続・サンタロガ・バリア  (第223回)
津田文夫


 12年乗った自転車が事故で壊れてしまったので、坂の上にあるわが家まで押して上がるのも大変だし、ということで10万円出して電動アシスト自転車にしたのだけれど、これがねえ、重いし急な坂だと強い脚力が必要で、短い距離だけど最後の数メートルは押して上がることになり、思ったほど楽ちんではない。長いゆるめの坂を登り続けるにはなかなか重宝だけれど、最終的に足が疲れることに変わりはないのだった。まあ、使い慣れればそれなりに愛着が湧くのかも。

 キャロル・スタイヴァース『マザーコード』は、生化学の博士号を持つ作者のSF長編第1作らしいけれど、よくできていると云っていい。でも作家性の強さという点ではあまり惹かれるものがないかな。
 米軍がアフガンで使ったバイオ兵器が地中細菌と反応して暴走、米国でさえ効果的な治療法が確立しないうちにそれは世界に蔓延してく・・・、メインプロットは2筋あって、このバイオ兵器に前後してかかわった人びと(基本的に軍部とそこに呼ばれた科学者たち)が、人類滅亡が迫る中、人工的子宮ロボットで免疫を持つ子供たちを生み出すことになる話と12年後の成長した子供たちの物語である。
 バイオ兵器暴走と軍部科学者の奮闘は、著者の専門知識が生かされているところだけれど、でもシリアスに書かれているだけで、よくあるバイオ系人類破滅ものの類型に収まっている。これがSFとしての魅力を発揮しているのは、新人類ともいうべき子供たちとその育ての親であるロボット(マザー)の設定と両者の関係の描き方にある。軍部科者たちとこの子供たちが出会って進行するドラマがややメロドラマ的でも、子供たちと(マザー)の物語は印象的で、軍部科学者たちのエピソードを背景に追いやって、こちらに重きをおいた物語を展開していたら素晴らしい作品になっていたかも知れない。

 岡本俊弥さんの書評を見るまで出ていたことに気がつかなかったのが、三島浩司『クレインファクトリー』。4月刊の徳間文庫。タイトルが物語のテーマを象徴する1作。
 SF的設定は、過疎地方の先進特区につくられたAIロボットで動く工場で起こったロボットの反乱「ロボット戦争」から7年が経ち現在は伝統工芸インキュベーション地区として再生された街が舞台、またこの時代にはAIロボットに関連して「分水嶺」と呼ばれる事象発生確率偏向を起こす存在が発見され、その私的所有が法律で禁じられているという2点。AI搭載ロボットの方はよくある設定だけれど、「分水嶺」の方はオカルトと最先端科学が合体したような不気味な設定である。
 そんな田舎に出現した書き割りみたいな街で、両親が「分水嶺」に絡む犯罪で収監されて、里親となってくれたAIロボット開発者の女性の家に住むが、あと1年で20歳になって里子期間が終わる少年マド(女の子っぽい名前だけれど出生時に男女双子で女児が死亡したため女児用の名前を付けられた)の物語。
 話の方は大変よくできていて、少年マドの成長と冒険譚としておもしろく、里子たちの思いを描いてリアリティがあり、何よりも隠れた主役AIロボット「クレイン・シリーズ」試作機「千鶴」がSF的設定とテーマを統合してクライマックスを作るところが素晴らしい。

 廊下に積み上げていた文字通り積ん読本を箱詰めしているときに見つけたのが、浅井ラボ『されど罪人は竜と踊る⑩ Scarlet Tide』『されど罪人は竜と踊る⑪ Waiting Here to Stop the Noisy Heart』『されど罪人は竜と踊る⑫ The One I Want』の3冊。2011年から13年の刊。そういや⑩は読んだ覚えがあるけれど、あのあとアンヘリオ(語り手ガユスたちの最大の敵役)と彼にいたぶられてた「最凶の女咒式士」パンハイマの四角四面娘ペトレリカはどうなったのかという興味から、ふたたび⑩から一気に斜め読みをしてしまった。
 まあよくも次から次へとドンデン返しを考えるものだなあと感心する一方、一応語り手であるガユスの超いい加減な女癖の話がしつこく繰り返されるのには辟易する。相棒ギギナが呆れるのもよく分かる。アンヘリオと肩を並べる大物が何人かいて、それらが激突する合間にガユスたち中堅咒式士もそこへ割り込んでいくのだけれど、最終巻では、ライバルたちを打ち倒したアンヘリオでさえ一蹴されるというさらなる超化け物が二人登場して、ガユスたちは雑魚扱い(なんか悟空がレベルアップしないドラゴンボールみたい)。この化け物の一方との戦いでガユスたちと組んだパンハイマさえ死亡するという体たらく。ガユスたちが死を覚悟したときもう一人の超化け物が割り込んできて、そして化け物たちはガユスたちを置いてけぼりにして自分らだけで戦うのだった・・・。
 なかなかの迫力だけれど、どうも話のメインはガユスのもと恋人で未練たっぷりなジヴーニャと「死んだはずだよ」のパンハイマにさらわれている感がつよい。浅井ラボもよく考えるなこんなオチ。ということで第一部が完結したらしい。第2部を読む気はもうないけれど。

