内 輪   第368回

大野万紀


 編集後記にも書きましたが、本当に本を読むスピードが遅くなり、今月も間に合ったのは三冊のみです。読むのに時間がかかると前に読んだ内容があやふやになるので、外部記憶(要するにパソコン)にメモしながら読むようにしているのですが、一冊あたりの書評がむやみに長くなりがちなのもそのせいでしょうね。ネタバレはないように気をつけてはいるのですが。
 ジョン・ヴァーリイが心臓手術を受け(成功したとのこと)、治療費やリハビリ費用、生活費をサポートするための寄付が行われていることを知りました。また執筆できるようになるまで半年はかかるとのこと。ささやかながらぼくも寄付しましたが、このサイトに詳細があります。早くお元気に……・。
 2021年のヒューゴー賞ノミネートが発表されましたが、新しく追加されたビデオゲーム部門に日本から「あつまれ動物の森」と「FF7リマスター」がノミネートされています。明らかにSFといえるFF7はともかく、どうぶつの森もSFだったのか。いや何かそんな気もしてきました。あののんびりした世界は実はタヌキ族の作った仮想世界で、その証拠にみんな木の葉……・。

  それでは、この一月ほどで読んだ本から(読んだ順です)。

エドゥアルド・ヴェルキン『サハリン島』 河出書房新社
 やっと読み終えた。400ページ弱の2段組でボリュームもすごいが内容もすごい。とはいえ、決して難解で読みにくい本ではなく、特に後半はすらすらと読み進めることのできる本なのだが、なぜか少し読んでは止まり、また少し読んでは止まりと、ずいぶん時間がかかってしまった。たぶん、歳をとってすぐにお腹いっぱいになってしまうせいだろう。
 帯にある「大日本帝国復活の近未来」「囚人とゾンビうごめく魔境で帝大未来学研究者は何を見るのか」というのはまさにその通りなのだが「この十年最高のロシアSF」というのはこの十年のロシアSFをほぼ読んでいないのでわからない。
 ひと言で言えばしつこく悪趣味な想像力に満ちた地獄巡りのロードノベルである。北朝鮮(と思われる)の弾道ミサイルをきっかけとした核戦争で欧米、中国、ロシアは壊滅。さらにMOB(移動性恐水病)と呼ばれるゾンビみたいな伝染病が流行する。自衛隊が維新を起こして大日本帝国を復活させた日本は鎖国によりこれを防ぎ、今では唯一の文明国としてアジアを支配している(とはいえそのほとんどは廃墟なのだが)。人権などどこにもない恐るべき社会で、中国人、コリアンは徹底的に差別され、とりわけコリアンはこの戦争を起こした民族として虫けらのように非人間的な扱いを受けている。またアメリカ人(と思われる人々)は白人だろうが黒人だろうが「ニグロ」と呼ばれ、檻に入れられて群衆からリンチを受ける見世物とされる。人間の命は軽く、無数の死体は発電の燃料となる。海も陸も放射能に汚染され、特権をもたない人々は長生きできない。そこに地震や津波、火山噴火などの天変地異が繰返し襲ってくる。そんな悪夢のような世界。
 主人公は東京帝国大学の未来学研究者シレーニ。彼女はロシア人の血を引くバイタリティ溢れる女性で、祖父から伝わるマッキントッシュのレインコートに身を包み、良家の子女ながら二丁拳銃の腕前も確か。格闘術にも通じている。彼女はオダ教授の指示のもと、フィールドワークのため日本領となったサハリン島へと赴く。
 サハリン島の名所はいくつもある刑務所だ。主に日本人の犯罪者が収容され、採鉱などの仕事に従事している。かれらは刑期を終えると条件付き自由民となって島で暮らすことができる。また大陸から難民として来た無数の中国人も条件付き自由民だが、行政からは放置され、まともな暮らしはできない。ごく少数の役人や軍人、技術者などの日本人だけが自由民として特権的な身分にある。その他、ロシア人の子孫たちもいる。勇猛果敢な戦士として混乱期に島内の反乱を鎮圧した〈手押し車族〉、主にその子孫で、私設武装警察のような働きをしている〈銛族〉たち。かれらは島の行政府からも一目置かれる存在となっている。
 シレーニに案内者として同行するアルチョームは〈銛族〉だ。このアルチョームがいい。無茶苦茶強くて、寡黙で、かっこいい。また彼の育ての親で、師匠ともいえる〈手押し車族〉の老人、不思議な物語を語りまくる哲学者のようなチェークも魅力的だ。チェークは主に回想の中に出てくるが、後半では実際に旅の仲間となる。それにアルチョームが助けたアルビノの少年ヨルシ。かれは口もきけず指もない。民間薬として薬にされる運命だったのだ。物語後半ではこの三人がサハリン島を北から南へとたどっていくことになる。その冒険はほとんどラノベかコミックのように波瀾万丈、密かなロマンスと静かな風景描写、とんでもない密度の危機また危機と激しいアクションに満ちている。
 それにしてもすさまじい物語だ。北方で起こった危機から逃げていく何万人もの中国人たちはほとんど人間として描写されず、単なるモブである。それはまるで一昔前の3DCGで描かれた記号的なスペクタクルシーンのようだ。シレーニたちにとっては障害物でしかない。刑務所や町で出会う日本人たちもまともな人間めいたことを話すようで、みんなどこか狂っている。変態で異常者ばかりだ。それをいえばシレーニたちだってみんなまともじゃない。この小説、今の感覚でまともといえる人間など一人も登場しないのだ。この前に読んでいたコミックの『ゴールデンカムイ』がちょうどサハリン島での物語になっていて面白かったが、あちらも変態の異常者が楽しそうに暴れまわっていたけれど、こちらはそれに輪を掛けて奇怪な連中がてんこ盛りである。終わりの方でやっと今の人間にも理解出来る人間性が残っていることがわかるが、それも無慈悲に流されていく。
 そして最後のカタストロフ。その後に、なぜかほっとするようなエピローグがついていて、そこには確かにSF的な展開もあるのだが、正直言ってぼくには何でこのエピローグがあるのか、よくわからなかった。これだけ読めば情緒もあって良いエピローグなのだが、物語の全体とそぐわない気がする。どうしてこうなるのか、何か読み落としているのかも知れないが、読み返してみる気力は出ないからなあ。
 それにしても、こんなところでホグベン一家のオマージュに出会うとは思わなかった。後書きによると作者はカットナーのファンなのだそうだ。

