続・サンタロガ・バリア  (第162回)
津田文夫


 喪中のため皆さまには寒中お見舞い申し上げます。今年もよろしくです。

 昨年、12月13日(日)のキング・クリムゾン大阪公演最終日に行ってきた。先日の同志社大学SF研究会45周年パーティでイギリス在住の宮城氏から、今度のクリムゾンは絶対見るべし、といわれて15000円のチケットを確保。金の節約ということで日帰り。大阪駅の変貌ぶりにビックリしながら中之島の新フェスティバル・ホールへ。途中のジュンク堂で暇つぶし。とはいえキング・クリムゾン関係の書物は見ない。情報は少ない方が見る楽しみがあるというのが一応の理屈。
 早めにホールに着いたので、グッズ売り場に並んでみる。プログラムぐらいしか買わないんだが、今回のツアー・シンボルらしい背広姿のサイクロプスのピクチャー・レコードがあったので買ってしまった(レコード・プレーヤーは10年以上前に捨てたのに)。
 キング・クリムゾンのステージを見るのは1984年の広島公演以来30年ぶり。思えばフリップ翁は当時まだ30代だった。30年も経てばたいていのモノが変わる。ましてや、キング・クリムゾンにおいておやだ。
 席は2階最前列左端で、ステージには前列にドラムセットが3台。メンバーが揃っての始まりが、新ヴォーカル/ギター担当ジャッコ・ジャクスジクのPeace-an endのアカペラ、しかも日本語でと、ビックリもいいところ(YouTubeに当日の映像有り)。歌い終わるやボワーとなっているところに聴いたことのない新曲が披露されてちょっと正気に戻る。新フェスティヴァル・ホールは音響バランスが良く、姿の見えないPAの音圧が気持ちよく耳に入ってくる。3台のドラムもうるさくないし、見た目も愉しい。30年前は轟音が位相コントローラーで左から右へと突き抜けていったけれど、そういうギミックは一切なし。MCもなく立ち上がって踊る客もなく、その点ではクラシックの演奏会に近い。曲は「エピタフ」となって思わず口ずさんでしまうが、これがフリップ率いるクリムゾンが現実に演奏しているとは思えない。そして「冷たい街の情景」 に突入して唖然。『ポセイドンの目覚め』から2曲なんて不意打ちもいいところ。歌抜きの The ConstruKction of Light を聴きながらエイドリアン・ブリューとジャッコのギターの違いを感じ取ろうとしていたりする。「レターズ」「船乗りの話」の『アイランズ』メドレーにまたもや嬉し涙をこぼしそうになりながら、メル・コリンズの管楽器の響きに77年に来日したブライアン・フェリーのバンドでジョン・ウェットンのベースとともに聴いたことを思い出した。そしてついに生で聴いたフリップのギターのあの激しいコード弾き演奏の音が、実は非常に端正で多分に独特の音色を持っていることを知った。レヴィンのベースは丸くて太い音を出すことも。ステージはいつのまにか「スターレス」となってフリップのあの不気味なシングル・トーンが披露されるも後半は3ドラムのリズムの応酬となってやや原曲イメージとは異なる展開を見せる。けれども、エンディングはほぼ原曲通りになるので、クリムゾンの白鳥の歌みたいな感覚が訪れる。とりあえずの演奏終了で、撮影タイムが始まったが、正直に電源を落としたケータイは復活するまでに時間がかかり、却ってバンドの姿を目に収めるのがおろそかになってしまった。
 アンコールは宮殿と21世紀で、これがクリムゾンのフェアウェル・ツアーだといわれても信じてしまいそうなセット・リストだった。
 情報を遮断していたせいもあってコンサートのあと数日は今回のツアー・ライヴを見た人のブログを見て回ったけれど、演奏曲目に関してはRedやOne More Red Nightmareそして「太陽と戦慄」Part1, Part2 の演奏が聴けなかったのは残念だった。しかしそれを知って13日のステージの印象が悪くなるかというとそれはない。
 ただ往年の名曲が見事にコントロールされた演奏とサウンドで再生されたことに感涙を流したことは確かだけれど、なにか釈然としないモノを感じ続けていることもあって、おそらく自分にとってそれだけの衝撃力があったシロモノだったのだろうと考える。宮城氏には感謝しなければ。

 SFの方は12月中ずっとジーン・ウルフ『ウィザード・ナイト ナイト』Ⅰ、Ⅱを読んでいて、読み終わったのだけれど、まだ全く話の途中でとても感想を書く気にならない。ということで、以下の本をちょっとスピードアップで読んでみた。

