続・サンタロガ・バリア  (第227回)
津田文夫


 9月は何も話題にするようなこともなく、新型コロナの緊急事態宣言下でおとなしくしていたような気がする。とはいっても、ほぼ毎日1時間ほど自転車を漕いで町のあちらこちらを探検して、人があまりはいらない喫茶店で小一時間本を読んでから帰宅していた。10月になって宣言も取り下げられたので、とりあえず映画でも見てこよう。

 ついに大団円となった酒見賢一『泣き虫弱虫 諸葛孔明 第伍部』は昨年8月の文庫化、1年遅れでようやく読めた。
 前巻で主要キャラが全滅したせいで、この巻では孔明はほぼ出ずっぱり。もちろん魏の司馬懿や呉の孫権のエピソードが挟まるので、全巻を通じてと云うわけではないが、南方の異民族平定と北伐に専心する孔明の苦難が話のメインになる。超雲子竜もトシには勝てず、もはや蜀に孔明に対抗できるキャラがいなくなって、孔明が大活躍するほかないという羽目になった。丞相孔明もかつてのブッ飛びヘンタイキャラから、蜀という国の存立理由を担って奮闘するまっとうな闘う軍師に変身、最後は自らの死をも利用して司馬懿を寒心なさしめる。前半の異族平定がマンガっぽく描かれて、第四巻よりはだいぶ楽しく読める。北伐の方は結局失敗続きの話で、ついに病を得て没する主人公だが、作者の視点は飽くまでドライである。
 文庫で全5巻、3000ページを超す長丁場だけれど、リーダビリティは特に3巻までは抜群、多分面白さでこれを超えるものはそうはないと思われる。しかし、「三国志」の筋を変えるようなことはしないので、4巻5巻はやや重いのが残念。
 まあ、これで一応「三国志」の内容は大体つかめたと思いたい。

 日高トモキチ『レオノーラの卵 日高トモキチ小説集』は5月刊。表題作のみ再読。
 こりゃSFではないよなと思いつつ、表題作を大森/日下の年刊傑作選で読んだ印象が良かったので読んだ次第。書き下ろし1編を含む全7編。既発表作はすべて『小説宝石』初出。なんと初の小説集とのこと。
 既読の表題作で、人は卵を産み、ヤマネがしゃべり、時計屋は首だけだが、普通に人間らしい工場長の甥が卵の父親が誰か賭けよういうと、ヤマネたちも会話に加わる。語り手は彼らの様子やレオノーラについての説明をして進行役を担っている。これだけでは他愛のないファンタジーのようだけれど、文体というか語り口というか作品全体を覆う空気が好ましく、読み手を居心地よく作品世界へ誘う。
 「旅人と砂の船が寄る波止場」は、作者の趣味丸出しな固有名詞が頻出、冒頭のインスマスに途中から出てくるジムモリソン君とか。タイトルにある「砂の船」はギルガメシュ叙事詩からで、港の名前はモリタート(三文オペラもしくはジャズ)と名づくしはいくらでも続く。おまけにこの港は昔巨大ハマグリで栄えたという設定で、蜃気楼にオパールに宮澤賢治の「貝の火」と貝つながりも次々とつながる。そして「砂の船」はマリー・セレステ号とそれを題材としたドイルの作品につながり、そしてノアの箱舟にも。しかし話そのものは軽いファンタジーであり、よく考えるとひどい話なんだが、作者のもてなしのいい文章が読後感を保証する。
 以下、「ガヴィアル博士の喪失」、「コヒヤマカオルコの判決」、「回転の作用機序」、「ドナテルロ後夜祭」そして書き下ろし「ゲントウキ」、これらもまた作者の好きなものたちから紡がれたそれらへのオマージュで成り立っている作品群だけれど、どれも読んでいる最中は楽しく、まさに他愛ない物語たちが好ましく思える奇特な文章で出来ている。

