続・サンタロガ・バリア  (第172回)
津田文夫


 今年も早11月、まさに年々歳々1年が短くなっていく。地球の1公転が1年だとしても主観的時間は違う。ふと思ったんだけれど、公転自体はほぼ毎回同じだけれど、太陽系は銀河内で移動しているし、銀河も大宇宙の中で移動しているとすると、人類にとっての絶対的宇宙観測は天動説になるのかな。まあ、このスケールだと「移動」自体が何なのかよくわからないか。などと考えながら、ググってみたらyoutubeにそれらしき動画あったので、見てみたんだけれどID教の宣伝番組だった。トホホ。

 10月は月初めにウィーン・フィルを聴きに行ったし、ようやく『君の名は。』を見たし、4セット目のケンペの『ニーベルングの指輪』も聴き終えたので、わりと充実していたような気もする。
 今回は若いクラシック仲間から、何の前振りもなくいきなりウィーン・フィルのチケット取っておきましたからとメールが入って、行くのをどうしようか迷っていたリンゴ・スターのオール・スター・バンドはあきらめた。両方行ったら5万円近いもんなあ。ま、リンゴ・スターは90年代末に初期のオール・スター・バンド(Eストリート・バンドのメンバーとかジム・ケルトナーがいた頃)で見たし、今回のメンバーではトッド・ラングレンぐらいしか見たいメンバーがいなかった。
 今度のウィーン・フィルはズビン・メータが振っていて、前回聴いた時はいまは亡きアーノンクールが、とてもウィーン・フィルとは思えないベートーヴェンやモーツァルトを聴かせていたけれど、ズビン・メータならウィーン・フィルらしい音がするだろうと思っていた。
 プログラムは前半ががブラームスのピアノ協奏曲第1番で、後半がドビュッシーの交響詩「海」とラヴェルの「ラ・ヴァルス」。ブラームスはともかく後半のプログラムはウィーン・フィルで聴きたいと思う人は少ないだろう。そのせいでクラシック仲間が、費用対効果から一人外れた。
 ピアノはルドルフ・ブッフビンダーで、わりと渋いイメージのあるベテラン。『CDジャーナル』11月号を見たら、この顔合わせでブラームスのピアノ協奏曲2曲を弾いたCDが出ていた。イントロからウィーン・フィルらしい渋めの響きがして、ブッフビンダーのピアノもそれに劣らず渋い。ブラームスのピアノ協奏曲は、ブラームスとしてはきらびやかな効果を持った音楽だけれど、ここではいかにもウィーン・フィルらしいややくぐもったそれでいてしなやかな響きを聴かせる。もっと輝かしい音が聴きたいという人もいるでしょうが、そういう人はベルリン・フィルなりシカゴ響なりで聴けばいいと思います。もっとも隣で聴いていた仲間は大半寝ていたとのこと。まあ気持ちよく眠れるともいえる。 後半のフランス印象派音楽は、これもウィーン・フィルらしいと云えばらしい演奏。メータはブラームスよりは指示を出していたけれど、基本はオーケストラ任せ。グロッケンシュピール系の金属打楽器がややうるさかったけれど悪くない。
 70年代には小沢・アバドと並んで若手3羽ガラスの指揮者だったメータ。アバドが亡くなり、小沢は体調が心配されるが、メータの見た目は80過ぎてもまだいけそうな雰囲気だった。アンコールが何だったかは忘れました。

 10月半ばにシネコンで見た『君の名は。』は、それでも老若男女で6割くらいの入りがあって、いまだ結構な人気だった。
 これまでの新海誠作品を追いかけていないので、これが新海誠の作品としてどの位置にあるのかよくわからないけれど、構成上は非常によく出来たプロットで最後まで飽きずに見ることが出来る。作画も一般的な長編アニメとしてほぼ満足出来るレベルだ。
 何度も出てくる夜空の彗星は、「はやぶさ」地球帰還映像をヒントに描かれていることはわかるが、その彗星から破片が分離する場面を見ることができた場所に、直接その破片が落ちてくるというのはさすがに気になった。とりあえず地球を一周してから落ちてきたと云うことなんだろう。
 男女の意識が入れ替わるというのは一種お約束な設定だけれど、それは物語の成就に必要だから導入されているように見える。彗星伝説が本プロットと考えるとこれは強引な設定で、タイトルのために必要なプロットが呼び出されたと思われる。
 『SFマガジン』12月号では、長山靖生が連載コラム全ページを費やして『君の名は。』論を熱く展開していたけれど、その論の最後に「このアニメの世界はわれわれの世界ではない」と書いていて、それはとてもよくわかる結論だった。
 なお、映像で一番印象的だったのは、ローアングルで描かれるスライド・ドア(障子とか電車のドアとか)が開く描写で、斬新と云えば斬新。

