内 輪   第348回

大野万紀


 話題のアニメ映画、新海誠監督『天気の子』を見てきました。シネコンの一番大きなスクリーンでも、観客はほぼ満杯。小学生くらいの子どもたちがけっこういて、わかるんかしら、といらない心配をしたのですが、終わって劇場を出るとき、その子らが「よかった」「面白かったから泣かなかったよ」などと言っていたのがとても印象的でした。子どもにもちゃんと通じる話だったんですね。
 で、「天気の子」ですが、すごく面白かった。とにかく、最後まで投げ出さないで、ちゃんと決着をつけていたのが良かったと思います。新海誠、やればできるじゃん(すごい上から目線)。
 基本ファンタジーだから、100%晴れ女への、また結末の半ば水没する東京への、SF的な突っ込みは不要でしょう。中途半端な理屈をこねないだけ潔いといえます。でも生活描写がリアルなので、ヒロインと弟の生活が謎でした。きちんと小学校へ通っているんですよね?
 とにかく、都会の雨の描写の変態的までにすごいこと。これは本当にすごい。そして音楽もいい。
 それにしても主人公はまあ16歳の少年なら許すか、というレベルですが、ヒロインが可愛すぎ。ナツミ姉さんかっこよすぎ。弟くんのナギがすごいセンパイすぎ。そして可愛いにゃんこがでかくなりすぎ。
 何よりも「天気の子」というタイトルが好きです。お天気SF、気象SFにはすごく惹かれるものがあります。川端裕人さんの『雲の王』なんてまさにそうですね。

 それでは、この一月ほどで読んだ本から(読んだ順です)。

『声の物語』 クリスティーナ・ダルチャー 新☆ハヤカワ・SF・シリーズ
 「21世紀版『侍女の物語』」とか「この時代に生まれるべき作品。ディストピアは、すぐそこにある」と帯にある。近未来、原理主義的宗教の独裁国家となり、女性の人権が厳しく抑圧されたアメリカ。全女性が手首にカウンターをつけられ、1日に100語以上しゃべることを禁止される。それを越えると電撃を受けるのだ。それだけではなく、女性は日常生活も制限され、家庭で男性に服従するだけの生活を強制される。
 初めその内容を聞いたとき、この設定はいかにもわざとらしく残酷で、リアリティがないように感じ、なかなか読む気が起こらなかった。でもそれは大きな間違いだ。登場人物たちも、まさかこんな馬鹿げた時代がくるとは全く信じておらず、内心でバカにしていたのだ。でも社会はほんの小さなきっかけから、あっという間に変わってしまう。常識的にあり得ないと思っていたことが現実になってしまう。
 本書の世界もまだ変化の途上であり、今は性別に重点が置かれているが、すぐにそれが人種やその他の差異にまで拡大していくことは目に見えている。このプロセスの描写がとてもリアルで、まさに今の現実そのものを示しており、とても恐ろしい。主人公のように過去の時代を知っている大人はまだいいが、何も知らない子供たちへの教育と行動の強制が、異常が日常となっていく未来を暗示して暗澹たる気持ちになる。まさに帯の通りだ。
 かつてティプトリーは「男たちの知らない女」で、現代文明が獲得したという女性の権利など、何かあれば煙のように消滅してしまうものだと指摘していた。今、その言葉が世界に重くのしかかってきている。決してそうなってはいけない。本書に出てくる、頭はいいし優しいが、優柔不断で何も行動しない人間たちが(男たちもそうだし、主人公もかつてはそうだった)、いったい何を招くことになるのか――。
 本書はそんな現実的で重いテーマを描きながらも、ストーリーはどちらかといえばエンターテインメント寄りの、ポリティカル・サスペンス/言語・バイオSFとなっていて、どんどん読み進めることができる。ショッキングなシーンやハラハラドキドキなシーンがあり、またロマンス小説の雰囲気も濃厚にある。マッチョな男性へのあこがれはテーマと矛盾しているようにも思えたが、そうではなく、絶対的な危機へ対峙する精神的な強さを希求してのことなのだろう。
