続・サンタロガ・バリア  (第219回)
津田文夫


 不要不急かどうかは分からないが、久しぶりに地元のホールでオケを聴いた。
 オケは広島交響楽団で指揮が現田茂夫、ピアノが三舩優子、曲はグリーグのピアノ協奏曲とドヴォルザークの交響曲第8番という正月らしい晴れやかさ。オープニングはグリーグのピアノ曲集「叙情小曲集」から管弦楽版「トロルドハウゲンの婚礼の日」で、調子の良い民謡風の曲。グリーグの叙情小曲集は最晩年のリヒテルが好んで弾いていて、ピアノの手元だけ照明を入れたステージは今でも記憶に残る。
 グリーグのピアノ協奏曲はいつだって晴れがましいイントロが嬉しい曲だけれど、三船はやや重厚なスタイルで弾いて見せた。Youtubeで見たアリス・サラ・オットは軽快に弾いていたけれど、現代の若手はクリアで重厚さの感じられないスタイルで聴かせるものが多い。交響曲の方はあまり重厚さは無いけれど、トランペットの晴れがましい響きは充分正月を感じさせるいい演奏だった。アンコールは当然ドヴォルザークの「スラブ舞曲」からだったけど、何番だったか忘れた。帰りに会った音楽仲間と20世紀の昔に較べて広響は良く響くようになったねえと言い合った。1600人の会場に500人くらい。

 橋本輝幸編『2010年代海外SF傑作選』はいかにも現代らしく収録作家のほとんどが英語で書いてはいるが、いわゆる昔ながらのアメリカ白人男性ではない。それと編者のこだわりを強調するかのように巻末のテッド・チャン「ソフトウエア・オブジェクトのライフサイクル」が本文450ページの内170ページを占めている。
 冒頭のピーター・トライアス「火炎病」は、兄が本人だけに見える青い炎に包まれる病気にかかり、主人公がその治療法を求める話だけれど、結末はまったく別の効果をもたらして終わる。これってヒネリじゃないよなあ。
 郝景芳(ハオ・ジンファン)「乾坤(チェンクン)と亜力〈やーリー〉」はスーパーAIが幼い子供から学ぶように指示されて悪戦苦闘する話。ほのぼのする結末だなあ、というのはいいんだけれど、ワッツのAIにも『ヴィンダウス・エンジン』のAIにもあの『TITAN』のAIにも感じたんだけれど、スーパーAIがアヴァター/インターフェイスで一人の人間の相手だけをしてるだけで、まるでAIの性格が変わっていくような描写はどうも納得しかねるんだよねえ。
 アナリー・ニューイッツ「ロボットとカラスがイーストセントルイスを救った話」もロボット/AIが可愛く活躍するタイトル通りの1作。楽しく読めるのはいいことだ。
 と思ったら、カナダの白人(?)男性SF作家ピーター・ワッツ「内臓感覚」はやっぱりワッツらしいイジワルな話で、現代のテクノロジーがちょっと先の未来で何をもたらしうるかを見せつける。
 サム・J・ミラー「プログラム可能物質の時代における飢餓の未来」は、オモチャに使われているポリマーと呼ばれる「プログラム可能物質」が暴走して世界を滅ぼしにかかる時代に、愛に飢えるゲイの主人公の思いが重なる1作。現代的。
 長編を円城塔が訳していたチャールズ・ユウ「OPEN」はやはり円城塔の訳。巨大なOPENの文字が空間に浮いていてそこを開けると・・・って、一種のバカSF。
 ケン・リュウ「良い狩を」は3読目くらい。よくできた話です。
 陳楸帆(チェン・チウファン)「果てしない別れ」は作中にも言及がある『潜水服は蝶の夢を見る』の主人公のように全身麻痺で最後には意識も失われるという奇病にかかった男が、軍の要請である生物の意識に潜り込む話。語り口が巧いので最後まで読ませる。
 お久しぶりのチャイナ・ミエヴィル「“ ”/ザ」は原題THE.らしいけれど、要は「無」をもとにでっち上げられた研究報告書。何書いてんだか。
 ラス前のスウェーデン出身というカリン・ティドベック「ジャガンナート-世界の主」は、異形の人類のライフサイクルの話。これはSFのひとつの典型。宮崎駿のスタイルで短編アニメにしたらウケそう。
 テッド・チャンはこの間読んだばかりだったけれど、一応再々読はしました。意外と結末が判断中立的な感じだったことに気がついた。このアンソロジーの流れでこれを最後に置きたいのはよく分かる。
 『2000年代海外SF傑作選』に較べると今回のアンソロジーはやや「傾向的」な感じがあるけれど、まあ2010年代の作品はまた10年後に別の視点のアンソロジーを編むことも出来そうだ。それはそれで楽しいかも。もっとも当方はもうそれを読めない可能性が高いけれども。

