続・サンタロガ・バリア  (第144回)
津田文夫


 ジャズばかり聴くのもだんだん飽きてきたけれど、借り物のジャズボーカルCDのうち、ビリー・ホリデイを聴き終わったので、その感想をかいておこう。
 聴いたのは「コンプリート・デッカ・レコーディングス」2枚組、「レディ・デイ」、「奇妙な果実 コモドア版」、「ソリチュード(ヴァーヴ版)」、「レディ・イン・オータム(ベスト・オブ・ヴァーヴ・レコーディングス)」2枚組、「レディ・シングズ・ザ・ブルース ビリー・ホリデイ物語」そして「レディ・イン・サテン」で計160曲あまり。録音年代は1935年7月2日から1959年3月4日まで。ビリー・ホリデイは59年7月17日に亡くなっている。享年44歳。
 この中から1枚となれば、やはり世評通り「奇妙な果実 コモドア版」だろう。いわゆる戦前録音というよりは戦時中(1944年)録音が主だけれど、ビリー・ホリデイのキュートな声とリズム感はすばらしい。戦後から亡くなる年までの14年間におびただしい録音があって、それはみずみずしかった声が枯れていく過程をとらえていることになる。その中にはどの曲を歌っても似たような歌い方しかできないときや、あまりにテンポが遅すぎて曲が壊れているように聞こえるものもある。しかし、麻薬に囚われ健康を害し、しわがれた声で歌うとき、ビリー・ホリデイがあこがれたというルイ・アームストロングのエコーが聞こえてくる。その意味で、晩年にゴージャスなストリングスをバックに歌った「レディ・イン・サテン」は感動的といっていい。
 ビリー・ホリデイを聴いた後でブロッサム・ディアリーのカワユイ少女声を聴くと身の毛がよだつ。

 国書刊行会〈未来の文学〉叢書から出たジョン・クロウリー『古代の遺物』は、もはやSF作家とは言い難い著者の第2短編集ということで、SFらしい作品よりもホラー・ファンタジイ方面に傾いた作りの作品がほとんどを占める。落ち着いた語りは優れた文章家であるクロウリーを際だたせているが、いかんせんSF的なおもしろさという意味では物足りない。もっともSF的という「雪」も、亡くなった女性への執着を主題に記憶とイメージから「墓」が連想されるホラーな作品で、ディックが書いていたら文学的技巧はともかく、らしいSFではあったろう。巻末の長い中編「シェイクスピアのヒロインたちの少女時代」もほとんど文学的ホラーで、普通小説として始まりながら、身体欠損のおかしな結末を迎える。技巧的には文句なくすばらしいが、たぶん1年後には内容を忘れているだろう。

 キジ・ジョンスン『霧に橋を架ける』も技巧的なファンタジーが多く、文学的なスタイルも堂に入っているけれど、クロウリーほど気取った感じはなくSFとしても十分楽しめる。SFとしては表題作が圧巻で、本来異星の物語だが、感触はファンタジイに近い。設定を飲み込みさえすれば、SFとしてのリアリティや重量感も味わえるので、これはオールタイムベストに顔を出すような1作だろう。冒頭の「26モンキーズ、そして時の裂け目」から異色短編として印象深く、その次の異星人とのセックスもの(SFだけれど、これもファンタジイの1種か)「スパー」がまたびっくりするような仕上がりを見せている。「ミツバチの川の流れる先で」も前半のリアリティがファンタジイと化していく瞬間までがとても心地よい。その他の収録作も見事な仕上がりで今年読んだ作品集の中でも群を抜く。SFファン以外にもモテそうな作風なので、これが売れたらうれしい。

 チャールズ・ユウ『SF的な宇宙で安全に暮らすってこと』は、まるで訳者である円城塔が書いたかのように読める不思議な1作。実在の作家だとわかっていてもチャールズ・ユウが幽霊作家と思えてしまうくらいだ。
 「継時上物語技術」という訳語をみたとき、これが円城塔の物語づくりの一観点をなしていると思ってしまった。言葉と物語の発生する源というか物語は言語でできているということの謂いがこのタームに象徴されているようだ。言語は物語を生成するが、そこに人間は必要かというところまで行ってしまっているような話である。
 岡本俊弥さんの書評にある、「松の枝の記」がこの作品を翻訳するときのことを書いた私小説だという解説に深く頷いてしまった。