筒井康隆『ジャックポット』 新潮社
 短めの14編が収録された最新短編集。これはなかなかすごい短編集だ。ひとつは、ぼくにとって昔なつかしくさえ感じる狂騒的な言語遊戯(「破茶滅茶朦朧体」というのだそうだ)系の作品が多く収録されていること。ぼくが大好きな筒井康隆のハチャハチャは健在だ。もうひとつは、80代後半となった作者の、老いや死、衰退や滅び、そして大騒ぎしながら正気(制御)を失っていく大衆と社会への批判的でありながら自分も一緒に踊ろうとする、その皮肉な眼差しがはっきりと見えること。普通の文体で書かれた自伝的・私小説的な作品もあり、それも興味深い。
 「漸然山脈」はまさにその言語遊戯的な作品の傑作で、様々な意味不明な言葉の連なりが、ラ・シュビドゥンドゥンへとなだれ込んでいく。このリズム感と気持ちよさ。最近ぼくは言語遊戯的といえば円城塔を思い起こすのだが、円城塔が文章の幾何学的な構造や文字の形、意味の生成などに興味の中心があるのに対し、筒井康隆は圧倒的に言葉の音、リズムに集中している。また意味のない断片的な言葉の連想をつないでいくことによる独特な高揚感のある場の生成。読者はその場に一緒になって入り込み、声を上げて踊り狂うのだ。ラ・シュビドゥンドゥンと。
 「コロキタイマイ」も同様に意味不明な語りが連なっていくが、こちらは大阪弁で漫才をしながらフランス文学史を語るという大筋がある。そこが楽しいと同時に、ハチャハチャに徹し切れていないのではという違和感を感じるところでもあるが、そんな違和感もまた筒井康隆の計算かも知れない。
 「白笑疑(はくしょうぎ)」では同様だがもう少し普通の文体で滅びの様相が描かれる。まるでコロナ禍の下にあるような終末が描かれるが、これは2018年の作品だ。蛇眼症の少女との出会い、そして垣間見える未来は切なくも美しい。
 「ダークナイト・ミッドナイト」は深夜放送のDJの語り口で筒井康隆が死と昭和を語る。作者の自伝的要素もある。筒井康隆が死について語ればこれは悪趣味なものになると決まっているのに、自伝的要素もあるせいか、むしろ誠実で真剣なものに聞こえる。作家の死とそれでも残る言葉、そしてハイデガーの哲学についての語りが熱い。
 「蒙霧升降(ふかききりまとう)」は筒井康隆を思わせる老人の饒舌な、ただし脈絡不明な語りによって、戦後のホームルームからつい最近の政治情勢までが語られる時事放談であり、その中心にあるのは民主主義というか、ポピュリズム、そう初期の作品からずっと続いている扇情的なマスコミに踊らされる人々(大衆)への悪意ある嘲笑である。それを蒙霧と呼ぶのは悪趣味だけど、これも筒井康隆だなあ。
 「ニューシネマ「バブルの塔」」では時空を超える詐欺師が現れる。世界をまたにかけ莫大な金をかすめ取り、裏切り裏切られ、殺し殺され、残酷な拷問と死が語られる。全ては詐欺なので、語り口こそ軽快だが軽快な話ではない。そして最後に現代の実在の日本作家のリストが示され、それが詐欺的文学・文学的詐欺の担い手としてリクルートされるのである。現実を上書きしかすめ取る詐欺としての虚構へと。
