続・サンタロガ・バリア  (第192回)
津田文夫


 台風の影響で新幹線が遅れる中、久しぶりに京フェスに参加した。参加案内のアドバイスに従って京都駅からJR奈良線で東福寺に出て京阪に乗り換えて丸太町で下りたら、3連休の京都のすさまじい観光客の群れを迂回できて楽ちんでした。
 ギリギリ間に合った昼のプログラムは、藤井大洋さんと西崎憲さんと西崎さんが連れてきたらしい若い作家の大前栗生さんによる「電子書籍で何ができるか―出版の新しい形を探る」というパネルから始まった。藤井さんがSF作家クラブ会長の任を勤め終えてハレバレした感じが印象的だった。西崎さんは、その小説や翻訳をいろいろ読ませて貰っていたけれど、本人がしゃべるところを見たのは初めて。常に頭がフル回転していそうなしゃべりで、ああこういうスタイルの人だったかと納得。大前さんはこの2人の間であまりセリフもなくてやや印象薄。パネル自体は西崎さんの、「経済原則(出版社が儲ける必要)」にとらわれず読者に小説を届けたい、というような想いが印象に残った。
 ついに本当に完結するらしい小川一水〈天冥の標〉シリーズに合わせた企画は、作家本人にSFマガジン塩澤編集長そしてライトノベル系の書評を朝日新聞に時々載せている前嶋賢さん。塩澤パワーに前嶋さんが押されぎみで、やや混乱した感じ。小川さんの裏話は面白かったけれど、肝腎の最新作はまだ校了していないようで、ネタバレ話は合宿企画へ。
 最後はSF読みには常に期待されるベテラン作家飛浩隆さんと異様な文体とイメージでSF読みに衝撃を与えた酉島伝法さんがそれぞれ最近新作を上梓するということで、対談というか、飛さんがツッコミで酉島さんの話を引き出す格好になっていた。ということで、酉島伝法さん新作の話題が中心。新作はデビュー作の会社員のハナシをヤクザ社会に置き換えたような世界を長編で展開したらしく、9Bシャーペンで描かれたキャラクターたちの紹介は、さすが酉島伝法という感じで面白い。でも、一番印象が強かったのは川辺に座ってパソコンで作品を書くという話だった。鴨川の河原ではちょっと難しそうだ。
 合宿所「さわや」の大広間の雰囲気は昔のままだったけれど、寝部屋が現代的にリニューアルされていてビックリした。合宿企画はほとんど参加せず、大広間でうだうだした後早寝したのだけれど、翌朝のエンディングまで京大SF研スタッフの手際の良さに関心しておりました。感謝です。

 フィリップ・K・ディック賞受賞作家の最新作という触れ込みで、表紙が黄色一色の地に黒活字の上巻と黒一色の地に黄色活字の下巻という目がチカチカする装幀で出たデイヴィッド・ウォルトン『天才感染症』上下は、ファンギ〈真菌類〉ホラーならぬファンギSFだった。アミガサダケをイメージしちゃうと大分違うと思うけれど。
 優秀な菌類学者の兄ポール(22才)がアマゾンで帰りの川船に乗ったところ、何者かに襲われ、たまたまそこで知り合った女性と船を脱出、キノコなどを食べながらジャングルをさまようが・・・。次の章に移ると物語はポールの弟「ぼく〈21才)」の一人称となる。この弟は自分を兄に較べるとボンクラだといつも自己卑下しながら語るのだが、国家安全保障局(NSA)の暗号解読試験を紙と鉛筆とアイデアで解いてしまうという天才。アマゾンでの襲撃事件から生きて帰った兄は、もともと優秀だったけれど更に頭が良くなっていて、以前の兄とはなんとなくちょっと違う。そしてアマゾンで急に高い知能を示す原住民がニュースになったりしていた。
 まあ、この初期設定で大体の展開は読めてしまうが、話のつなぎがうまく物語の方も何の抵抗感もなく読めてしまう。毎回ボンクラと卑下する「ぼく」のスーパーぶりはバカバカしいけれども愛嬌があるのであまり不満に感じられない。アメリカン・エンターテインメントなので菌類知能強化人間と既存人類の戦いはSF的な方向には行かず、「ぼく」の天才ぶりが世界を破滅から救うといった方向に流れていく。主人公はどんな天才よりも頭がいいのだ(本名はラルフかも)。