 あっと驚く伊藤典夫さんの新訳が創元SF文庫から出たロバート・シルヴァーバーグ『小惑星ハイジャック』
 伊藤さんの「訳者あとがき」によると、1964年に出た1冊で2作が楽しめるというエースのダブルブックに収録の片割れ。片割れの方はヴァン・ヴォークトの中編集だったとのこと。ということで、シルヴァーバーグの調子のいい書き飛ばしSFが読めるのも嬉しいが、伊藤さんの昔話が今頃読めるのはもっと嬉しい。伊藤さんが高校生時代に読んだ思い出のペイパーバックSFがシルヴァーバーグだったとは。
 作品の方は、原題がONE OF OUR ASTEROIDS IS MISSINGで「われらが小惑星たちのひとつが行方不明中」というような意味らしいが、主人公が一攫千金のレアメタル小惑星を発見、火星で所有者として登録後地球に帰って確認したら、その登録がないどころか主人公の公民登録さえ消えていることが判明、どうやらウラで大企業の暗躍が・・・という内容から判断しても、いかにもやっつけなタイトルだ。まあ、現代SFに読み慣れた目で読むと、文庫でわずか180ページしかなく、長編として物語を展開するには相当の力量が要求されそうだけれど、この当時のシルヴァーバーグはほぼ勢いだけでストーリーを進行させているので、スピード感が命のジェットコースター小説になっている。とはいえ、さすがに半世紀以上前のエンターテインメントSFはノホホンとした印象が強い。その理由については岡本俊弥さんの書評に詳しいので参照されたい。
 ちなみに1973年頃、当方が浪人時代に最初に読んだペイパーバックSFはクラークの短編集THE WIND FROM THE SUNだった(いまググったら1973年刊のSIGNET版と判明、便利な世の中だ)。エースのダブルブックは大学に入ってから少しだけ買った。そういえば大学卒業の頃、シルヴァーバーグの72年作THE BOOK OF SKULLSのハードカヴァーを買ったが、SF研の後輩にあげたような記憶がある。

 『本の雑誌』の山岸真ページの新刊情報で知ったアンナ・ツィマ『シブヤで目覚めて』は、いわゆるSFとは呼べないけれど、日本/シブヤ大好きな現代チェコの若い女性が語る綺談が、日本の年寄りが呼んでもまったく違和感がないという点で面白い1作。
 語り手は日本カルチャーが好きでプラハの大学で日本文学の論文(菊池寛らと交友があった云う川下清丸というマイナー作家がテーマ)を書こうとしている女の子ヤナ。以前17歳の時に日本に滞在したことがあるが、なぜかその時以来シブヤに生き霊として分身が住み着いてしまっている。彼女にはシブヤの地縛霊みたいに行動範囲に限界がある。そしてどちらもヤナ視点で各パートが進んでいく。
 作者が1991年生まれと実際に若く、底本が2018年ということは、作者が20代半ばで書き上げたデビュー作ということになる。一見ヤングアダルトまたはラノベ風な設定だけれど、作者自身が実際にプラハの大学で日本文学を専攻、日本留学経験もあり、そのポップな語り口(翻訳の良さもある)が奇想小説的設定をラノベ風なジャンル小説感から引き離している。なによりもシブヤの物語には現代のリアリティがあって、昔の色眼鏡ニッポンとは隔世の感がある。
 もうひとつ褒めていいのは、主人公が研究する川下清丸の設定で、大正末から昭和初期にわずかな短編を発表した作家ということになっているが、もちろん架空。しかしそのもっともらしさに作者の日本文学研究の専門性が生かされていて、主人公による作家探究が、一風変わった恋人未満役の大学院生の青年や日本から来た女性留学生の東京にいる兄などを巻きこんで、物語全体を駆動し結末まで支える。大団円を無視した終わり方もいかにも現代的だ。