 ルドルフ・ケンペがバイロイト音楽祭で振ったワーグナーの楽劇《ニーベルングの指輪》(全曲)は1961年のライヴ。バイロイトでは1960年に続いて2度目の登場。
 このライヴはなぜか「ワルキューレ」だけが別のレーベルから先行発売されていて、その第一幕で、幼い頃に生き別れとなっていたヴェルズング(人間)族の双子の兄ジークムントと出会って惹かれ合い、ジークムントの子(のちの英雄ジークフリートです)を宿してしまう妹ジーグリンデ(実は人妻)役をフランスのソプラノ歌手レジーヌ・クレスパンが演じていたのだけれど、これが品のある歌唱でとても気に入ったという話は前に書いた。
 今回出たのは、バイエルン放送局所有のオリジナル録音テープをCD化したというのがウリの全曲盤。この放送局のバイロイト・ライヴ録音はORFEOレーベルで以前からいろいろ出ているのだけれど、ケンペのバイロイト録音を出すのは「ローエングリン」(1967年のライヴ)以来2つ目。前情報もあまりなくネットで即注文したら、ナクソス・ジャパンの国内仕様輸入盤だった。この手の国内仕様ではよくあることだけれど、原盤が1961年ライヴと謳っているにも拘わらず、タスキで1960年ライヴと書いている。ホントいい加減なんだから。
 これまでケンペの「指輪」全曲盤は1957年のイギリスはコヴェントガーデン王立歌劇場ライヴ、1960年第1回のバイロイト・ライヴ、1962年第3回バイロイト・ライヴの3セットを聴いてきたわけだけれど、すべてラジオ放送用音源であり、雑音とそれ以上に激烈な観客のしわぶき・くしゃみが盛大に入っていて、聴き手としてはコイツ等の首を絞めてやりたいくらいだが、まあ今となってはその観客も9割方お亡くなりになっているはずで、仕方がないことではある。
 正規版を銘打つだけあって、モノラルであってもこれまでの「指輪」の録音より音にふくらみがあり、オーケストラ演奏の細部が聴き取れる上、最新の加工技術でしわぶき・くしゃみの破裂音のピークを押さえてあるので、聴きやすいのは確か。
 久しぶりに歌詞対訳(ドイツ語/英語)を見ながら聴いてみたら、細かい話の筋をずいぶん忘れていることに気がついた。
 ライン川に沈む黄金を守るラインの乙女たちが、終幕の「神々の黄昏」第3幕第1場で、ジークフリートに対して、「黄金を返さないとおまえは今日死んじゃうんだよ」と、ほとんどからかい半分に歌いかけているのを聴いていると、「指輪」全体の幕開きである「ラインの黄金」冒頭で、乙女たちが地下の小人(ニーベルング)族の親分アルベリヒをからかって絶望させ、アルベリヒが愛を呪い、ラインの黄金を盗んで指輪を作るきっかけになり、神々にその指輪と黄金を奪われたアルベリヒが仕返しに指輪に死の呪いを掛けたという設定を思うと、結局この世界を滅ぼした張本人はラインの乙女たちじゃないかと思えてくる(劇中では運命の糸を撚り合わせているノルンの娘たちが、神々の長ヴォータンが世界樹を切り倒したことから、世界の破滅は運命づけられたと歌っているけれどね)。
 「指輪」はCD13枚セットなので、ケンペの演奏を聞き比べるのは無理に近いが、ジークリンデはこの盤がベストだとしても、オーケストラがベストな演奏をしていているかどうかはよくわからない。4夜連続でひと続きの物語を演奏していているため、4晩ともオケや歌手そしてケンペ自身が絶好調であるとは限らないわけだ。
 あと、「神々の黄昏」の大団円でブリュンヒルデが長大なモノローグを歌い終えてから、愛馬と共に夫ジークフリートの遺体を燃やす炎の中に入って行き、その後でオーケストラが盛り上がる中、「神々の黄昏」で描かれる裏切りのドラマの仕掛け人である、小人族の腹黒プリンス(アルベリヒの子)ハーゲンが「指輪から離れろ!」と叫ぶ「指輪」全体で最後の台詞があるのだが、60年ライヴと62年ライヴでははっきりと響くのだけれど、この61年盤では歌手が舞台の奥にいたのか、かなり聴き取りにくかった。もっとも1957年のコヴェントガーデン歌劇場ライヴ演奏ではこの台詞自体がまったくが聴き取れないんだけど、これはライヴらしい事故かもしれない。

