内 輪   第335回

大野万紀


 記録的な猛暑が続いています。7月があまりにも暑かったので、8月に入って少しマシになったところで、もう夏も終わった気分に(そんなこたぁない!)。
 毎年、セミがうるさい夏ですが、あんまり暑いとセミも鳴き止むんですね。昼間は鳴かず、朝が一番うるさくて、起こされてしまいます。
 水害など大きな災害が多くて、このところTVがいわゆるL字型表示になることが多かったのですが、録画してもそのままというのは何とかならないものですかね。リアルタイムでは貴重で大事な情報ですが、録画じゃ意味がない。アナログ時代ならともかく、このデジタル時代に、録画機でコントロールするのはわけないと思うのですが。速報なども録画では邪魔ですけど、まああれは我慢できる範囲です。放送していた時に何があったかわかるのも面白いし。

 それでは、この一月ほどで読んだ本から(読んだ順です)。

『進化は万能である』 マット・リドレー ハヤカワ・ノンフィクション文庫
 2016年に出た単行本の文庫版である。文庫化にあたってかなり改訂されているとのこと。
 生物の進化だけでなく、人間の社会、経済、文化、テクノロジーがすべて進化と同じ原理によって変化しているという著者の主張を徹底的に展開した本だ。生物の進化と同じ原理というのは、トップダウンではなくボトムアップであり、混沌とした小さな変化が集団の中で淘汰され、生き残り、蓄積され、創発的に、共時的に、変化していくということだ。
 ぼくはタイトルから、かつての小松左京みたいな、宇宙の進化も生物の進化もテクノロジーの進化も全部同じで、いわば「神への長い道」を目指しているのだというような話かと思っていた。そこまでの大風呂敷ではなく、ほぼ人間社会の話に特化している。また著者は、「神」を目指すような、目的意識をもって、計画し、設計するというものではなく、全く正反対の方向性を語っている。
 とにかく、著者は、政府やエリートや宗教的権威みたいなのが、トップダウンで計画し、デザインし、指導するといったやり方に、ことごとく異を唱え、個人や小集団の自由な発想やある種行き当たりばったりな試行錯誤の中にこそ、成功の本質があると説く。ちょっとリバタリアン的でもある。人間社会の話だから、遺伝子的な進化ではなく、ミームによる進化の話が中心だ。発想され、伝えられ、淘汰され、変化しつつ生き残り、広まっていくミームの発現形としての、文化であり、経済であり、道徳である。
 基本的には納得のいく議論だ。本当にそうなのかといえば、巻末に多くの参考文献が挙げられてはいるが、確認したわけではないので何ともいえない。でも確かにもっともらしいし、何よりもトップダウンで押しつけられるよりも、個々の現場の自然発生的な改善により最適化される方が、ずっと良さげに思える。しかし、訳者も後書きで書いているように、「著者の言葉を挑発的、過激と感じ、そこまで向きにならなくても」と思えるところもまた多い。たとえば国家によるトップダウンな福祉政策に反対し、規制や統制を良しとせず、警察よりマフィアによる統治の方がマシだと読めそうになる部分、トランプ大統領の方がむしろ正しいと読める部分など、ホンマかいなと思ってしまう。また、ボトムアップといっても、そのボトムという範囲がわりとあいまいで、個人というより小集団、小さな町や民間企業や、そんなミドルレベルの組織による意志決定が力をもつというイメージでもある。
 会社などで、よく「部分最適より全体最適を目指せ」と言われることがある。自分のところだけうまくいっても、全体で損するようじゃダメだから、それはそれで納得するのだが、権限も情報もないボトムにいる者が、トップダウンな発想をしようとすると、えてしてトップに迎合するような発想をしがちである。著者は、グローバルな全体最適なんかとりあえず置いといて、ローカルな部分最適をぶつけあっていけば、その進化の結果として全体も最適化されるのだと言っているようだ。
 しかし、進化というのは膨大な失敗と絶滅の歴史でもある。そんなにうまくいくのかい、と思うが、著者は様々な事例を挙げて、その方がうまくいくと述べている。ぼくは人間社会には多少トップダウンな発想も必要だろうと思えるが、とにかく「すべてあらゆる大きなものを疑うのだ」という姿勢には共感するし、一般的にいって未来は良くなるという考え方には元気づけられる。

