソロジーが出た(牧眞司さんの解説によると本国でも紙の本が出ていないと云うことなのでそれもムベなるかな)。タイトルからすると『AI2041』の向こうを張ったように見えるけど、偶然でしょうか。
 しかし読み終わって2週間あまりなのに、収録作の内容がまったく思い出せない。巻末の単純な話であるアンディ・ウィアー「乱数ジェネレーター」はともかくN・K・ジェミシンの作品さえどんな話だったか忘れてる。仕方がないので、各作品をパラパラとめくって牧眞司さんの解説を再読した。
 編者の「夏の霜」は、120頁の中編。編者がこれを書いて他の作家にも最先端技術テーマの作品を依頼したらしい。テッド・チャン「ソフトウェア・オブジェクトのライフサイクル」があるのに、ホラー風のこの作品ではあまり評価できない。
 N・K・ジェミシン「エマージェンシー・スキン」は、いまは亡びてしまったといわれる地球に、遙か昔に脱出した一族からいま再び地球に戻るため調査員が潜入する話。脱出した方の認識が地球の現実を捉えられずに起こるとんちんかんを描いたサタイア。牧眞司さんが言うように昔懐かしいタイプだ。
 ベロニカ・ロス「方舟」は、小惑星の衝突が避けられない状況下で、植物相の保存を行う静かな物語。ある意味静かすぎて忘れてしまう。
 エイモア・トールズ「目的地に到着しました」はタイトルほどのユーモアはないが、ライフ・ハック的な情報をAIに喰わせて将来のヴィジョンを見せる話。まあ地に着きすぎていてそれほど面白くはないけれど、最後の方はいかにもアメリカらしい話になっている。
 ポール・トレンブレイ「最後の会話」は1行で要約できて、要約した途端にネタばらしになるいわゆるオチ一発なシロモノ。途中で気づいてはいけません。
 アンディ・ウィアー「乱数ジェネレーター」は、もちろんカジノで使う乱数発生器のこと、数学的天才の妻を持つ乱数発生器のエンジニアがカジノ経営者に黙ってバックドアを付けたが・・・、この作者なので楽しく終わるけど、やっぱり忘れるような話だなあ。

 今回のお題は超常気象だというので読んでみたのが、井上雅彦編『超常気象 異形コレクションLIV』。お題がSFっぽいけれど、SF系の作家は宮澤伊織、柴田勝家、斜線堂有紀、空木春宵、上田早夕里、田中啓文の6人。今回の収録作家は全15人なので、その割合は復刊以降の他の巻とそれほど変わらない。
 大島清昭「星の降る村」は、田舎の村に若い女の手足や頭が何度も降ってくる。それは引退したアイドルのものだった・・・。バカSFみたいだけれど、語りは低温度なので奇想小説に近い。でもホラーだ。初めて読む作者は第17回ミステリーズ!新人賞受賞とのこと。
 篠たまき「とこしえの雨」の作者も初めて知る作家だけど、第10回『幽』文学賞短篇部門大賞受賞者とのこと。物語は山の途中の森の中を行く記憶を語るところから始まり、死にかけたところで一軒家にたどり着く・・・。よくある話だけれど、叙述は静けさとグチョグチョが同居する作風。
 宮澤伊織「件の天気予報」はタイトル通り天気予報の話だが、テレビが勝手についてヘンな予報をする。この作者得意の若い女性2人の会話劇がメインで一方は怪談師で相方はたたられ上手。あいかわらず、かな。
 柴田勝家「業雨の降る街」は冒頭作と被ったタイトルだけれど、ある意味村から街へのスケールアップ版かも。「6年間に一度降る業雨のとき殺した相手が降ってくる」という言い伝えを、小学校5年生の語り手の少女とライバルの転校生の少女との対抗心を軸にしてリアルに紡ぎ出したホラー。好調ですね。
 澤村伊智「赤い霧」はタイトルはありがちだけれど、これは「怪スポ突撃隊」を名乗る青年3人組がネットで怪奇スポットをリポートするという設定。語り手はそのうちの一人だけれど、冒頭は留守番の子どもが取った電話の不気味な会話シーンから始まる。ホラーのお手本的1作。
 斜線堂有紀「『金魚姫の物語』」は、個体としての人間に降り続ける雨というアイデアが強烈。その運命に見舞われた人間の末路はグロテスクだけれど、恋する女性がなってしまった場合を年下の少年が語る。この作者の「悲痛」をつくる手腕が発揮された1作。
 坂入慎一「三種の低気圧」は、降雨が作品の軸になっているまったく違う味わいの掌編3篇を並べたもの。なかなかの使い手だ。知らない作家だけれどライトノベルで活躍していたとのこと。