 先月積み残した椎名誠『ケレスの龍』は、傭兵灰汁銀次郎とカンパチの道中ものみたいになってきた椎名流遠未来SFの長編。今回は、灰汁が訪れた街で働く少年3人が、工場経営者の孫娘誘拐事件をきっかけに灰汁たちと行動を共にすることになり、物語は3人の少年のひとり策三の視点で語られることが多い。
 読後の印象は、昭和20年代のSFマンガを思わせるような一種セピア色をした遠未来のイメージ。特に、最後の50ページで、帯の惹句にあるように宇宙へ飛び出し、小惑星ケレスに向かうことになるんだけれど、この宇宙空間での活劇が、用語こそ現代的だけれど、昔ながらのスペースオペラ的ガジェット満載で、「ケレスの龍」の謎解きも古色蒼然としていてセピア色のイメージを強める。
 物語としては、孫娘誘拐事件のてんやわんやと宇宙に出るまでの話の方が充実していて、宇宙に飛び出した後の話はやや精彩に欠ける。

 これも積み残しのクレア・ノース『ハリー・オーガスト、15回目の人生』は、タイム・ループものの新機軸と云えば新機軸だけれど、さすがに「量子ミラー」では、説得力に欠けるでしょう。その意味では、その「量子ミラー」にたどり着くまでの設定やディテールの方が面白く、後半のサスペンス系廃棄未来(オキシタケヒコ作品の便利な言葉!)物語は、それほど緊迫感がなくてやや読み流しになってしまった。

 なんとなく久しぶりに読んだような気がする田中啓文『地獄八景』は、鬼も亡者も地獄の責め苦を演じてはいるけれど、なかなか楽しそうな地獄になっていて、ときどき笑えるいかにも田中啓文らしい短編集。話の充実ぶりは、やはり長めの作品がまさっている。それにしても地獄で死んだらどこへ行くのかなあ。
 1975年のSHINCONで筒井さんが米朝師匠に頼んで、あの長い「地獄八景」を演じてくれたおかげで、「地獄八景」は聴いたことがあるといえるけれど、もったいないことにいまやなにも覚えていない。

 ベン・H・ウィンタース『地上最後の刑事』は、穂井田さんが『エンジェル・メイカー』の次に貸してくださったSF的ミステリ。実は3部作で3冊お借りしているのだけれど、とりあえず最初の1冊だけ読んだ。2013年12月に出たポケット・ミステリだけれど、もう文庫化されている。
 SF的設定とは、主人公の刑事が事件を追うことになった日は、すでに直径6.5キロメートルの小惑星が地球にぶつかることが確実になっていて、それは6ヶ月と11日後に迫っている。まあ、SFファンなら、?マークが頭に浮かぶのは仕方がない。作者も謝辞で正直に報告しているように、「元NASA宇宙飛行士にして小惑星研究者であるラスティ・シュワイカートから、本書のような人類滅亡をテーマとした作品ではなく、それよりも可能性ははるかに高いと思われる壊滅的被害を題材にするべきではないかと助言を受けた」というのに、作者はそれに従わずこの作品を書いてしまった。おまけに、パキスタンが小惑星を核ミサイルで破壊しようするのを、そんなことをしたら小惑星がバラバラになって余計に被害が拡大するからとアメリカが懸命にパキスタンを押さえ込んでいる、などという設定をするくらいSF的には全くどうしようもないレベル。たぶん作者の頭の中では、パキスタンがICBMを打ち上げれば小惑星まで届くんだろう。すくなくともSFレベルでは、シュワイカート氏の助言を聞いておくべきだったと思われる。
 SF的設定はともかくとして、それでも読めるのは、地球破滅が迫ってそこら中に自殺する人間がいて、そんな中で誰がみても首つり自殺にみえる死体に違和感を感じた主人公は、その主張を全く真に受けない同僚や怪しい周辺人物を向こうに回して、執念で事件の真相を暴くという、オーソドックスきわまりないミステリがちゃんと書けているから(事件解決時には元刑事になっているのもお約束)。
 あと2冊、どうしようかなあ。

