内 輪   第322回

大野万紀


 しかし、歳のせいか、本を読むのがとても遅くなりました。まあ先月は、『ブルー・マーズ』に難儀していたというのが主な原因ですが、そうじゃなくても一冊読み終わるのにすごく時間がかかるのです。それもこの何ヶ月か、急にです。別に目が悪くなったとかじゃないんですがね、本を読んでいるとすごく眠くなっちゃうのです。これまでこんなことはなかったのに。やっぱり歳なんでしょうかね。
 5月号に水鏡子の書庫の記事を掲載しましたが、その後の話。書庫メーカーのパンフレットに水鏡子の書庫が写真と図面入りで紹介されました。初めは堂々と「SF評論家 水鏡子宅」と書かれる予定だったけれど、それはカットしてもらったとのこと。何でも書庫の棚の仕様に文句があるからだそうです。棚の鋼板が(強度を高めるためか)1ミリか2ミリ厚くなって、文庫が入る予定の棚の高さが(ハヤカワなど大きいサイズじゃなくても)、出版社によっては、かすってしまうものがあるとのこと。出版社ごとにきちんと計って伝えたわけじゃないけど、これまで入っていたものが入らないのは問題だということです。まあしかし、「現行通りにして」といって細かな仕様を確認せず、結果的に微妙に違うというのは、別の業界でもよく聞く話ですね。

 それでは、この一月ほどで読んだ本から(読んだ順です)。

『ブルー・マーズ』 キム・スタンリー・ロビンスン 創元SF文庫
 火星三部作、ついに完結。原作が出たのが1996年だから、21年前の作品で、前巻『グリーン・マーズ』の翻訳(2001年)から16年ぶりの完結というわけだ。翻訳はずっと前にできていたという話で、何があったのかは知らないが、ともかく火星SFの代表といえるこの傑作が完結して、めでたいことである。
 しかし本書は、上下巻合わせて1200ページを越える大作で、ずっと続けて読んでいたわけではないけれど、読み終わるのに一ヶ月以上かかってしまった。面白くないとか、すごく読みづらいとかいうのではない。とにかく、ひたすら密度が濃いのである。
 『レッド・マーズ』と『ブルー・マーズ』は火星植民、テラフォーミング、独立戦争、イデオロギー闘争と革命といった具合にドラマチックに物語が進むが、本書ではそういった激しい嵐がいったん落ち着き、火星に青い海が広がった新世界での生活が、主要人物の何人かの視点で描かれている。本書でもまだ〈レッド〉と〈グリーン〉のイデオロギー対立は残っているし、火星政府の樹立といった政治的な物語にこそ物語の主軸はあるのだが、それよりも、長命処置を受けていまだに健在な〈最初の百人〉の主要メンバー(とりわけ、サックスとアン、それにミシェルとマヤ)の人間関係を中心に、新たな世代の台頭と、変わりゆく火星の社会システム、そして壮大なテラフォーミング後の火星の姿を描き出す――そのディテールをひたすら詳細に語り尽くそうとするところにこそ、作者の力が注がれているのだ。
 そこが本書の魅力であるとともに、読み通すのに努力が必要なところでもある。全体小説というのだろうか、登場人物の特異で個性的なキャラクターや人間関係から、政治、経済、社会、歴史、民族、宗教、自然、環境、科学技術、医学と、ありとあらゆるものを描こうとする。まるで19世紀の大河小説のようだ。
 もう一つの特徴は、ほとんどハードSFといってもいいくらいに、様々な事象が、科学の視点から事細かに描かれることだ。火星の自然についての科学的描写などは詩的といってもいいくらいで、荘厳で圧倒的に美しい。とはいえ、あくまでSFなので、その科学には飛躍もあり、今となっては時代遅れなものも含まれている(脳科学に関するところなどは、当時はやっていた疑似科学に近い)。技術面でも、いかにもありそうな技術とSF的超技術が混在している。まあそれはそれでSFなので問題はないのだけれど。ただ、あれもこれもここまで細かく書かなくたっていいんじゃないかと思ってしまう。バランスが悪いし、いらない突っ込みを誘いそうだ。もっとさらりと流せばよかったのでは。
 まあ、そこを細かく描くことが、エリート科学者集団である〈最初の百人〉を特別視し、政治とイデオロギーの担い手として担ぎ上げることの必然性へとつながっている。
 この三部作の一番の弱点は、本書のもつ20世紀末のリアリティが、21世紀の現在、薄れてしまっているところにある。様々な問題があっても、結局は科学と民主主義の、リベラルな多様性の、理性的で知的な理想主義への指向が、それらを乗り越えて未来を築いていく。そんなSFのもつ素晴らしい未来志向が、9.11以後の、テロリズムの、分断と差別の、反知性的な世界のリアルによって、色あせ、白々しいものに見えてしまうということである。インターネットのような世界を結びつける技術への期待が、憎悪を拡散する道具ともなることで幻滅を見たように。
 21世紀のSFはそこからの建て直しを試みているように思える。それは連帯よりは個別性を重視し、大きな言葉よりは科学的で精緻な言葉をもとめ、リアルでありながら力強いビジョンを見ようとする(ぼくはバチガルピやイーガン、宮内悠介や伊藤計劃のような作品を想定している)。
 それにしても本書で描かれるテラフォーミング後の火星の自然の壮大で美しいこと。そこだけでも、何度でも読み返したくなる描写に充ち満ちている。そして後半に出てくる、いかにもSF的な未来へのビジョンも嬉しい。やっぱり傑作だ(ちょっとしんどいけどね)。

