続・サンタロガ・バリア  (第209回)
津田文夫


 先月半ば、まだ新型コロナウィルス騒ぎが都会の話だった頃に、地元の映画館でポン・ジュノ監督のアジア映画初のアカデミー賞受賞作『パラサイト 半地下の家族』の上映がはじまったので見てきた。観客は10人あまりで、誰も座っていない列にひとり座ってみることが出来た、って平日ならソレが普通の状態の映画館なんだけど。
 アカデミー賞作品賞受賞のニュースを見たくらいで、例によってほとんど内容を知らずに見たんだけれど、エンターテイメントの韓国映画はほぼ初めて見たようなものだから、最初は取っつきが悪く、ときおりウツラウツラしてしまった。基本はブラック・コメディなんだなあと気がついてからようやく話の筋が頭に入ってきた。
 見終わってみれば、なるほどよく出来たエンターテインメントで、日本の話題作でいえば『万引き家族』を『カメラを止めるな』のノリでブラック化したような感じか。なんじゃそりゃな例えだけれど、そういう風なパワーが特にクライマックスと後日談には感じられる。マンガ的と云えば漫画的な話のつくりで、そのレベルでのリアリティはあまりないかも。格差社会韓国の現実をウンヌンとか云われているけれど、ソレも含めてウケをとってる感じだなあ。もう一回見たいかといわれるとウーンというところだけど。

 乾緑郎『機巧のイヴ 帝都浪漫編』はシリーズ3作目で、舞台はタイトルどおり改変帝国日本(作中では「日下國」)だ。帯に「これが、日本の『三体』だ!!大森望」の文字が躍っているけれども、そりゃあ盛りすぎでしょう。
 1作目の緊張感はここに無く、2作目の視点人物の窮境と暗い過去も消えて、プロローグこそ、満映の甘粕正彦と李香蘭をモデルにした改変歴史物の映画撮影シーンから入るものの、本編はいきなり伊武(イヴ)が大和和紀『はいからさんが通る』(もしくは小杉天外『魔風恋風』)の自転車ギャグを演じてはじまる。その伝でもうひとりのヒロイン格でイヴの同級生ナオミ・フェル(母親が前作の主要人物の発明王エジソンをモデルとした女性マルグリット・フェルで、会社ごと日下國へ移住)のエピソードもコメディ調で進行する。楽しいからいいんだけれど、ちょっとノリ過ぎでB級感が強い。ナオミと彼女に絡むアナーキストが軍部に拉致されてから舞台が満州(作中では「如州」)に移る後半は、甘粕(作中では遊佐泰三)の大がかりな野望と、イヴの後見役で前作では少年として登場した護身術馬離衝(バリツ)の使い手轟八十吉がアクション担当で登場、さすがに話が盛り上がる。
 作品としては作を追うごとに初期設定に由来するタガが緩んできて、何でもありに近くなっているようで、それがB級感を強めていると思われるのだけれど、エンターテインメントとしては文句をいう筋合いではないので、これで完結と云わず現代編や未来編で「機巧のイヴ」の大枠を見せて貰いたい。

 名前は聞くけど、読むのは初めてに近いユーン・ハ・リー『ナインフォックスの覚醒』は、ミリタリーものかとやや引きぎみに読み始めたら、確かに戦闘シーンからはじまるものの、どうもフツーじゃない仕掛けがありそうで、割と早めに物語世界へ入ることが出来た。創元文庫SFも当たり外れに結構落差があるけれど、これは当たりに入る作品だろう。
 何しろ世界設定がなじみのないやり方でつくられているので、既知の具体的な描写はイメージできるものの〈暦法〉というものから生じる個々の描写の詳細はほとんどイメージできない。それでもすらすら読めるのは、戦闘現場の指揮官である女性大尉(ここら辺がミリタリーものの安易なお約束でゲンナリするところだ)が、司令部に呼ばれときに提案した、戦争の天才だが反逆者として大昔に処刑された大将の精神存在を現在の戦争に復帰させる案が採用され、気がつくと大将の霊が自分に取り憑いていて、いきなり名誉大将に昇進、宇宙艦隊司令官を任されてしまうという設定に、戦いの代行という意味でゼラズニイの『アイ・オブ・キャット』を思い出したからかも知れない。
 この作品では、大昔の戦争の天才大将の亡霊こそ男だが、ヒロインの時代においては将軍から艦長、スタッフ、現場の士官兵までほとんどが女性とされていて、敵方のリーダーや参謀役もまた女性になっている。現場の戦いは最後まで女対女で終始する。しかし、この作品はそういうフェミニズム的な大枠の中に、人間に様々なサービスを提供する「僕扶」と呼ばれる自立ドローンがいて妙な活躍を見せたりするのが面白い。
 主筋はあくまで戦闘の成り行きだけれど、話のテーマは亡霊大将のシュオス・ジェダオとヒロインのケル・チェリスの掛け合い(漫才?)にある(ちなみに、シュオスとかケルとかが、出自の部族名で「六連合」を構成するので6種ある)。この掛け合いに、敵方の顧問参謀役の報告書がからんで読者に駆け引きの面白さを伝えることに成功しているので、作者のエンターテインメントをつくる腕は確かだろう。
 帯裏にこの作品が三部作であると云うことと翻訳予定が書かれているが、あまりのゆるいペースにがっかり。この作品だけでも独立した1編として楽しめたけれど、続編があるのなら早く読みたい。赤尾秀子氏の訳もうまくはまっていると思うし。

