続・サンタロガ・バリア  (第178回)
津田文夫


 映画『この世界の片隅に』を何回も見たせいか映画を見に行きたいという気分になることがあるのだけれど、結局『ひるね姫』も『夜は短し歩けよ乙女』も見逃してしまった。でも『ゴースト・イン・ザ・シェル』はなんとか見ることが出来た。
 とりあえず3D吹き替え版を選んだのだけれど、これは失敗で、いまだに3D画面のどこが良いのかわからない、というより画面の3D部分の薄っぺらさが気になってしまって、集中力をそがれる羽目になる。
 映画自体は押井版『Ghost in the Shell-攻殻機動隊-』を映像的にほぼ踏襲していて、CGと部分アニメがもはやフルアニメと見分けが付かない。とはいえ押井版第1作アニメの既視感が強すぎて、感心はするものの映画としての面白さは余り感じられず、士郎正宗の原作が持っていた豊穣さが、素子の人間としてのアイデンティティの確認に終わる結末に変わっていてちょっとピンとこない。北野武や桃井かおりが色眼鏡のラプソディ的なキャラクターになっているのも興味深いんだか興ざめなんだか判断しがたいところ。隔靴掻痒的1作かな。

 てっきり南米の作家だと思って買ったらスペインの作家だったフリオ・リャマサーレス『黄色い雨』は、どんどん人が去って行った村に最後まで残った男のシンシンとした孤独の物語。扉書きによると舞台となった村は1970年に廃村となった実在の村と云うことだけれど、その事実は作者のイマジネーションを刺激したにすぎないだろう。
 住民が去って行くたびに土地は荒れ家は崩れ始める。一緒にとどまってくれた妻は早くに失われ、最後まで付き合ってくれたのは一匹の犬、そして現れる死者の家族たち。描かれるものからは常に孤独そのものが立ち上がってくる。当然の結末を迎えてもシンシンとした感触は読み手から離れない。
 文庫化に当たって短編2編が追補されている。こちらは奇妙な味の短編である。

 前回読んだ作品に対してあまりたいした評価を与えなかったのにまた読んでみたのが、江波光則『屈折する星屑』
 舞台はほぼ見捨てられた宇宙コロニー、巨大な円筒形のオーソドックスなやつですね。主人公はホバーバイクでの勝負だけが生きがいの少年。少年の思考もホバーバイク勝負バリエーションで進む。前作でもオートバイにずいぶん入れ込んでいた作者らしいこだわりは、関心のないものにはあまり魅力は無いが、それでも宇宙ものの所為か今回は前作よりもマイルドな筋運びである。コロニーはそれなりに巨大な空間として描かれているが、物語の方がせせこましいので、スケール感は余り強調されない。
 読み終わったところでわいた感想が「ガンダム」宇宙の1エピソードかなあ、というもの。前作よりは面白く読めた。
 あとボウイのアルバムのタイトルとかが時々出てくる。

 アニメはたぶん見ないだろうが、ファースト・コンタクトものアンソロジーだという野崎まど・大森望編『誤解するカド』は読んでみた。
 9割方は再読だけれど、筒井康隆は懐かしく翻訳物もどれも久し振りの再読なので楽しめる。ラインスターやクラークのころのファースト・コンタクトや映画『未知との遭遇』の頃と比べると、本書の「ファースト・コンタクト」の概念はかなり広がっていて本来の未知との遭遇状態であればすべて「ファースト・コンタクト」であるらしい。ウィリスの改訳版「わが愛しき娘たちよ」は今読んでもけっこう衝撃力が残ってるなあ。

