続・サンタロガ・バリア  (第166回)
津田文夫


 キース・エマーソンが昨年自主レーベルで出した“The Keith Emerson Trio”をようやく手に入れた。最初限定版アナログレコードで出され、その後CD化されたものだ。
 エマーソンのライナーノートによれば、御年18歳の時の録音で1963年当時4枚だけ作られたアセテート盤が元らしい。そのうち3枚はトリオのメンバーが1枚ずつ持ち、予備の1枚は最近になってレコード・コレクターが手に入れたらしい。それが復刻のきっかけになったということだ。
 プラスティック・マイク付きのフィリップス製テープレコーダーをエマーソンの自宅に持ち込んでの録音で、音はいかにもその程度のものである。
 当時エマーソンはジャズ演奏に夢中だった。ベースのゴドフリー君のアイドルは、50年代マイルス・デイヴィス・クインテットの若き天才ベーシスト、ポール・チェンバース。だから1曲目からベースの弓弾きで始まる‘You Say You Care’で、2曲目は有名なスタンダードの‘There Will Never Be Another You’(中学生の頃はアンディ・ウィリアムスでよく聴いてました)とハードバップなジャズ。3曲目はネルソン・リドルの『ブルースの真実』から‘Teenies Blues’を、そして7曲目にはハンク・モブレーの『ソウル・ステーション』からタイトル・ナンバーと録音時の2、3年前に発売された新しめのジャズも演奏している。どうもこれらはゴドフリー君の趣味らしくベースが目立つ。
 しかし、本来の聞き物はエマーソン作曲のクレジットが入った‘Winkle Picker Stamp’、‘56 Blues’と、スタンダードながらリー・モーガンのジャズロック「サイドワインダー」のリズムで演奏された‘You Came a Long Way From Saint Louis’の3曲だ。エマーソン作曲の2曲は典型的な12小節のブルースだけれど、早弾きのアルペジオや左手のブロックコード叩きが後年のピアノ・ソロを思わせる。ちなみに‘56 Blues’の56は当時エマーソンが住んでいた家の地番らしい。最後の曲の演奏スタイルがジャズロックと書いたけれども、エマーソンの解説では(エルヴィス・プレスリーの50年代初No1ヒット「ハウンド・ドッグ」のレコーディングにも参加したピアニスト)フロイド・クレーマーのスタイルだという。たしかにこのスタイルはEL&Pのライヴ版「石をとれ」の長いピアノソロの中でよく使われている。
とはいえ、エマーソンも高校を卒業して銀行勤めになったかどうかの頃、たまにクラブなどに呼ばれて演奏していただけのセミ・プロの自家録音に商品として価値があるかと言えば、それはない。その点はエマーソン自身がライナーノートで書いている。それでもエマーソンはこれを最後にこの世を去った。エマーソン・ファンはもって瞑すべし、だろうな。

 3月発売だと宣伝していたくせに届いたのが4月後半というキング・クリムゾンの待望の最新ライヴ盤"Live in Tronto"は待った甲斐のある2枚組。昨年大阪で驚愕の演奏で大懐メロ大会を演じてくれたのとほぼ同じ曲目をフルで収録してある。ま、昨年のライヴに行かなかった人間が聴いてもあまりピンとこないかもしれないが、目の当たりにした者にはライヴの記憶を呼び起こすに格好の補助材である。
 演奏も上出来で、ライナーノートにはこのトロントのライヴは最高と思われるくらいうまくいったと書かれている。実際にライヴを目の当たりにしているときは冷静になれないわけで、演奏の細部は全く覚えていないのだけれど、この録音のお陰でバンドの7人がどういう役割をしていたかほぼ分かる。ジャッコのボーカルも大阪以上に調子がよいので、「エピタフ」や「イージー・マネー」そして「レターズ」の演奏が映える。不満を言えば、小部屋で再生するレベルの音量ではとても実際のライヴのパワーは再現できないので、トリプルドラムの音圧やベースの圧倒的重低音は記憶で補うしかないところだ。この演奏を映像化してドルビーサラウンド映画館で上映してくれたら見に行くぞ。