 前作の芥川賞受賞作が表題作の『穴』が面白かった小山田浩子『庭』が文庫になったので読んでみた。300ページ足らずに15編。しかしほとんどのページが見開き1行目から左ページ末行まで1字の空きもないという文字組で、読み終わるのに3週間かかった。 5ページ足らずのショートショートから20ページ程度の短編は、筒井康隆の実験小説みたいな「動物園の迷子」を除けば、ある種のパターンが感じられる作風である。それを小山田マジックリアリズムと呼べば呼べるかも知れない。
 わずか4ページの「延長」は、「納屋の掃除を頼まれ恋人の家に行った」で始まり、居間で野球のテレビ中継を見ていた恋人の父親の「こりゃ延長だな」の一言で終わる。だからタイトルが「延長」なのだが、しかし、僕が納屋に入っても、「もう十年、誰も入ってないの」といいながら、恋人とその母親は中に入らないし、父親はそのままテレビを見てる。納屋はイヤナ臭いがするし、ボウリングのピンが1本見つかって不思議に思う僕をよそに恋人母娘はそれに何の関心も示さない。片付けが終わって軍手を見ると蟻が付いている。母屋に戻って風呂を借りて湯船に入ると黒いものが浮かんでる。よくみると一面に蟻が浮き、風呂場そのものが蟻だらけ、風呂を飛び出し恋人家族にそれを訴えると10年経っても終わってなかったかと気を落とす母娘。父は「納屋を潰してもあいつは忘れないんだろうね」と云って僕をビックリさせつつ、最後のセリフを吐く。
 これって典型的なホラー/奇想小説なんだけれど、エンタメ的な企みを匂わせずまったくフツーの文学的な文体によって放り出されているので、読み終わってすぐはちょっとオチを理解するまでタイムラグが生じる。笑えるんだけど、文体が笑わせないのである。
 すなわち、徹底したリアリズム文体でいかにもこぢんまりした日常の世界が描かれているように見えるが、何かいきなりリアリズムではないものが紛れ込んで世界が違ってしまうのに、しかしリアリズムは壊れないという不思議な文体の持ち主なのである。そのせいか、ここには感情の温度というものがほとんど上下しない。もちろん作者と年齢の近い女性の視点で語られるものが多いが、「延長」のように男性が語り手というのもあるし、1編は少年が視点人物であったりするものの、たとえば冒頭の1作、両親に離婚を伝えに田舎に帰った女性の話「うらぎゅう」にしてもストーリー的には一種のホラー小説的な結構を持っているにもかかわらず、感情の温度はほぼ一定していて、ページターナー的な戦略がほとんど感じられない。おそらくそれがなかなか読み流せない理由なのだろう。
 ちなみに『庭』に「庭」という短編は入っていない。「庭声」と「広い庭」というタイトルはあるけれど。
 あと裏表紙折り返しに作者の文庫収録作品が印刷されていて、『穴』『工場』『庭』の文字がつくるダイヤモンドが印象的。まるで暗号みたいだ。

 早川書房から初の韓国SFが出ると云うので、その前にこれも読んでおこうと手に取ったのが、イ・ラン『アヒル命名会議』。ちょっと奇想小説よりかと思ったら違った。帯にあるアジカンの後藤正文の惹句からして見当を付けりゃ良かったんだけれどね。
 ちょっと奇想小説風といえるのは冒頭の「いち、にの、さん」とその次の表題作くらい。「いち、にの、さん」は芝居の脚本みたいなト書きではじまる会話劇で、ある1室の30代の韓国人女性と日本人男性と猫が、ゾンビに囲まれた世界へ向けてジャンプする話。表題作は神様と天使と悪魔が鳥にアヒルという名前を付ける会議を開く寓話。そのほかは現代小説でちょっと不気味なコメディが多い。楽しく読めるが、SFではない。