 バラード『ハイライズ』+キング『シャイニング』という帯の宣伝文句にはちょっと首をひねるけど、面白く読めたのがウィル・ワイルズ『時間のないホテル』
 前半はほぼ現代ものになっていて、コンベンション・ビジネスに乗っかったコンベンション・リポーター(これが主人公の仕事で、いかにもありそうな職業ではある)のてんやわんやで、それがだんだんカフカっぽい不条理小説方向へ向かうのだが、後半は世界に偏在するホテルの裏世界を舞台にした脱出劇へと変貌する(要約すると帯の宣伝文句が正しいような気がしてくるが、読後感はそれらとかなり違うと思う)。
 基本的に主人公がダメ男なので、主人公視点からは圧倒的に強力な謎の女がなかなか魅力的。まあ、主人公も最後にはパワーアップするんだけれど性格は変わらない。その意味では解説で若島正が書いてるようにコミック・ノヴェルなんだろう。

 ついに第1期完結と云うことで、われながらよく付きあったと思う谷甲州『航空宇宙軍史・完全版五 終わりなき索敵(全)』。93年に出た親本は、結局積ん読のままになって、いまは書庫代わりのおんぼろアパートのどこかにあるはず。
 今回完全版を読んで、93年当時積ん読にしたのは正解だったという気がした。なにしろこれは最初期の航空宇宙軍史の中編「星空のフロンティア」で描いた世界が大長編となってよみがえった話だったから。
 「星空のフロンティア」がハードSFファンタジーであったように、この大規模に拡大された長編もハードSFファンタジーである。主人公の記憶は一種の輪廻転生状態として航空宇宙軍の敗北する果てしない戦いを経験し、何度も選択し直された歴史を経験しながら、超光速を可能にする空間流で若いままの母と再会して、新しい未来への希望をつなぐ。
 これは谷甲州流の『果しなき流れの果に』なんじゃないだろうか。

 以前『金色機械』を読んで結構面白かった恒川光太郎『無貌の神』は、バラエティに富んだ題材の短編6編を収録した1冊。掲載誌が『幽』ということで、基本は奇譚である。
 表題作は、神を食べたものがその神になるこの世の外にある村に入り込んだ少年の物語だが、結末が所謂オチではないところにちょっとした不思議さが漂う。次の「青天狗の乱」は、幕末から明治に移ろうかという時代に流刑地の島で起きた復習譚を描く。それに続く「死神と旅する女」はタイトル通り「死神」に暗殺者として仕立てられた女の物語。これらは基本設定はありがちだけれど、独特の話の作り方になっている。
 最後の「カイムルとラートリー」は他の収録作とちょっと毛色の変わった、タイトルの響きからインド神話を思わせる神獣ファンタジー。

 四月は後半に読みたい本がけっこう出たのだけれど、ほぼ来月回しとなってしまった。 その中で一番に読み終わったのが、日本オリジナル編集の短編集第3集となったハーラン・エリスン『ヒトラーの描いた薔薇』。大野万紀さんの巻末解説にもあるように、昨年出た短編集『死の鳥』がすばらしく良かったので、好評につき続編が編まれたと云うことになる。
 さすがに『死の鳥』ほどのハイレベルな作品ばかりとは行かないものの、それに劣らない作品がいくつもあるし、退屈なものは1編もない。
 「ロボット外科医」は50年代の作品でさすがに古めかしいが、ロボットのイメージは現代にも受け継がれているし、主人公が行った一種のラッダイト運動的行為も現代に通じる批評だろう。
 「恐怖の夜」はSFでもファンタジーでもない黒人差別のアメリカを痛罵した1編。短いのに強烈。
 とはいえSFファンにとってのハーラン・エリスンの真骨頂はまず「苦痛神」からということになる。これぞエリスン神話だろう。そして「バシリスク」や「血を流す石像」がそれに続く。「クロウトウン」もすばらしい。
 しかしエリスンの怒りは80年代初頭あたりから少し変化して、表題作の「ヒトラーの描いた薔薇」とその次の「大理石の上に」がそれまでのエリスンの名残を思わせるが、80年代半ばの最後の2編、「ヴァージル・オッダムとともに東極に立つ」や「睡眠時の夢の効用」になると「エリスン神話」は既に性格を変えているように見える。
 そういう意味ではこの短編集は『死の鳥』よりもエリスンのショーケース的な作品集になっているのかもしれない。


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