 空木春宵「堕天児(おとしご)すくい」は今回一番強烈な印象を残した1作。空から人の雨が落ちてくる、というところはフツーのアイデアだし、それを掬う行為も円城塔の話があるのでバリエーション的だけれど、世界設定と文体に緊密さがあれば、作品としては十分感銘を残す。エピグラムに空から1000人のニーソックスをはいた少女が降るという筋肉少女帯の曲が引かれているし、コードウェイナー・スミスや宮内悠介や先行作のイメージも湧いてくる。
 上田早夕里「成層圏の墓標」も短篇の長さで独特の雨の降る世界を定着させた1作。夕方から明け方まで雨が降るようになった日本で、コンビニの夜勤をしている語り手が店に来た「雨坊(あめぼう)」を初めて見たと語るところから始まり、知り合いになった女性の兄が表題の意味するところを体現するまでが描かれている。普通ならどうみてもスムースに繋がらないテーマを違和感なく読ませる。手つきはSFだけれど全体としてはオカルトで21世紀の「ウルトラQ」みたいだ。
 田中啓文「地獄の長い午後」はタイトルから分かるとおり、地獄の血の池に巨大なベンガル菩提樹が生えていて・・・と始まり、地獄の異変に気づいた釈迦が下りていく話。全然変わってないな、田中啓文。
 書き出しが「とこしえの雨」とほぼ被っている黒木あるじ「千年雪」、話の骨格も似ているが、こちらはサタイア・ホラーっぽい。
 編者の「彩られた窓」は「気象天文部」があった旧校舎を訪れた語り手は女子部員のなかでただ一人の男性だったが、その夢幻的想い出はいつも傷だらけのモノクロフィルムに繋がっていく・・・。戦争の時代へと繋がる後半はうまく繋がっているか分からないが。そういえば「彩雲」という偵察機があったな。ワレニ追イツク敵機ナシ、だったっけ。
 朝松健「怪雨(あやしのあめ)は三度降る」は、編者いうところの「室町ゴシック」。今回は1430年代から始まる飢饉を背景に、室町幕府の命で関東公方に破滅を齎そうとした傲慢な京の陰陽師が、現在の茨城県結城の庄ある村に行き、その地の神をさげすんだため起こる血なまぐさい怪異を語る。
 平山夢明「いつか やさしい首が・・・・・」は空から大首が降ってくるようになってからを小学6年生の手記で物語る1作。少女の手記はストレートな流れで結末に至る。
 トリは加門七海「虚空」。明日で閉店の屋上スタンドの店主がプランターの影に20年ぶりにその男を見つけた。学生時代誤って空のカケラを壜から出したため部屋で雨で溺れそうになったとき現れた男だ。すぐに姿を消したその男からラジオが届き気象庁の裏天気予報が聴けるようになり、そこには「コクウ」」予報もあった・・・。こちらも天気予報で、宮澤伊織と被るがこの作品の方がSF的な感触が強い。ただし原因の方がインドの日本人行者なので、これも21世紀型「ウルトラQ」かも。
 全体的に楽しめた巻でした。

 『超常気象』なかなか面白かったので、積ん読にしていた4月刊の井上雅彦編『ギフト 異形コレクションLⅢ』も読んだのだけれど、これは無謀であった。おそらく刊行時に手にとって半年前に読んでいたいたら、もっと楽しめたろうと思う。
 収録作家は深緑野分、津久井五月、飛鳥部勝則、澤村伊智、木犀あこ、井上雅彦、最東対地、平山夢明、黒史郎、斜線堂有紀、空木春宵、竹本健治、上田早夕里、篠田真由美、黒木あるじの15名。『超常気象』にも収録された作家が7人。無謀だったという感覚はこの7名の作品が単品としては決して悪くはないのに、そのほとんどが『超常気象』収録作の方が良かったという感想が残ったからだ。もうひとつ気がついたのは、作品のバリエーションはこちらの方が『超常気象』よりずっと豊かだということ。編者のお題が作家の想像力にはめる枠の強度はもしかしたらその解釈可能性に依るのかも知れないな。でもテーマの自由度と優れた作品が集まるかどうかは別のようだ。
 冒頭の深緑野分「贈り物」はそのストレートなタイトルからはかけ離れた、政府軍にゲリラが抵抗しているヨーロッパの街で、頭の後ろに小さな丸いハゲがある女の物語。雰囲気はいかにもこの作者らしいけれど、ややホラーに負けた感じがする。
 津久井五月「肉芽の子」もタイトルと内容がどう一致しているのかちょっとわからない1作。アイデア的にはオーソドックスな時間戦争ものに収束するけれど、ホラー部分がちょっと狂気っぽい。