 そういや韓国の小説で積ん読になってのがあったなと思って読んだのが、チョン・セラン『保健室のアン・ウニョン先生』昨年3月刊。こちらは幼いときから霊視能力がある女性が、クセのある私立高校に保健室の担当として就職してから起こる学園てんやわんやものの連作短編集。作者が楽しんで書いたというだけあって、ちょっとラノベっぽいところもある1作。
 最初に学園創立者の孫という男の国語の先生と開かずの地下室を開ける話からはじまり、この創立者の強力な守護霊に取り憑かれた国語の先生と一種バディを組んで、霊的に問題を抱える生徒たちや先生たちや悪意の同業者と対決していくのがメイン。最終話ではちゃんと落ち着くべきところに落ち着くことも含めて、よくできたエンターテインメント。特に云うこともなし。

 ということで本命キム・チョヨプ『わたしたちが光の速さで進めないなら』は、本当にSFらしいSFばかりが収録された短編集だった。
 日本語版への序文からしてSF愛の強さがまぶしいくらいだが、収録作の方も少なくとも外形上はこれまでの伝統的なSFのスタイルを踏襲しているといえる。しかしこれらが現代小説の感触を持っていることも確かで、それは個人的なもしくは女性的な視点とテーマが持ち込まれているからだろう。
 冒頭の「巡礼者たちはなぜ帰らない」は、遺伝子操作による改造人間の世界である地球とそれとは逆に肉体的欠陥を持ったままの人間が普通に暮らす(地球外の?)村とに分れた世界で、一生に一度地球に巡礼する村人たちが帰らないことがあるそのわけを明かす物語。若書きのル・グィンを思わせる1作。
 「スペクトラム」は、宇宙探査船でファーストコンタクトを果たしたものの40年間宇宙をさまよって人事不省で発見された祖母から、誰にも語られなかった祖母のファーストコンタクトを孫が聞く話。異星人の設定がなかなか魅力的な1編。
 「共生仮設」は、見たことも聴いたこともないものへの郷愁というある種ありふれた想いを、宇宙規模また人類起源規模で展開したSFファン好みの1作。いいよね。
 表題作はこれまでにSF作家たちが書きていそうな、宇宙空間の絶望的な距離に人としての覚悟で立ち向かう感動的な物語。立ち向かうのは女性である。
 「感情の物性」は集中一番SFらしくない一種の考察物語だけれど、モノに閉じ込められたいくつかの感情というある意味ニセモノの商品がもたらす効用と物語のテーマがきれいに重ねてある1編。
 「館内紛失」は亡くなった人の人格がデジタル・データとして図書館で貸し出されるという世界の話。亡くなった母とはずっと疎遠だった女性があるきっかけで母のデータを借りようとしたら検索コード不明で見つかりませんと言われる。女性の想いはさまようデータの母に向かうことでひとつの和解を迎える。これもアイデアと物語のテーマが巧く重なった作品。
 最後の「わたしのスペースヒーローについて」も英雄的な女性宇宙飛行士として活躍したおばさんに憧れて自らも宇宙飛行士になった女性の話。しかし主人公は英雄視していたおばさんが実は最後の最後でミッションを放り出していたことを知らされてショックを受ける。そして主人公の採った行動は・・・というもの。
 「感情の物性」を除いてこれらの物語はすべて女性が主人公であるが、前にも書いたように以前は男性作家がほとんどだったので男がメインキャラだったに過ぎないのだ。
 ということで、今回読んだのは3冊とも女性作家の作品だが、男性作家の韓国SFも読みたいぞ。

