続・サンタロガ・バリア  (第224回)
津田文夫


 「本の雑誌」で鏡明さんがコロナ禍の中、『JUNK HEAD』堀貴秀監督)を見に行ったとあったので、なんか聞いたことあるなと思って気にしていたら、なぜか地元映画館で1日1回の上映を始めたので、早速見てきた。
 ほとんど何の予備知識も無く、冒頭の未来世界設定の説明はパンフを参考にすると、核の冬で生態系が崩壊、人類は地下世界に暮らすようになり、あるとき地下開発の労働力として人工知的生命マリガンを開発したが、マリガンとの戦争が勃発、その結果マリガンは深地下に潜り、地表近くの地下に住む人類とは没交渉になった。その後マリガンも人類も予期せぬ事故や危機にさらされ、マリガンには変異種が生まれ、人類は危機に際して不死化したが生殖能力を失った。そんな時代から更に1000年余が経過して、人類はマリガンが生殖能力を維持している可能性知り、長らく音信不通となっているマリガンの住む地下世界を調査することになった。そして地下世界探検に志願した元VRダンス教師がアンドロイドに入り、地下世界に向けて巨大縦坑の中に発射されるところから、本編がはじまる。
 巨大縦坑を落下する途中でアンドロイドはマリガンに撃ち落とされ、そのボディはバラバラになって地下世界の通路に転がっていた。それをガラクタ集めをしているらしい大モグラみたいなマリガン3人組が頭部を見つけて、彼らの本拠地らしい博士の研究室に持ち帰った・・・というまでがプロローグ。
 世界設定はもとより、ストーリーの骨組みも、主人公はボデイを破壊されるたびに記憶を失い、修理されては記憶を取り戻すと云った構成で、やはり独創的とは云えないのだけれど、そのようなありがちなストーリーの組み合わせがこの作品の欠点になってないところに、というよりかありがちなSFの妄想を見事なまでに映像化して見せたその手腕に驚かされるのであった。
 その映像化に持ち込まれた、ストップ・モーションという手法や異世界言語の工夫が見る者をちゃんと作品世界に引き込んでくれる。ツクリモノの世界を生き生きと描写する腕前に圧倒されるのはもちろん、最大の驚きはエンドロールの監督の八面六臂ぶりだろう。 1500円という高額なパンフも買ってしまったが、この1作だけでは本来の冒険はまだ果たされていないわけで、当然続編があると思われるのでその期待のために入手したようなものだ。

 1980年代初頭はまだ独身という事もあり、土日はヒマということで、結構ペイパーバックが読めていた。その頃読んだのがMichael Bishop“No Enemy But Time”(懐かしのTime Scape Book)で、いま思えばあの頃はジョージ・ゼブロウスキー“Macrolife”とか結構長いものを読んでいたのだった(さすがに『ダールグレン』は読まなかったけど)。
 そのマイクル・ビショップ『時の他に敵なし』がなんと約40年ぶりに訳されて本当にビックリした。てっきり山岸真さんが訳したのかと思ったけれど、大島豊氏だったとは。 40年前にペイパーバックで読んで以来、当然読み返すわけもなく、内容に関してはほぼ忘れていたけれど、それでも「後退り吊り台」と訳された夢時間航行機のパーツが空中に突き出ているイメージは残っており、「デウス・エクス・マキナ」という言葉もこの作品で記憶に残った。そして最後に「時の娘」で締めくくられていたこともかろうじて覚えていた。
 すっかり忘れていたのは現代パートで、過去パートの方は読んでいて当時読んだ時のイメージがよみがえってくる感じがするのだけれど、現代パートの主人公の生い立ちから始まる家族話がすっぽり抜け落ちていた。あと驚いたのが、エピローグの「時の娘」がこんなにコメディ・タッチだったのかということ。かすかに覚えている感触では、ここは未来への希望が舞い上がって、それなりに感動するところだったような気がする。もっとも訳者の大島豊氏がコメディ・タッチだというのだから間違いないんだけど。

 積ん読の片付け中に薄い本がいくつか見つかったので読んでみた。

 小林泰三『玩具修理者』は平成11年4月の初刷の文庫。帯に「全選考委員の圧倒的支持を得た第2回ホラー小説大賞短編賞受賞作品」とある。なぜかこれを読んだ覚えがないので読んでみると、デビュー当時の小林泰三はクトゥルーをダシに使っていたことを知って、ようやくSFマガジンの追悼座談会のセリフに合点がいった。もちろんSF読みには「酔歩する男」の方がずっと衝撃的な作品だけれど、この作品をSF方面に紹介する器がなかった時代ということが、いまさらながら実感できる。でも1999年にはふさわしい作品だったかも。

