続・サンタロガ・バリア  (第157回)
津田文夫


 エアコンを使わないので、夏はステレオがお休み。アンプだけは年中電源入れっぱなしなので、天板を触るとやけどしそうだ。
 こういう時期は生に限ると云うことで、広島交響楽団のチケットを買っておいたのに、失念して当日外出してしまい、ガックリ。と思ったら、若い音楽仲間からその1週間後にあるバッハ・コレギウム・ジャパンの「ロ短調ミサ」チケットが取れましたよ、との連絡が入る。チケットは当日渡しですといわれ、コンサート会場の1200人ホール、アステールプラザで渡されたのは最前列の席だった。ほぼ満員。
 バッハ・コレギウム・ジャパンは、古楽楽器を使う小規模なオーケストラと、男だけどアルトで歌うカウンターテナーがいる合唱団からなる。オーケストラは、ヴァイオリンが3+3、ヴィオラ2、西洋時代劇でよく見るまっすぐ伸びたビストン・ヴァルヴなしのナチュラル・トランペット3、ドラムスのフロント・タムを二つ並べたくらいの小さなティンパニ2台セット1、管の巻きがずれたようなナチュラル・ホルン1、フルートの先祖フラウト・トラヴェルソ2、大きな縦笛のように見えるオーボエ3、ファゴット2それに通奏低音といわれる(本当にほとんど常時鳴っている)足の間に挟むチェロ2、コントラバスの先祖ヴィオローネ1、チェンバロ1、箱形オルガン1の計25人。近代オーケストラの3分の1以下の規模である。舞台奥にひとりずつズラリと並ぶ合唱団は、ソプラノⅠ、Ⅱで8、アルトⅠ、Ⅱで6(カウンターテナー1を含む)、テノールⅠ、Ⅱで6、バスⅠ、Ⅱで6、これに合唱には加わらないゲスト・ソロのカウンターテナー1が加わって、計25人。ソリストはそれぞれのパートリーダーが務める(カウンターテナーだけはゲスト)。この総勢50人を楽団主催者で指揮者の鈴木雅明が振る。
 バッハ・コレギウム・ジャパンは以前サントリーホールでオケのみ聴いたことがある(曲はハイドンの交響曲)けれど、フルメンバーでは初めて。バッハの「ロ短調ミサ」は十年余り前にミッシェル・コルボ率いるローザンヌ管弦楽団・合唱団で聴いたのが印象に残っている(この時もバッハ大好きの若手音楽仲間がチケットを手配してくれた)。
 最前列の席の目の前には、第1ヴァイオリンのオジさんのおしりとトランペットの3人がいた。トランペットは出番以外は椅子に控えていて、出番が来ると片手でトランペットを構え、空いた手は腰に当てる。そう、銭湯の風呂上がりに(コーヒー)牛乳を飲むあのスタイルです。演奏中だけど吹かないときは、ラッパ(ベル)を前に出した片足の太ももに当てて待つ。これもなかなかカッコよくて面白い。
 「ロ短調ミサ」は4部構成で、第1部のミサの部分(キリエとグロリア)が長いので、このあと休憩が入り、残り3部が後半で演奏される。休憩を入れて2時間30分の曲であるが、ソリスト・器楽ソロ、合唱のみとヴァラエティに富んでいるので、それほど眠くはならない。まあ、目の前がトランペットだし。
 「ロ短調ミサ」を堪能したあとは、今回参加した5人で飲みながら音楽談義をしたわけだけれど、ジャズ・バンドでテナーを吹く2番目に若い人に、エル=バシャの弾くラヴェルがいかにつまらないか話したところ、彼は、ラヴェルなんか聴くからですよ、バッハの平均律は素晴らしいですよと反論。彼の論ではエル=バシャは超真面目なピアニストなので、ラヴェルみたいにエスプリの効いた曲なんか面白くなくて当然だということらしい。

 ということで、後日彼からエル=バシャ平均律第1巻の2枚組SACDが届いた。とはいえアンプが高熱を発しているエアコンのない部屋を締め切って聴く気にはならず、休日の昼下がりにすべての窓とドアを開放して蝉のコーラスや町の雑音の中、小音量で聴いてみた。
 1曲目のハ長調のフーガとプレリュードを聴いて、愕然とする。すぐに分かったのは、これはスタインウェイでは出来ない芸当だと云うこと。エル=バシャはベヒシュタインを使用した。ということは、鋭角的で冷たいスタインウェイの音の現代性を嫌ったのだ。セピア色の響きは低音と中音と高音にそれぞれの色合いを持ち、3声で重なる音の流れがよく見える。そして早いパッセージで3声がフォルテで重なるとき、なんとオルガンの響きが幻聴として立ち上がるのである。
 唖然としてCD1の24曲 を聴き終えたあと、手持ちのフリードリヒ・グルダを出して1曲目を聴いてみた。最新のSACDの音とは比べものにはならない古いステレオ録音なので、ピアノの響きは寂しいが、さすがグルダの演奏もやはり面白い。おもしろさだけなら、エル=バシャ以上だろう。しかし、今回の比較ではっきりしたことは、グルダはチェンバロの演奏スタイルをパロディにしたスタイルを採用していることだった(グルダ本人は解説の中でチェンバロ、クラヴィコード、オルガンの効果を使い分けたとしている)。エル=バシャのピアノはSACDであることも手伝って響きの洪水でもあるのだけれど、その響きこそが、「平均律」はバッハが純正律に対して平均律の響きの見本を各調性にわたり作って見せた作品だと云うことを明らかにしているのである。
 この「平均律」を聴いてもうひとつビックリしたことは、ラヴェルの演奏では欠片もなかったユーモアが、厳格なバッハの演奏ではあちらこちらに感じられることだった。ピアノのコントロールにかけては超一流のエル=バシャは、平均律の響きの探求を怠らず、出した結論がおそらくベヒシュタインという選択だったんだろう。エル=バシャの生真面目な精神と精確な打鍵とタイム感はバッハの器械的な音符の運動からエンターテインメントを引き出しているのだった。目からウロコが落ちました、と彼には伝えよう。