 何故女性作家が書くスペース・オペラが面白い時代になったのか、SFマガジンで特集して欲しいところだけれど、ユーン・ハ・リー『レイヴンの奸計』も前作に引き続き面白く読める。
 (編者注:解説によればユーン・ハ・リーはトランス男性作家とのこと)
 冒頭からチェリスちゃんに取り憑いたいにしえの凶悪司令官シュオス・ジェダオ君が幅をきかせていて、さっそく六連合の一大艦隊を乗っ取ってしまう。チェリスちゃんはどうなったのかと思っていたら、案の定出るところでちゃんと出てきたので、笑ってしまった。 前作のエキセントリックな暦法合戦は、今作ではそれほど詳しい説明がなく、一種超兵器合戦みたいに読めてしまうけれど、今回はキャラで保たせることに成功していて、シュオス属の頭領ミコデスのキャラがなかなか読み手を楽しませてくれる。忠誠がモットーの軍人族ケルでありながら真っ当になれないプレザン君も人なつこく、ジェダオに乗っ取られた艦隊の女性司令官キルエヴもいい味出しているので、多数のキャラの視点で進行していても混乱することなくスラスラ読める。三部作の最終巻が翻訳が待ち遠しい1作。

 『百年法』とか『代体』とかSF界でもそれなりに読まれている山田宗樹『存在しない時間の中で』を読んでみた。この作者の作品を読むのはこれが初めてだ。
 冒頭、語り手が属する大学の数物系サークルの例会シーンにいきなり部外者が侵入、制止をものともせずホワイトボード20枚あまり(もちろんボードはひとつ)を使って数式を書つけて去って行った、その数式を見つづけたサークル員が気づいたのはその数式が現代の数学では追いかけられない部分があること・・・。その一方で別居状態にある若い女性が捨て猫保護センターで1匹の黒い子猫を貰って帰り、育てる内にそのネコがかけがえのないものになっていた・・・。
 ということで、一種の神の数学と既成宗教が否定されてなお宗教的な行動原理が物語のダイナミックスを構成する。となれば一番近いのはいわゆるID宇宙だけれど、この話の中ではフェッセンデンの宇宙とイーガンの数学宇宙戦争SFが混ぜ合わされてホラー/ミステリ的思考で結末に至るので、何か釈然としないものを感じる。まあ、すっと読めるので、エンターテインメントとしては十分だけれど、SFとしては面白くないかな。

 まったく記憶の彼方に消えていたのが、山田正紀・恩田陸『SF読書会』。2010年の文庫オリジナルの改題新装版らしいけれど、何の記憶も無い。まあ恩田陸が新装版のために今年8月に書いたあとがきで、まったく思い出せないと言ってるくらいだから、年寄りが忘れてるのは当然か。
 とはいえ、読めば結構面白く読めるので、もんだいなし。10年前の大森望解説にもあるように山田正紀のぼやき芸が炸裂しているところが読みどころのひとつでしょう。当方の残り時間も少なくなってきたし、そろそろ『鋼鉄都市』や『裸の太陽』を読むべきか。朝日新聞の天声人語にもダシにされてたし。

 パンデミックと同時多発テロが起きて、それ「以前」とそれ「以降」が違う生活様式になってしまったアメリカを舞台に、以前の時代にヒット曲を放った女性ミュージシャンのルースと、以降に生まれて田舎に育ち巨大通販会社のテレワーク社員だったけれど、音楽好きが高じてたまたま巨大VRライヴ企業のスカウターに転職したローズマリーのそれぞれの視点で物語が紡がれていくのが、サラ・ピンスカー『新しい時代への歌』。2019年のネビュラ賞受賞作。竹書房刊。
 まあ、コロナ禍前年に発表されて予言の書と持ち上げられるのはありがちな話だけれど、そしてその設定はSFとしてはささやかなものだけれど、物語は力強く、いまだにロック的な音楽小説が書かれていて、しかもクライマックスのコンサートで泣かせてくれるとは、驚くね。文庫で600ページ近いが、まったくダレず、ウブなローズマリーと、過去を引きずるルースのそれぞれの視点が非常に上手く出来ている。
 まあVRライヴ企業が法律で禁じられている生バンドのライヴでミュージシャンを発掘するというのは、あまり説得力が無いような気がするけれど、読んでる最中はそんなことも気にならない。