 飛鳥部勝則「もうひとつの檻」は冒頭にハーンの雪女の話が引用されていて、現代の雪女ホラーになるのかと思ったら、雪女の話の筋がひねられすぎていてピンとこない。
 木犀あこ「二坪に満たない土」は一番フツーのホラー。表面的にはまったく違うけれど、ポーの「黒猫」バリーションかも。
 澤村伊智「鬼 または終わりの始まりの物語」は、オカルト雑誌の編集者が、引きこもりの特殊な投稿者に出会い、その能力が何に由来するかを知るまでを、当時は出版社側の社員でのちに妻となった女性が語る物語。桃太郎伝説の扱いは素晴らしいけれど、最後に出てくるディストピア日本への呪いがトートツに思えた。
 井上雅彦「ラズベリー色の天幕」は掌編を4つ並べたオムニバス短篇。最後の「カボチャ頭」が印象に残る。
 平山夢明「アトムの子」は、編者が前口上でウィルマー・H・シラス『アトムの子ら』の詳細を披露していて驚いた。話の方は妻やその兄によって息子が特殊な処置を受けるのに抵抗するも、取り込まれてしまう父親の視点でディストピア的世界を描いた1作。ストレートに暗い。
 最東対地「Cursed Doll」は呪いの人形の一人称で綴られる1篇。
 黒史郎「可不可」は「カフカ、反逆のネズミ」が蜂起するSFホラー?。
 斜線堂有紀「痛妃婚姻譚」は、選ばれた若い女性が「痛妃」となって人々の苦痛を引き受けるかわりに、美しくしさと贅沢な生活が保障されるというこの作者らしいお伽話設定。悲痛なラブ・ストーリーでもある。
 空木春宵「死にたがりの王子と人魚姫」の方も西洋童話風なタイトルだけど、中身は近未来女子高生カップルの血みどろな復讐譚と百合的「愛の呪い」を描いた1作。いかにもこの作者らしい「苦痛指向」。編者がこの2人の作家を並べたくなるのがよく分かる。
 竹本健治「男娼チヒロ」は9ページの掌編。セックス狂いを描くのはこの作者にはお手のものだけど一種の叙情性がある。
 上田早夕里「封じられた明日」は、編者が「異形の帝都」シリーズと呼ぶ1篇。今回は子爵に嫁いだ女性が、その家系の歴史にまつわるオカルト・ホラー的現象に対して、外部から呼ばれた「退魔師」とともに対決する。よくできているけれど、当方向きではなかった。
 篠田真由美「おまえの輝く髪を」は1920年代のイギリスで、孤独な未亡人が以前はクリスティーナ・R(ロセッティ?)が住んでいたという屋敷を、その屋敷に友人として招かれた3人の若い女性たちの一人に譲るという話の顛末を、そのうちの一人の視点で描いた1篇。
 巻末の黒木あるじ「L'Heure Bleue ルール・ブルー」は『超常気象』掲載作より出来がいいと感じた1篇。
 パリの路上に父の遺品のカメラで撮った下手くそな写真を並べた男、その中の表題を持つ平凡な写真を毎日見に来る美しい女、気を惹かれた男は・・・。よくできたヴァンパイア・ホラー。
 最初に書いたようにつまらない作品が多いわけではない。

 正月に読んだのが、劉慈欣(リウ・ツーシン)『三体0 球状閃電』。まあ鳴り物入りで宣伝されているし、主人公の語り手が球電で両親を失って、その研究者になったというところまでは紹介の内だし、主人公にとって運命の女である(はずの)陸軍(技術?)少佐の女性林雲(リン・ユン)と、この作品のSF性を背負って立つ理論物理学の超天才丁儀(ディン・イー)の3人が物語の中心をなしていることも、まあ紹介の内だろうけれど、球電の正体を丁儀が何と解いたかは、さすがにネタバレなんだろう。バカSF的アイデアをけっこうシリアスな人間物語で囲んで見せているけれど、多分作者にはそれほど悲劇に身を入れている感じもない。なにしろ主人公は結局見ている人(観察者)のまんまだし、SF的なドライヴは林雲と丁儀の領分だ。
 それにしても林雲のお陰で兵器兵器とウルサいんだが、どこと戦争しているのかと思ったら、ちゃんと中米戦争になっていた。英訳版があるのかとググったら2019年に出ていた。アメリカの人はどう思ったかなあ。窮極兵器は平和をもたらすって云うのはやっぱり神話だと思うけど、バカSFなのでそんなことはどうでも良いのか。
 しかしこのバカSFアイデア、いにしえのレイ・カミングス宇宙を思い出しますね。

 ノンフィクションはまず、ちくま学芸文庫版アンリ・ポアンカレ『科学と仮説』
 岩波文庫版は戦前の訳を新仮名遣い新漢字に直したのを学生時代に買っていたけれど、積ん読のままだった。昨年1月に新訳が出たのを買ってまたも積ん読になりかけていたが、初版出版後120年記念らしいので、読んでみるかと思った次第。後で気がついたのだけれど、岩波文庫でもこの訳書の前年に新訳版が出ていた。