 ほかにも聴いたCDが何枚かあるので、その中からちょっとドジな目にあったものを取り上げよう。
 1枚目はジョージ・ウォーリントンの“GEORGE WALLINGTON Complete 1956-1957 Qintet Sessions Featuring Donald Byrd & Phil Woods”で、HMVの宣伝メールが入って詳細が未定のうちに注文してしまったヤツ。このCDの前にやはりウォーリントンの別のCDが出ていてちょっと遅くなってから注文したら生産中止で手に入らなかったから、予約注文してしまった。注文後もなかなかこなかったんだけれども、届いた現物を見てびっくり。プレスティッジレーベルほか当時のウォーリントンの代表的アルバム3枚とマイナーな企画もの計4枚のアルバムをCD2枚組にしたいわゆる2in1CDだった。期待していたのは当然正規アルバムの別テイクだったのでがっかり、代表的な3枚はとうの昔に入手している訳で、ビ・バップ時代の曲ばかりを演奏したマイナーな企画ものである“52ND STREET”だけが初物だった。まあ、これが手に入ったのでよしとしよう。あと良くはないけど良かったのは、昔買った“THE NEW YORK SCENE”にはオリジナルマスターから起こしたというのに、ウォーリントンのピアノが満喫できる最高の1曲「グラデュエーション・デイ」にパリパリと雑音が入っているのであるが、このFRESH SOUND盤でもやはり雑音はあるので、あきらめがついたことだ(トホホ)。
 2枚目はルドルフ・ケンペのMEMORIES盤『ブラームス交響曲第1番 ラヴェルボレロ』で「ケンペ+バイエルン放送響のブラ1両翼配置ライヴ!」とタスキに入ってるヤツだ(国内仕様輸入盤です)。「両翼配置」と謳うぐらいだからステレオ録音で、しかも「両翼配置」だから第1と第2ヴァイオリンが指揮者の左右に振り分けられている(ケンペとしては)珍しいオケの楽器配置、ブラームスの交響曲がいつもと違う風に聞こえる。それはいいんだが、問題はラヴェルだ。こちらはモノラル録音なのだ。しかしケース裏には確かに1965年7月録音と表示してある。そしてタスキの裏の日本語解説にはご丁寧にも「ボレロは(ケンペとしては)珍しいレパートリーで唯一の録音と思われますが、こちらはモノラル録音です」と書いてある。ところが手元にはすでに「ボレロ」の録音がはいっているCDがあるのだ。ARCHIPEL盤“RUDLF KEMPE IN MUNICH”がそれで、1960年11月のモノラル録音。オケは同じバイエルン放送響だ。試しに引っ張り出して聞き比べると全く同じ演奏である。またやりよったかMEMORIESめッ。このレーベルのいい加減さには前にも痛い目にあったことがあるが、本当にいい加減である。国内仕様のライターを責めるのは酷だがそれにしても・・・だよねえ。

 第2回ハヤカワSFコンテスト受賞第1作と腰巻きに小さく入れてある柴田勝家『クロニスタ 戦争人類学者』は、その一部を『伊藤計劃トリビュート』で読んでいたこともあって、同じく腰巻きにあるように伊藤計劃『虐殺器官』のパスティーシュ的な雰囲気が横溢している。
 しかし不思議なタイトルである。物語の中で作者は年代記に「クロニカ」のルビを当てながら「クロニスタ/文化技官」として主人公の職業/専攻を紹介する。「クロニスタ」は舞台となった南米のスペイン語を仮名書きしたもので、英語では「クロニクラー/年代記作者」に当たる。その意味での「クロニスタ」は作品の最後の1行に現れる。一方、「クロニスタ」をラテン語と考えると、年代記作者のほかに教会ラテン語として「受難劇(ザ・パッション)の詠唱者(語り手)」の意味がある。メイン・タイトルが「戦争人類学者」のほうにあるとすれば、戦争人類学者とは誰のことなのか。
 作品としてはアイデアは見事だけれども、キャラクター設定や動かし方などがややぎこちなく重量感を欠く。

 ちくま文庫の企画協力◇日本SF作家クラブ『巨匠たちの想像力〔文明崩壊〕 たそがれゆく未来』は「巨匠たちの想像力シリーズ」第3集で、冒頭の高木彬光「火の雨ぞ降る」や河野典生「機関車、草原に」がこの間読んだばかりということもあって、ややお買い得感をそがれた。まあ、「機関車、草原に」は何回読んでもすばらしい作品だけれども。
 「古いSF」としての安部公房や倉橋由美子の作品は一種の骨董品的な古び方をしているけれども、小松や筒井そして光瀬といったSFプロパーを目指した作品は今日泊亜蘭や矢野徹を含め、そこにはSF作家としての根みたいなものが感じられる。それはかならずしも作品の出来不出来によらない。その点では水木しげる、松本零士、楳図かずおの漫画は強力だ。ただし眉村卓「自殺卵」は最近作ということなのか、やや毛色が違う。