『接触』 グレア・ノース 角川文庫
 傑作『ハリー・オーガスト15回目の人生』に続く作者の(この名義での)第二弾は、これまたぶ厚い長編で、超能力者(たち)の物語。主人公は、相手の手など肌に接触するだけで、瞬時に相手に憑依し、その人物の身体を乗っ取ってしまうという能力を持っているのだ。そうやって人から人へと乗り移り、もう何百年も生き続けている。
 意識が他人の体に乗り移ってしまうというアイデアは、この前ヒットしたアニメ映画の「君の名は。」でもそうだが(鏡明さんの解説では、イーガンの「貸金庫」が紹介されている)、決して珍しいものではない。本書がユニークなのは、そのアイデアを現代社会の中で発展させ、まるで吸血鬼ものに出てくる吸血鬼たちの組織のような、能力者たち(ゴーストと呼ばれる)の共同体や、彼らを研究し駆り立てようとする人間側の秘密組織(アクエリアス)の存在が、システマティックに描かれていることにある。
 人の精神を瞬時に乗っ取る精神寄生体としての存在が、どのようなアイデンティティを構築し、独特な人間関係を築こうとするのかが、詳細に描かれているのだ。なので、『ハリー・オーガスト』同様に、本書はしっかりとSFとして読める。またアクエリアスに追われ、目まぐるしく宿主を変えながら逃げる主人公のスピード感あふれるアクションシーンが大変読みごたえがあり、同時に、乗り移られる側の人間の残酷で悲劇的な運命には心をえぐられる。何しろ全く知らない相手に接触されただけで、自分を乗っ取られ、気がつくとその間の記憶の無いままどこかに放り出されて、本人のあずかり知らぬ行動の責任を取らされるのだから。これは悲惨だ。主人公たちゴーストは、時折は宿主を思いやるような言動をするが、基本的には自分勝手で無責任である。そういう風に生きてこざるを得なかったのだ。
 物語の舞台は中東から東欧、そしてドイツ、フランス、イギリス、アメリカへと移り、まるで観光小説のようにその街の描写が詳細になされる。これも本書の魅力の一つである。ただ、前作に比べ、本書の設定にはやはり無理が大きいと言わざるを得ない。これだけはた迷惑な能力なのだ、人類の側もいやでもその存在を意識せざるを得ないだろう。こっそりと密かに人類に紛れ込んでいるというような存在じゃない。彼らは何度も残酷な事件を起こしているのだ。ゴーストの共同体にしろ、アクエリアスにしろ、それなりに設定はされているが、前作ほど説得力のあるものではない。ゴーストはゴーストが一目でわかるというが、どうしてそんなことが可能なのか、とうてい納得できないだろう。
 まあそんなところを突っ込むよりも、主人公にも普通人にも共通の敵となる、おぞましい殺人鬼のゴーストの存在が明らかとなり、そいつが一体誰に憑依しているのかというサスペンスと、主人公と追跡者の間に生じる奇妙な人間関係、そして目まぐるしく迫力いっぱいのアクションを楽しめばいいのだろう。でも、登場人物が多く、それが本人だったり憑依された人物だったり、とにかくややこしいので、名前が出ただけでは一体それが誰でどんな役割で登場しているのかわからなくなる。ゴーストに体を貸すのを生業としている普通人というのもいるので、ホント、もう頭がくらくらします。