 アンナ・スタロビネツ『むずかしい年ごろ』は、読みたい新刊翻訳SFがないので手を出した。
 ロシアの若手女性作家が書いた現代ホラー小説集で、SFみたいなところがあるらしいというので読んでみた。冒頭の表題作が80ページ、それに続く「生者たち」と「家族」が40ページの中編で、残り80ページ足らずに5編の短い短編が収められている。
 表題作はいわゆる子供が内側から崩壊するショッカーで、ちょっと神経症っぽい不気味さが充満している。SFといえるのは「生者たち」だった。ある女が大金を払って、培養液槽で速成されていく身体を見守っている。外の世界では「奴ら」が我が物顔に出没ししている。女には夫が帰ってきた。しかし夫は、メーカー説明にもあったように何かしらオリジナルでない・・・というような話で、「奴ら」は屍人らしいが、物語の興味はややディック寄り。「家族」は、酔い寝から目覚めると赤の他人から家族扱いされるシーンから始まる、まあ、いかにもな話だけれど読ませる。
 短編集全体では、ホラー一辺倒というわけではなく、奇想小説集に近い。

 冲方丁『マルドゥック・アノニマス2』は、ウフコックがカメラ・アイに徹して、改造人間たちの出入りを描く1作。ウフコック視点で、敵方のリーダーが、その超常的な人垂らし能力で、このリーダー率いる集団と敵対する改造人間たちをまとめ上げて、改造人間を鉄砲玉扱いにするシティの支配機構そのものに食い込んでいくのを報告している。
 面白いけれど、字で書いたマンガみたいな印象が強い。

 上田早夕里『夢見る葦笛』はすばらしい短編集/作品集。著者の『魚舟・獣舟』と並ぶ、いやそれ以上にレベルの高い短編集で、作品集としてマスターピースと呼んでいい。
 いくつかは再読・再々読だったけれど、それでも単独で読んだときよりもこの短編集で読んだ方が遙かに印象が強い。巻末の「アステロイド・ツリーの彼方へ」なんか3回目だけれど、最初読んだときの違和感がなくなって、読後に余韻が漂う作品に化けていた。
 再読・3読して作品の良さを確認できたのもうれしいが、この作品集で初めて読んだ作品でも一読で惹きつけられるのは、それぞれの作品レベルが高い証拠だろう。なかでも「滑車の地」「プテロス」の2作品は、この短編集を代表するスケールの大きさを感じさせて逸品を読ませてもらったなあという感慨が湧く。どちらもその設定が長編にまで育てることが可能な厚みを持っている。さらに「プテロス」は、カバーイラストが作品のイメージとそれが醸し出す雰囲気をきちんと捉えていて、久方ぶりに作品世界が眼前するという楽しみが味わえた。「プテロス」は今年読んだベスト短編かもしれない。