 注目の書き下ろし第1長編ということでちょっと期待して読んでしまった宮内悠介『エクソダス症候群』は、やや期待と違うものであった。オビの「舞台は火星開拓地、テーマは精神医療史。」を見て、扉を開けると「エヴァンゲリオン」出てきたような形(それ自体の元ネタは古くからある)の病棟配置図。初期の荒巻義雄やJ・G・バラードを思い浮かべてしまうのは致し方ないところだろう。
 火星開拓地はどちらかというと西部劇みたいな感じで、精神病院は「サザン・リーチ」の研究所みたいだ。作者の精神医療史に関する蘊蓄は荒巻やバラードとは一線を画した詳細なものだけれど、表題となった「エクソダス症候群」が思うほど効果を上げていないように見えるのが不思議だった。主人公が次々と巻き込まれ、また主人公が能動的に動きだすそのパターンが、どうもしっくりこないのだった。主人公の出自から発するドラマも今ひとつ爆発力に欠けるように思える。これはおそらく宮内悠介自身に長編を書く呼吸がまだ自明になっていないからだと思われる。短編で見せる切れ味や余裕がこの長編には余り感じられない。つまらない/面白いの評価なら十分面白いけど。

 読みながら、こういう話を面白がる読者ってどういうタイプなんだろうな、などと思ってしまった江波光則『我もまたアルカディアにあり』は、キャラが何人出ようとも、つまるところ語り手がひとりで怒ってるだけの話。オタクな知識の披露以外に、言葉が持つ通常のリアリティが全く保持されていない。編集担当者はこの作者のファンなんだろうけれど、こういう感性をきちんと描けること自体を評価しているのだろうか。怒りの質は、ゆずはらとしゆき『咎人の星』を思わせる。

 4月に買って積ん読になっていた小林泰三『幸せスイッチ』を、積ん読の山から出して最初の短編「怨霊」を読んで、思わずフキ出してしまったので、最後まで読んでしまった。オビの「五人の春子が辿る世にも数奇な運命」って、そんなことはドーデモいい短編集。
 「怨霊」は怪奇探偵物にかこつけた落語で、あまりのバカぶりに声を上げて笑ってしまう。これは傑作であろう。あとは過激ロジック系のホラー・コメディになっていて、「怨霊」以上のバカはないけれど、どれも読ませる。末尾の「哲学的ゾンビもしくはある青年の物語」もいかにも小林泰三ロジックのたまもので、最後の一行で笑わせる。読み終わってみると結構いい短編集だった。

 創元SF文庫版《年刊日本SF傑作集》第8集、大森望・日下三蔵編『折り紙衛星の伝説』はバラエティに富んだ出典のおかげで、再読率の非常に低い年刊間傑作選になった。とはいえ、酉島伝法「環刑錮」は星雲賞投票のためこないだ読んだばかりだったので、さすがにパスしたけど。理山貞二、下永聖高、円上塔、堀晃、オキシタケヒコが再読。どれも面白く読めたので無問題。
 初読は、まず長谷敏司「10万人のテリー」。いかにも出来合いの筋運びだけれど、安心して読める。星野宣之「雷鳴」は、恐竜でタイムマシンでという定番を最新の恐竜学説でヒネった1作。長い間ご無沙汰の星野マンガだったが、こちらも安定した力がものを言う。草上仁「スピアボーイ」も安心して読めるエンターテインメント。さすがの出来。田丸雅智「ホーム列車」題名どおりのショートショート。文章がきれいなので落とし話感は強くない。宮内悠介「薄ければ薄いほど」は終末医療(医療ではないか)のネタだけれど長編よりもずっと力強い。この力を長編で読ませてもらいたい。矢部嵩「教室」はこれくらいの長さだと読める。伴名練「一蓮托生(R・×・ラ×ァ×ィ)」これだけ高度に(浅倉)ラファティの贋作が書けることにビックリする。本家ほど面白くないのは仕方が無い。三崎亜記「緊急自爆装置」アイデアは安くとも作家性で勝負できるから仕上がりは面白い。
 諸星大二郎「加奈の失踪」は、円上塔の「φ」の上をゆくバカっぷり。ほとんど驚愕に近い。この間、デビュー作「生物都市」を読んだのは偶然とはいえ、何か引きがあったのか。しかし諸星大二郎も茅田砂胡と同じようなことをいっているなあ。日経「星新一」賞受賞作の遠藤慎一「「恐怖の谷」から「恍惚の峰」へ~その政策的応用」は、これだけうまく出来ていれば、誰からも文句が出ないだろうという仕上がりの1作。論文形式SFはいくつもあって、傑作もあるけれど、これはその傑作のひとつに数えられる。ただし賞味期限がありそうだ。同じく「星新一」賞の最終候補作だったという高島雄哉「わたしを数える」は、数学の無限を人情小話に結びつけた面白い1作。いいんじゃないでしょうか。
 最後は第6回創元SF短編賞受賞作宮澤伊織「神々の歩法」。恩田陸の感想に1票。