 主人公のジーンは元認知言語学者で、大統領の科学顧問を務める夫と、幼い女の子を含む子どもたちと共に暮らしていたのだが、ある日大統領の側近たちが現れ、事故で脳に損傷を負った大統領の兄を治療するよう求める。特権を与えられ、権力の中枢に入り込んでいった彼女だが、そこで知ったのは――。何度かのどんでん返しがあり、ほっとする結末を迎える展開は、やや強引なようにも思えるが、もしどこかでうまくいかなかった時に訪れるだろうおぞましい世界を考えると、これが精いっぱいの抵抗なのかも知れない。この結末は、彼女たちが見ている儚い夢なのかも知れないのだ。

『方形の円 偽説・都市生成論』 ギョルゲ・ササルマン 東京創元社
 ルーマニア生まれで現在はドイツに住む著者は、建築・都市計画を専門とする雑誌でコラムを書いていた建築の専門家である。本書は1975年にルーマニアで出版されたが、36編のうち、検閲により10編が削除されていた。その後、フランスで完全版が出て、後にドイツ語、スペイン語にも訳された。そのスペイン語版を読んだアーシュラ・K・ル=グィンが、2013年に24編を選んで英訳している。日本語版はルーマニア語からの完訳版で、さらに著者の日本語版前書き、「私の幻想都市」というエッセイ、フランス語版とスペイン語版の前書き、そしてル=グィンの英語版前書き、訳者後書きに、酉島伝法による解説もついている。まさに完全版だ。
 36編のごく短い、ショートショートというかコントというか、架空の都市についての物語から成る本書だが、幻想的なファンタジーの都市ばかりでなく、未来的、SF的な都市も多く描かれている。しかしもちろん、それは建築家のリアリズムというよりも、作家の想像力を駆使して描かれたイマジネーションの都市なのである。幾何学的で几帳面な都市もあれば、そこに住むものがイルカになってしまうような都市もある。峻険な山そのものが都市になっているもの、惑星の表面がすべて立体的な都市となっているもの、戦争により次々と支配者が変わるもの、そんな様々な都市の興亡が描かれている。
 どれも短いので、ディテールを楽しむというよりも、そのシュールな印象を受けとめ、感じとるのが良いのだろう。ただし、36編もあると、その印象が混ざり合い、同じように見えてしまうことも多い。住民、戦争、疫病、進化など、何度も繰り返されるエピソードもある。もう少し個別に、もう少し長めに具体的に構築してほしかったなと思えるものもある。それはそれとして、このような図鑑的な物語というのはとても楽しい。どこから読んでもいいし、気に入ったものを何度も読み返してもいいだろう。

『5分間SF』 草上仁 ハヤカワ文庫JA
 主にSFマガジンに掲載されたショートショート集。書き下ろし2編を含む16編が収録されている。
 しかし、いかにもありがちな、昔風のショートショート集(かつての星新一みたいな)の体裁で作られているのは、わざとらしい気もするが、それはそれで懐かしい雰囲気は出ている。そもそも著者の作品がハヤカワで文庫化されるのは20年ぶりだと聞いて驚く。目立たないながらもずっと書き続けられているし、その作品はいずれも優れていて読み応えがあるというのに。それでもとりあえずショートショートだけでもこうしてまとめられたのは喜ぶべきことだ。
 「1話5分で楽しめるSFショートショート」と帯にあり、一見気楽な軽い作品ばかりが収録されているように思えるが、実はそんなことはない。本当に気楽に読める、オチの効いたショートショートの中に、思いがけずずっしりと重い読後感を残す作品や、現代SFとしての深いテーマ性のある作品がいくつも含まれているのだ。
 例えば「マダム・フィグスの宇宙お料理教室」。筒井康隆や田中啓文を思わせるグロテスクでスラプスティックなナンセンスコメディの傑作だが、その毒の強さはとても気楽に読める作品ではない。
 「カンゾウの木」は臓器を果肉に生やす植物を巡るミステリタッチのSFで、結末には深いペーソスが残る。
 「断続殺人事件」はタイムトリップしながら同じ人間を何度も殺すというアイデアストーリーだが、パラドックス的なアイデアよりもその法律的側面に興味の中心がある。頭がこんがらかるよ。
 「半身の魚」は砂漠の惑星で遭難した男の話だが、これも結末のショックが大きい。
 「ひとつの小さな要素」は未来の不確定性を完璧なシミュレーションで予測しようとする男女の話で、いわば逆タイムパラドックスのように読めるのが面白い。