 2011年文庫落ちしたJ・G・バラード『殺す』は、『女たちのやさしさ』とあわせて翻訳されたバラードの作品の内、未読の最後の2冊の片方だったハズなんだけれど、読んでる途中で既読感が甚だしく湧いてきた。もしかして親本で読んでいたのか。
 ゲーテッド・コミュニティの成人住民32人が全員殺され、子供たちは全員行方不明という設定だから、始まりはミステリーっぽいけれど、バラードにそんな趣味は無く、語り手によってさっさと子供たちによる親殺しを微に入り細に入り再現してみせる。1988年発表のこの悪趣味な作品は、その後の都市犯罪3部作の前触れ的1作だなあ。それにしても読んでないと思ったのに・・・ブツブツ。

 円城塔『オブ・ザ・ベースボール』は2012年の文庫落ち。こちらは確かに読むのは初めてだった。帯には既に「新芥川賞作家」とあるので、円城塔作品は当時すでに芥川賞受賞作も含めそれなりに読んでいたけれど、『烏有此譚』とこれは読まなかった。
 表題作からして円城塔の飄々とした語りは、その話の内容の結構な残酷さにもかかわらず、とぼけ倒している。でもいま読むとそれなりに初々しい。併録の「つぎの著者につづく」の方は、ラファティのタイトルのもじりだけあって、SFっぽいというか理屈っぽい言語/物語論だけれど、強烈さという点ではまだカワイイ。

 薄い本ついでに読んだのが、文庫化された上田岳弘『ニムロッド』。今年2月の刊。芥川賞受賞作だけれど、円城塔の受賞作のことをおもえば、これは村上春樹張りの男女関係もあって、普通に読みやすい1作。そういえばニムロッドの人物設定も昔の村上春樹っぽいか。でも面白く読めるので文句はない。これで芥川賞なら、いまの飛浩隆が30才若かったら、取れてたかもね。

 酒見賢一『泣き虫弱虫 諸葛孔明 第弐部』は、孔明が劉備軍に軍師として迎えられたにもかかわらず、劉備の我が侭に軍師らしい仕事をさせてもらえないまま、ウダウダしているうちに、ついに曹操のウン十万の本隊が南下、10万の民が着いてくるという状態で逃亡する劉備が孔明の奇計により長坂(ここでは長坂坡/ちょうはんは)の戦いを、情けなくも無事切り抜けるまでを扱っている。
 ここまで登場人物がヘンタイばかりだと、いかに蘊蓄が濃かろうと、とてもまともな歴史小説には見えなくなってきた。って、最初からマトモじゃなかったけれど、さすがにこのヘンさを受け入れる「三国志」ファンはあまりいないかも。でも相変わらず笑えることは笑えて、呉から来た魯粛の広島弁はちょっとどうかと思うが、それでもメチャクチャ面白いことに変わりない。
 次は「赤壁の戦い」に入るのかその前日談なのか、第3巻はちょっと薄いので、多分前日譚だな。

 SF短編集というので読んでみたのが、辻村七子『あいのかたち マグナ・キヴィタス』集英社オレンジ文庫。以前タニグチリウイチ氏が推薦していたので読んだ『螺旋時空のラビリンス』はこの作者のデビュー作だったらしい。
 本書は先に『マグナ・キヴィタス 人形博士と機械少年』という長編があって、その設定を使った短編集らしいが、長編は読んでない。
 冒頭の「ジナイーダ」は孫が持ってきた壊れたアンドロイド(ジナイーダと名乗る)を持て余した元偉いさんだった祖父が、アンドロイド保護法に則って修理者を呼び、そのエキセントリックな修理人からアンドロイドについての話を聞かされ、結局ジナイーダと暮らすようになる話。第2話「ピクニック」は、渚を行く爆撃を受けて死にかけのサイボーグが、ピクニック中のキヴィタス自治州所属アンドロイドが出会い、イケズなアンドロイドの犠牲的な助けを借りて街まで240キロを踏破する話。一人になって街にたどり着いたサイボーグは身体を治して貰う代わりに、アンドロイドに情動を与えた(多分美少女)天才博士の奴隷となる。以下の短編はこの2篇の設定と物語を前提に紡がれる。
 アシモフの頃から山本弘までアンドロイド/ロボットの物語は汗牛充棟な感もあるが、作家のセンスは千差万別なので、これはラノベ的既視感とともにいかにもいま書かれている活きの良さが同居している。

