内 輪   第310回

大野万紀


 7月29日で、Windows10への無料アップグレードが終了するというので、順次おこなっていたわが家のPCのアップグレードも急いで終了。簡単に終わったものもあれば、思わぬトラブル発生で苦労したものもあります。
 新しいノートPCは特に問題なかったのですが、大昔からマザーボードを換えたり、CPUを換えたりしながらずっと使っている自作PCがなかなか一筋縄ではいかない。はるか昔にアンインストールしたはずの古いアンチウィルスソフトが、互換性がないんで削除しろという。削除するまでアップグレードさしたらへんで、といけずをいうのです。そんなこといわれても、プログラムと機能にも出てこないし、削除しようがないやんか。ネットで調べて、メーカーのサイトに、消えているはずの製品をちゃんと本当に消すソフトというのがあったので、それを入れて何とか削除できました。
 その後のアップグレードは一応順調に進んだのですが、起動後の動きにおかしなところが。Windows10の操作自体はさほど違和感なく使えるのですが、USB外付けディスクとの相性が悪いのか、バックアップソフトでのバックアップが失敗するようになったり。原因不明なので、まだまだ苦労しそうです。

 それでは、この一月ほどで読んだ本から(読んだ順です)。

『マルドゥック・アノニマス1』 冲方丁 ハヤカワ文庫JA
 ずいぶん久しぶりのマルドゥック・シリーズだ。SFマガジンに連載された。本編である『スクランブル』の続編である。
 主人公はウフコック。その名の通り、煮え切らない態度で、自らの正義と現実との乖離に悩み続ける。圧倒的な力を濫用せず、殺さず、殺されずというウフコックのポリシーは、現実に裏切られ、仲間を守ることが自らを傷つけることとなる。それがウフコックの苦痛と悲劇につながっていく。その悲しみを底流にしつつ、物語は異能者たちの激しく強烈なバトルを描いていく。
 マルドゥック市の闇社会で、新たな戦いが始まったのだ。死の淵から、謎の〈ドクター・ホィール〉によってエンハンサーとして蘇った異能者たち。彼らはいくつかのグループをつくり、闇社会の支配者たちとつながりながら、互いに殺し合う。ウフコックたち、イースターズ・オフィスのメンバーたちも、企業の内部告発者ケネス・C・Oの保護依頼を受けたことから、否応なくこの戦いに巻き込まれていく。
 様々な異能者が登場するが、この超現実的な、アメコミスタイルの超常バトルが本当にものすごい。異能バトルというのは、ラノベでも当たり前に描かれているが、冲方丁のバトル描写は圧倒的である。ちょっとこのバトルシーンを読んでみてほしい。物質的・物理的なバトルなら、映画的に、目に見えるように、スピード感をもって描写すればいいだろう。だがここで描かれるような、複雑な異能力は、説明がなければ何が起こっているのかすらわからない。そのバランスの取り方。絶妙である。ほんのわずかな言葉で、彼らの体内で起こっている異変が実感できるように感じられる。その危うさ、敗北直前のぎりぎりの状態からのキャッチアップと反撃。それがいかにも納得できるように、体感できるように、すさまじい迫力で描かれているのだ。
 科学的に考えれば全く非常識なものであっても、この世界のルール・法則ははっきりしており、それに厳密に従っている。以前も書いた記憶があるが、マルドゥック・シリーズの大きなテーマは「ルールを守る」ということである。敵であるエンハンサーたちのグループも、まるで命がけのゲームを戦うように、このルールの中で死力を尽くすのである。