 書き下ろしの「トビンメの木陰」は傑作。銀河帝国の覇者となった王の出自とその秘密に関わる物語であるが、スケールの大きさといい、物語の意外性といい、大長編の味わいがある。
 「ワーク・シェアリング」は分業化がとことん進んだ社会でのとある事件の顛末を描くが、これは決してディストピアではなく、もしかしたら現実にあり得るのではないかと思わされる。
 軽く読めて面白かっただけではない、こんな短い小説の中に、深読みできる大きなテーマや、想像力を刺激する壮大な物語が含まれているのだ。今度はぜひ、著者のあの優れた中短篇の数々を本にまとめて欲しいと願いたい。

『白昼夢の森の少女』 恒川光太郎 角川書店
 アンソロジーに収録されたり雑誌に掲載されたりしたまま、まとまった本になっていなかった中短篇10編と、あとがきとして著者自身による作品解説が収録されている。実話系のホラーもあるが、どちらかというと不思議で幻想的な雰囲気のある作品が多い。この雰囲気こそ、まさに著者の魅力そのものである。不気味だが確かにそこにあり、怖いけれどある意味居心地のいい異界。
 「古入道きたりて」は迷い込んだ山奥の一軒家で、不思議な「古入道」を見る怪異譚。これが『和菓子のアンソロジー』のために書かれたというのが面白い。確かにここで描かれるおはぎ(夜船)の美味しそうなこと。静かな雰囲気がとても好きな作品である。
 「焼け野原コンティニュー」はパニックSFの風味があるが、破壊された焼け野原という繰り返される記憶が次第に変異していく。
 表題作「白昼夢の森の少女」もSF風味のある傑作。植物に取り込まれた人々。200人ほどが突然に蔦のような植物に取り込まれ、意識(の一部)を共有した集合生命となる。ほぼ不死となった彼らと普通の人間たちとの共存と葛藤が、取り込まれた少女の視点から描かれる。
 「銀の船」のヒロインは、夢に出てきた空を飛ぶ巨大な銀の船(そこには町があり、不死の人々が住む)を見て、二度と人間の世界には戻れないと知りつつそこに乗船する。食欲も性欲もなく、あらゆる義務から解放されたユートピア、あるいは不老不死の牢獄。この異界での生活がいかにもそれらしく描写される。永遠に続く日常の倦怠感。時空を超えたその生活が印象的な傑作だ。同じようなモチーフの内容は全然異なる(パニックものだったか)小説を以前に読んだ記憶があるのだけど、思い出せない。
 「海辺の別荘で」は〈椰子の実から生まれた女〉の話す不思議なショートショート。「オレンジボール」もショートショートで、少年が鞠に変身してしまう。
 「傀儡(くぐつ)の路地」は傑作ホラー。殺人事件を目撃した男が、ドールジェンヌという異様な人形遣いの化け物に支配されていく。そういう怖い物語が、やがてSNSを仲介に、SF的なもう一つの物語へと発展していく。
 「平成最後のおとしあな」は不気味なユーモアが漂う恐怖小説だ。〈ヘイセイのスピリット〉なる謎の存在と私との電話による会話が、とんでもない状況を露わにしていく。これは怖いよ。
 「布団窟」は著者の少年のころの経験が元になった実話ホラーだという。布団がいっぱい敷かれた部屋での子供たちの遊びが、恐ろしくリアリティのある悪夢の世界へと通じていく。
 トリを飾る「夕闇地蔵」も傑作だ。普通の視力ではなく、表面的な世界がモノクロで、その下にあるもう一つの世界、生命のエネルギーが金色の炎や様々な色彩となって見える、そんな視力をもった地蔵助と名付けられた孤児。明治時代の山村で、彼はそれなりに受け入れられ、生活している。彼の中では誰も知らないもう一つの世界が当たり前に存在している。そして彼は、幼なじみの冬次郎が起こした事件に関わっていくことになる。とにかく地蔵助の見る世界の描写が鮮烈で美しい。恐怖というよりもの悲しさが心を打つ幻想的な物語である。

『NOVA 2019年秋号』 大森望編 河出文庫
 書き下ろし日本SFアンソロジーの第二期、春号に続く第2号。ゲンロンSF新人賞の麦原遼、アマサワトキオの作品を含む、9編が収録されている。全体にややインパクトが足りない気がするのは気のせいか。