 平山瑞穂『ルドヴィカがいる』が文庫になったので読んでみた。親本は2013年。デビュー作『ラス・マンチャス通信』が印象的だった平山瑞穂だけれど、その後の作品は2,3冊読んだだけでもう長い間読んでいなかった。平山瑞穂の魅力が最近でも当初のままか確認する気持ちで読んだのだけれど、平山瑞穂は相変わらずヘンだった。
 語りは売れない中年独身エンターテインメント作家の一人称。本業の小説を考えながらその小説の一部が実際に草稿として出てくる。小説を書きあぐねている時の生活費の足しにするためインタビュアー/ライター稼業も兼ねているのだが、物語は女性向け雑誌のエキセントリックな女性編集者から、フランス帰りのピアノ王子とあだ名される若手ピアニストの取材を頼まれるところから始まる。
 クラシックのクの字も知らない主人公はインタビューしたピアノ王子になぜか気に入られ、軽井沢の別荘(もと教会)に招待される。友人を連れてきても良いというので、恋人未満のセックスフレンドをつれて別荘を訪れると、近くの森で「社宅にヒきに行っている人とその恋人の方ですね。ラクゴはミています」としゃべる女に会う。この女がピアニストの姉で、ピアニストは言葉を扱う専門家であろう作家を姉とコミュニケーションさせるために招いたのだった。ここまでが前半。
 かなり強引だが、主人公が語る妄想の域に入った新作の推敲ぶりと年の離れた恋人未満の女との関係がおもしろく、ありがちながら不自然なミステリ/ホラー/SF(ジャンルは好みに合わせて)的設定がわりと抵抗感無く通り過ぎてしまう。物語後半では、パリ在住のピアニストから軽井沢の姉を助けてくれという連絡が入り、またもや恋人未満を引き連れて姉の捜索に乗り出すわけだが、戦前怪奇SFもかくやというジャンクな種明かしで姉の異常言語の原因が判明してしまう。エピローグでは、恋人未満と別れ、事件のその後を知らせる手紙が来て、中年独身エンターテインメント作家の日常への帰還が感慨深く語られる。
 作中、主人公のクラシックについての無知ぶりが語られているが、インタビュー前のにわか勉強をした後でも、ピアニストを「海外では、ウィーン・フィルやシカゴ・フィルなど名立たる楽団との共演を相次いで行い・・・」などと紹介しているくらいで、クラシック・ファンには鼻で笑われる無知ぶりであった。

 冲方丁『マルドゥック・アノニマス1』は前作から10年以上経ってからのシリーズ最新作の第1部。冒頭から主役ウフコックが死の時を迎えつつ回想にはいるような設定になっている。物語のメインは昔懐かしい超能力者合戦の連続で、思わず「伊賀の影丸」に「サイボーグ009」そして風太郎忍法帖などを思い出す。後書きを読むと、どちらかというと夢枕獏みたいだけれど。

 翻訳の方は大森望の新訳2冊だけ。

 バリントン・J・ベイリー『カエアンの聖衣[新訳版]』は33年ぶりに読んでもやっぱりおもしろい。話の後半はさっぱり忘れていたのでこんな結末だったのだなあと感慨にふける。その昔、安田さん訳が『SFマガジン』に載る前に「オリヴァー・ネイラー」を読んで訳していたとき、MODEMが何なのか分からなくて例会に出ていたみんなに訊いて回ったことを思い出す。いまやモデムは当たり前のデヴァイス/ターム過ぎて誰も気にしないだろうけれど。

 マイクル・コーニイ『ブロントメク!』の方も内容を全く忘れていて、改めて読むとコーニイらしさが充満したナイーヴな恋と、それでいて高度資本主義サタイアにもなっている物語に、大森望がイチ押しの代表作というのもうなずける出来ではある。まあ英国SF協会賞受賞作だし、出版当時本国(作家本人はすでにカナダか)でも評価されていたわけで、サンリオSF文庫でほぼリアルタイム(5年遅れでも当時は十分リアルタイムだ)にこの作品が収録されたというのは大したことだった。個人的には『ハローサマー、グッドバイ』の方が思い出深いが。
 それにしても訳者自らが言うように、ページ数が減ったのが翻訳スタイルのせいだとは信じがたいなあ。『カエアンの聖衣』もめちゃくちゃ読みやすくなっていて、ベイリーの英語のごつごつした感じがなくなっている。まあ、そういう風に訳すのが「新訳」の効用なのだろう。

