続・サンタロガ・バリア  (第149回)
津田文夫


 寒かったり暖かくなったりの変化が激しいためか体調が悪い(多すぎる忘年会が原因という気もするが)。とはいえ今年も終わりですね。来年は年男だ。

 ブラジルポップで買い疲れたのか先月は椎名林檎の新作くらいしか買ってない。ここしばらくクラシックCDも買わなくなっているせいか、ちょっとクラシックが聴きたくなって、近所の島にウィーン・フィルのコンサートマスターであるフォルクハルト・シュトイデが率いる弦楽四重奏団が来るというので行ってみた。会場は小さな体育館みたいなところ、パイプ椅子が300くらい。プログラムはモーツァルトの「ディべルティメント ニ短調 K136」と「セレナード第13番 アイネ・クライネ・ナハトムジーク K525」それに4曲の有名弦楽四重奏曲から有名楽章を各1楽章ずつ。まあ、仕方ない。
 音の方は、いかにもなステレオタイプのウィーン・フィル・サウンド。モーツァルトが驚くべきトーン・バランスで流れていく。後半はスメタナ・ボロディン・ドヴォルザーク・チャイコフスキーがモーツァルトと同じトーンで流れる。アンコールもあったが、すでに忘れた。ここまでウィーン土産品みたいな音を奏でるとは思ってなかったなあ。この音ではバルトークとかショスタコーヴィッチは聴けないだろう。いや弾かないか。学生時代に聴いたスメタナSQの解散コンサートとか6年くらい前に聴いたアルバンベルクSQの解散コンサートで耳にした響きとはエライ違いだ。ま、チケットは安かったし聴いて損はなかったけれどね。

 上田早夕里『妖怪探偵・百目(1)朱塗の街』は7月に出た光文社文庫。同文庫から出た短編集『魚舟・獣舟』に入っていた短編の設定を基にした連作短編集。とはいえ、その短編がどんなものだったかもう忘れているが。
 これは妖艶な女妖怪百目の妖怪事件専門探偵事務所に勤めることになった青年を狂言回しにした作品集。プロローグはこの世界の設定を説明する役割をもった小品。テンションはあまり高くなく、あっさりした仕上がり。基本的にゲスト妖怪を主軸に展開する物語なので、武闘派が出てくる後半の作品ほど盛り上がる。妖怪の天敵みたいな実力派の拝み屋が出てきての大立ち回りはなかなかの迫力。でも百目さんは武闘派ではない。最終編は拝み屋の身の上話で、まだこれからの物語があることを告げる。探偵事務所の青年が理科系でテクノロジーに詳しいことで、なんとなくサイエンス・ファンタジーっぽくなっている。

 六冬和生『地球が寂しいその理由』はハヤカワSFシリーズ・Jコレで出た作者の2作目。地球と月をそれぞれ管理するスーパーAI姉妹の口喧嘩をメインに地球の世界情勢と月の世界情勢との軋轢が結局スーパースターの男性アーチストの取り合いに象徴されるというもの。第1作でもついて行けない女性キャラが登場していたが、こちらの姉妹AIも全然ついて行けないキャラたちだ。作者は姉妹の取り合うスーパースターなのかも。部分的には面白いアイデアやギャグ、脇キャラがあるものの物語を読むうれしさはあまりないなあ。

 「サイバーパンク再び」って、いつの話だろうと思っていたら、ホントにキャッチフレーズとして生き返ったみたいだな。で、虚淵玄+大森望編『楽園追放 rewired』を読んでみた。たいてい忘れているとはいえ「クローム襲撃」を読むのは何度目だろう。そういえば「ICE」ってあったなあ。士郎正宗以来そちらの方で使い倒されたような気がする。スターリングの「間諜」はVRで吉上亮「パンツァークラウン レイヴズ」につながっているのか。吉上作品は今風だけれど、基本は鉄砲玉の話。大原まり子「女性型精神構造保持者 メンタル・フィメール」は今読んでも破壊力がある。キップルちゃんて凄いネーミングだったんだ。初期のウォルター・ジョン・ウィリアムズはゼラズニイ好きにとって嬉しいんだか悲しいんだかよくわからない存在だった。ジョージ・R・R・マーティンは立派な派生物だったけれど。今回読んで、なんだ分かりやすいじゃんと安心したのが、チャールズ・ストロス「ロブスター」。長編で読んだときはわかりにくかったのになあ。藤井大洋「常夏の夜」は再読。改稿されたというけれど基本的な印象は変わらない。このアンソロジーで初めてサイバーパンクを読んだというヒトの感想が知りたい。

 ジェフ・カールソン『凍りついた空-エウロパ2113-』は最近のよくできたアメリカ的宇宙SFのひとつ。いきなりエウロパ地表下でパニクってるヒロイン。同行者は死亡。まあ、フックから始めるのはよくある手だよな。それでも読めるのは結構リアリティのある描写が続くからだろう。でもヒロインの思考にはついて行けないことが多い。エウロパ生物はよくできていて、地表の狭い範囲での国際的駆け引きとヒロインの画策とかはありがちだけれど、場面転換が速いのでくどく感じることもない。本来消されるはずだった死亡した隊員の人格保存AIがちょっと面白い。90分のコンパクトなSF映画みたいだ。