 冒頭は小説も書くシンガーソングライター谷山浩子の「夢見」。仲良し女子高生三人組。亜紀ちゃんと島ちゃんと夢見。夢見はいつも自分の見た夢の話を二人にするのだが。他愛のない夢がいつか不条理なものとなり、それがもうひとつの現実へと反転する。これは物語についてのSFだともいえる。物語の力は、リアルでロジカルな因果関係よりもエモーショナルな感覚の方にあるのだろう。それが二つの世界をつなぐのだ。そのどちらを取るのか。結論はないのだが……。
 高野史緒「浜辺の歌」は近未来の介護施設を舞台にした介護SF。AIによる介護が認知症の老人たちの心を優しく制御しようとする。唱歌の「浜辺の歌」が効果を上げている。しかしこの施設、至れり尽くせりだけど、きっと高いのだろうな。
 この二編はしみじみとした印象を与えてくれるが、次の二編はぶっ飛んでいる。
 高山羽根子「あざらしが丘」は何と捕鯨アイドルSF。人工培養されたクジラを捕鯨するゲームが、アイドルグループのショーとなった世界。あざらしが丘はそのグループ名だ。捕鯨はまるで『白鯨』のように展開するが、人工的なゲーム感覚が強い。作者はけったいなゲームを考案するのが好きなようだが、時にそれが空回りしている感がある。十分面白かったけれど、草野原々の書くアイドルSFの後では、はじけ方が少ないと思ってしまう。
 田中啓文「宇宙サメ戦争」はその名の通りの宇宙サメSF。大きくは人類の宇宙とサメが進化した宇宙がその存在を賭けて戦うのだが、その実は色々な映画をネタにしたパロディとダジャレとおやじギャグの連続で、まあ作者らしいといえるだろう。いやメチャメチャ面白い。笑う笑う。この話にそれ以上の言葉は必要ないよね。
 次の二編が期待の若手の作品だ。麦原遼「無積の船」は数学SF。でも普通じゃない。就職したばかりの私は数学教師となった同級生に出会い、不思議な夢の話をする。それはどことも知れぬ宇宙で、機械知性と人類知性がフラクタルを武器に戦う世界の夢だった。タイトルの無積の船とは面積を0の極限にして敵の攻撃を避ける船ということだろう。侍・僧侶・忍者を合わせたサムソーニンの少女戦士、整備士、料理人の三人がいる人類知性の船の、数学的な戦いが面白い(ちょっと市川春子の「宝石の国」を思わせる)。とはいえ、マンデルブロ集合やフラクタルの数学的な面白さがそこにうまく溶け込んでいるかというと、ちょっと難しいように思う。数学用語による説明とアクションのつながりが(作者はそれを伝えようとしているのだが)もうひとつわかりにくいのだ。
 アマサワトキオ「赤羽二十四時」はコンビニSF。アメリカのストリートで鍛えた男が赤羽のコンビニ店長となっている。そこへ強盗が来て、さらに過激なコンビニ解放同盟のテロリストがからみ、激しいバトルが繰り広げられる。何とコンビニとは生きていて、元々野生のものを捕まえ、大人しくさせて使っているのだ。解放され、野生に戻ったコンビニは、怪獣のように大暴れする。これまたコンビニ業務のディテールはひたすらリアルなままなのに、発想がぶっ飛んでいて面白い。面白いんだけど、半分リアルなので、ぶっ飛んだ発想とのバランスが難しいように感じた。え、何で?という疑問に答える必要はないが、ふと我に返ってそんな疑問が浮かぶのが気まずくなる。
 藤井太洋「破れたリンカーンの肖像」は時間SF。「ノー・パラドックス」のシリーズで、調停官フォーク・ドミトリの若き日の姿を描く。タイムトラベルが始まったばかりの世界で、全く同じ二枚の紙幣(「リンカーンの肖像」というのは5ドル札のこと)が現れ、偽札を疑うのだが、その1枚は同じ紙幣を未来から送ってきたものだった。というわけで、タイムトラベルしてもパラドックスは起こらない世界観での、時間犯罪ものとなるのだが、この作品だけではインパクトは薄い。ぜひ連作長編としてまとめてほしい。
 草野原々「いつでも、どこでも、永遠に。」は暴走宇宙SF。同じ寮の女子高生に片想いした少女が、三角関係から暴走するのだが、それが宇宙規模に発展する。それもとんでもない、何十億年、何十億光年というスケールだ。これまたいつものゲンゲンという感じで面白い。しかし、暴走後の話がとんでもないスケールに広がるのに、ひたすら説明ばかりに終始するのはどうか。どちらかというとデビュー作に近い感じで、エモーションが宇宙的エスカレーションに追いついていないように思える。
