内 輪   第308回

大野万紀


 個人的な話ですが、人間ドックで胆石が見つかり、ずっと放置していたら、ついにこれ以上放置はヤバいとのことで、この1週間少し手術で入院していました。確かにごついのがゴロゴロ。こんなのがお腹に入っていたのかと。ところがそれで終わらず、胆のうだけでなく胆管にもいくつか残っているといわれ、その検査処置も必要で、元々はゴールデンウィークまでに退院できる予定がさらに延びてしまいました。経過は順調で特に問題なしです。
 入院中も病室にノートPCを持ち込んでスマホでテザリングしてネットにアクセスできるし、一部のドキュメントはDROPBOXに入れているので修正もできる。しかし家の主機にしか入っていないものもあって、それはどうしようもない。まあほとんど寝て過ごしていたので、あまりPCばかりさわっていたわけではありませんが。
 というわけで、更新が予定より遅れてしまいました。今月は集英社の本が多いですが、単なる偶然でしょう。

 それでは、この一月ほどで読んだ本から(読んだ順です)。

『あるいは修羅の十億年』 古川日出男 集英社
 大好きな作家だった古川日出男だが、ここ数年はちょっと遠ざかっていた。久しぶりに読んだ本書は、東日本大震災をモチーフに、宮沢賢治からタイトルをとった、2026年の東京を舞台にしたSFである。そもそも宮沢賢治の『春と修羅』がSF的な想像力に満ちていてかっこいいのだが、本書もそうだ。
 あり得たかも知れないもう一つの東日本大震災。2カ所の原発が爆発し、放射能で汚染された地域が「島」と呼ばれ、日本国から切り離される。人が住めないわけではなく、馬や牛を育て、カウボーイとなってそこで暮らす人々がいる。「島」(居住者はそう呼ばない。「森」と呼ぶ)には、アメリカ、フランスを始め各国の軍隊と科学者たちが駐留し、放射能の影響を調べている。特に菌類――森を除染するとともに、放射能を凝縮してバイオ兵器ともなる、そんなヤバイきのこを。
 表紙には鯨が大きく描かれているが、真の主役はこのきのこ、菌糸なのだ。
 そして東京オリンピック後の東京。オリンピックをターゲットにテロが起こり、おしゃれで最先端なマンションの建ち並ぶ鷺ノ宮に「島」の汚染された土がまかれて、その地はスラム化する。スラム化し、移民が住み着き、無法な顔役たちが支配し、そしてまたそこをベースに商業的な仕掛けをプロデュースして、音楽ムーブメントを起こそうとする人たちがいる。
 もうひとつの舞台はなんと南フランス、プロバンス地方。ここにも馬がおり、水田があり、キノコがある。そして巨大な原子力発電所群も。
 こういった舞台でそれぞれに動き回るのが、十代の若者たち(南フランスはちょっと違う。彼らの母親世代だ)である。生まれつき心臓が悪く、人工心臓を入れる手術をしたが、それを超小型原子炉だと想像し、自分をロボットだと想像する少女、ウラン。彼女は、メキシコ人の芸術家といっしょに、原始の東京は鯨の死骸から生まれたとするイメージを、大がかりな美術展で再現しようとしている。「島(森)」に住みながら、ネットを通じてコントロールできる「実体さん」を操りつつ東京・鷺ノ宮にコミットしていく、サイコという少女。その弟のヤソウは、東京に出てきて、大井町の競馬場で、人工的に強化された競走馬の騎手として活躍しようとする。彼らはそれぞれ直接・間接に関わりながら、この2026年の東京に「祝祭」をもたらそうとしているのだ。
 他にも魅力的な登場人物は多い。いくつかの大きなイベントを中心にまわっていくプロットは面白く、イメージ喚起力は強烈で、読み応えがあり、久々に堪能できた。
 問題は文体だ。書きことば、話しことばというものがあるが、これは思いことば、とでもいえばいいのだろうか。コミュニケーションのことばではなく、独白のことば。21世紀の少年少女たちが頭の中で思ったことがそのまま文字になったような文体。こちらの思考とチューニングが合ったときには、すごくスムーズに、気持ちよく、そのまま頭に入ってくる。でも少しずれると、ものすごく読みづらく、わけがわからなくなってしまう。これが問題だ。しばらく古川日出男から遠ざかってしまったのもそこに原因がある。わりとリズムが合わないことが多いのだ。
 そして、恐るべき「祝祭」に向かってストーリーが集約していくのだが、いざクライマックスというところで、結末はオープンエンドになる。もう十分に書いたから、後は書かなくてもわかるでしょ、という感じ。エンターテインメント小説に慣れた目からは、これはちょっと辛い。せっかくここまで来たら、やっぱりその先をしっかり書いてほしいよね。というわけで、すごく面白かったにもかかわらず、ぼくにとってはやっぱりイライラ感の残る物語でありました。