 第3回ハヤカワSFコンテスト佳作受賞作のつかいまこと『世界の涯ての夏』は、SF的仕掛けを使ったボーイ・ミーツ・ガール・ストーリーとしてよく出来た1作。ただし、物語の組み立てと書き込み、アイデアの生かし方としてはどれももったいないくらい未完成な感じが残る。「SFは絵だ」という点では、表紙のイメージがちゃんと実現しているので、評価はできる。この処女作からはまだまだ次の物語が出てきても良いんじゃないだろうか。

 同じく第3回ハヤカワSFコンテストのこちらは大賞受賞作小川哲『ユートロニカのこちら側』は、つかいまことの処女作とは正反対のこなれた話づくりが印象的。アメリカを舞台にいかにもアメリカ人の物語風な意匠をつくりだして、それを読者に納得させてしまうところに書き手のうまさを感じる。テーマはいかにも現代的なディストピアものだけれど、作者は各エピソードに出てくる主要人物をユルくつなげて終章まで読ませる。ただ終章が単純な人間性回帰を臭わせているのではないだろう事はわかるにしても、寓話としての機能を持たせ得ない点では弱さがある。それが現代というならその通りだけれど、ル・グィンが読んだら悲しむかも。

 朝日新聞連載時は斜め読みしていた筒井康隆『聖痕』が文庫になったので、改めて読んでみた。筒井が持ち込む仕掛けは、ある意味古めかしくある意味驚異的でもあって、読んでいてこれこそ筒井康隆という感覚が沸くのと同時に、登場人物の家族関係や各キャラの反応の仕方からはやはり時代がかっていると思ってしまう。もちろん筒井は昭和から平成へと移り変わる年代記としての環境を用意しているので、大人の読み物として物語を機能させていることは間違いない。そして大量に注ぎ込まれた古典的な言い回しと脚注が物語の人工性を際立たせる。筒井康隆は技巧の作家であり、演劇性が強く、全く沈潜しない。そして現実には筒井康隆は老大家であり、東浩紀の解説が筒井の現在の主題を「老い」であるとしても、その「軽薄性」は筋金入りで、『敵』以来の「老い」テーマのヴァリエーションはますます広範囲に展開されている。

 『聖痕』が文庫になったのは、著者自ら「わが最高傑作にして、おそらくは最後の長編」とオビに入れた最新作『モナドの領域』発売に合わせてのことと思われるが、長編といっても実質200ページちょっとしかない。ということでさっそく読んでみた。筒井康隆をハードカバーで読むのは久しぶりだ。
 河原敷で女性の腕が発見され、警部が出てきて、すわバラバラ事件かというプロローグから、街のベーカリーでアルバイトの美大生がなぜかリアルな女性の腕の形をしたパンを焼き始めるというエピソードにつながり、一応ミステリー的に始まるが、実は全知全能のGODの出現のきっかけだったということになり、GODと周囲の人間たちとのやりとりで物語が進むことになる。このいかにも筒井康隆らしい作品は舞台向きで、河原、パン屋、公園、マンション、警察署それに裁判所での会話劇としてなりたっている。なんでGODが出てくるかの理由は結末で明かされるが、ふつうにSF的な理由であるところが嬉しい。80歳でこれを書いてしまう筒井康隆の心意気はやはり感動的といえる。東浩紀の「老い」テーマという言い方はちょっと誤解を招くが、この作品を読んでもそれは了解可能だろう。