 3巻目を迎えた林譲治『星系出雲の兵站-遠征-3』は転かQかと思っていたら、まだ承で、いまから転になりそうだというところまで。次で「転」するのか「転結」するのかが気になるところ。
 3巻目を読んで感じたのは、主要キャラクターが多くなりすぎてこれまでの300ページの尺では「承」のエピソードさえちゃんと収まらなくなってきたことで、せめて400ページぐらいあれば、主要キャラクター一人一人の動きがより印象的なものになるんじゃないかということだった。小川一水の「天冥の標」シリーズを引き合いには出せないが、もう少し各キャラクターの登場場面をじっくりと書き込んで欲しいというのが贅沢な不満だなあ。続編に期待大です。

 ゆったりしたペースで出してくれるのが嬉しいフレドリック・ブラウン『フレドリック・ブラウンSF短編全集2 すべての善きベムが』は、相変わらず新タイトルが覚えられない。サブタイトルからして「すべて善きベムたち」と打ってしまったぜ。
 この第2巻収録の各短編も「気違い星プラセット」や「電獣ヴァヴェリ」がそれぞれ「狂った惑星プラセット」と「ウェイヴァリー」と、原題どおりとはいえその素っ気なさに昔のタイトルを上書きするものではないことが、訳者の意図としてうかがえる(牧眞司さんの解題では「電獣ヴァヴェリ」はいつのまにか「ウァヴェリ地球を征服す」と改題されたらしい)。
 それにしても「ウェイヴァリー」では、まったく何の先入観も持てないから、それがブラウンがもともと意図していたことだろうといわれれば、正しい訳し直しであることに異論はない。
 第2巻収録作の印象は第1巻収録作よりもモダンな感じがするのはちょっと不思議だけれど、ブラウンの小説作法が進化しているのかも(それよりは読み手のコンディションの方が読後の印象をつくるのに影響が大きいかも知れないが)。 

 表紙イラストとデザインが見事な柞刈湯葉『人間たちの話』は、6編からなる短編集で著者初の短編集という。
 エンターテインメント作家としての腕前は、すでに長編で証明済みだけれど、この5つの短編を読むと、長編以上に作家らしい作家としての腕前が味わえる。表紙イラストにあるように6編中4編が2人の主要キャラによって物語が構成されていて、残る2編のうち1編は帯に隠れているけれども、人ひとりと大きな石で話が作られている。もう1編は透明人間の話なので、透明?
 初期作の透明人間ものがモノローグなのを除いて各短編の主要登場人物(石も含め)を2人にしているのは、短編をつくる上で自分に出来ることをしっかりと自覚しているからだろうし、それ故に短編ひとつひとつのバリエーションの豊かさは、そのなめらかな語りと相まって、作者の優れたセンスが読む者に伝ってくる。なお書き下ろしという表題作はやや異色で、文学的でもある。
 作者はフルタイムの作家ではないだろうが、今後も短編集を短い期間で出せるよう量産を期待したい。 