 トリを飾るのは津原泰水「戯曲 中空のぶどう」。戯曲形式の記憶SFだ。近未来の地方都市にそびえる高層マンションの屋上庭園。そこで同級生だった4人が50年ぶりに出会うのだが……。彼らの記憶は現実なのか。それとも――。モチーフ自体はありがちなものだが、短い作品の中で、登場人物の台詞から、それが強く心に響く。静かに奏でられる音楽もとても効果的だ。

『時間は存在しない』 カルロ・ロヴェッリ NHK出版
 「時間とは、人間の生み出すものだと、物理学者が言ったらどう思います?」という円城塔の推薦文が帯にある。著者はイタリア人の理論物理学者で、今話題の「ループ量子重力理論」――「超ひも理論」と競い合っている重力を含む量子論――の提唱者の一人。でも本書は一般読者向けの本なので、数式は使わず(実は一カ所だけ、熱力学第二法則を説明するのに簡単な数式が出てくるが、著者はそれを読者に謝っている)、ギリシャ哲学から始まる科学史・哲学史の流れに、仏教説話やプルーストの小説まで引用しつつ、柔らかい語り口で、現代物理学における「時間」の意味について語っている(ただ引用に現代SFが出てこないのはちょっと寂しい)。
 ホーキング以来の世界的ベストセラーになっているのだそうだが、それもうなずける。とはいうものの、こういう語り口の科学解説によくあることだけれど、何となくイメージは掴め、わかったような気になるのだが、本当のところそれが何なのか、実はよくわからないということがある。本書でも、大きなイメージを示そうとするため、細かい部分ははしょったり、わかりやすさ(イメージの掴みやすさ)を優先して、専門用語の使用を避けたりしているところがある。註には数式や論文の引用もあるのだが、それは逆に専門家でないとついていけない。しかし本書には訳者あとがきの他、吉田伸夫氏による「日本語版解説」がついていて、この解説が簡潔でとてもわかりやすい。著者の饒舌でイメージ重視の語り口を、普通の物理学の言葉に落とし込んで(いやここでも数式は使っていない)解説してくれる。本書を読んでいて何かけむに巻かれているように感じたら、この解説を読んで地上に帰還するのがいいだろう。
 さて内容であるが、大きく二つのパートに分かれており、最初は現代物理学において「時間」は存在しないということの解説。ここは相対性理論の解説書を読んでいたり、物理方程式が時間について対称性をもっていることを知っているなら、さほど意外性はなく、まあそうなんだろうな、と思える。そもそもアインシュタインの相対性理論で、絶対的な時間が存在しないことは、多少SFの知識があれば知っていることだろう。宇宙に共通の「現在」など存在せず、宇宙船の乗員と地上に残った人では時間の流れ方が違う。考えてみれば「時間の流れ方」というのもおかしな言い回しだ。もちろんそれはイメージしやすく言っただけであって、実際は宇宙から帰ってきた時にそれぞれの時計の時刻にずれがあるということだ。離れているときに二つを「同時に」見ることはできないのだから。宇宙に共通の「現在」が存在しないとはそういう意味である。
 それだけではない。過去から現在を経て未来へという「時間の流れ」も存在しない。あれ、エントロピーは? というのは後で出てくる。ループ量子重力理論の立場からは、時間もまた連続量ではなく、とびとびに量子化されている。過去から未来へ向かうなめらかな時間軸というものはなく、あるのは個々の事象(イベント)と事象の間の相対的な(物理法則で規定される)関係だけなのだ。宇宙とはそういうごくローカルで動的な事象の集合そのもの――相互作用するスピンネットワーク――のことであって、従来のイメージのような、バックグラウンドとしての時空の中で物質が動き回るというものではないのだという。このイメージはとても面白い。時間のように見えるのはごく微小な領域での相互作用だけであって、全体では過去も未来も現在もない。ただし複数の出来事同士の関係、相互作用はある。
 でもちょっと待って。ここでいっているのは、プランク長やプランク時間といって超超微小な領域での話だろう。量子力学の領域では、猫が生きたまま死んでいたりと奇怪な現象がわりと起こるものだ。もっとわれわれの意識に近い、巨視的な領域ではどうなのか。過去から未来への時間の矢が生じるのは、覆水盆に返らず、熱力学の第二法則によってエントロピーが増大するからだったのでは。