 ニール・スティーヴンスン『七人のイヴⅢ』は、前の二巻を読んだ時点では、不満が大きいものの、次は5000年後の話というのでSFらしくなることを期待して読んだのだけれど、呆れたとしか云いようがないほど落胆した1冊になってしまった。
 5000年後という時間の長さはあまり問わないにしても、いきなり人口30億のハビタット・リングや巨大移動都市〈アイ〉が存在していて、おまけにハビタット・リングの直径が8万4千キロなどと書いてあるのを読んで、さすがにそりゃ無いぜと思ってしまった(壊れた月は38万キロ彼方でハビタット・リングは衛星静止/高軌道上にある)。いったいそんな技術と材料がどこから来るんだ。ISSに7人の女しかいなくても、長い時間を掛ければ人類は復活して何でも実現できるらしい。
 巨大テクノロジーの産物とそれに伴うさまざまなガジェットの説明はそれなりに楽しめるものの、全体としてはファンタジーに近くて、これだけのテクノロジーを持つ人類が太陽系開発に乗り出さずに望郷の一念だなんて、これは7人の女たちが人類滅亡前に見た最後の夢なんじゃないのかとさえ思ったよ。この時代の人類社会の設定が巨大テクノロジーとまったく釣り合わず、特に人種とマナーに関してはどうしようもないレベルと感じられて、読めば読むほどイライラするばかり。本来なら爽やかな軽い幕切れも、そこで終わるんかいと悪印象になってしまい、なんともトホホな読後感だった。

 そんな気分を一気に吹き飛ばし、後光が差すくらいありがたかったのが、ルーシャス・シェパード『竜のグリオールに絵を描いた男』
 表題作はF&SFのカヴァー・ストーリーだったし、当時はF&SFを定期購読(読んではないけど)していたので、『緑の眼』をエース・スペシャルで読んでいた勢いも手伝って、暖色に塗られたグリオールの表紙絵を眺めながら読んだ覚えがある。
 だから今回の表紙絵は最初違和感があったのだけれど、1冊読み終わったあとでは、内田昌之さんの素晴らしい訳文と相まって、見事に内容に似合ったイラストなんだと思えるようになった。
 「おおしまゆたか」さんの力の入った解説によると、F&SFの初出は84年12月号とのことで、34年前のあやふやな英語力(いまはもっとアヤフヤだが)で読んだ時の印象は、まったくといっていいほど忘れていたけれど、表題作がまさかこんなにも素晴らしいノヴェレットだったとは、驚天動地もいいところ。文庫本で訳されてもたった50ページの短編が、その世界を壮大に立ち上げて見せている。喫茶店で読んでいてあっという間に時間が経ち、読了後はニヤニヤしてしまうのが止められなくて、ちょっと恥ずかしかった。
 「われわれの住む世界とほんのわずかな確率の差によって隔てられた世界」に超巨大な竜グリオールが横たわった街がある、ということで正真正銘のファンタジーではあるが、感触はSFというかリアルな世界が存在してしまっているのである。どうやら「現実創造」的なフィクションを自分はSFと感じているようだ。
 表題作に続くグリオール世界の中編3編は、第1作で存在させた世界にいろいろなストーリーをトッピングして見せているが、メインキャラクターも含めた登場人物は常にグリオールという存在の影響下にあってその世界を動いている。京フェスの時に岡本俊弥さんから、この世界ではグリオールがすべての人間に覆い被さるような影響力として存在していて、その様な存在は普遍的なテーマとして扱えることを教えてもらったのだけれど、まったくそうなんだなあ。
 『七人のイヴ』のおかげもあって、今年読んだ翻訳作品ではこの表題作が群を抜く。

 谷甲州の航空宇宙軍史を読んだせいか、久しぶりだしミリタリーものでもいいかと読んだのが、林譲治『星系出雲の兵站1』
 3巻完結ということで、序破急なんだろうなと思いつつ読み始めたら、まあそういう感じだったけれど、話のつくりはよく出来ていてメインキャラも5,6人という賑やかさ。 地球のことも遙か彼方の伝説と化した星系でのスペースオペラで、政治家や高級軍人や情報将校に戦闘部隊である陸戦隊の隊長などが次々と出てきて、とりあえずの顔見せ興業風な進行は、谷甲州と違って男女半々、みんな美男美女で萌え系である。
 いつか異星人と一戦交える時が来るだろうと、軍事力を保持してきたが、いくつかの星系の集まりからなる社会は政治的駆け引きが重要性を帯びていて、ついに異星人とのファースト・コンタクトが顕在化し、侵略っぽいというところから、実際の戦闘(もちろん陸戦隊の出番)までが1巻目、文字通りプロローグの役目を果たしている。
 タイトルに「兵站」が入っているので、艦隊のロジスティクスを支えるクールな兵站担当高級軍人(日本海軍では経理学校出身者で主計といわれていたけど、一般の主計兵は「メシタキ」と呼ばれた)がこの先大活躍すると思われる。

 アン・レッキー『動乱星系』は、たまたま林譲治のタイトルとちょっとかぶっているけれど、アンシラリーは出てこない辺境星系でのささやかな政治的てんやわんやが話の筋のメインをなす、女の子が主人公の物語。ラドチャーイが遙か彼方で大使くらいしかいない星系なので、「彼女」人称は、女は普通に彼女で、男は「彼人」「彼男」とか呼ばれている(〈無性〉もいるけど)。
 主人公の外見の自己評価は、美人でもなくスタイルは小太りらしい。話の冒頭から常にオドオドとした口調で語る調子が興味深く、前三部作のアンシラリー・ブレクとは相当な落差がある。しかし、物語は少女(というほど幼くはないが)の冒険と成長を描いて結構面白く読める。前三部作で作り上げた宇宙の広さがこのスピンオフを支えているのだ。