 新☆ハヤカワ・SF・シリーズの1冊として出たのが、英米の主要SF賞を総なめにしたというノヴェラ、アマル・エル=モフタール&マックス・グラッドストーン『こうしてあなたたちは時間戦争に負ける』。ノヴェラなので、ユルい字組で本文235ページ。薄い文庫になりそうだなあ。
 アリシア対エッドールの昔からある、2大勢力が時空(ここでは多世界解釈宇宙の時間線「スレッド」)の奪い合いをしているオーソドックスなスペースオペラ設定だけど、2勢力は善悪で分けられず、それぞれの勢力圏の拡大を目指している。そんな中、一方のエージェントのレッドは、ある時敵方エージェントのブルーから手紙を受け取る。そしてライヴァルたる2人の女性は一通一通奇想天外な方法で互いにに届けあうようになる・・・。と、まあ現代的でスタイリッシュな百合SFみたいになっているのだけれど、作者の山田和子さんも言うように、とにかく膨大なジャンルの参照事項が詰め込まれている上に、なかでも韻文(歌詞を含む)の取込みが多く、なかなか日本語としての効果が上がりにくい作品である。表面的には軽くて、そのスピード感からラノベ作品を思い出すけれど、それも含めての米英での評価かも知れない。

 伴名練編『日本SFの臨界点 中井紀夫 山の上の交響楽』は、巻末の編者解説がスサマジい1冊。
 伴名練は88年生まれと云うことで、表題作は編者が生まれる前の作品である。年寄りである当方は、表題作を読むのが今回で多分4回目くらい。「見果てぬ風」や「死んだ恋人からの手紙」が3読目くらいだけれど、適当に忘れているので何回読んでも面白い。「山手線あやとり娘」「暴走バス」「殴り合い」やその他の短編は再読か初読と云うことになる。
 中井紀夫がSFに通じ、かつ奇想を読者に上手く伝える書き手であることがよく分かる1冊で、伴名練の編集能力にはベテランを思わせる力量が感じられる。それでも中井紀夫の魅力はその作品が証明しているわけで、その点では、「日本SFの臨界点」という大看板を背負った渾身の解説は、スゴーっと感心するけれど疲れる。大森望の解説芸のエンターテインメント性を少し取り入れた方がいいかも。

 だんだん活発化してきた現代中国短編SFの紹介だけど、今回歴史ものを集めた大恵和実編『移動迷宮 中国史SF短編集』が出た。8編を収録。訳者が5人いて訳者紹介を見ると編者が1981年生まれと一番若く、女性かと思ったら男性であった。
 飛氘(フェイダオ)「孔子、泰山に登る」は、孔子とその弟子の一団が落ちぶれている時期に、孔子自身はあまり信を置いていない飛行機械で泰山に行く話。書き方が落ち着いてる所為もあって一見そうは見えないが、かなりブッ飛んだ話だ。解説によれば、孔子が泰山に登るというのは出典があるとのこと。
 馬伯庸(マポーヨン)「南方に嘉蘇あり」は、「嘉蘇(コーヒー)」のアフリカ起源から、その後シルクロードを通じて漢代には中国で飲まれており、孔明も「嘉蘇」狂いだったという、架空のコーヒー中国史。読んでいてバッハの「コーヒー・カンタータ」を思い出した。
 程婧波(チョンジンポー)「陥落の前に」は、隋が滅びるとき巨大な白骨が洛陽を引っ張っいくというかなりヘンテコなイメージが印象的だけれど、しかし話自体は史実に基づいた幽霊ファンタジーになっている。
 再登場の飛氘(フェイダオ)の表題作「移動迷宮」は、清朝時代大英帝国の使節として乾隆帝に面会しようとしたマカートニイが、三跪九叩頭の代わりに迷宮を抜けたら面会が叶うという話に乗って、迷宮めぐりをする話。ダンジョン・ゲームですね。
 梁清散(リャンチンサン)「広寒生のあるいは短き一生」は、清が滅亡直前の1900年代初頭の新聞に月にクレーターを描いた挿絵のある小説を目にして、その作者広寒生が書いた他の記事を探し、この作者のプロフィールを明らかにしようとするもの。なかなかシブい1作。
 宝樹(パオシュー)「時の祝福」は、1920年代に魯迅が故郷で友人と会うが、友人は魯迅が「時光機」と訳したウェルズのタイムマシンは実在し、それを手に入れると、貧困がもたらす不幸から人を救えるという。そして友人は行動に移すが、当然ながら、時間線をいじればいじるほど不幸な現在が生じる話。プロット的には典型的だが、当時の中国の雰囲気と魯迅の語りで読める話になっている。
 韓松(ハンソン)「一九三八年上海の記憶」は日中戦争が始まって一年という時代に、上海には映像レコード屋(解説ではCD-Rみたいなもの)があり、語り手はちょっと変わったレコードを見つけて、女店主に再生装置で逆早送りで映像を見せてもらうが、女店主が云うには、通常再生するとその映像世界に人が移動できるという・・・これがイントロ。
 始まりはSFというよりはファンタジーっぽい話だけれど、作者はこれをパラレル・ワールドの未来の中国まで引っ張っていくという大風呂敷を広げて見せている。
 夏笳(シアジア)「永夏の夢」は、まるで仇同士のような男女が時間線のあちらこちらで出会いを繰り広げる時間SFラヴストーリー。物語がなかなかハードで、『こうしてあなたたちは時間戦争に負ける』を思い出した。
 編者による解説がかなり熱が入っていて頼もしく、このレベルの短編集がこれからも読めるのであればうれしい。