 本書の後半は、なぜわれわれにはすでに存在した過去があり、現在があり、そして不確定な未来があるのかということの議論だ。著者はそれを、われわれには細かいところがわからず、熱力学的で巨視的(マクロ)なものしか見えないからだという(たぶんとてもざっくりした言い方なのだろう)。そこから「時間」の感覚が生まれ、そのパラメータが記述される。そしてさらに驚かされるのは、過去から未来への非可逆的な時間があるのは(ここでいう「時間」はすでに先ほどの量子化された「時間」とは別のものなのではと思える)、エントロピーが低い状態から高い状態へと移っていくからだが、それはたまたまわれわれの宇宙の初期状態がエントロピーが低かったからだという。そういう宇宙にいるから、時間があるように感じる。まあ人間原理ですね。解説によれば、このあたりはあくまでも著者独自の理論展開ということらしい。でもなかなか刺激的で面白かった。
 とにかく宇宙には共通の現在や時間の流れなどはない(ごくローカルな範囲にはある――それが実在か錯覚かはともかくとして)というところまでは事実といっていいのだから、時間SFというものもそれを踏まえて見た方が面白いと思う。映画は静止したコマが順に映し出されるのを、連続した動画としてわれわれは見る。それは脳の認識能力による錯覚なのだが、同じことが本当の時間についてもいえるのかも知れない。コマとコマの間には決まった関係があるが、まったく別の事象との間には関係がない。自分の見ている、関わっている事象だけには時間が存在しているが、その外側にあるものとは相互作用がなく、実際は無関係なのだ。事象間に相互作用が発生し、ネットワークがつながったとき、はじめて時間が(順序が、因果が)発生する。そんなイメージなのだろう。

『銀河核へ』 ベッキー・チェンバーズ 創元SF文庫
 本書はクラウドファンディングで個人出版した電子書籍が評判になり、大幅に加筆して2014年に出版されたスペースオペラである。その後シリーズ化されて現在は3巻まで出ている。作者は85年生まれの若い作家で、これがデビュー長編。女性だが、妻がいるとのこと。そのことからもわかるように、古き良き王道のスペースオペラの雰囲気を残しながらも、とても現代的で前向きで、「やさしく温かな眼差し」(訳者あとがきより)をもった作品となっている。
 様々な原因で一度滅びかけた人類だが、銀河共同体(GC)に救われ、今ではGCの一員となって、弱小種族としてではあるが、それなりに繁栄している。そんな遠い未来。GCの星々は”トンネル”によって結ばれ、超光速で行き来することができる。そのトンネルを建造する建造艦〈ウェイフェアラー〉が本書の舞台だ。
 その乗員は、心の広い船長のアシュビー、ぶっ飛んだ性格の女性の機械技師キジーと彼女とコンビを組む男性のコンピューター技師ジェンクス、燃料となる藻類の学者で変人のコービー。この4人が地球人(地球出身という意味ではない)だ。操縦士はGCの中心的な種族の一つ、爬虫類型異星人、エイアンドリスク人のシシックス、トンネルを作るための超空間をナビゲートできる特殊能力をもつシアナット人のオーハン、医者で料理人のドクター・シェフはグラム人。そして船のAIだが、女性型の人格をもっているラヴィーがいる。そこに火星から、事務員として若い女性のローズマリーが加わって話が始まる。彼女には何か秘密があるようだ。
 物語はこの多種族混交のクルーたちの愉快な関係性と、彼らがいかに楽しく、そしてハチャメチャに情熱を込めて仕事をしているかということを、小さなエピソードを繰返しながら描いていく。ストーリーの大きな流れとしては、〈ウエィフェアラー〉が請け負った、銀河核へのトンネル建設という物語があり、GCの諸種族と、彼らが接触した銀河核の危険で好戦的な種族、トレミ人とのコンタクトという物語があるのだが、実はそれらは本書の中では脇に押しやられている。本書のほとんどは、登場人物たちの日々の生活や人間(異星人やAIも含む)関係、その歴史や背景を描く、こまごまとしたエピソードで占められているのだ。でもそれが抜群に面白く、楽しい。〈スター・トレック〉シリーズがリスペクトされているが、スター・ウォーズの酒場(カンティーナ)が大好きなぼくは、様々な格好の異星人たちがにぎやかに集っているというだけで嬉しくなってしまう。