 『君の名は。』を見たあとで、本屋によってラノベの棚を通り過ぎようとして、目に入ったのが、なんと清水マリコ『友達からお願いします』。清水マリコがMF文庫Jで出した最後の作品だけど、すでに何年も前(奥付は2012年だった)の作品なのに、こんな大型書店の棚で生き残っていたなんてビックリ。
 MF文庫Jの清水マリコ作品はこれまでtoi8が表紙だったこともあり、買いやすかったのだけれど、これは表紙が典型的なラブコメ・ラノベ・イラストになっていて、買い逃しているうちに店頭から消えていた1冊。
 清水マリコのブログも2011年頃から更新されなくなり、当方の清水マリコ熱も鎮静化していたのだけれど、『君の名は。』を見た直後で、これはさすがに天啓であろうとレジに持っていった。よく見ると小口にヤスリがかかってるし、4年も店/棚ざらしな訳はないので、誰かの注文品が流れたのであろう。
 読んでみると、目立たないことを旨としている男子高校生が、クラス一の美人だがエキセントリックこの上ない女子と偶然がら空きの電車に乗り合わせ、ほかに乗降客もいない駅でいそいで下りたら何故か彼女も一緒に下りた・・・エ、おれに用事!?、というところから始まる、まあ典型的なアレですね。
 しかし、たとえ主人公が美少女とうまくいきそうなところへもう一人のかわいい女の子が現れてピンチを迎えようとも、じつはこれが続きものになる予定だったのにその後まったく続編が出なかったという事実があろうとも、これは清水マリコの作品に間違いなく、読めばやはり清水マリコ熱がぶり返すのであった。
 ということはもしかしてと思い、清水マリコのブログ「嘘つきは物書きにしておく」にアクセスしてみると、なんと復活しているではないか。しかも10月のブログの内容を読むと・・・、MF文庫Jの編集者と女子向けピースログ文庫の編集者が、どちらも角川傘下に入った云うこともあり、両者同席で話をしたときに、清水マリコが「いまの私にライトノベルが書けるかどうか・・・」と弱音を吐くと、MF文庫Jの編集いわく「何言ってるんですか、ライトノベルなんて一度も書いたことないでしょう」、同席の編集にも「そういえばそうだった!」と同意されて、清水マリコは自分が書いたものはライトノベルではないことを(初めて)知った・・・、という。いやあ、大笑いしてしまったよ。
 MF文庫Jの編集者エライ!、というか清水マリコが書いているのは清水マリコの作品以外の何物でもなく、それが唯一無二の作品であることは、清水マリコ熱にかかる体質の人間には自明なんだけれども、作者本人に自覚がなかったというこの天然さ、さすが清水マリコ!その晩は興奮して(ナニに興奮しているのかは秘密です)眠れなかったぜ。

 谷甲州『航空宇宙軍史・完全版二 火星軌道一九・巡洋艦サラマンダー』は、短編集2冊の合本で、計11編を収録。
 ダンテ少佐が活躍する長編2冊の合本だった前巻に比べると、これらの短編から浮き上がる戦争状態の太陽系の各挿話が示すのは、シンとした暗黒と冷たい光がソクソクと伝わってくるリアルな宇宙空間の感触だった。
 戦争といっても多くは待機状態での葛藤やロジスティクスの現場から感じられる遙か彼方の戦況の推測といった、たとえ宇宙空間を漂っていても人は密室同様の条件下で判断や行動を取らなければならない状況が描かれている
 一方、大状況としての戦闘や作戦、戦略といったものは、第1次世界大戦や第2次世界大戦で実際にあった海戦の戦訓などが利用されており、わかりやすく解説されている。そんななかで行われる決死の作戦の強行実施や英雄的行動は、舞台の静けさの中で一瞬の強い光を放つ。まあ、これまでのところどちらの宇宙軍にも女性がいないので、男気の世界のかっこよさが際立っているといえるかな。