『滅びの園』 恒川光太郎 角川書店
 恒川光太郎の新作長編は、ありがちな異世界転生もののように始まり、すぐに転調して侵略SF・人類破滅SFとなる。
 6つの章から成る連作である。全体を貫くキーパーソンはいるが、それぞれの章で視点人物は異なる。ベースとなるものは、これまでの著者の物語と同様、登場人物とその環境との強い結びつきであり、日常生活の中の異常――というよりむしろ、異常な環境を日常とする生活の描写にある。しかも観点によって、その生活環境、つまり世界の見え方は全く異なるのだ。倫理的に何が正しいのかということについても――。また本書の人物描写、とりわけ悪意の描写にはすさまじく、ぞっとするものがある。
 一方、描かれる異世界は、人々の願望が生み出したファンタジー世界であり、ほのぼのとしたおとぎ話のような暮らしがある。わりあい初めの方で明らかにされるので、ネタバレにはならないと思うが、主人公である冴えないサラリーマンの鈴上誠一が転移したその異世界――今の日本に良く似ていて、おしゃれな店もあり、電車も走っているこじんまりとした街、人々はみんな親切で、食事はおいしく、山を歩けば黄金や宝石が転がっており、時おり魔物が現れるが、街の人々がみんなで協力して退治する――それは異次元生物、宇宙から来て地球に取り憑いた不定形のクラゲのような〈未知なるもの〉、その存在に取り込まれた鈴上が見ている夢(仮想現実)の世界なのである。
 彼はこの世界に溶け込み、現実では味わえなかった人間的で幸せな生活を送っている。この世界で妻を得、愛らしい子どもも生まれる。この世界のところどころに、少し不気味でワクワクするような月夜の夜会とか、過去の著者の作品で見たような光景がふと立ち現れるのも面白い。
 しかし、あるとき、彼のところに手紙が届くようになる。現実の地球からの手紙だ。そこには〈未知なるもの〉の襲来によって、大勢の人が死に、滅亡に向かっている世界の様子が描かれている。次元転送による限定的なコミュニケーションが可能になって、地球の人々は、悲惨な状況を打破するため、〈未知なるもの〉の中に取り込まれている彼に、その核を破壊するよう懇願しているのだ。彼は地球の人々のために、この世界の人々と彼の平和な暮らしを破壊するのか。それとも地球の人々を裏切ることになるのか。
 彼は一つの決断をするが、物語はそこで第二章へ移る。第二章は地上での物語である。〈未知なるもの〉の不可解な化学作用により、地上には〈プーニー〉という白いスライムのようなふわふわした生物(?)が発生する。それは1つ1つは弱々しい存在だが、増殖し、合体し、どんどん成長して世界を覆っていく。しかも、精神的な作用があり、近くにいる人間を異常にしてしまうのだ。自殺者が増え、出生率も低下する。世界は滅びへと転げ落ちていく。もっとも人々の中には〈プーニー〉に対する耐性値が極めて高い者がいた。第二章の主人公、中学生の相川聖子もその一人だった。第二章では、彼女が〈プーニー〉による大災害の中で友人を得、成長し、やがて人々を救う災害対策組織へとスカウトされ、すばらしい活躍をする姿が描かれる。
 第一章と第二章を合わせて本書のおよそ半分の分量があり、二つの世界、二つの観点の対比が強調される。地上の世界でも英雄的な行為と共におぞましい出来事も語られる。面白いのは、大災害で人類が滅びに向かっているとはいえ、それなりに普通の生活が営まれ、ごく当たり前のような日常があることだ。〈プーニー〉を焼却処分するための〈プーニー袋〉が行政から配布され、袋いっぱいになった〈プーニー〉は一袋40円で引き取ってもらえるとか。
 第三章は短く、〈未知なるもの〉の中で魔法使いとなった男のエピソードが語られる。第四章では、再び地上の世界で、いよいよ〈未知なるもの〉への大反攻が組織され、そこに加わる極めて耐性値の高い少年の物語が描かれる。彼は〈プーニー〉とコミュニケーションし、操ることもできるのだ。しかしそのことから悲劇も起こる。第五章は第二章と四章を結びつける短めのエピソードであり、そして第六章が最終決戦となる。読者はおそらく幻想世界に魅力を感じつつも、地球を守ろうとする戦いに心情的には加担するだろう。だが結末は苦い。多分、大きな犠牲の出た戦争の終わった後のように。
 仮想世界の方にもう少し重みや深みがあれば、より強い印象を残したと思うが、それでも傑作といっていい読みごたえのある物語だった。