 いよいよ第1巻の世界とつながった小川一水『天冥の標8 ジャイアント・アークPart1』は、銀河団を通じて流れる情報の川の存在を描く、謎めかした「断章八九『岸なし川 ブリッジレス』にて」が冒頭に置かれているが、それ以外は第1巻の世界の裏事情とその続きがオムニバス形式で描かれて、いていろいろ楽しめるけれど、ドタバタした印象も残す。前巻の少年少女たちの世界から数百年というのもちょっと残念だが、物語は10巻で終わるのだから道草はしていられないのだろう。

 『SFマガジン』創刊700号が過去記事の特集号になっていて、読んでみると70年代以降の記事は全部読んでいるはずなのに、忘れている文書が意外に多い。その点、60年代の記事も再読がほとんどだけれど、どれも記憶に残っている。やはり読み始めのころにバックナンバーを探して読んだものが記憶に新しく、40代以降に読んだものは仕事の記憶と一緒であまり強い印象が残っていないのだろう。
 恒例のベスト投票結果を見ながら、ようやくバランスのとれた結果になりつつあるように感じた。そして海外短編部門のリストを眺めながら思ったのが、常時ストックとして廉価なベスト・オブ・○○シリーズをハヤカワ文庫SFで立ち上げるべきだなあということ。洋楽CDのベスト盤シリーズを見ながら思ったことだけど。
 その候補は、まずコードウェイナー・スミスとジェイムズ・ティプトリー・ジュニア。400ページくらいで1000円以下。本文が350ページほどで、作家・作品紹介など解説が50ページというところか。ル・グィン、ラファティ、ゼラズニイ、ディレイニーなんかもいいし、ヴァーリイとマーティンの初期短編ベストも必要だろう。それに最近短編が出まくったディックとスタージョンそれにヤングはスーパー・ベストが出せそうだ。あ、スタージョンは河出だった。ついでにハインラインとアシモフ、できればシマックやアンダースン(ここら辺になると難しいかな)辺りのベスト短編集があったらうれしいなあ。

 SFマガジン創刊700号記念ということで大森望編『SFマガジン700【国内編】』(白)と山岸真編『SFマガジン700【海外編】』(黒)が出されているけれど、小説を本誌に含めると5000円の分厚い月刊誌ができるということだな。
 【白】編はレア価値優先の邦人作家作品というのが編者の方針。それでも伊藤さんの英語圏SF情報エッセイの後半だけというのはさすがにやり過ぎだろう。個人的には当然でもね。創作はどれも読んでいるときは面白い。35年にぶりに読んだ筒井康隆「上下左右」なんてつい昨日の読んだような気がするなあ(老人症候群そのもの)。1987年9月号掲載の貴志祐介以降が初読作品。貴志のSFデビュー作の硬質なことに驚くが、現代的なのはやはり秋山瑞人「海原の用心棒」と桜坂洋「さいたまチェーンソー少女」それに円城塔というところ。好き嫌いは別として21世紀が来たんだなあという感じがある。
 【黒】編はSFマガジン掲載翻訳短編ベスト集の趣を備えた見事な1冊。ただし、その1という感じもある。800号記念はその2だな。
 マーティンとティプトリーは昔、原書で読んだので、イアン・マクドナルド以降が初読。マクドナルド「耳をすませて」とチャン「息吹」がSFのなんたるかを示して力ある作品になっているけれど、ル・グィン「孤独」やバチガルピ「小さき供物」もSFにできることの衝撃力を保っていてよい作品だ。非常に高水準なアンソロジーで、高く評価するけれど、はっきりした息抜きがSFファンじゃないと楽しみが半減するウィリス「ポータルズ・ストップ」しかないのは残念。次回はそこのところをよろしくお願いしたい。

 ノンフィクションに移ると、最近出た新書で気になる2冊を同時に読んだら、全く遠い分野の話なのに著者が感じていることがほぼ同じというシンクロニシティを経験した。
 1冊目は水野和夫『資本主義の終焉と歴史の危機』。3月に出た集英社新書。6月時点で7刷。とても新書向きのタイトルとは思えないけれど、それなりに売れているようだ。内容は、歴史学者フェルナン・ブローデルの「長い16世紀」、法哲学者カール・シュミットの「空間革命」そして美術史家による「蒐集」という概念を軸に、700年にわたるヨーロッパの利子率変動の分析から見えてくる資本主義のグローバル化(「電子・金融空間」が最終形態)の本質が民主主義の破壊につながることを論じ、利子率ゼロ状態が20年続く日本こそ真っ先に「長い21世紀」を迎えたのだから、最初に資本主義の終焉を迎える条件がそろっているのだと説くものである。とても新書で可能な話とは思えないシロモノだけど、3時間もあれば読めてしまうというお手軽さ。
 「長い16世紀」はこの本によれば「中世封建システムから近代資本主義システムへの転換期(1450〜1640)」のことで、これに匹敵する転換期が現在の「長い21世紀」だというのが著者の主張。またヨーロッパで起きた帝国領土の拡大「空間革命」は、陸から海へとかわったが、物理的空間の「蒐集」が不可能になったとき、その最終形態はアメリカが行った「電子・金融空間」であること、そして資本主義とは「蒐集」であり、周辺から中央にすべてを集めることがその目的だが、「蒐集」という行為は常に過剰であることがつきまとうため歯止めがきかないこと。これにより資本主義による世界の跛行は免れ得ないが、その最初の兆候は日本の長期低利子率状態に現れており、「成長主義」からの脱却の条件は世界で初めて日本で見いだされるというのが著者の論点。ただしその解決方法は著者にもはっきりしたものはない。「脱成長/里山資本主義」もそのひとつかもなのかもしれないなあ。