 なんかトートツに出た感じの大森望編『ヴィジョンズ』は、すでに星雲賞を受賞した飛浩隆「海の指」が収録されているにもかかわらず、オリジナルアンソロジーという変な1冊。他の収録作品のコピライトもやや古く、なんだこりゃと思ってあとがきを読んだら、マンガとのコラボレーション企画のはずが マンガの方がうまく進行せず、結局先に書いてもらった作家たちの作品を集めてオリジナル・アンソロジーとしたものらしい。
 その飛浩隆作品にインスパイアされた木城ゆきとのコミック「霧海」は、絵柄の魅力は十分だし子供たちをメインにして飛作品をひねったアイデアも良いけれど、飛作品を読んだあとではやはりスピンオフ的な位置にある作品に見えてしまう。まあ、飛作品が重厚に過ぎるといえばそのとおりで、このレベルで書かれた作品に見合うだけのエネルギーを自作に注ぎ込める漫画家はたぶんメシが食えないだろう。
 でもアンソロジーとしてここに収録された作品はレベルが高く、読み始めは『二○億の針』かと思ったが、「コミュ障」的なホラーへと変貌する宮部みゆき「星に願いを」。内戦状況の中で物語を書くロボットの話が、なぜか『ヨハネスブルグの天使たち』や山野浩一の「レボリューション」を思わせる宮内悠介「アニマとエーファ」。あいかわらず抽象的な世界設定にロジック物語を展開してなおかつ人情小話をかんじさせる円城塔「リアルタイムラジオ」。死んだ人間はなにも叙述できないはずだが、アクロバット的小説作法で人の想いを考察してみせる神林長平「あなたがわからない」。そして政情不安定なアフリカの国で、ガジェットをチンパンジーに付けて進化を観察するチームが被る内乱の影響と、観察されるチンパンジー社会の変化を描く長谷敏司の力作「震える犬」と、どれも読み甲斐のある作品が揃っている。
 特に長谷敏司は、伊藤計劃トリビュートで造ってみせた作品もすごかったが、こちらもヘヴィな創作物になっている。このタイプの長谷作品に疑問があるとすれば、日本人的リアリティが作品に反映していることが日本人読者にはよくわからないと云うところだ(そんなところを気にするなと云われればそうだけど)。

 小川一水『天冥の標Ⅸ PART2 ヒトであるヒトと/ないヒトと』は、あと1巻で大団円を迎えようとする大長編の第9巻完結編らしい、大風呂敷をたたむために第1巻の世界がどのように変化していくのか全体的視点がわかるように書かれた話。その分ワクワク感には欠けるけれども。
 さあ第10巻を待つぞ、と思ったら、なんと最終巻は2018年に出すという予告付。えっ、来年は2017年じゃないのか、と混乱した頭が冷静になると、なんじゃそりゃ、である。そりゃないぜ。

 新☆ハヤカワ・SF・シリーズと文庫の同時発売というピーター・トライアス『ユナイテッド・ステイツ・オブ・ジャパン』は、地元の本屋にシリーズ版が未入荷のため、文庫版上下巻で読んだ。
 筒井康隆の「色眼鏡のラプソディ」も遠くなりにけり、というのが一番最初の感想だったけれど、翻訳というのにラノベ並みのリーダビリティも印象的だった。そんな翻訳が可能なのは、おそらく原文がもっているVRゲーム的なスタイルの所為だろう。
 作品内では殺人や拷問シーンが何度も描かれているし、裏切りと唐突な死も数多いけれど、それが少しも読み手のリアルな感触に結びつかないのは、この作品が実際ラノベ的なスタイルを採用していることに依るのだろう。すでに字で書いたマンガでさえない。
 日帝の兵士の思考も現実の大日本帝国陸軍兵士のリアルからすれば、もはやパロディにさえなっておらず、まさにゲーム的な設定として持ち込まれている。作者自身は韓国系のアメリカ人で、ディックの『高い城の男』の設定を使って物語を作りたかったらしいけれど、ディックの作品にある異様なリアリティはまったく受け継がれていない。
 などと、真面目くさっててもしようがないのは、これがどこまでも楽しく読める作品に仕上がっているからで、文句を付けてもたいした意味はない。矢野徹の日本軍アメリカ占領物語もはるか昔の話になった。

 来月回しにしようと思っていた森見登美彦『夜行』は、ちょっとだけと思って手を出したら、止まらなくなって読み終えてしまったので、取り上げておこう。
 「10年目の集大成」と帯の惹句はいうけれど、これは『きつねのはなし』の方へ振れた怪談もどきの幻想小説だった。すこしばかりだけれど山尾悠子が入ってるかも。
 モリミーの現実から幻想へとすり替わる話の手練は、ここでも十分発揮されており、夜と光の効果はすばらしい。その代わり百物語的構成はこの作品の設定と必ずしもスムースに合わさっているわけではない。そのこと自体はモリミーの計算の内かも知れないし、物語が動き出したのを止めるわけにいかなかったのかも知れない。そこら辺で完成度をどう見るかにより評価が違ってくるだろうけれど、本気なモリミー怪談を読めてうれしいことには変わりない。
  


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