『失われた過去と未来の犯罪』 小林泰三 角川書店
 著者はこれまでも短期記憶が失われ数十分以上記憶がもたない前行性健忘症をテーマにした作品をいくつも書いてきた。短篇もあれば、『記憶破断者』のような長篇もある。本書は、メモなどの外部記憶に頼らなければ日常生活もできなくなるというこのテーマを、人類全体にまで敷衍させた本格SFの傑作である。
 ある日突然、全人類が十数分以上の記憶を保てなくなってしまう。短期記憶を長期記憶へ移す機能が働かなくなってしまったのだ。本書は、何が起こっているかもわからず、メモをたよりにかろうじて生活を続けるようになった人々が、ついには長期記憶を外部メモリに保存することによって記憶と人格を維持できるようになり、文明を新たな段階にまで進めるという壮大な物語である。しかしこうなった原因や、どうやって長期記憶を外部メモリに移すかといったディテールはごくあっさりと扱われる。作者の興味はそこにはない。著者の視点は物語そのものよりも仮想と現実、自意識とアイデンティティ、情報としての人間といったテーマに集中している。本書の前半はパニックSFだが、後半はそのような思考実験の成果が描かれるのだ。
 前にも書いたと思うが、小林泰三は、そういうイーガン的な、仮想と現実、その中での情報としての意識と自我という現代SFの重要なテーマを、科学的・論理的な手法で描くことについて、わが国で最も意識的に活動している作家の一人である。本書はまさにそこに集中した意欲作であり、このテーマの傑作の一つとなった。
 短期記憶が失われるというのは、正確には人間の短期記憶が長期記憶にコピーされ保存される機能が失われるということであり、どんなに素晴らしい発想があっても、それが十数分で失われてしまうということである。〈大忘却〉発生以前に記憶された長期記憶は残っており、また身体的に身につけた手続き記憶や意味記憶も残っている。だがそれ以後の経験は蓄積されず、結局は長期記憶が失われることとなるのである。〈大忘却〉後の世代にとっては、そもそも長期記憶なしに育つことになる。われわれが普通記憶というのはこの長期記憶の方であり、個人の人格を形成するのもこの長期記憶だといえる。
 著者はそういった意味で、長期記憶こそが人格の本質であるとしている。ヒトとしての基本OSと、スイッチを切ると消えてしまう短期メモリを持つ脳はまさにPCであり、人格のアプリとデータは、つまり個人のアイデンティティはハードディスクの中にあるというようなものだ。脳と人格を分離し、人格を外付けメモリと位置づけることで、自意識に関わる様々なSF的思考実験がわかりやすくリアルに描かれる。
 いや、本当にそうなのかどうかはわからない。だが本書の後半では、そんなふうに長期記憶を外部メモリに記録し、それをUSB端子でPCに差すように人間の体に差し替えることが可能になった未来を舞台にした、いくつかのエピソードが描かれる。心と身体は互いに独立した交換可能なものとなり、人間は外部メモリを差し替えることで別人格になることが可能となる。そこから生じる様々な可能性と不可思議な犯罪。ごく日常的な言葉で描かれるので、イーガンよりはずっとわかりやすいのではないだろうか。情報としての人間。それは新たな進化ともいえるのではないだろうか。
 そしてそれが元々は紙に書かれたメモだったことを思い出してほしい。それこそ情報というものの本質である。つまり小説そのものもまた……。