『フィフス・ウェイブ』 リック・ヤンシー 集英社文庫
 全米ベストセラーのSF超大作で、映画化されて4月には日本でも公開と帯にある。ぶ厚いけれど、これは三部作の第一部。お話としては一応完結している。SF超大作とあるが、SF味は少なめで、ヤングアダルトなサバイバル・サスペンス小説である。さらにヒロインパートにはロマンスものの要素もたっぷり。
 異星人〈アザーズ〉の侵略により、あっという間に人類の97パーセントが死滅した世界。最初は電力と通信の遮断、次に津波による沿岸部の破壊、第三波が致命的な伝染病、四つ目〈フォース・ウェイブ〉は生き残った人々に対する、人間に紛れ込んだ異星人による殲滅戦、そしてさらなる段階〈フィフス・ウェイブ〉が行われようとしている。そういう殺伐とした世界を背景に、両親を殺された16歳の少女キャシーは連れ去られた幼い弟サミーを救おうと、銃を持って一人で戦おうとするる。一方、彼女と同じ高校にいた17歳の少年ベンは、〈アザーズ〉と戦う軍隊の新兵として徴兵され、激しい訓練を受ける。他にも様々な登場人物たちが、この世界で厳しいサバイバルを続けることになる。子供たちの軍隊の新兵訓練の様子といい、異星人との戦いといいながら実際には人間同士の銃撃戦だったり、昔ながらの戦争小説の要素が強く、つまり、現代の中東やアフリカの廃墟となった町や村でISのような連中に拉致された少年兵の物語とテーストとしては変わるところはない。そこに洗脳やチップによるコントロールといったテーマを加えれば、まさに伊藤計劃的な話となるだろう。
 でも少なくともこの第一巻では、そういうテーマは広がらず、あくまでも少年少女たちのアクションとサバイバルに物語の中心がある。ツンデレなヒロインの、かなり行き当たりばったりで無茶苦茶な行動は、この手のヤングアダルト小説ではありがちなパターンだが、そこにベタベタなロマンス小説の要素がかぶさってくるので、それが全体的にマッチョでシリアスなタッチのストーリーに違和感をかもし出している。辛口な部分と甘々な部分がうまく溶け合わずにミスマッチを起こしているのだ。とはいえ、リーダビリティは高く、最後まで面白く読める。