 もう1冊は赤坂真理『愛と暴力の戦後とその後』講談社現代新書5月刊で、買ったのは6月2刷。タイトルが覚えにくいのが難点。
 赤坂真理は最近戦後史を扱った『東京プリズン』で話題になった作家。読んだことはないが、それまでの作品題名から受ける印象は、なんとなくエロス系なイメージのヒト。
 こちらは『東京プリズン』を書く中で様々な疑問を解いていく自らの体験を元に、戦後史を実感として読み解いたもの。すべて実感主義なので半分自伝のようなところがある。 高校進学時に単身渡米、ハイスクールになじめないまま1年で帰国したという著者は常に違和感を抱えていた。その違和感が日本の近代史が生み出したものへの視線を作っている。母が戦後間もない頃、女子大生の時に東京裁判の資料の翻訳に関わったことを知り、子が親にする基本的な疑問、「原爆」と「天皇の戦争責任」について尋ねたときに返ってきたリベラルなはずの母親の「真珠湾」と「日本がめちゃくちゃになる」という言葉に著者は驚く。こうして著者は日本社会に埋め込まれた、敗戦が生み出した日本社会の歴史的空白の探求へ向かう。
 1964年生まれの赤坂真理が回想する子供時代の回想は、10歳年上の自分とは戦後の風景の見え方が少し違う。その代表が「消えた空き地とガキ大将」だろう。ジャイアンのいる原っぱにいつも土管があるが、著者はそんな景色は見たことがないのに60年生まれの著者の兄には普通の遊び場だった。土管のある原っぱは我ら世代には一番なじみの遊び場だった。土管と原っぱの組み合わせはおそらく昭和30年前後から10年間ほどの風景だったと思われる。ついでに下水道探検もその頃にしかできない遊びだったろう。
 しかし、著者の発想はずっと鋭い話で、ガキ大将の消失に現代の恋愛しにくさの一因を見いだし、原っぱの消失は利潤追求によるすべての土地(空間)の私有化がもたらしたものだと喝破する。それに子供たちの遊びの変化をパラレルさせて、「共有(空き地で遊ぶ)→私有(ファミコン)→超私有(ポータブル)」と読み解き、「大人たちの共有目的は『お金を作ること』・・・そしてすべての資源が食い尽くされるのと目的の喪失はほぼ同時である」とした。これは『資本主義の終焉と歴史の危機』の主張ととてもよく似ている。そして終章では「犠牲のシステム」へと分析が進み、原発を念頭に「中央から離れた土地が、危険も知らされないまま中央のエネルギー供給の犠牲となり、その危険な廃棄物は、さらに過疎化した土地へと押しつけられる」と書く。この章の著者の結語「(「犠牲のシステム」を支え続ける人たちがささやく)経済発展とGDPが、あなたにとっても至上価値ですよね? と」は、水野和夫が「成長論者」に鳴らす警鐘と同じものである。
 いかにも作家らしく終章の後に、新しい物語に関する「エピローグ」や母との手つなぎ横浜中華街を遊歩する「後書きに代えて」が置かれている。
 赤坂真理が使った分析的な言葉に新しさはないが、個人的な実感から始まる思考の具体性は、概念だけで勝負している『資本主義の終焉と歴史の危機』の観念論を補っているように見えて大変面白い読書だった。