 今回もノンフィクションは次回まわしと思ったけれど1冊だけ。

 稲葉振一郎『銀河帝国は必要か?』は昨年9月に出たちくまプリマー新書で、ようやく読んだので、ひとこと。
 アシモフは中学生の時、『暗黒星雲の彼方』からはじまって創元推理文庫ばかり読んでいたので、「銀河帝国」三部作は読んでいるものの、ハヤカワSFシリーズから出ていたものはまったく読んでない。高校生になってハヤカワSF文庫が出たときは、いっぱしのSFファンで、もうアシモフにあまり興味が無く、集めたSFマガジンのバックナンバーやSFシリーズでアシモフを読むことはなかった。大学時代ともなれば、アシモフはノンフィクションは面白いが、小説はねえと思ってたので、『神々自身』も買っているが未読。以来40年あまりいまだ『鋼鉄都市』も『裸の太陽』も読んでいない(あらすじくらいはどこかで目にしたけれど)。またその後早川書房から出た単行本のファウンデーション新三部作は1冊目の途中で読むのを止めてそれっきりになった。
 以上のような次第なので、「銀河帝国」三部作を含むファウンデーション・シリーズ全作とベイリ/ダニールものを含むロボット・シリーズにファウンデーション・シリーズとの合体作までを扱った本書には、ちょっと手が出なかった。地元の本屋にはなかったし。
 ところが最近地元の本屋で目に付いたので、あとがきを読んだところ著者もアシモフ愛読者ではなく、SF作家としては時代遅れで、ロボット・シリーズ後半はこの著作のために初めて読んだと書いていたので、これは著者の専門である社会哲学見地からアシモフの諸作を考察したものと分かったので読んでみた次第。
 プロローグに当たる第1章で著者は人類が宇宙に広がるとしても、現在の生身の人間ではないだろうとしている。つまりイーガンの遠未来ものの考え方に近く、一昔のSF(もしくはスペース・オペラやミリタリーSF)のようにデフォルトな人間が宇宙で活躍するのはリアリティがないと云うことになる。
 そのような前振りを経て、アシモフのロボットものの紹介に入り、アシモフのロボットものはロボット・人工知能の問題を考える上でのたたき台として有用であるとしている。では「銀河帝国」にも(人間が宇宙に広がることを考える上で)そのような意義があるかと問うて、まず宇宙SFの概観をさらうところからはじめて、ポストヒュ-マンSFが現代宇宙SFのスタンダードであり、人類の宇宙進出は人類の変貌を前提とせざるを得ず、そこにロボット・人工知能の問題との関わりが出てくるとという。
 後半はふたたびアシモフのロボットものに戻るが、ここではベイリ/ダニールものの長編が取り上げられる。そしてロボット三原則が深く考察され、その射程は「銀河帝国/ファウンデーション」シリーズと接続されてもその世界の成り立ちを規制しているとする。そして終章一歩手前でようやく「銀河帝国/ファウンデーション」シリーズが考察されるが、前記三部作は「われわれの知る地球社会のアレゴリー以上のものではない」とあっさり切り捨てられている。まあ、「管理社会についての寓話」であり「ファンタジーとは区別される本格的SF」とフォローが入ってるけれど。
 著者の本格的な考察は後期2部作と後期ロボット・シリーズに向かい、アシモフ自身が物語に持ち込んだ難問を、かなり深く突っ込んで、一種倫理的な議論に向かって進んでいく。
 終章において著者はアシモフがその作品内で抱えた難問をベンサムの功利主義によって構造化し、「晩期アシモフのロボット=帝国サーガは、自己欺瞞をはらんだ、抑圧沙汰ポストヒュ-マンSF」と喝破して見せ、自著『宇宙倫理学入門』から「宇宙進出が、・・・・・・高密度な双方向通信ネットワークによる統合情報社会の利便性の大部分を捨てることと引き換えにしかなされない」ことを引用し、超光速を導入しない限りアシモフが「ロボット=帝国サーガ」に持ち込んだ基本的な設定は成り立たないとしている。
 結局著者は、超光速を使わずに現代スペースオペラを書くイーガンや小川一水を引き合いに出して、アシモフの宇宙SFはいかにもクラシックと否定的な評価でまとめているけれど、アシモフがロボットの宇宙進出物語を描けなかったとしても、その可能性はあったのだとして、現代SFが目指す宇宙SFのありようを示唆して終わっている。
 光速(通信/移動)の壁と超管理社会からの自由を本来のテーマとしてアシモフのロボットものとファウンデーション・シリーズをとりあげたことにあらためて感心するところではある。
 長いひとことになったなあ。


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