 岡本俊弥さんからついこの間届いたのが、大熊宏俊編『眉村卓の異世界通信』という書籍。A5版のちょっと大きめなサイズで、290ページと結構な厚さ。カヴァーにバーコード及び定価はなく、非売品ということになるのかな。扉ページには同書刊行委員会の本書出版経緯を記した挨拶文、奥付ページには編者大熊宏俊氏の編集後記、その下に奥付の囲みがあり、6月30日発行で本書刊行委員会のメンバー中に岡本さんの名前があった。 目次は「父のこと」に作家・編集者の追悼文と遺児である娘さんの表題文、「眉村さんのこと」は眉村卓がDJをしていたラジオ番組「チャチャヤング」のショートショート・コーナーゆかりの人びと(岡本さんもその一人か)をはじめ、京都の老舗SF(創作)ファングループ・メンバーやいわゆる創作講座の受講生など、そして何らかのゆかり(眉村卓と面識がない者もいる)で寄せられた追悼文が掲載されており、分量的にも読むのにかかる時間もこれが一番長い。
 その次の「SF作家・眉村卓の六十年」は、山岸真さんがSF作品歴を総覧(スゴッ)、詩人眉村卓について2編、幼馴染みの回想や堀晃さんの追悼文的日生(ひなせ)訪問記、NULL時代から眉村卓を知っている女性による短い期間のコピーライター時代、その昔関西SF作家なんとかトリオとかカルテットとか呼ばれていたこともある内の2人、田中啓文と北野勇作の追悼対談、そして娘さんによる作家としての父の姿が収められている。
 最後に眉村卓自身の単行本未収録作品「夢まかせ」(79年『SFマガジン』掲載)と奥さんのために毎日書いた短文作品を自費出版で10冊刊行した時に各巻につけれれた「卓通信」全編で本文を閉じ、末尾に当然のことながら著作リスト(やはり岡本さんの得意とするところですね)が付く。
 一応ざっと全文読了、最初に思ったのが、面識のない、もしくは少ない、または一方的にしか面識のない作家がそれぞれ工夫した追悼文を寄せてくれていること。創作教室系の生徒さんたちはみんな真面目で泣ける文章が多いこと、星群の人たちはわりと真面目だけれど、チャチャヤング系は仕掛けが多いことなどが印象に残った。
 「夢まかせ」は79年発表という時代背景を考えると、その当時既に晩年の作品につながるようなスタイルが出てきていたんだなあという感想が湧く。まあ、書き方は独特としか云いようがない。以前も書いたけれど、当方は眉村卓の良い読者とは云えないので、特に数多い短編との比較は出来ないが。
 「卓通信」は眉村卓のある意味、地の文がうかがえて興味深い。エッセイとしては、かなり崩れた感じだけれど、実用的な通信文としてもかなり変格な感じのする面白い文章だ。
 仕事柄、昔の偉いさんの伝記もそれなりに読んだけれど、こういう書籍が出来上がるところが眉村卓の人徳だったんだと納得しました。
 あとひとつ思ったのが、カヴァーの折り返しがもう1センチ長かったらよかったなあ、ということでした。
 


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