 池内紀・川本三郎・松田哲夫編『バタフライ和文タイプ事務所 日本文学100年の名作第10巻2004-2013』は昨年6月に出たシリーズ最終巻。さすがに収録作家は全員戦後生まれで、物故者はいない。16編中11編が女性作家、最年長は高樹のぶ子で1946年生まれ、伊集院静が1950年生まれ、その下が桐野夏生の1951年生まれで、その他の作家は1960年代以降の生まれである。若手は森見登美彦が1979年生まれで辻村深月が1980年生まれ。最高齢と最年少では34年の年齢差がある。
 この最終巻の収録作では、たとえば桐野夏生「アンボス・ムンドス」が第1巻収録の谷崎潤一郎「小さな王国」を思わせ、桜木紫乃「海へ」が第3巻の川崎長太郎「裸木」や第5巻の芝木好子「須崎パラダイス」など、いくつか収録されたの売笑婦の物語のエコーを聴かせている。それを思えばこの巻に収録された他の作品にも過去の収録作と何らかの照応を見いだすことが出来るかもしれない。しかし9巻の感想で書いたとおり、現実/人間が失われている世界でそれぞれの作品は孤立している。エンターテインメント的な技巧とヒューマニティは若手作家に顕著だが、それがフィクションの世界だから可能であることも気づかせられる結果となる。集中最も端正な小説といえる伊集院静「朝顔」でさえもそのことを忘れさせることが出来ない。
 そのこととは別に、小川洋子の表題作、恩田陸「かたつむり注意報」、高樹のぶ子「トモスイ」、山白朝子「〆」、絲山秋子「神と増田喜十郎」そしてモリミーの「宵山姉妹」とならべれば、ほとんど異色作家短編集の趣となる。「かたつむり注意報」では学生時代にアニメ同好会の上映会で見た巨大カタツムリが街を襲うトポールの短編を思い出した。

 文庫になるまで待っていた村上春樹『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』を読んだ。未だにこういう形式の小説を書き続けていると言うことは、村上春樹の魂も年を取ることが難しいのかもしれない、というのが読後の主たる感想。
 他にもいくつか思うことはあって、当然リストの「巡礼の年」のピアノ曲集の使い方にも興味はある。残念ながらラザール・ベルマンの演奏は未だに聴いていないのだが、自分が若い頃はアルフレッド・ブレンデル盤が話題になっていたので、ラジオで何度か聴いた覚えがある。印象に残っているのは「オーベルマンの谷」くらいだけど。小説中ではフィンランド在住の同級生だった女性がブレンデル盤を持っている。リストの音楽はこれまでほとんど引っかかるものがなく、超有名曲以外は手元にないので、「巡礼の年」を聞き返すことも出来ない。一時ベルマンの「巡礼の年」CDボックスがで大量に出回っていたけれど、気が向いたら手に入れてみよう。

 沈潜しない筒井康隆と沈潜する村上春樹は好対照だけれど、久しぶりに読んだアーシュラ・K・ル・グィン『世界の誕生日』の印象からは、ル・グィンと村上春樹の生真面目な創作態度にある種の共通点が感じられる。それは人間の魂の問題ということになるし、ル・グィンの方がSFということもあって外面的だしやや窮屈だ。
 ル・グィン65歳から70歳くらいの時の作品群で、ハイニッシュ・ユニヴァースに舞い戻り精力的に中短編を書いた時代の短編集だから、エンターテインメントとしてよりも作家自らの興味に従って書かれたと思しいものが多い。収録8編中ハイニッシュ・ユニヴァースもの6編から見える基本的なスタンスはジェンダーと人の心ということなる。ただ生真面目なものが多いとは言うものの、シルヴァーバーグ編のアンソロジー『SFの殿堂 遙かなる地平1』に納められた「古い音楽と女奴隷たち」はサスペンスたっぷりのエンターテインメントとして愉しく読める。
 残りの2編の内の1編である表題作は、子供を神とする社会の崩壊を描いた一番わかりにくい作品である。ル・グィン自身の巻頭自作解説で、この設定はインカ帝国など古代社会をモデルにしているといっているが、読み手にとってはなぜドラマがそのように進行するのかいまひとつピンとこない。
 最後の1編は書き下ろしの長い中編「失われた楽園」で、なんと今どき世代宇宙船モノである。メインは宇宙船の中で生まれ死んでいく世代の社会生活で、そのような世界で生きていく人々をかなりリアルに描いている。もちろん表題が暗示するようにクライマックスはそこに大きな変化が訪れるのだけれど。限定された視野の中での物語はきちんと書かれているし、いかにもル・グィンらしい世界ではある。リアリスティックと言えばリアリスティックな世代宇宙船SFなんだけれど、やはり古めかしさは否めない。