『竜と流木』 篠田節子 講談社
 動物パニック小説というものがある。西村寿行の『滅びの笛』や『蒼茫の大地、滅ぶ』などの作品が思い浮かぶ。作者の『夏の災厄』や『絹の変容』もそういっていいかも知れない。持論だが、こういうものはたいてい傑作である。本書もまた新種の両生類によるSF的な動物パニック小説で、動物学や生態学SFの側面もあり、やはり傑作だといえる。
 舞台はミクロネシアのリゾート地、メガロ・タタ。日米ハーフの主人公は、もともとそこから数キロ離れた孤島、ミクロ・タタの泉に生息する幼生成熟の両生類、ウーパールーパーみたいなウワブという動物に魅了されていた。このウワブ、とにかく可愛いのだ。
 開発によってその泉が失われることとなったので、ウワブたちを保護しようと、ウワブの愛好家やリゾートのオーナー、生物学者らとウワブの保護クラブを結成し、メガロ・タタのリゾートエリアにある池に移す計画を立てる。移植は成功する。何とも可愛らしく愛らしいウワブたちは、この池で順調に生育している――ように見えた。
 突然のウワブの大量死。そしておぞましい、黒いトカゲのような動物が現れる。そいつらは人間を襲い、噛み付き、口中に持つ細菌により激烈な感染症を引き起こす。焼くか、頭を打ち抜かないかぎり、傷を負わせても再生する能力までもっているのだ。
 ウワブを持ち込んだことによる生態系の乱れ。しかし、やがてその科学的な因果関係は解明され、生物学的には謎は解かれる。とはいえ、死者が増え、危険動物が野放しにされたことで、人々の間に恐怖が広がっていく。
 主人公はこんな事態のとっかかりを作った責任を感じつつも、動物を愛するものとして、駆除し絶滅させるという行動にも不信感を抱く。そんなどっちつかずの態度を示している間にも、動物たちの生存本能は、ますます危険な方向に向かっていく。人間の感情や思惑とは無関係な自然界の法則。人間の側にも、島に暮らす現地の人々とリゾートに遊びに来る金持ちの外国人との関係や、動物への愛情と緊急な危機対応とのアンビバレンツ、さらには父と子の関係など、様々な力学が働く。現地に伝わる「竜と流木」の神話も、人と自然の関係を語るものだといえる。
 危険な動物に対して、共存か駆除か、それは単純に結論の出る問題ではなく、生態学的なバランスの中で、時と場合によって移ろっていくのである。いったん問題が一段落したあとの、結末。それはホラー小説なら恐怖を呼ぶところだろうが、本書では人と動物の共存の、新たな希望となるのである。

『カメリ』 北野勇作 河出文庫
 2003年の『北野勇作どうぶつ図鑑』に第一作が収録されてから、SFマガジンに少しずつ書き継がれてきた短篇シリーズがとうとう一冊にまとめられた。
 ヒトがいなくなった(テレビの中に引っ越してしまったのだという)世界。泥だらけの街を、大勢のヒトデナシたちが修復作業をしている。ちょっとパリに似た、そして大阪にも似たこの街で、赤いリボンがトレードマークのカメの女の子、カメリが、石頭の(シリコン製みたいでたくさんの記憶を保存している)マスターや、「それってセクハラよ」というのが口ぐせの、ヌートリアンのアンとカフェをやっているのだ。
 お客はヒトデナシたち。毎朝と夕方、ヒトデナシたちはこのカフェを訪れ、カメリが作る泥コーヒーや泥饅頭を楽しみにしている。そんなカメリたちの、小さな、でもとても不思議な物語である。何だかほのぼのとしたファンタジーのように思えるかも知れないが、この世界の成り立ちについて深く考えると、なかなかにハードなSFとなっているのである。量子力学の用語がほとんど説明なく、思わせぶりに出てくるが、それは単なる装飾ではなくて、しっかりSF的な整合性をもっているのだ。作者はそこを詳しく描くことはしないが、色々と想像力をたくましくすることが可能なようになっている。あえていうなら、この世界は量子力学的な多世界のひとつというよりも、もっと情報宇宙に近いように思える。
 それはともかく、カメリたちはみんな可愛く、愛らしく、しかもヒューマニズムとは位相が違うという意味で、人間的ではない。それにしても、このパリのような大阪のような(実際、通天閣はエッフェル塔をモチーフに作られたという)世界は、作者の他の作品とも地続きのようで、謎めいていながらとても懐かしい雰囲気に満ちている。関西人ならさらに見たことのあるような風景に気がつくだろう。大川、中之島、そして図書館。泥にまみれ、うっかりするとすべてが埋まってしまうような、エントロピーの増大した世界だが、どこか寂しいそんな世界で、カメリの赤いリボンがとても鮮やかに目立っている。


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