『緑衣のメトセラ』 福田和代 集英社
 タイトルと帯の惹句から、バイオSFっぽい医学ミステリーと思って読んだら、実に本格的なSFで、しかも傑作だった。いや舞台は現代だし、主人公たちはどこにでもいそうな庶民的な人たちだし、宇宙へ行くわけでも、超能力バトルがあるわけでもなし、普通に医学ミステリーとして読んでも全然かまわないのだが、でも本書は、例えば小松左京が書きそうな、王道の人類進化SFなのである。
 テーマはずばり倫理。現代社会の普通の倫理感が、大きな変化に直面したとき、それがどのような矛盾をきたし、変化していくのか。読者は主人公たちと共に悩み、でも未来を肯定的に捉えていこうとする、その視点に共感するのだ。
 結末がめちゃくちゃかっこいい。そこまでやるか、という感じ。基本、ミステリーなので、あまり詳しく書くわけにはいかないが、比較的地味に話が進んでいくので、そこはちょっと驚く。
 主人公は都内に住むフリーライターで(というか要するに定職がない)、認知症が出始めた母親の介護をしている小倉アキ。彼女は、近所にある不破病院に併設された高級老人ホーム「メゾンメトセラ」で、ガンの発生率が高いといううわさを、幼なじみの千足(ちたり)から聞き、何か秘密があるのではと興味をもつ。千足は不破病院でアルバイトを始めたが、あるとき突然の死をとげる。特殊なウィルスに院内感染したというのだ。一方、木更津で海から子どもの骨が発見され、虐待死が疑われる。アキのライター業の師匠である島津が、その取材の協力をアキに依頼し、思いがけないきっかけで、その子どもと不破病院のつながりが浮かび上がってくる……。
 と、ここまではよくある医学ミステリーである。もう一つ社会に適応しきれず、状況に流されながら不安定な生活を送るアキの人物造形がよくできているし、介護や医療などの社会問題へも目配りがきいている。幼なじみや近所のおばちゃんたちとの庶民的な親しい関係もいい感じだ。そこへ特殊なウィルスだの、ガンと不老不死細胞との関係だの、医学・バイオねたがからんでくる。だが、それらが大きく前面に出てくることはない。何か秘密がありそうとは思えるのだが、アキが調べる限り、底知れない医療業界の闇とか、大きな陰謀とか、そういうものは見えてこない。派手なアクションもなく、地味に日常的に話が進んでいく。母の入院をきっかけに不破病院に入り込んだアキだが、そこで目にするのは院長の不破が進める進歩的で開放的な施策ばかり。その中で、ちょっと変わった医師、桂と親しくなったことで、ようやく新たな展開が開けてくる。だがそれも、アキが始めに思っていたものとは全く違ったものだった。
 この桂がいい。人との接触が苦手な研究医で、いつも一人で研究室にこもっていたいというが、その割に口は達者で、人当たりもいい。でもどこかに闇を抱えている。それが最後にアキも巻き込んで、大きな展開を見せることになる。
 人類進化という大きな物語が、われわれの住むこの現代の東京で進むとき、当然人類と新人類との軋轢は現代社会の今の倫理の中で起こるのである。遠い未来の、例えばヴァーリイやイーガンの世界の倫理と、今のわれわれの倫理とは同じものではない。今のわれわれは、その矛盾を突きつけられると、悩み、苦しむことになる。本書でごく庶民的で普通の人間であるアキが直面するのは、そういう問題なのである。

『バベル九朔』 万城目学 角川書店
 始めはすごく日常的な物語が続き、その中で起こる小さな不思議が突然全く非日常な、幻想的な世界へと変わる。ダメ男な主人公が世界の構造と関わってしまう、そんな物語である。
 主人公の俺は、駅前の五階建て雑居ビル「バベル九朔」の管理人で、最上階に住み、テナントの電気・水道・ガスのメーターを記録し、ゴミを出し、階段を掃除しという毎日を送っている。このビルはそれなりに成功した九朔家で大九朔と呼ばれる彼の祖父が建てたものだ。大九朔は色々な事業に手を出した実業家だが、少し変わった謎めいたところもある人物だった。主人公はというと、サラリーマンを辞めて小説家を志し、新人賞に何度も応募するがどれもかすりもしない。今は大長編がほぼ書き上がって後はタイトルを考えて応募するだけという状況である。でもなかなかやる気の出ない、ダルい生活を送っているのだ。
 そんなところにいくつかの事件が起こる。巨大ネズミが目撃される。謎めいた黒ずくめの美女が現れる。カラスの光沢をもったカラス女だ。今度は空き巣事件が起こる。そうしたバタバタとした日常の中、カラス女がまた現れ、彼を「扉はどこにある」と謎めいた言葉で問い詰める。その扉は、三階のテナント、蜜村さんの「ギャラリー蜜」にあった小さな絵だった。彼がそれに触れたとたん、世界は一転し、湖と廃墟のような建物のある世界へ放り込まれる。カラス女はそこへも追ってくる。彼を待っていたのは、小さい頃の叔母に似た、一人の少女だった。建物の上に突然雲をつくような塔が現れる。階段を上がっていくと、バベル九朔の過去のテナントが次々に現れ、それはあたかもバベル九朔の記憶の中を辿っていくような旅となる。
 前半のダメ男の青春小説的な部分がとてもいい。突然異世界に放り込まれ、それがリアルな世界というより誰かの夢のような、そんな存在であることを示す描写も魅力的で面白い。ただし、後半はこのパターンがずっと繰り返されて、ほのめかしはされるがSF的な世界像の構築はなく、なかなか納得できる結末とはいえない。もちろん作者はそんな納得できる結末など求めていないのだろう。帯に書かれた小島秀夫氏の惹句がいい。「”趣味ではない。かといって本気でもない。”誰にも言えない無駄(ドリーム)を抱え、”未来を保留している”あなたに」。そう、これはモラトリアムの心地よさとそこからの脱出をもくろむ青年の物語なのである。