『BLAME! THE ANTHOLOGY』 弐瓶勉・原作 ハヤカワ文庫JA
 弐瓶勉のコミック「BLAME!」がアニメ映画になるのにタイアップした、日本作家のオリジナルアンソロジー。九岡望、小川一水、野﨑まど、酉島伝法、飛浩隆の5人による小説が収録されている。
 弐瓶勉のコミックといえば、ぼくは「シドニアの騎士」を愛読していたが、実をいうと「BLAME!」は読んでいない(連載の一部を読んだだけ)。アニメ映画も見ていない。それでも十分面白く読むことができた。細かな設定にはわからないところもあるのだが、別に気にはならない。原作を読んでなくても大丈夫だと思う。
 はるか未来の、自己増殖し暴走するカオスな都市。不老不死ともいえるポストヒューマンでありながら、その都市の片隅で細々と生きる人間の末裔たち。敵対する珪素生物たちや、AIやセーフガードや、様々な異形のものたち……。単純化していえば、これは人間の手を離れて暴走したテクノロジーと、主役の座を追われて、その世界の片隅にしぶとく生きる人間達の物語だ。こういう設定は、昔から様々な形で繰り返されてきているが、SFファンの心をつかむ強い魅力がある。原始に返ってしまったわけではないが、終末期の黄昏に、かつての栄光を失い、過去の知識と遺物を利用しながら膨大な年月を細々と生きる人々の、孤独と閉塞感。そして寂寥感。
 九岡望「はぐれ者のブルー」はそんな厳しい世界で生きながら、はぐれ者となった一人の電基猟師が、同じくはぐれ者となった珪素生物と出会い、奇妙な友情をはぐくむ物語で、本当にこの世界の小さな一エピソードの描写となっている。ぼくにはちょっと椎名誠を思い起こさせ、あの世界の雰囲気も感じた。こういうささやかな物語も好きだ。
 一方、小川一水「破綻円盤-Disc Crash-」は中編で、階層都市のとある一角と、そこでの数万年近い時間を描く、いかにもSFらしさのあふれる傑作である。珪素生物の女、ルーラベルチと、その宿に何年かごとに泊まりに来る「検温者」夷澱(いおり)との奇妙な愛情、そして夷澱の探しているものは……。ここではこの世界の果てを、外側をかいま見ることができる。
 野﨑まど「乱暴な安全装置-涙の接続者支援箱-」は、この作者らしい意表を突く短編で、重油が流れる地区でその消火にあたる消防士たちと、その街で企まれる陰謀が描かれるのだが、予定調和な結末にはならない。
 酉島伝法「堕天の塔」は、突然空いた重力異常の巨大な穴に落ち続ける作業者たちの物語。異常な事態なのだが、それがある種の日常となる。もともとこの世界は作者の作品と親和性が高いのだろう。BLAME!の一編というより、作者の作品の一つとして違和感なく読める。
 巻末の飛浩隆「射線」は、特定の登場人物もおらず、物語というよりは壮大な歴史のスケッチである。BLAME!の時代のほぼ2千年後から始まり、はるか数万年後の未来まで、この世界をそっと静かに支配する〈環境調和機連合知性体〉が、他の勢力とどう関係し、どのように世界を変えていったかが描かれる。これまた壮大なSFである。
 いずれの作品も、主役はこの世界そのものであり、その中で生きる様々なものたちの姿を描く。その生き方がいかに偉大でも、圧倒的であっても、この世界の中では単なるエピソードに過ぎないのだ。しばし、このカオスな巨大世界のイメージに圧倒され、その余韻に浸ることにしよう。