 また本書は基本的にはお仕事小説であり、ぼくは〈宇宙大元帥〉野田昌宏の〈銀河乞食軍団〉シリーズを思い浮かべた。キジーなんて、いかにもあの世界から来たみたいじゃないですか(もちろん作者が野田昌宏を知っていたとは思えないが)。そう、ぼくが一番気に入ったのはぶっ飛び技師のキジーだ。実世界ではあまりお友達になりたいとは思わないタイプだけど、最もキャラが立っている。
 もちろん本書の異星人たち(AIも)は、実のところ人間そのものである。それは本書の弱点ではなく、姿かたち、性、性格、信仰、嗜好といったことの多様性を実り豊かなものとして称賛し、その衝突を克服し、楽しく前向きにやっていこうとする、そういう楽天的な方向性が、かれらを通じて描かれているのだ。また、大きな目的がありながらも、クルーたちの生活を優先し、仕事は後回しにしてもいいという、いわば「働き方改革」SFであるところも面白かった。

『なめらかな世界と、その敵』 伴名練 早川書房
 常々公言しているように、ぼくは伴名練の大ファンである。彼のこれまでの作品はほとんど読んでいるはずで、多少の濃い薄いはあっても、どれも面白く読んできた。本書はその伴名練の『少女禁区』以来の短篇集である。同人誌に掲載され、『年間日本SF傑作選』に再録されてきた4編と、同人誌のみに掲載された1編、そして書き下ろしの1編である。書き下ろし以外の作品はすべてTHATTA ONLINEで紹介済み。初出時のぼくの感想はインデックスから引いて読めます。
 で、本書は待望の傑作選。そして再読してもやはりどれも傑作であり、また書き下ろしもすばらしく読み応えのある作品だった。とはいえ、ちょっと不思議な感じもしている。というのも、ガチのSFファンというか、SFマニア向けだったはずのこの作品集が、大勢の一般の読者にも受け入れられ、絶賛され、ベストセラーになっているというのだから。
 作者が筋金入りのSFファンであることは間違いない。それはSFマガジンにも掲載されたエッセイ「あとがきにかえて」を読んでも明らかだ。と同時に、作者は作品をどのような読者に届けるかということについて、きわめて自覚的であり、ある意味戦略的な視点をもっていたことも明らかとなった。その作品は海千山千のマニア向けであると同時に、そうでない読者へも通じる言葉で語っており、SFに興味のある一般読者や、広い意味のオタク的感性をもった幅広い層をも惹きつけるだけの魅力があって、その心をつかむことができたのである。それはちょうど、新海誠のアニメ映画が、大ブレークし、日本を代表するような作品となったことともパラレルに思える。
 SFの浸透と拡散という言葉があるが、この現実社会がまるである種のSFのようになったということとは別に、タイムスリップとかタイムループといったSFの概念が、ジャンルを超えて普通のドラマの中でもごく当たり前のように使われるようになったという事実がある。並行世界やパラレルワールドの概念もそれに近いところまで来ているのだろう。もはやそこにSF的な理屈はいらないのだ。現実と仮想、そこで生じる意識の問題。自分とは何か。こういった現代SFのテーマについても、SF的な奇想が当たり前となった現代の文学では、何も珍しいものではない。SFファンの特権など、どこにもないのである。
 とはいうものの、ぼく自身はSFの人間なので、以下はSFファンの視点からの作品評となる。それが一面的なものであることは留意しておきたい。
 本書の作品はどれも、ずっとSFファンだった作者が、たくさんのSF作品からインスパイアされ、トリビュート、オマージュ、いわゆる二次創作として、即売会など対象読者を絞った場を想定して書かれてきた作品であるだろう。そこには、膨大な読書量によって支えられた過去のSFのアイデアやモチーフ、さらにパワーのあるフレーズや用語、そういった蓄積が無数に散りばめられている。それらはそのまま使われたり、意味を変換させられたり、いかにもマニアックに作品に埋め込まれている。ぼく自身、その全てを指摘できる自信はない。それを探しだし、さすがと感心し、背景に思いを馳せるのは、確かにSFファンの楽しみである。もちろん「美亜羽へ贈る拳銃」のように引用元が明確な作品もあれば、「ひかりより速く、ゆるやかに」のように作中でも言及されている多数の過去作からのモチーフをオーラのように漂わせている作品もある。