 ロバート・F・ヤング『宰相の二番目の娘』は作者70歳の時に出た遺作とのこと。1985年に出たとはとても思えないシンプルなサイエンス・ファンタジー。もとの中編が1965年ということで、どう見たって1960年代半ば以降の作品ではないよなあ。ボンクラな主人公に勝ち気な美少女という組み合わせはいつものヤングだ。アランビアン・ナイトの魔神と主人公がSF的宇宙の理屈を問答するところが面白い。ヤングの願望は最後まで美少女とのハッピーエンドだったんだなあ。

 ジェフ・ヴァンダミア『全滅領域』は〈サザーン・リーチ〉三部作の第1作とのこと。ジェフ・カールソンも初めて読んだが、ヴァンダミアも初めて。とはいえヴァンダミアの名前は『SFマガジン』のニュー・ウィアード特集とかネオ・スチーム・パンク特集などでずいぶん前から取りざたされていたので、初めての気がしない。
 この作品がヴァンダミアの特徴をよく表しているのかどうかよくわからないが、小説を書く技術という点では十分な力量を感じさせる。話のつくりは『紙葉の家』や映画『ブレアウィッチ・プロジェクト』を彷彿とさせるけれど、舞台となる隔離エリアの風景はすばらしい描写技巧により眼前に展開する。ただこの作品でもヒロインの思考には全然ついて行けないが。落ち着いた文章の魅力は十分、企みの方は分かりやすいので、昔はこういうのを「眼底手高」といってたんだっけ。柳下毅一郎が解説でバラ-ドを引き合いに出していたけれど、ヴァンダミアの作品には衝迫力が感じられない分文学性が低いかな。

 最近グっとくるSFが少ないので、フリオ・コルタサル『八面体』を読む。久しぶりのコルタサルの短編集は、解説によると、その後政治的活動に入り浸ってしまったコルタサルのその直前期の作品集ということらしい。
 でもバラエティに富んだ短めの8つの短編+αは、1960年代世界最高の短編作家であったコルタサルの実力を感じさせる充実ぶりだ。個々の作品の内容に触れる気は無いけれど、フランス/ヨーロッパの街と故郷ブエノスアイレスのどちらが舞台でも経験的リアリティが妄想的ファンタジーと見分けがつかなくなるあわいを見事にすくい取ってみせる。初期作品集だという『対岸』も読んでみよう。

 山尾悠子の『増補版 夢の遠近法 初期作品集』が文庫になって、作者解説を読むために買ったとき、『森見登美彦の京都ぐるぐる案内』が目に入り、見逃していたかと買って読んだら、「夢の棲む街」に言及されていて、好きだったのかモリミー、とちょっとしたシンクロニシティーとやらが楽しめた。7月に出た文庫なので、全体的に夏向きのつくりだった。出会いが季節外れなところもモリミー効果か。

 40枚ほどの人物伝を書こうとしたら、参考資料の山を読むのにいくら時間が合っても足りず、ノンフィクションが読めない。こういうときは積ん読から1冊、というわけで唐木順三『続あづまみちのく』昭和54年3月初刷中公文庫に手を出す。
 少し前に正編を読んで買った当時読んだのを思い出したが、こちらは読んだかどうか思い出せない。でもたぶん再読だと思う。続編は、平泉の「清衡考」、常陸国と京都を行き来する「親鸞一通の手紙」とそれに続く「歎異抄の唯円」、主題が連歌俳諧に替わって「東国における心敬・宗祇」それに続く「宗長覚書」及び「太田道灌とその時代」そして芭蕉にたどり着いて、「芭蕉にとっての江戸」と、みちのく南下裏日本行脚を主題に「芭蕉の日本海体験」「芭蕉の日本海体験余滴」で終わる。
 いまや世界遺産の平泉中尊寺だけれど、40年前でも結構派手派手しかったらしい。しかし唐木順三はそんなこととは関係なく850年前(1974年当時)に清衡が書いた一文の考察に沈潜し、仰臥態の清衡ミイラにエジプトとシルクロードへのロマンが重なる。親鸞もその一通の手紙文から親鸞の聖と俗を解き明かし、親鸞の唯一性と孤立性を示す。まるで日本風キリストのように。後半は連歌俳諧に移り、中世の関東でうち続く戦火の下に流行した連歌俳諧の宗匠たちを描いてその俗世の俳諧人の性格を見たのち、芭蕉が元禄の江戸の賑やかさに孤独を募らせて旅立つ心を穿つと、みちのく紀行の日本海側南下の道程を丹念に追って、その現実と芭蕉の詩心の有り様を探る。いまでも唐木順三みたいな文章が綴られているのかよく知らないが、これらの文章を読んでいると戦後生まれの人間にはなかなか得がたい精神風土があったと思われる。


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