『年刊日本SF傑作選 プロジェクト:シャーロック』 大森望・日下三蔵編 創元SF文庫
 2017年度の日本SF短篇16編と、第9回創元SF短篇賞の受賞作、八島游舷「天翔せよ法勝寺」が収録されている。
 さて、SF傑作選と銘打っているわけだが、ついにSF専門誌からの収録は1編だけとなった。他は〈小説すばる〉を始めとする文芸誌や、アンソロジー、同人誌やネットにいたるまで、様々な媒体から選ばれている。ここには純粋なホラーもあれば、幻想小説、ミステリ、意味よりも言葉の音を楽しむ小説、ユーモア、パロディというかオマージュ、そして奇想小説からハードSFに至る、ジャンルを超えたSFの幅広いグラディエーションがある。にもかかわらず、全体としてやはり「SF」を読んだと思わせるのは、広い意味でも狭い意味でも、「SF」を愛する編者のこだわりが現れているからだろう。編者が、特に大森望が、理屈ではなくその経験と勘から、これはSFっぽいと思ったらたぶんそれはSFなのである。時にはエッと思うこともあるが、彼がなぜそこに「SF」を見たかは、ぼくにもおおむね理解出来る(ような気がする)。
 上田早夕里「ルーシイ、月、星、太陽」は、〈SFマガジン〉に掲載された〈オーシャンクロニクル〉シリーズの1編で、人類が変容した遠い遠い未来の地球の物語である。これはもうSFの王道といっていい傑作だ。ゼラズニイなど黄金期の海外SFに親しんだ者には、この膨大な時間とその果てにある変化の物語を読むと、ああ「SF」を読んだという感動に涙腺が緩むのだ。続編も予定されているとのこと。早く読みたい!
 円城塔「Shadow.net」は、士郎政宗の「攻殻機動隊」をトリビュートした『攻殻機動隊小説アンソロジー』から。ハードな文体でサイバーな近未来世界での息詰まるような攻防を描きながら、作者は原作にある「ゴースト」の概念をネット世界に拡張し、ヒトとは違う存在の見る世界観を描き出している。まさに円城塔の小説であり、現代SFの真髄といってもいい。
 小川哲「最後の不良」はファッション/カルチャー雑誌〈Pen〉から。近未来における「流行」の終焉を描くファッションSFであり、「個性」を「流行」させるという矛盾を微笑ましく、またほろ苦く描く。こんな作品も書ける人なんだなあ。SF用語は出てこなくても、その視点はSFのものだ。
 本書の表題になった我孫子武丸「プロジェクト:シャーロック」はアンソロジー『七人の名探偵』より。AIで名探偵を作るというオープンなプロジェクトが意外な事件を引き起こすというミステリだが、ネット上にオープンソースとしてAI探偵を育てていくというプロセスがリアルで、今の現実はほとんどSFと変わらないのかも知れないと思わせてくれる。
 酉島伝法「彗星狩り」は〈小説すばる〉から。著者らしい異様な漢字を駆使した独特な文体で語られるが、内容はまさしく伝統的な宇宙生物SFである。宇宙空間に適応した、人間とは違う異生物の家族と社会を描き、”人間を描かない”SFの情感に満ちている。
 横田順彌「東京タワーの潜水夫」はカミュのルーフォック・オルメス探偵ものをオマージュしたパロディ作品で、短篇集『ルーフォック・オルメスの事件簿』の付録として書き下ろされたという。いや元ネタを知らずとも、この奇想天外で思いっきりバカバカしく、のほほんとした楽しさは素晴らしいとしか言いようがない。
 眉村卓「逃亡老人」は作者が描き続けている「私小説」ならぬ「私ファンタジー」の一編。ショートショートだが、ぼく自身歳を取ってこういう気分がわかるようになった気がする。短篇集『夕焼けの彼方』より。
 彩瀬まる「山の同窓会」。直木賞候補になった短篇集『くちなし』より収録。この人の作品は未読だったので、読んで驚いた。女が卵を産み、海からは怪物がやってくるSF的な異世界を、ごく日常的な普通小説のように優しく描く。他の作品も読んでみたいと思った。
 そして伴名練「ホーリーアイアンメイデン」。京大SF研OBの同人誌より収録。これまでの『NOVA』や『年刊SF傑作選』、その他トリビュートアンソロジーで読んできた伴名練の短篇は一つ残らず大傑作だったが、本作も素晴らしい。戦時下、妹から特殊な能力を持つ姉へ宛てた書簡形式の作品だが、次第に真相が明らかになっていくミステリっぽい展開の中に、この作者らしいロマンティシズムと、このような世界設定の中での自分とは何かという現代SF的な問題意識がからみあっている。この人の作品は早く短篇集にまとめてほしい。
 加藤元浩「鉱区A-11」はコミック。アシモフの三原則が出てくるとつい古めかしく感じてしまうが、人間が一人しかいない小惑星での殺人事件の謎を解くSFミステリとして、とてもよく出来ている。落書きのような顔のロボットが可愛い。
 松崎有理「惑星Xの憂鬱」はこちらとはちょっと違った世界での、冥王星をめぐるドタバタ劇である。これまた〈小説すばる〉より。現実をベースにしながら、好き勝手に広がっていくお話は、特に後半のぶっ飛び具合はとても楽しく、面白かった。
 新井素子「階段落ち人生」は『奇想天外(21世紀版)アンソロジー』より。階段から転げやすい人という話が、なぜか壮大なSF的設定へと広がる広がる。この文体はいかにも新井素子そのものだ。正直、この歳になるとちょっと疲れるかも。
 小田雅久仁「髪禍」は純然たるホラー。ある新興宗教の儀式にバイトで参加することになった女性が経験する恐怖の物語だが、日常から次第に違和感が増していき、ついにはコズミック・ホラーへと至る。髪の毛という生理的な不快感が著しい。〈小説新潮〉から。
 筒井康隆「漸然山脈」はストーリーでなく言葉の連なりと音の響きを楽しむ、「バブリング創世記」系列の作品だが、このリズムが楽しい(でもとても声に出せる自信はない)。転調があり、逆回しがあり、合いの手が入り、言葉がはじける。筒井さんももう84歳にして、まったく全然衰えないなあ。〈文学界〉より。
 山尾悠子「親水性について」は『飛ぶ孔雀』の「不燃性について」、『歪み真珠』の「向日性について」と三部作になる話らしい。しかし本作はとても短いので、お話としてはよくわからない。言葉のすごみと断片的な深いイメージのみが伝わってくる。とりわけ、カブトエビに関わるイメージは鮮烈だ。〈たべるのが遅い〉より。
 宮内悠介「ディレイ・エフェクト」については何度も語っているのでここではパス。岡本俊弥の指摘した時間軸の逆転についての問題は、またじっくり考えてみる必要があるかもしれない。こちらも初出は〈たべるのが遅い〉だ。
 さて、第9回創元SF短編賞受賞作の八島游舷「天翔せよ法勝寺」。「佛理学」というように、科学用語と仏教用語を重ね合わせ、仏教寺院が宇宙船となって他の恒星系まで飛んでいき、その世界での陰謀と闘う。面白い。確かにユニークなのは用語だけだといってもいい作品だが、光瀬龍の時代から仏教用語はSFに合うのだ。かつての「ヤクーサボンズ」の衝撃は忘れられない。本作は破綻なくまとまっており、ストレートで派手目な宇宙SFとして面白く読めるのだが、この世界観で長編が書けたらすごいと思う。