 ひとつ、ぼくが強く感じるのは、作者のR・A・ラファティへの大きなリスペクトだ。ラファティの「七日間の恐怖」や「町かどの穴」のように、多次元世界や意識の変容(肉体も含む)のような奇怪な事件があっけらかんとして日常世界に入り込み、それをとりわけ頭のいいマッドな学者(少女だったりする)が身も蓋もなく対処する(解決するとは限らない)。イーガンが現代科学を駆使して表現するようなイメージを、強烈なひと言で吹き飛ばしてしまう。「あれはただの劇的効果」とか言って。伴名練の、特にユーモアを表に出さない作品においても、そんなラファティ的な、深みを煙に巻くイメージが常にあるように感じる。
 たとえば表題作の「なめらかな世界と、その敵」。これは本書未収録の「かみ☆ふぁみ!」とともにぼくがとりわけ偏愛する作品なのだが、ここでは人々が無数の並行世界をなめらかに行き来しつつ自己の同一性を保つことができる(本作ではそれを「乗覚」と呼んでいる)世界を描いている。これはその乗覚をもち、非連続な複数世界を任意に選んで認識できる少女と、乗覚をもたない友人との青春物語である。イーガンの「ひとりっ子」を強く思い浮かべる作品だが、それにしても目まぐるしく変わる、なめらかにシームレスにつながる多世界に同一意識をもって存在する「自分」とは何なのか。これ、ぼんやりと考えるとよくある話のように思えるが、もっとよく考えると、時間論もからんでとても難しい問題だとわかる。しかし作者はその深みがわかっていながら、さらりと身をかわしてしまうのだ。残るのは少女の友人との関係性、その決断という強く重い思いなのである。
 書き下ろしの「ひかりより速く、ゆるやかに」も、二つの時間の流れの違いというよくあるモチーフを、現代的な、世界を物語として解釈すること、さらに作者とその対象との関係性に落とし込み、深く心を揺さぶる作品としているのだが、正直、この解決方はあり得ないと思う。いや科学的にどうとか言う必要は無いし、別にかまわないのだけれど、読者は煙に巻かれてしまい、おかしいとも思わないだろう。それだけ作品に力があるということだ。この作品とは関係ないが、そもそも時間の流れの違う新幹線の中がどうして同時に見られるのか、というあたりから、ハードSF的に考察するガチガチのSFも読みたい気がする。誰か書かないかなあ。
 「シンギュラリティ・ソヴィエト」も好きな作品だ。ここではシンギュラリティというややすり切れたパワーワードを使って、あり得ない世界を現出し、ポストヒューマンたちの異能バトルを展開するが、最後にすべてを持って行くのは、もはや人間ではない7歳の少女の、変容した日常性なのだ。ここに至ってはどうして? と問うことはもはや無意味だろう。
 「美亜羽へ贈る拳銃」や「ホーリーアイアンメイデン」の、外部からの人格や意識の制御という、ある意味手あかのついたモチーフも、登場人物の強い感情とその関係性を強調することで、暗いロマンティシズムを際立たせ、読者にその世界へのめり込むことを可能としている。その背後に、無数の過去作の蓄積が、「聖書」の存在があることは明らかだろう。
 「ゼロ年代の臨界点」にある、明治の日本で女性のSF作家が誕生していたなら、という物語も、それをIFの世界として読むのではなく、まさにこの今の、物語を紡ぐことの意味を語っているように読める。それに重ね合わせて、明治の女学校の、切磋琢磨する賢い女性たちの関係性が、これは作者の他の作品とも共鳴して強く響くことになる。つまり百合というやつですか。
 本書の各作品を際立たせているそういったキャラクターたちの強い感情、互いの愛憎のゆえに世界を捨て去ろうとするほどの強い感情は、昔ながらの人間ドラマというものを越えた、読者を惹きつけるトリガーとなるものかも知れない。


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