 「レダ」は普通の小説のように始まる。ところどころ変なところはあるが、年老いた会社の会長が、息子である社長と副社長の愚かさについて愛する秘書と話をしているようだ。それがいつしか神話的な世界にそのまま入り込み、ゼウスが白鳥となってレダに卵を産ませたように、秘書は会長の子である卵を産むのだが……。しかしそこにさらに混沌とした様々な要素が入り込んできて物語は「破茶滅茶朦朧体」の中に発散していく。
 「南蛮狭隘族」は太平洋戦争の戦場で敵味方問わず残虐行為の犠牲となった兵士や民間人の霊(?)が、われら、南蛮狭隘族となって語る。その残虐行為を、生き残った人々の欺瞞を。それを聞いているのは筒井少年なのか。ぼくも知らないことが多く、本当かとも思うが、エビデンスも示されているのでそういうこともあったのだろうな。
 「縁側の人」では惚けかけた老人が縁側で、相手が孫か子供かも曖昧なまま、思いのままをとりとめもなく語る。とりとめはないが「破茶滅茶朦朧体」ではなくて、部分的にはしっかりとしているが少し惚けたところのある文学的素養のある普通の老人の口調である。その内容は詩についての思い出と批評的な昔語り。「雨ニモマケズ」のパロディ詩が楽しい。
 「一九五五年二十歳」。これは自伝的小説。著者二十歳のころの、同志社大学での演劇と映画の日々。ある意味恵まれた環境にいた筒井康隆だが、青春の戸惑いや高揚は誰しも共通するところがあるだろう。筒井康隆のリイ・ブラケット論は、書かれるならぜひ読んでみたい。
 「花魁櫛」はショートショート。死んだ母親の仏壇に入っていた鼈甲の櫛が実は骨董的価値のあるものとわかり、始め処分しようとしていた妻の様子が変わっていく。特別に意外性があるわけではないが、呪いというか、人間性への悪意が感じられる結末である。
 「ジャックポット」はハインラインの「大当たりの年」(原題がThe Year of Jackpot)をモチーフに、現実のコロナ禍とその先にある仮想的な世界の破滅を、ニュースの見出しとそのコメント的な言葉の羅列で幻視する。「大当たりの年」はとにかく悪いことの周期が重なって最悪の「大当たり」となる様を描くが、コロナ禍は現実にそんな大当たりを引き込んでいるようにも見える。SFとリアルの重なり合い。それを面白いと言ってしまうのはやはり悪趣味なのだろう。
 「ダンシングオールナイト」も自伝的作品で、ジャズや楽器、そしてダンスへの傾倒を時系列的に語るものだが、2020年の終わりに書かれたこの作品にはコロナ禍が深く影を落としている。最後にはコロナへのおまじないも記されている。
 「川のほとり」は2021年2月に発表された最新の作品で、評価も高い。ごく短いが、亡くなった息子への想いが情緒的なだけではなく理知的にも描かれていて、心に染み入る傑作である。51歳で病死した息子、筒井伸輔さんが、著者の夢に現れる。亡くなった人も心の中には生きているという、情感に訴えてくる作品なのだが、その奥には意識/自由意志の立ち上がるところという現代SF的なテーマも見えてきて、すごい。虚構である小説の中で虚構である死者が語る言葉は作者が創り出したものであるにも関わらず、そこには当人の意志があり、独自の生を生きているといえるのかも知れない。