 前回紹介した『昭和天皇「よもの海」の謎』に続いてやはり新潮選書で読んだのが、今野真二『日本語のミッシング・リンク 江戸と明治の連続・不連続』今年3月の刊。
 仕事で明治時代から昭和戦前期の公文書(主に海軍省とか内務省で時に外務省)を読むことが多く、昔は年に2回くらい東京に出張して恵比寿駅近くの防衛研究所図書館や竹橋の国立公文書館そして国会図書館、たまに外交資料館(当時は麻布にあった)を巡り公文備考や公文録やアメリカからの返還文書などをめくっていた。 最近は出張費が出ないので、もっぱらインターネット公文書館であるアジア歴史資料センターにお世話になっている。写しの文書が多いこともあって、手書きの筆文字が読みにくいことおびただしい。特に明治10年代から20年代の公文書には難渋することが多い。
 本書は「明治期の日本語全体を『ミッシング・リンク』としてとらえ、その内部を詳しく検討することによって、江戸期の日本語と連続する面、連続しない面を明らかにしていくことを目的」としたというので、あの読みにくい文書が徐々に今の日本語からあまり遠くない大正期の公文書の文章への変化を説明しているのかもと、期待して読んだ。残念ながらこの著者の得意とするところは文学的な作物の文章を分析するところにあって、鴎外・漱石に代表される文章を扱ってそれ以前の表記と比較し、著者いうところの「漢文脈」離れの進行が明治期の日本語文書のより現在に近い変化への底流となっていることを読み手に伝えるのが主眼だった。
 一方で「漢文脈」離れは明治国家による「国語」創出に関わるものだったともいえるが、そちらの観点はあまり強調されていない。著者はあくまでも日本語の文章表現の変化に密着する手法をとっている。まあ「漢文脈」離れが明治30年代を通じて進行したという論拠が当方の実感とほぼ重なっていたからよしとしよう。

 作家の戦時中の日記が出るとついつい読んでしまうのだが、山本周五郎『戦中日記』ハルキ文庫が出たので読んでみた。太平洋戦争勃発の日である昭和16年12月8日から戦火の中日記を書きやめる昭和20年2月4日までの日記だけれど、発表先も減って原稿書きに専念できなくなってきた昭和19年10月以降はやや密に書いているものの、それ以前はぽつりぽつりとしか書かれていないので、全部で200ページしかない。
 山本周五郎は代表作のタイトルを知っているだけで、読んだことがない。しかし、この日記に現れた山本周五郎は評判から思い浮かべる著者のイメージとそれほど変わらない。ひとことでいえば、見事な精神ということになる。当然、様々な悩み(当然作家としてのものが一番だが)を吐露して、それが読みどころになっているけれど、責任感をもった町内会の防空班長としての意識が当時の「大人」の行動を支える。ある意味、現代では失われた戦前にはぐくまれたまっとうな日本人の心の記録ともいえる。好きかといわれたらウーンとしかいえないけれど。

 今月は積ん読ではなくて、最近買った古本から、ということで小泉文夫『空想音楽大学』青土社1978年9月刊。これも昔大学生協で気になって手に取ってみたけれど当時は買わなかった本。大変魅力的なタイトルだったが、パラパラとめくったところ世界の民族音楽紹介本のような感じだったので、プログレ・ジャズ・クラシックという洋楽派大学生には用がなかった。1978年当時ボブ・マーリーやキング・サニー・アデを愛でるにはまだ早かったのだ。まあ尺八や三味線・箏の邦楽が抵抗なく聴けるようになったのは50過ぎてからだけど(ジャズやクラシックで使われている場合は別として)。
 今読むと、60年代から70年代にかけての小泉文夫のいらだちはよくわかる。学校での音楽教育が、西洋古典音楽だけが正しいものとされてきた明治以降の近代音楽教育を継承し続けたことにより、我が国の伝統音楽を含めた世界の音楽に対しずっと目隠しし続けてきたことを、小泉は口を酸っぱくしてののしる。いまならロックを通じて世界音楽へとつながったミュージシャンは数多くいるし、分衆化してしまったとはいえ邦楽にもワールドミュージックにもそれなりのファンがついている。それは音楽的価値のフラット化であり、インターネットをはじめとする情報革命がもたらしたものである。ただし、学校での音楽教育は、ビートルズやJ−POPが教科書に載るようになったものの相変わらず五線譜とクラシックが正統という意識が強いようだけど。小泉文夫は1983年に57歳で亡くなっているが、生き延びていたとしたら、小泉にとって今の音楽状況は納得のいくものなんだろうか。
 この本を読んでいてちょっと気になったのは、文化大革命下の中国で行われていた集団音楽や作曲されたものを手放しでほめているように読めることだ。画家の高良真木もそうだったけれど、リベラルがこの手の政治的文化攻略手法に弱いのはなぜなのか不思議だ。ヒトがよすぎるのか、それともそこにはプロの目を失わせる何かがあったのか。


THATTA 314号へ戻る

トップページへ戻る