 7月に読んだ唯一の翻訳SFが、ブライアン・オールディス『寄港地のない船』。まさかNON-STOPを訳していたとは、さすが中村融先生。目の付け所が違う。田舎の本屋でも何を勘違いしたか、平台3冊縦並べの厚遇ぶり(担当にSFマニアがいる?)。SFを読まない読者が面白そうだと思って買って読み始めたら、読み通すのにさぞや苦労されることだろう。
 話のあらすじは昔から知ってはいたけれど、イザ読んでみたら、ここまでオフ・ビートだったとはねえ。最後の方でようやく活劇になるまでに、脱落する読者は多いんじゃないだろうか。特に古い公式的アメリカン・エンターテインメントを好む読者には。
 前半主人公をはじめとする登場人物がみんな暗いし、冒険の道行きの舞台も明るくないからなあ。これがディックなら、同じキャラ設定と舞台設定でもっと面白く読めるドタバタを展開してくれそうだが、オールディスのイギリス的ヒネクレ度は半端じゃない。それでもクライマックスはそれなりにアクションが盛り上がり、「驚愕の結末」へとなだれ込むところは、エンターテインメント度が高くて嬉しい。
 竹書房文庫が国書刊行会の向こうを張って、50年代版『未来の文学』をやってくれたらなどと夢のようなことを考えるのは時間の無駄でしょうか、中村先生。

 久しぶりに長編を読んだ気がする牧野修『月世界小説』は、オビのアオりが必ずしも内容と一致してるとは思えない1作。
 主人公がゲイ・パレードを友人と見ながら、逡巡しいしいようやく想いが友人に届こうかというその時に、「アポカリプティック・サウンド」が響き、パレードはあっという間に阿鼻叫喚の場と化す。絶体絶命の主人公は「月へ行こう」と目を閉じて念じると・・・、ということでコダワリの旧約聖書ネタをちりばめながら、牧野異次元ワールドが展開する。
 戦後わずか数十年で徹底的に忘れさせられたニホン語の復活を巡る物語は、もう一つのニホン戦後史として書かれており、そこでは小松左京のニホンへの思いが再確認される。その一方で、言語が現実を作るというテーゼではバベルの塔神話を矛盾として扱い、さらに別の世界で「神」は言葉自体を消すため言語使用者である人間の殲滅を企んでいるとされ、常時戦闘が行われている。この世界では主人公の言語を操る能力が決定的役割を果たす。
 エピローグを再読したら、なんだか『果しなき流れの果に』みたいな感じに思えた。そこまでのエピックではないけれど。

 ノンフィクションでは、なんといっても『殊能将之読書日記 2000-2009』が面白かった。いくつかはネットで読んだことがあるけれど、こうしてまとめて読むとそのスタイルが見事に発揮されていることが分かる。殊能の文章に表れるシャイネスは読み手にすれば甘みとして感知される。これらの文章がSFやある種のミステリに対して「ラヴレター」となっているところが嬉しさの源泉なのだろう。丁寧な編集も素晴らしいし、法月倫太郎の「弔辞」の結語は胸に迫る。

 さすがにもう古いかと思いながら書店で手にとって見開きに付いているマップを見て、やっぱり読む気になった濱野智史『アーキテクチャの生態系-情報環境はいかに設計されてきたか』は、著者の予想の外れ具合がその後の時間経過を表しているくらいには古いけれど、いろいろなIT(用語はこれしか知らない)道具・ソフトの基本的な見立てを知るにはちょうど良い本だった。
 最近の著者は「アイドル」のプロデュースを実践することに専念しているとのことで、昨年6月に結成というそのアイドルグループ「Platonics Idol Platform」(PIP) をYouTubeで見てみたけれど、1年経ってまだ数百人の視聴者しかいないものが多い。他人ごとながら、女の子たちのことが心配だ。グループ名が高尚すぎるんじゃないでしょうか。

 岩波新書のシリーズ日本近世史③~⑤も読んだけれど、あまり書くことがないのでパス。ただ、5冊もあるのに近世被差別身分に関するまとまった記述がほとんど無い(あっても1ページ足らず)のは、「明るい農村主義」もビックリだった。


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