 私小説という触れ込みの円城塔『プロローグ』は、作家の私生活がを書いてあると言われても全然私小説には見えない一作。そりゃ確かに円城塔はそんなことを考えたり、したりしているんだろうが、とても「日本文学100年の名作」に収録されているような「私小説」の範疇に入る生活とはいえない。そういう意味で「生活」しているわけじゃないと言われれば、まあ、そうかとは思うが。やっぱり現実/人間は消滅してるよね。
 金銭消費/生存活動抜きには「私小説」は成立しないと考えれば、これはまったく私小説になってないし、むしろ純粋な観念の遊びの面が強い。基本的には笑える物語であるわけで、それだから読めるし、読んでいて愉しい。でも最後には詩情らしきものが漂う言葉が並んでいて、円城塔印のエンディングを迎えているけれど。
 後半のエピソードに、池澤夏樹編集の日本文学全集に収録された円城塔現代語訳『雨月物語』の参考に読んだのであろう石川淳の有名な(?)「芸術/精神の運動」論が引用されているが、円城塔はそこからソフトウエア・データの可読性(生死)へと話を展開させている。石川淳のファンから見れば一種の詐術みたいな展開だが、円城塔はそこに違和感を感じていないように見える。

 ノンフィクションは無理矢理読んだ片山杜秀『見果てぬ日本 司馬遼太郎、小津安二郎、小松左京の挑戦』のみ。
 『未完のファシズム』が面白かった片山杜秀が、一見脈絡のない3人を取り上げて過去・未来・現在に対応させてみたという、かなり無理筋なつくりの1冊だけれど、それなりに面白い。実際に論じている順序はサブタイトルと違って小松、司馬、小津の順。分量は司馬が多く、小津は短い。
 小松左京の章には「この国に真の終末観を・・・・・小松左京・未来への総力戦」とさらに副題が付されている。ここで取り上げている小松の主著は『日本アパッチ族』、『復活の日』、『日本沈没』、『さよならジュピター』、『首都消失』で、『果てしなき流れの果に』と『継ぐのは誰か』には言及がない。「真の終末観」とあるように、ここでは小松の社会思想家としての面を論じるために小松作品を読み込んでいる。そういう意味ではSFファンが喜ぶ論立てではない。また未来学者としての小松を取り上げ、原発(テクノロジー)に対する小松の楽観(核融合システムへ)が現実には核融合への進展が予想を超える遅延を招いたことで、楽観が本当に楽観に終わってしまったことが強調される。
 司馬遼太郎の章の副題は「島国の超克、漂白の夢・・・・・司馬遼太郎・過去へのロマン」で、司馬の根源的な思考/志向をモンゴルへのあこがれと「和の島国日本嫌い」が表裏一体を成なしたものとしている。片山は司馬の作品群やエッセイや対談から読み解いて措定した司馬の根源的な思考/志向を極限値までエスカレートさせ、司馬の思いを表すのに「日本モンゴル化計画」などという言葉さえ使っている。しかし片山は、司馬の「過去へのロマン」の行き着く先が現代の日本であることを司馬自身が拒否していることを作品から読み解く。それは宮崎アニメに見られる郷愁のテクノロジーや中世社会の自由な人々の存在を描いた中世史学者網野善彦が、その未来においてやってくる嫌悪すべき日本の現代社会を拒否していることと共通しているとする。そして日本嫌いの司馬の作品がその嫌いな日本を是としている連中の愛読書になってしまっているのは司馬の悲劇であるという。
 最後の小津には「持たざる国の省力法・・・・・小津安二郎・現在との持久戦」という副題を振っている。小松左京に110ページ、司馬遼太郎に160ページを費やしたのに、小津には60ページである。片山が日本近代史を論じるときのキーワードのひとつが「持たざる国・日本」であることを思い出せば、小津を論じたこの短い章が片山のとりあえずの結論であることは見当が付く。
 アメリカ映画にあこがれていた小津は中国戦線に取られて帰国したあと、あの小津らしい作品を作り始める。小津は戦場体験から何をつかみ取ったのか。片山に由れば、それは戦いが起きるまで静かに休養して「最後の5分間」を必死で戦う兵隊たちの姿だった。小柄で体力もあまりない兵士たちはことが起こるまでは、じっと不機嫌な顔をして体を休め持久戦をしていた。「最後の5分間」のために。小津の映画には大げさがない。片山は小津作品の映画音楽の作曲家から、小津がドラマの感情と直接結びつける必要の無い作曲を要求していたことを知り、これもまた大げさをきらう省力法の一環だと考える。
 片山の結論は、小津には過去への憧れがなく、また未来は分からないものとして現在での持久戦を描くにいたったというもので、小松左京と司馬遼太郎の敗北に対して小津が描いた「現在との持久戦」だけがアクチュアルなのだというものである。分からんでもないが、それは大変だよねえ。
 あとがきでは、好きな3人の作家で論じてみたかったので嬉しいといっているが、その所為か片山杜秀としては切れ味がもう一つだった。あと装丁/デザインがひどい。


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