 てっきり新☆HSFSで出るのかと思っていたら、ハードカヴァーだったのが、宝樹(パオシュー)『時間の王 宝樹短編作品合集』。時間SFばかり7編を集めた1冊。冒頭に日本読者へ作者の前口上が付いている。
 80年代生まれの中国人SF作家はわりと日本SFに接しやすかったらしく、小林泰三をフェイバリットに挙げるなど、普通に日本SFを評価しているみたいだ。こりゃとそう遠くないうちに日中韓SF作家会議がひらけそうだなあ。善哉善哉。
 作者の実作の方は、冒頭の「穴居するものたち」からSFファン気質というかオタク気質丸出しのエンターテインメントで、万年単位の人類史を穴居で縛って通覧してみせるという荒技。物語づくりも少し昔の軽いコメディSFみたいでリーダビリティも上々。これはそれに続くたの収録作品にも大抵当てはまる。
 「三国献麵記」は、現代のラーメンチェーンが開業時のいい加減な宣伝文句を事実にするために赤壁の戦いから落ち延びた曹操にラーメンを振る舞う話。『泣き虫弱虫諸葛孔明』を読んだ功徳で、とってもよく分かる。
 「成都往時」は紀元前4世紀に出来た古蜀国の都の王がタイムトラベラーらしい女性と出会って不死の薬を貰い、彼女との出会いと別れを繰り返す話。よくあるパターンではあるが、面白く読める。
 「最初のタイムトラベラー」は文字通り最初のタイムトラベラーの運命を描いた小品。
 「九百九十九本のばら」はタイトル通り貧乏大学生がお嬢様に絶望的な恋をして、子孫への手紙一つで大量のバラを今に出現させようという話。「スズダル船長の罪と栄光」をオタク的にショボくさせたアイデアが爆笑もの。恋の成就は一ひねりある。
 表題作はこれまた一ひねり加えたタイムトラベルものだけれど、めずらしくシリアスな物語になっている。小川一水あたりが書きそうかな。
 巻末の「暗黒へ」はブラックホールと時間を組み合わせたちょっと昔タイプのハードSF。これも小川一水系かも。
 基本的には恋のハッピーエンドが多い短編集といえようか。そういえば解説には立原さんが中国の「カジシン」と呼んでいるとあった。

 扶桑社プリントオンデマンドで出た野田昌宏『山猫サリーの歌』を読んでみた。6月刊だけれど入手したのは9月。
 中扉見返しに編集部からという前口上があって、これは著者の遺稿であり、本書は大部分書き上がっていたけれど、まだ未完成だが、書きかけのメモ段階の部分も含め本文にはめ込んで、一作品として出版したという。
 実際読んでみると、昭和40年代を中心とした野田さんがフジテレビの「日清ちびっこのど自慢」のディレクターとして活躍していた時代を活写しながら、いつもの野田公ブシでトントン拍子に話が進んでいく。まあ、未完成なのでSFとしてのバランスが悪かったりするし、また現在の社会規範からはだいぶズレてもいる。それでもノスタルジックといえばそれだけかもしれないが、昔福岡のSF大会で目の前でソファに座ってあの調子でしゃべっていた野田さんを思い出して、シンミリすることができる。

 今回最後に読み終えたのが、N・K・ジェミシン『オベリスクの門』。3部作の第2作ということで、前作『第五の季節』よりはだいぶ読みやすくなった。とはいえあいかわらずゴツゴツした物語が展開している。まあ、基本石(結晶)の世界だから当然か。
 読みやすくなった原因は、第1作でこの世界の設定が頭に入っていることが第一だけれど、それだけ前作は第1作として未知の登場人物が次々出てくる上に、錯綜したプロットで読み手の負担が大きかったことを意味している。また、この第2作では、舞台設定にほぼ謎がなく、物語構成も前作からのヒロインのエッスンと彼女と離ればなれになったその娘ナッスンのエピソードが交互に語られるだけなので、読み手はそれぞれのエピソードのつづき具合に何の不安もなく読み進めることができるという点も、前作に比べリーダビリティが向上した原因だろう。
 などと云ってはいるが、実際には相変わらずスラスラとは読めないのだった。エッスンの方は、地覚ができるオロジェンが代表を務めるコム(コミュニティ)にたどり着き、そこでの日々を送る一方、娘の方は父親と南極地方を目指し、オロジェンの力を取り去ることができるというコムにたどり着く(実はこのコムはオロジェン育成のためのコム)。なんかすごく単純なプロットになったような気がするけれど、ディテールはあいかわらず複雑で、最終的に「オベリスクの門」を開けることになるエッスンのエピソードも、また最終的に父を切り捨てることになるナッスンのエピソードもひたすらヘヴィである。
 クライマックスでエッスンが仕掛けるオロジェンのスーパーパワーはなかなか迫力があって嬉しい。