『うなぎばか』 倉田タカシ 早川書房
 うなぎが絶滅危惧種となって、そのうち食べられなくなる。そこから発想された連作短篇5編が収録されている。「うなぎ絶滅後の人類を描いたポストうなぎエンタメ」と帯にはある。絶滅はSFでよく扱われるテーマだが、うなぎ限定というのがニッチな感じで面白い。まあうなぎくらい、いいじゃないと思ってしまいそうだが、うなぎが絶滅するなら他のものも、と当然なるだろう。
 表題作「うなぎばか」はうなぎが絶滅して廃業したうなぎ屋の、秘伝のたれをどうするかという、落語的な人情譚。家族の物語でもあるが、うなぎ保存会の面々のはっちゃけ具合が楽しい。
 「うなぎロボ、海をゆく」は本格SFだ。うなぎの滅びた未来の海で、密漁から魚を守るためにうなぎロボは海をゆく。物語はうなぎロボの視点から語られるのだが、このうなぎロボのキュートで可愛いこと。こんな作品は大好きだ。
 「山うなぎ」はうなぎに替わる食材を求めて、南米のジャングルへと向かう女性リーダーとその一行の冒険談。見つかった素晴らしく美味な山うなぎの正体は――。食文化の相剋もテーマとなっている。
 「源内にお願い」の主人公は、うなぎを愛するあまり、タイムトラベルしてかの平賀源内に土用の丑の広告をやめてもらおうとするのだが――。SF的にはタイムトラベルによる並行宇宙の発生がテーマになっていて、違う世界の平賀源内が現れたり、人類絶滅後の未来人が現れたりする。好奇心旺盛な平賀源内がとても魅力的だ。
 「神様がくれたうなぎ」は現実世界に女神が現れて、主人公の願いを聞いてくれるという話だが、主人公は恋愛の願いをしようとするのに、この神様、なぜかうなぎのことばかり気にするのだ。このちょっと面倒くさい感じの神様が、いい雰囲気を出している。
 どの話も面白かったが、うなぎの絶滅に関しては、ま、仕方ないか、という諦観のムードが漂っていて、それはまあぼくの気分とも一致するのだけれど、そこはちょっと気になった。


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