『ロデリック』 ジョン・スラデック 河出書房新社
 ロボットSFの新たな(書かれたのは80年だが)古典というべき傑作がついに訳された。ロボットというか、むしろ現代的な人工知能に近い。重要なのは筐体ではなくソフトウェアなのだから。しかし、とにかく大作で、本が重い。
 第一部は、ミネトンカ大学でのNASAの資金による人工知能ロボット・ロデリックの開発プロジェクトが、その資金の不正が明らかになって、行き詰まってしまう様が描かれる。大学内での会議やら、学者たちの人間関係やら、超心理学関係のわけのわからない理論やら、さらには殺人事件まで起こってすったもんだする。ひたすらモンティ・パイソンっぽいドタバタ・ナンセンス・コメディで、やたらと頭がおかしく面白いのだが、何しろ密度が濃いのと文化の違いのせいか、読むのに時間がかかる。読み飛ばしてもいいかも知れないが、一つ一つがやたらおかしいので読み飛ばすのは惜しい。そこには自動人形や自意識に関する蘊蓄、とてもまっとうな人工知能の理論、さらに論理パズルも出てきて、もう大変だ。
 結局ロデリックはおもちゃみたいな筐体を与えられて大学を放り出されることになる。第一部ではロデリックはソフトウェアであり、ほとんど何もしゃべらず、目に見えない存在だったが、第二部では、へこんだ丸い金属製の頭に円錐状の胴体、その下には小さなキャタピラというせこい体ではあっても、ロデリックに体が与えられ、ようやく物語はロデリックを核にして動き出すようになる。自己学習式のロボットであるロデリックはテレビ番組や回りの人間たちの話や行動から独自の知性で学習し、自分の世界を広げていく。当然その世界は人間の世界とは微妙にずれたものであり、そこで笑いや深刻な問題が発生していくのだ。
 第一部に劣らずおかしな人々が登場するが、(一部を除き)それほど極端なのは出てこない。発明家と芸術家の夫婦、マーとパーに引き取られるが、この二人は世間離れして奇矯なところはあってもロデリックに優しく接してくれる。始めはパブリック・スクールに入っていじめに合うが、ロボットの体なのでそんな深刻にはならない。ただ回りはどんどん誤解と曲解を深め、大騒ぎになる。次に入ったカトリックの学校では、SFを読むウォーレン神父とアシモフを巡ってロボット論争を繰り広げる。コミカルではあるが、決してパロディではなく、とても真面目な論争だ。それこそ現代SFにもつながる意識・知性の本質に関わる議論がなされる。そしてマーとパー夫妻の出自から、本書はSFについての物語という側面を持つ。それは後にウィリアム・ギブスンら〈サイバーパンク〉の作家たちが展開するテーマでもある(実をいえばギブスンよりスラデックの方がずっと先を進んでいたといえるかも知れない)。
 だが、物語はストレートに進まず、背景にあった別枠のストーリーが割り込んできて、整合性の取れたわかりやすい物語を破壊する。他者への不寛容、事実より物語の重視、それによるパニックや集団ヒステリー、新興企業の作り出す異様なテクニカルランドスケープ、まるで現代を先取りしたかのような社会的テーマが表に出てくる。あー、でもまだ中心はロデリック坊やだし、ストーリーテリングよりお遊びを重視で、それはひたすら面白い。ただ未解決の問題もたくさん残されており、これはもうぜひ続編を翻訳してもらわないとダメだろう。


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