 おまけにSFとは関係の無いノンフィクションを1冊。
 最早無職なので仕事関連の読書とは云えなくなったのだけれど、野口冨士男『海軍日記 最下級兵の記録』が出ていたので読んでみた。6月刊の中公文庫。
 野口冨士男は表紙見返しによれば、明治44(1911)年生まれの作家で、徳田秋聲に師事、『徳田秋聲伝』、『わが荷風』などが代表作、ということでSF読みにはまったく関係の無い純文学作家なのだけれど、作家の敗戦日記は仕事繋がりで何冊か読んだので、その続きという面もある。
 興味深いのは、これが敗戦まであと1年足らずとなった昭和19年9月14日、とうとう横須賀海兵団に入団させられ(これを応召という)、最下級水兵になるための訓練を受ける羽目になった妻子ある胃腸病持ちの病弱な33歳の作家(当時は教科書会社の編集者)が、ほぼ毎日付けていた日記(見つけられたら当然取り上げられて罰則を食らう)を10年あまり後に自ら読み解いて膨大な注釈を施したものであるということだ。なお海兵団は入団者を平時ならば数か月訓練して、最下級の2等水兵(職種はいくつかに分かれる)として送り出すことを主な仕事としている。これは現在の海上自衛隊教育隊も同じである。ただし、この時期はもはや数か月などと悠長なことは言っておられず、入団からわずか2週間後の9月末には同期入団者は作家を残してすべて最下級水兵として海兵団から移動した。
 戦況の悪化は兵隊としてほとんど用を為さない人間を数合わせというだけで兵隊にしあげてしまうという、スラップスティック・コメディを地で行く悪夢を出現させた。作家はもともと病人なので、しごかれれば壊れた体はますますいうことを聞かなくなり、病人部隊に配属されて、入退院をくりかえすというありさま、胃腸病なので、栄養失調で体重40キロそこそこという状態でまさに地獄の日々だか、何度もすれ違いはあるものの幸運にも妻や母と面会が出来たり、家族知人作家仲間からの数多くの手紙が届いたり、それなりの希望もあったようである。
 横須賀海軍病院に入院中のエピソードとして、昭和20年2月15日の日記の注釈に、硫黄島がえりの患者(玉砕戦以前)がどっと入院してきたとき、彼らは栄養失調状態だったが、当時の海軍では栄養失調を「不馴化性全身衰弱症」と呼んでいたらしい。これは初めて知った。もっとも作家は自分がその症例の最も早い1例だと自慢?しているが。
現在朝日新聞に連載中の池澤夏樹の海軍兵学校出の高級士官の話とはまったく別世界の現実がここにある。

 さらに(おまけ)
 7月に岡本俊弥さんから、新しい短編集『豚の絶滅と復活について』(このタイトルはロートルSFファンにアピールするのはもちろん、若い読者にもウケそう)を出すにあたり解説を担当するようにとメールがあって、当方の如きに書かせて大丈夫かと懸念を表明したところ、少々おかしくても採用するにやぶさかではないとの仰せだったので、8月の残暑の中エアコンもなしでダラダラ書いていた結果、いつもの感想文と大差ないものが出来上がったのであった。
 感想文だけでは間が持たないので、岡本さんをはじめ、現在のTHATTA ONLINEの主催者/執筆メンバーと初めて知己を得た大阪の喫茶店の話を入れたのだけれど、すでに45年近く前の話なので、勝手に話をつくっている可能性もないでは無いが、まあ、人の記憶は千差万別なので、事実誤認その他そういう記憶なのだなあと思っていただければ幸いです。
 あとボツにして貰ってもいいかなと思っていた「スレッシュ」のオマケ話しは、最初は大真面目に書いていたのを、自分でもバカバカしくなってきたので、現在の形になったもの。理工系の常識が文系社会でほとんど話題にされないのは、昔SF研の工学部メンバーがいつも3時間の実験が1単位なのは許せんとわめいていた(文系は1コマ最低2単位、4単位が普通)を横目で見ていたのとおんなじことかといまにして思うのであった。


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