 ノンフィクションはレム・コールハース関係の文庫2冊。

 レム・コールハース『S, M, L, XL+』は昨年5月に出た文庫。積ん読になっていたのだけれど、なぜか読む気になった。コールーハースは1944年ロッテルダム生まれインドネシアで子供時代を過ごした気鋭の現代建築家で、もとはジャーナリストだったけれどその後ロンドンで建築を学んだという変わり種。たぶん建築界では知らない人はいないくらいの有名人・・・らしい。日本で言えば安藤忠雄みたいなものか。
 『錯乱のニューヨーク』がちくま学芸文庫に入ったとき、気になるタイトルだったので手には取ったが買わなかった。これを買ったのは『週刊文春』坪内コラムの紹介で気に入ったからだ。読む気になったのはたぶん『SFが読みたい!2016年版』ベスト投票にタイトルが上がっていたからだろう。
 解説によれば、この文庫はもともと訳者のひとり太田佳代子が写真や図面の入った超巨大本『S, M, L, XL』を訳そうとしたが、ついに出版の機会に恵まれず、コールーハースに相談したら、その文章部分を訳して文庫で出したらいいじゃないかということになり、渡辺佐智江を共訳者に迎えたということである。ということでこれは日本だけのオリジナル文庫本らしい。
 当方の頭ではとても内容を紹介することはできないが、読んでいるとこちらの頭まで猛スピードでグルグル回るような気分にさせる文章が並ぶ。目次は大きく「問題提議」「ストーリー」「都市」「カデンツァ」からなり、建物(ビルディング)はもとより建築と都市、人間が住むということなど、いわゆるジャーナリスト的な感性というにはあまりにも強烈な思考が渦巻いている。読み物として最高なのは巻末に置かれた「カデンツァ」の内容をなすただ1編(ほかの部分は複数の文章で構成されている)「ジャンクスペース」だ。これは訳者解説を引用すれば「ジェネリック・シティ(コールハースの造語/複製都市)に住む現代人が多くの時間を過ごす屋内空間は、ジャンクでできている。この現代文明のなれの果てをヒップポップ調に歌ったのが『ジャンクスペース』だ」というもので、37ページにわたり改行なしに言葉の奔流が繰り出されている。この文章がSFのように感じられることは確かで、J・G・バラードなら大喜びしそうなシロモノだ。日本語文章のリズムはおそらく渡辺佐智江が整えたのだろう。

 もう1冊は瀧口範子『行動主義 レム・コールハース ドキュメント』。ちょうど『S, M, L, XL+』を読み終えたタイミングで出たので、勢いで読んでしまった。太田佳代子はコールハースのチームの一員だったこともある建築キュレーターだが、瀧口はジャーナリスト・編集者でコールハースにあくまでも部外者として取材したいと申し出た。ということでこれは瀧口の目を通して描かれたコールハースの肖像である。親本は2004年でちょっと古いが、文庫には短いけれど2016年1月のコールハース・インタビューが追加収録されている。
 著者がコールハースの本を作ろうと思い立ったのが2002年2月、以来コールハースがいかに多忙で捕まりにくくそのインタビューを取るのにどれほど苦労したか、コールハースから可能な範囲でいつでもコールハースの建築事務所をのぞきに来ていいといわれて観察したコールハースとその周辺の物語。しかし、この本の出版が2004年2月で、その間に著者はほかにも数多くの取材や仕事を抱えており、かならずしもコールハースに密着しての取材ができたわけではない。
 それでもこのリポートからコールハースはひと月いや1週間のうちにヨーロッパ、アメリカ、アジアを行き来する多忙さであり、それでも毎日1時間の水泳を欠かさず、常にスタッフと打ち合わせ続け、次々と設計コンペに参加し、クライアントと交渉し、講演をこなしていることがわかる。著者はコールーハースと直接電話連絡できるにもかかわらず、またその場に居合わせているにもかかわらずコールハースのインタビューを取ることがなかなかできない。それくらいコールハースのスケジュールは常に変更され続けるのである。
 この2冊から伺えるコールハースは知的なダイナモみたいだなあ、ということである。まったくすごい人間が世界にはいるもんだ。
 ちなみにコールーハースは日本の文庫本サイズが好きなんだそうである。そういえば今回は文庫本ばかりだったなあ。


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