林譲治『大日本帝国の銀河 2』 ハヤカワ文庫JA
 2巻目となったが、まだまだ謎は深まっていくばかりである。とはいえ異星人と思われる「オリオン集団」の活動状況は次第に明らかとなってくる。
 冒頭、ソ連の天文学者が地球を周回する人工衛星を発見する。それは地球上の全ての軍事情報を偵察できるものだった。日本でも電波天文台を建設した秋津がそれを確認し、海軍中佐の竹園と、日本国内に大使館の開設を要請したまま横須賀のオリオン屋敷に幽閉中のオリオン太郎に問い合わせようとする。ところが、いつの間にか姿を消していた彼は、満州で行方不明となった元禄通商の猪狩と、日本ではない某所で会ってきたのだと話す。
 その猪狩は関東軍の古田中佐に拉致されようとしたところをオリオン花子に救われ、空中戦艦と呼ばれる巨大な六発大型機の中にいた。彼の世話をするのは人間型をしているが明らかに花子らとは違う生物である。やがて空中戦艦は宇宙と地球を往還するパイラと呼ばれる飛翔体から空中給油を受け、成層圏を超音速で飛行して、南洋諸島のどこかにあるらしいオリオン集団の基地に着陸する。そこには数台のパイラと、大気圏内専用である小型の飛翔体、ピルスが駐機していた。オリオン集団はもはや当時の飛行機に似せることもしていない、まるで空飛ぶ円盤のような(というか座布団みたいな)飛翔体を運用しているのだ。ここで猪狩は初めてオリオン太郎と対面する。
 一方欧州では、ナチスドイツに占領されたパリで、海軍少佐の桑原が、ドイツ国防軍情報部のカナリス部長と面会していた。二人はオリオン集団に関する日本とドイツの情報を交換し、また独ソ不可侵条約の行く末についても話をする。そしてカナリスは桑原をベルリンへ送るということだったが、彼の乗った飛行機に謎の円盤が接近してくる。
 舞台はまた日本に戻る。日本では新体制運動という全体主義的な政治運動が台頭してきていた。竹園らは、この運動により明治以来の権力の分散(陸海軍が政府とは独立の権限をもつ)を廃し、憲法を改正して軍の上に政府が立つ統一された体制を確立しようと考えている。そうすればオリオン太郎のいう大使館設立についても具体的な話ができるというのだ。一方陸軍は陸軍で、関東軍の古田中佐を東京へ戻し、オリオン集団の情報を彼に管理させようとする。
 そんな思惑が交錯する中、秋津はオリオン太郎と話をするが、話は通じるようでいて通じない。根本的なところで人間的な思考と食い違っているようなのだ。そんな中で伊号第61潜水艦事件が起こる。紀州沖を航行中の潜水艦が座布団のような飛翔体に襲撃され撃沈されるのだ。
 本書の後半、主な舞台はソ連に移る。モスクワの日本大使館に外務省の熊谷という男が、世界中のあらゆる暗号通信を解読できるという謎めいた機械を搬入し設置する。どうやらオリオン集団の技術を元に日本人の技術者が開発したものらしい。数十万個の真空管を微細な金属の部品で置き換えた計算機だ。日本でも秋津が同じ機械を手に入れ、テレックスとつないで紙テープでプログラムすることを覚える。最初に出力されたのは「HELLO WORLD」だ。いやあこの辺の描写は半世紀前の自分自身を思い出して妙に懐かしい。それはともかく、南洋の孤島にいた猪狩は神奈川へとピルスで移動し、ウクライナの寒村には不気味な幽霊が現れる。その幽霊はオリオン・イワンとオリオン・マリヤと名乗る。
 最後にはまた主要な人物が顔を合わせることになる。秋津はオリオン集団にモスクワへと連れて行かれ、日本大使館で熊谷と会う。古田機関の古田は何者かに襲われるが、そこへ海軍の桑原が現れる。そしてモスクワでは東郷全権大使がモロトフと会談する。そこで出てきた話とは……。
 本書ではこのようにいくつかの断片が発展していき、次第に大きな謎の存在が見え隠れしてくるのだが、この段階ではそれがどのように収束していくのかわからない。SFを読み慣れている読者には様々な可能性を想像できて楽しいが、まだまだそれがどう転ぶのか不明だ。1巻に続き本書でも、日華事変当時の軍部の状況であるとか、法律と行政機構、統制についてとか、また当時の技術+アルファでデジタルコンピュータを作るとか、そういう細部がまるで小説というより新書を読むようなリアリティレベルで描かれる。そこが面白いのだが、一方で話の流れを妨げると思う読者も少なくないのではないだろうか。


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