 さすがに120年前のフランス人による数理科学解説だけあって、まだエーテルが当たり前に出てくるが、ポアンカレはエーテルがあると云うことになっているのは、それを仮定することで物理的な物事の解釈が便利だからに過ぎないと見切っている。
 ポアンカレの講義は淡々としており、数学の加減乗除から入るが、ぼんくらな当方は先ず足し算の定義からさっそく躓いた。
 ライプニッツの2+2は4であるという証明の話の中に、
「まず、1という数が定義されており、与えられた数xに1をたすという演算x+1も定義されているとする。(段落替え)これらのものがどのように定義されているかは、以下の推理には関係しない。」
という文章がでてくるのだが、後段の1文「これらのものがどのように定義されているかは、以下の推理には関係しない。」がここに置かれた意味が分からず、混乱している内に、ポアンカレは再度「加法の定義」に同じ文章を出す。曰く、
「与えられた数xに1を加える演算x+1があらかじめ定義されていると仮定しよう。(段落替え)この定義自体は、それがどういうものであっても、以下の推理では何の役割も演じない。」(引用の句読点はすべてカンマとピリオド)
 じゃあ、なんでそんなことをわざわざ云うのか。こういうところが文系人間に数学は分からないと思わせる原因があるんだろうな。すなわち数学が分からないんじゃなくて、日本語が分からないのである。
 あまりにも不可解なので、原書のPDFをダウンロードして読めないフランス語を確認したけれど、確かに否定形のような気がする。そこで現役時代の職場の後輩で数学科を出た奴のところへ久しぶりに押しかけて、説明しろと強要した。返ってきた答えは「そういうもんじゃないの」であった。彼の云い方もよく分からなかったのだが、どうやら「形式」としてそういう風に云う必要があったからそう言っているだけだと。全然納得がいかなかったのだが、結局茶飲み話に流れて帰ってきただけであった。菓子折の一つも持って行ってたら、もうちょっとマシな答えが返ってきてたかも。
 ということで、少々の引っかかり(当方には大問題)は無視して、最後まで読んでみたのだけれど、ポアンカレって大常識人だったんだなあ、というのが主な感想だった。云い方はいろいろ分かりにくいのだが、ユークリッドが作った形式が一般的なのは、それが人間にとって一番わかりやすく便利だったからとか、数学は現実を記述しているのではなく「関係」を記述しているだけだとか、その意味するところは腑に落ちるのだ。10進法と指の数とかはホントかどうかは別にしても、指の数が違えば進法もことなるだろうというのはSFを考えるときの基本的思考だろう。非ユークリッド空間を考え出すやりかたもある意味ハードSFの設定を考えることに似ているかも(イーガンがその典型)。
 まあ、数学は分からなくてもそれなりに得るものはあったと考えよう。

 いまや年寄りSFファンしか読まないんじゃないかちょっと心配して読んだのが、トマス・M・ディッシュ『SFの気恥ずかしさ』。国書刊行会刊でちゃんと索引も付いている。訳者あとがきによると、表題エッセイのみ浅倉さんの訳と云うことだ。
 表題エッセイやレイバー・デイ・グループ(LDG)揶揄書評など、懐かしく読ませて貰ったけれど、ディッシュはああだこうだと言いながら自分がSFゲットー出身であることを自認している。また、いわゆるSFのくだらなさに対して警告を発しているように見えるけれど、SFファンが目覚めるわけもないことは百も承知だったろう。
 最終的にSF界を相手にしない小説を書くようになったけれど、ディッシュ視点で見た優れたSF作品と作家については愛あふれる文章をものしている。UFOもうけ主義に対しては容赦が無いし、アシモフの小説家としての文章力や若手SF作家たちのレイドバック志向には厳しいけれど、それを読んでしまう読者の悪口を言っているわけではないので、そこらへんはわきまえているんだなあと思う。
 SFを読まずに悪口だけ云いたい人には、それなりに役に立つかも知れないが、SF読みとしてのディッシュはやはり愛すべきキャラだよね。


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