 暇になったら読もうと思って、昨年11月に文庫落ちした金文京『中国の歴史④ 三国志の世界 後漢三国時代』を読んで予習したのに、なかなか手が出せなかった酒見賢一『泣き虫弱虫 諸葛孔明 第壱部』が漸く読めた。
 魏・呉・蜀と曹操・孫権・劉備を線で結べという問題を間違える自信があるくらい三国志には疎いのだけれど、酒見賢一も冒頭「初めて『三國志』を読んだのは作家になってからのことである」と宣言しているくらいだから、当方もそれぐらいで当然と励まされた気分だ。もっとも細谷正充が解説で眉唾に決まってんだろとツッコんでるが、当方の話はホントのことである。なんせ孔子の師が水鏡先生だったと知って、ビックリしたくらいだもの。
 さて本書は、孔明の生い立ち、結婚そして劉備に三顧の礼を以てスカウトされ、ついに軍師を承諾するまでの話であるが、さすが酒見賢一、非常にヘンテコりんな諸葛孔明像をつくりだしていて、それに関連して劉備一党や孔明はもちろんその取り巻きたちにも片っ端から作者がツッコむというスタイルなので、ほぼ10ページごとに笑わせられてしまうという大変な作品になっている。ただし文体としては一見軽いようであるが、詰め込まれた蘊蓄は膨大で、そうそうスラスラとは読めないつくりになっている。それがこんなに面白いのに2009年初刷りの文庫が、いまだに2018年でようやく3刷りという体たらくの原因かもしれない。
 ハードカヴァーどころか文庫落ちの時さえリアルタイムで買わなかった人間のいうことじゃないが、勿体ないハナシだよねえ。

 本屋で東浩紀『ゆるく考える』を手に取って、文庫版あとがきを読んだら『ゲンロン戦記 「知の観客」をつくる』を読めとあったので、その気になって『ゲンロン戦記』(昨年の12月刊)も買ってこちらの方から読み始めてしまった。
 『ゲンロン戦記』はいま流行の語りおろしということもあってとても読みやすいが、ややもすれば株式会社「ゲンロン」(2012年創業、前身会社は2010年立ち上げ)の責任者東浩紀の中小企業経営顛末記という印象が強くなってしまう。
 会社/組織運営の本質が総務部門にあることは宮仕えした経験のある人間には常識(役所の機構図は総務部門がトップに来る)だけど、「筆一本」で生計を立てる知識人にはあまり実感が湧かないかも知れない(本来は確定申告がその役割をしているハズなんだが、税理士/経理担当任せだとわからないか)。もっともそれだけなら、学生仲間または仲良し同士で立ち上げた会社を見舞うよくある不幸/ボンクラの連続談ということなのだが、にもかかわらず副題は「『知の観客』をつくる」なのである。
 失敗譚の反省がなぜこの一見強気に見える副題/結論なのか。2018年12月に東浩紀が会社運営失敗を自覚して会社をたたむ決心をする頃には、その間のさまざまな活動と成果によって、すでに会社自体は本人の勝手な思いとは別に、人的資本的強度を獲得しており(そのため本人は最終的に経営責任者から下りることができた)、そしてその教訓が東浩紀に中小企業オヤジマインドの、すなわち地道に日本を支えてきた態度の重要性を再認識させた(これは古い話ではないのだよ)。アクティヴな哲学者/批評家として20年以上のキャリアがある東浩紀は、ここに来て何をプロデュースするのかという確信をこの副題によって語っているのである。そしてそれを実現するための中小企業「ゲンロン」が「反スケール」でなければならないと確信できたのも、再認識がものを言ったのであろう。このことは『ゆるく考える』の巻末に収録された、中小企業を経営していた母方の祖父を想う「ゲンロンと祖父」(2018年1月「新潮」掲載)からつながっている。