 表題作が第5回創元SF短編賞受賞作でなかなか面白かったのが、高島雄哉『ランドスケープと夏の定理』
 理系に縁の無い文系人間の目からすると表題作はラノベ系超ハードSFといった印象だったけれど、まさかそのまんま2作目3作目とエスカレートしていたとは、さすがにちょっと無理が出てきてしまう。「量子ゼノン」とやらの技術は面白いし、別の宇宙を閉じ込めた小惑星のカケラも楽しいと思うけれど、第2作「ベアトリスの傷つかない戦場」に出てくる「理論の籠」あたりになるとちょっと首をかしげる感じになって、なによりもベアトリスが姉コン主人公にとって重要な存在であるように書き切れていないのが不満だ。
 3作目の「楽園の速度」はさらにエスカレートした形になっていて、2作目よりは楽しいが、やはり「理論の籠」はいまいちひっかかる。どんなに未来の知識であろうと翻訳可能という設定は、考え出すと頭が痛くなるので、フーンで済ますけれど、納得しがたい。それに姉コン世界系が強すぎて、ほかのすべて(含むベアトリス)が霞んでしまっているところも、やや残念。

 イマジニアンの会の宮本会長に教えて貰うまで、8月に出ていたのに気がつかなかった天瀬裕康『疑いと惑いの年月』は、帯の裏表紙側に「現実は確実か? 正体不明の異次元的空間がいくつもあるのではないか?」とあるので、そのつもりで読み出したけれども、呉市を舞台に主人公の少年時代から語り起こされる物語は、作家本人である渡辺晋先生のほぼ自伝に近く、そのリアリティが、帯にある本来のテーマを浮かび上がらせることを難しくしているように感じられた。
 自伝的小説としては、いくつかフィクションかも知れないエピソードを挟みながらも、まったくよどみなく一人の人間の来し方を鮮やかに描き出している。小説の上で仮構される普遍的な人生というものが自伝的なリアリティの中では成立しにくく、そのため帯で謳われたテーマは、「幻想交響曲」に出てくる固定観念のメロディーのように、主人公の内的告白として何度も現れるが、やはり現実に経験した主人公の時間の重なりからこの固定観念が抜け出してくるほどには感じられないのは、作品の性格上やむをえないことかもしれない。
 と書いていたら、天瀬裕康さんからSF&ミステリの短編集『朱色のラビリンス』がさっき届いた。ウーム、恐るべし渡辺晋先生。とても1931年生まれとは思えないですね。

 ノンフィクションは、文庫になった加藤陽子『天皇の歴史8 昭和天皇と戦争の世紀』だけ。
 単行本は2011年刊で、『昭和天皇実録』が十分反映されていなかったようだけれども、文庫化に当たっては「補章」を追加とのこと。講談社学術文庫7月刊。
 帯に「三度、焦土に立った人。」とあるけれど、これは皇太子時代に第1次世界大戦後のヨーロッパを半年掛けて見聞したことが最初で、関東大震災の被災地を見て回ったのが2度目、3度目は東京大空襲後の焼野原を見て回ったからですね。
 昭和天皇は皇太子時代にヨーロッパに行くとき、テーブルマナーも身について居らず、周囲の偉い大人どもを震撼させたといわれてますが、第3艦隊を使った行きの航海中に徹底的に訓練されて、どうにか周囲が安心できるレベルになったとか。
 そんな昭和天皇は、本来補弼者たる重臣たちの奏上に否は出さない(本来は天皇が嫌いそうなことは重臣たちの間で調整済みの筈)ことにしていたのだけれど、2.26事件の時は自分の意志で重臣たちの右往左往を断ち切ってしまった。
 まあ、物語ならデウスエクスマキナみたいなものだが、現実の政治過程ではそんなことはなく、臣民であるはずの軍部/政府は同じく臣民であるはずの日本帝国人民を巻き込んで夜郎自大を繰り返したあげく自滅、ついに敗戦の御聖断ということで2度目のデウスエクスマキナを呼び出してしまった。
 明治時代を到来させた人間たちには、天皇というものが入れ物とそこに入る人間とでワンセットであったことを良く分かっていたので、人間の方を教育しなければ入れ物に入れられないことを知っていた。ところが、明治も20年ほど経って大日本帝国憲法を戴いて、その外面ばかりを大事にしていたものだから、明治も終わりの頃には天皇の入れ物ばかりに目が眩むようになってしまった。そんなところへ病弱な大正天皇と大正デモクラシーの時代から、天皇には存在価値と利用価値があると考えるようなある種のリベラリズムが台頭して、昭和天皇は危機の時代の天皇として登場することになった。
 と、この本を読みながらそんなことを考えていた。加藤陽子先生は頑張っていると思います。


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