 個性的で読みでのある作品をモノにする作家を輩出した創元SF短編賞だけれど、その受賞作である久永実木彦『七十四秒の旋律と孤独』の表題作を読んだときは、他の受賞作に較べて古典的なSFのスタイルを使ったえらく静まりかえった作風だったのが印象に残った。
 この宇宙の設定は、いわゆるワープを「空間めくり/リーフ・スルー」と呼び、本のページをめくるイメージと、しおりがページの外へ出て別ページに挟まれるイメージに例えて、高次空間である本の外に飛び出ている時間が74秒という世界になっている。この「空間めくり」が「離散的」を連想させてちょっとこの間読んだカルロ・ロヴェッリの「ループ量子重力理論」を思わせる。そしてこの74秒のあいだはすべてが静止するが、例外が視点キャラクターのロボット/人工知性「マ・フ」なのである。
 で、表題作はこの74秒間に起きる出来事から「マ・フ」が宇宙船を救う話な訳だけれど、アクションの割に「マ・フ」君の語りが冷静なので静かな印象が残るわけだ。
 残りの5編は、「マ・フ クロニクル」と題された連作短編で、表題作の「マ・フ」より遙か未来の「マ・フ」たちの物語からなり、これも再読の「一万年の午後」はすでに人類が滅びて1万年以上、ある惑星に降り立った宇宙船に乗り組む8体の「マ・フ」たちは、毎日決まった日課で惑星を観察しているが、視点キャラの「マ・フ」は本来意識が途切れるべき「夜」もずっとものを考え続けている。そして1万年の間お互いに個性というものが無かったはずの「マ・フ」たちに微妙なさざ波が立ち始める。そして視点キャラはまるで人間だけが持つはずのいらだちを反復するが如き行為に出る。
 〈Webミステリーズ〉に発表された「口風琴」とそれに続く書き下ろしの3編は、「一万年の午後」の視点キャラが主人公のひと繋がりの物語になっている。その繋がりを生じさせる事件が観察対象だった惑星で「人」が発見されたことだった。ということで、「マ・フ」だけの静かな狂気の物語になるのかと期待していたら、人間の登場によって「マ・フ」たちと「人間」のドラマへと発展し、闘争状態が発生して滅びと救済の物語へと変貌していく。
 ここでもSFはヒトの「倫理」を追い詰めていくことで、物語として大きな有効性を獲得しているのだけれど、そしてそれは素晴らしいことなんだけれども、個人的には「マ・フ」だけの宇宙の物語が読みたかったなあ。まだ「人間」を発見する前に古代のヒトの武器を発見した視点キャラが、その銃を暴発させて仲間の「マ・フ」を破壊してしまったエピソードから、そちらに発展する方向もあったかと思う。

 コワモテなイメージが定着したピーター・ワッツ『6600万年の革命』は本文250ページ程で、短い長編と同シリーズの短編からなる薄い1冊。以前出た短編集に収録されていた遠未来宇宙を航行する宇宙船のシリーズに入る2作とのこと。シリーズ名は「サンフラワー・サイクル」と解説にある。「サイクル」ということは行ったり来たりクルクル回るということか。まあ今作の設定は確かに回っているけれど。
 それにしても『6600万年の革命』とはベタな邦題だなあと原題を見るとTHE FREEZE FRAME REVOLUTION/「ストップモーション革命」これもそれなりにベタなタイトルだった。「フリ-ズ・フレイム」といえば懐かしのJ・ガイルズ・バンドを思い出しますね。
 肝腎の物語の方は、裏カバーのストーリー紹介文に、「宇宙船は地球を発って6500万年、・・・ワームホール構築船〈エリオフォラ〉は任務を続けていた」とあり、銀河をぐるぐる回ってワームホール・ゲートをそこら中に作っているんけれど、実際の作業はAIが行っており、人間はAIが必要としたときだけ数千年とか1万年とかに1回起こされるだけという途方もない設定。「マ・フ」だって1万年の午後を何の変化もなく過ごしていたけれど、こちらは桁違い。それでもハードSF的な設定はこの作者らしい。
 しかし、問題はメイン・ストーリーが題名通り宇宙船内で革命をやる話になっていて、誰が誰に対して革命するかというと、これがAIに覚醒を管理されている人間たちがAIから支配権を奪おうという反乱なのである。ちょっとそりゃあ無いぜというくらい超古典的な話が千年万年を接いで進行するのであるから、一見緊張感のある革命劇に見えて、実はストップモーションで進行しているわけで、こりゃ喜劇だよねえ。
 なによりもこのメインストーリーが『2001年宇宙の旅』のHALエピソードを彷彿とさせてあまりにパロディ/パスティーシュっぽい。おまけにHAL役のAIは「チンプ(お猿)」と呼ばれ、ノータリンと思われていて、人間側はこんなAIは簡単に出し抜けると思ってたりする。早くて何十年、普通は何千年も寝ている人間たちが。おまけにヒロインは、地球出発時にAIを設定した連中が宇宙船の乗組員である人間をAIを通じてコントロールしているのではないかと疑っているようで、これまたまんまHALエピソードなんだなあ。読むところを間違えているのは分かっているけれど、そうとしか読めないんだよね。