 中国語SFといっても台湾の方の呉明益(ウー・ミンイー)『複眼人』は、そのタイトルから連想されるものとは違って、ファンタジーにしか見えない太平洋の未知の島で、島を出て行く運命にある少年アトレのエピソードと、台湾東岸の山で夫と一人息子が登山中に行方不明となり、大学教員を辞して自殺しようと考える海辺に住む女性アリスのエピソードが、現実の台湾で邂逅するというのがメインストーリー。多視点小説なのでさまざまなエピソードが重なっていくが、主筋としては少年アトレとアリスに焦点が当たっているように読める。しかしタイトルは「複眼人」で、この名前で呼ばれる者が登場するのは全部合わせてもわずか数ページ、しかもアトレとアリスのあずかり知らぬ特定場面でのみ、というシロモノである。
 非常に落ち着いた語り口の小説で、今回読んだ作品の中では、ファンタジー的な仕掛けがほとんどケレンを感じさせずに機能するという、文学的な味わいが濃厚な一品。たとえば冒頭、地下の工事現場で巨大だが遠くから聞こえる音がして停電、そして再びその音が聞こえた、というたけのたった2ページのエピソードが置かれて、すぐにアトレの島の物語に移る。この冒頭のエピソードは、物語が3分の2ほど進行したところで漸く具体的なコンテキストにはめ込まれるが、当方のような不注意な読者はちょっとビックリするのだった。おそらくファンタジーの結構と多視点物語の効用を考えたとき作者には「複眼人」という視点が発想されたのかも知れない。多分タイトルは最後に付けられたのではなかろうか。
 以前『歩道橋の魔術師』がSF界隈でも話題になったことがあったけれど、買ったかどうか思い出せないので読んでない。うーん、読んでみてもいいかも。

 『複眼人』の帯に惹句として「こんな小説は読んだことがない。かつて一度も」とその言葉が引用されているアーシュラ・K・ル=グィン『暇なんかないわ 大切なことを考えるのに忙しくて』は昨年1月に出た著者生前最後のエッセイ集(と帯にある)。ブログに書いたものの中から時系列ではなく内容によって4部に分けられた文章群と「パード日記」と題された愛猫に関するエッセイからなる。
 ル=グィンの文章とその内容は、いかにもル=グィンとしかいいようのないある種頑固な強さを備えていて、序文を書いているカレン・ジョイ・ファウラーや訳者の谷垣暁美がいうように、その声が聞こえてきそうだというのが大方の印象だろう。ル=グィンの書いたブログの内容が興味深いかどうかは読み手の資質によるだろうが、読ませてしまうという点では、まったく異論が無い。ここ数十年ル=グィンのまとう雰囲気はまったくブレなかったので、まあル=グィンといえばそういう作家だったと今後もなるんだろう。

 ようやくという感じで出たのが劉慈欣(リウ・ツーシン)『三体Ⅲ 死神永生』上・下。前作でメインアイデアだった暗黒森林の「面壁者計画」の裏設定ともいうべき、「階梯計画」(人間の脳を三体世界に送り込むというもの)が、ヒロイン程心(チェンシン)を宇宙の果てまで連れて行くというのがメインストーリーだけれど、イヤハヤなんともとしかいえないエスカレーションぶりで、次から次へとアイデアが繰り出されて、さすがとおもわせる。
 しかし一番ビックリしたのは、とにかくSFファンを喜ばせようと、その真っ暗で絶望的な設定もエンターテインメントにして読者をくすぐり続けるその姿勢だった。エンタメの前にはハードSF的設定の厳密さも顧みない剛毅さは賞賛に値する・・・かどうかは、SFに何を期待するかによるだろうけれど、まあここまでやってくれれば文句はない。
 この宇宙には多数の知的存在があって、その科学技術はほぼ限界がなく、しかし知性にとって安全な宇宙とは、排除できる他の知性は常に排除するという論理に貫かれているイヤーな宇宙なのだという「暗黒森林」設定は、それでもダーク・マターやダーク・エネルギーの存在を説明できてしまう恐るべきアイデアにつながっているのだった。
 脳だけで三体世界に送り出された、まるで程心の守護神みたいな天明(ティエンミン)君が、程心に話すおとぎ話(寓話)が非情によくできていて、おとぎ話の各エピソードが物語全体の中で繰り出されるSF的大風呂敷をちゃんと説明しているところは、まるでフレドリック・ブラウンのミダス王のエピソードを彷彿とさせる。
 物語全体を昔話にしてしまうやり方は、『果しなき流れの果に』やレンズマン・シリーズ第4巻の結末が思い起こされるなあ。

 ほかにも数冊読んだけれど、長くなったのでまたの機会に。


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