『大怪獣記』 北野勇作 創土社
 創土社の「クトゥルー・ミュトス・ファイルズ」の一冊であり、なるほど確かにクトゥルーものだといえる。「陰須磨州」とか「根黒乃巫女音」なんてのも出てくるし。でもまあ、それらは「趣向」であって、この本で描かれているのは紛れもない北野勇作ワールドだ。つまり、どこか懐かしい昔ながらの商店街や、工場や、路地裏や、電車。そして泥と亀と化け物と量子力学の世界だ。
 それもそのはず、本書は『人面町四丁目』の続編なのだ(作者後書きにもそう書かれている)。もちろん「大怪獣」も出てくるし、自衛隊と怪獣の戦いもある。でも怪獣映画のスペクタクルを期待してはいけない。
 この町を舞台にした地域密着型の怪獣映画を撮るという、映画監督を名乗る怪しげなミノ氏から「映画の小説化」を依頼された、作家である私。そして夢かうつつか、日常と異常が混沌とした奇怪な世界に足を踏み入れていく。
 この土地に生まれた人間である私の妻がとてもステキだ。バイタリティーがあり、元気で、可愛い。映画のシナリオ(というか、豆腐みたいなものだ)を料理するのもうまい。
 そのシナリオを書いているのは、妻の幼なじみである豆腐屋の息子。そういうローカルな人間関係と、ローカルなホラーと、何かドロドロぐちょぐちょした、柔らかくて生暖かくて、呑み込まれてしまいそうな有機的な異物のイメージ。それは『どろんころんど』や『カメリ』の泥の世界と同じものかも知れない。混沌とした泥の中に、あらゆる情報が含まれている。とろりとろりと、よく煮込まれて……。
 本書にはまた、そんな食べ物のイメージもあふれている。何しろ章題が「おから」「ケーキ」「餅」「蜜柑」「粕汁」と続くのだ。消化され、どろどろに混ざり合う人間たちの思い。そこから立ち現れる「怪獣」。それは何か巨大な恐ろしいものではあるが、でもその姿を見れば、サンタクロースだったり、だるまストーブだったり、触手のある巨大な顔だけの存在だったり、そんなアホな、というものなのだ。だけど、その不気味な悪夢を見た後の、ぼうっとした夢うつつの感覚が、とてもいいのだ。
 あと、本書には、楢喜八ギャラリーとして、昔なつかしい楢喜八のイラストが多数収められている。ボーナストラックだ。北野勇作の雰囲気ともよく合っていて、とてもお得感があります。


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