 今回読んで一番新鮮だった/驚愕したのが、エドゥアルド・ヴェルキン『サハリン島』。まあ、日本や韓国や中国はもちろん欧米の現代SF作家たちもさすがにこんな設定の話はバカ話にはしても絶対書けないだろうなと思わせる1作。
 北朝鮮が引き金を引いた全世界的核戦争で核保有国が全滅、その中で日本は生き残り、鎖国して軍人が支配する大日本帝国を築いていた。この世界では日本人が頂点に君臨し、中国人はゴミ扱いコリアンはもっと差別されている。
 そんな世界で東京帝国大学に属する応用未来学研究者の若い女性が、軍人出身の指導教授の指示でサハリン島の調査(島に点在する刑務所が主な目的地)に向かう。この女性はロシア人の母を持つ日本人で、母と自分以外にロシア語を話す人間には会ったことがない。
 物語は女性がイトゥルプ〈択捉)島に着くところからはじまるが、実際はヒロインが代々家に伝わる歴戦のマッキントッシュのコートについて長々と語るところからはじまる(実際このコートは作中で何度も言及される)。そして彼女は思う、このコートを着た彼女は自分でもカッコイイいいんだから・・・、とまるで軽いエンターテインメントなノリかと思いきや、彼女が目にする光景の醜悪さは強烈で、それはこの物語のすべての部分で発揮されるのだった。
 物語の本体はサハリン島を一周して戻るその旅程での出来事で、島の各地名が章立てのタイトルになっているが、基本的に地獄めぐりと云っていい。例えば行く先々で「二グロ」と呼ばれる黒人や白人が宙に釣られた檻の中に閉じ込められており、群衆からいろいろなものを投げつけられて死んでいく。そこら中に死体(主に中国人)があり、火力発電所の燃料にされたり、アルビノは薬の材料にされたりしている。
 こんなサハリン島を巡るのに合わせて、県知事はヒロインに護衛として住民たちに恐れられている銛族の青年を付ける。こうして道行きはヒロインと銛族の青年のバディものとして進行する。サハリン島での道行きはだんだんと危険なものになっていき、ヒロインたちもついに戦わざるを得なくなるが、実はヒロインもなかなかの戦闘タイプだったりする。
 この世界の徹底したディストピアぶりとヒロインと銛族青年のキャラクター造形がまるで異次元な組み合わせを為していて、何ともいいがたい落差を作中に生じさせているのだ。ヒロインは青い眼をした美女で、物語の中でも行く先々で「美しいお嬢さん」と呼ばれるし、各章がヒロイン視点で進む中、バディとなった銛族の青年の視点で語られるパートが2回挟まれているが、そこでは青年がまるで女神様を見る男の子のような眼でヒロインを見ているのである。
 物語の後半は、この世界に流行している人間をゾンビ化する伝染病がサハリンにも上陸して無数の中国人避難民の中を行きながら、ついにゾンビ化した中国人大群衆からの脱出劇に変わっていく。残念ながら当方はゾンビに何のリアリティも感じられないのでこのクライマックスは読み飛ばしてしまったけれど、作品全体としてはかなりな衝撃度を有していて、印象に残る破壊力という意味では昨年出た作品の中でも『三体Ⅱ』を凌ぐ。
 訳者解説によると、訳者も初めて知ったような児童文学/ヤングアダルト作家が書いた初めての本格的SFだったとのこと。そりゃ驚くわ。
 もうひとつ印象に残ったのは、銛族青年のヒロインに対する反応に見られるように、この暴力と死に満ちた世界で、誰もヒロインに過度の性的関心を示さないことだった。そこら辺は作者の志向なのかも知れない。


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