内 輪   第278回

大野万紀


 京フェスの後、宇宙機エンジニアでSFファンには野田司令として知られる野田篤司さんのブログに書かれた記事が、Twitterの一部で話題になりました。まとめはここにあります。
 ちょー適当にまとめると、昨今のSFは科学や技術にもう新たな発見がないとの誤解から、ファンタジーへと傾斜してしまい、その一方でハードSFは現実的な(人間的・社会的な)リアリティに拘泥するあまり矮小化し、本来あるべきセンス・オブ・ワンダーを失っている。テーマが、人間ドラマだったり、権力争いだったり、予算の取り合いや特許訴訟だったりする、そんなSFは読みたくない。本当に夢のような事をSF小説の中で見せる「センス・オブ・ワンダー」のあるハードSFが読みたい。そして、具体的にどんな内容の作品が読みたいのか、それが箇条書きされているのです。

 ぼく自身、ハードSFは大好きだし、野田さんが望んでいるようなSFもぜひ読みたいと思う。夫婦の危機だの、家庭のどろどろだの、そんなうっとおしい「人間ドラマ」なんていらないし、全く人間の出てこないSFも大好きだ。基本的に、野田さんの主張には頷けるところが多いのです。とはいえ、ぼくが好きなSFはそれだけじゃない。異世界ファンタジーも、文学的SFも、キャラクター重視のラノベ的SFも、予算の取り合いや特許訴訟でバタバタするSFも、スペオペやバカSFも、面白く読めればオールOK。要するにSFはスペクトルの幅の広い、とても多様なものであり、議論のために対象の一部を切り取って定義するのはいいけれど、それ以外を排除するような話の進め方はよろしくないと思うわけです(野田司令の話がそうだといっているわけではありません)。

 ファンタジーやSF一般はともかく、ハードSFに限っても、10年くらい前にイギリスであった「マンデーンSF」論争を思い出します。これはジェフ・ライマンが主張したもので、大きな潮流にはならなかった(と思う)のだけれど、それなりに議論を呼んだものでした。彼の主張は野田司令のとは方向性が逆で、現実的でリアリティのあるハードSFを目指せというものです。具体的には超光速などの超技術を排し、現在の科学・技術から想定される可能性の範囲で、せいぜい太陽系の中での、人類や社会や地球環境の未来を描こうというもの(ちゃんと読んだわけじゃないので、多少違っているかも知れないけど)。
 そこにはブルース・スターリングやコリン・ドクトロウ、バチガルピの作品も含まれるのかも知れない。日本でいえば野尻抱介の〈ぴあぴあ〉路線や、谷甲州、林譲治なんかの地味目なハードSF。小川一水であればお仕事もの。そういう(銀河の彼方まで飛んでいかないという意味での)地に足のついた「マンデーンSF」は(この言葉は好きじゃないけど)ぼくも大好きです。そこにだってまた違った味わいの「センス・オブ・ワンダー」はある。とはいえ、銀河の彼方まで飛んでいくような話もやっぱり大好きなんですけどね。この「マンデーンSF」という方向性はあっていいし、その中には傑作もあるでしょう。でもライマンのマニフェストは、ハードSFの幅を狭めてしまうので、あんまり面白くないのです。そしてそれは、方向性が違う野田司令の言う前向きなハードSFについても同じように感じるのです。

 それでは、この一月ほどで読んだ本から(読んだ順です)。

『幸福の遺伝子』 リチャード・パワーズ 新潮社
 現代アメリカ文学。でも読みやすく、本格SFとしても読める。SF的な側面は、科学によって変化していく現代社会と人間の倫理という、昔からの大きなテーマと、もう一つ、情報・言葉・物語によって多層化され、様々に語り騙られる世界という、メタフィクション的で現代SF的なテーマがある。
 幸福感や様々な人間的感情が、化学物質の作用によるものだということは、イーガンを待たなくても、ヴォネガットの昔からSFファンの常識だ。ただし、必要条件と十分条件を混同してはいけない。化学物質が感情を作るからといって、愛や幸福の価値が少しでも下がるはずはない。本書のメインストーリーは、それを現代の科学研究の現場と、インターネットやマスメディアの狂騒の中で、あくまでもリアルに描き出している。その中ですくっと立つ、力強く「幸福」な一人の少女と、翻弄されるへたれな主人公たち、そして自走する科学を肯定し、未来を築こうとする科学者と、懐疑的な目を向けつつそこに寄り添っていく科学ジャーナリストといったキャラクターたちを通じて。
 しかし、一見非人間的なマッドサイエンティストに見える科学者にしても、決して戯画化されてはおらず、共感できる生身の人間として描かれる。そもそも本書の科学者は「幸福の遺伝子」などとはいっていない。それはキャッチーなキーワードでしかない。科学的には日常用語の「幸福」ではなく、ある種心理テストのようなもので定義された「幸福感」の数値が、彼女の特定の遺伝子配列と有意な相関をもっていたということなのだろう。だが、彼は言葉のもつ、ミームの力も知っている。ミームはメディアを通じて拡散する。「幸福の遺伝子」というミームは、主人公たちの周囲の個人的なメディア(口コミやブログやSNSを含む)と、TV番組などマスメディアの二つのルートから、さらにマスメディアの中では、専門的な科学番組と大衆的なバラエティ番組の二つのルートから広がる。
 幸福感にあふれ、周りの人々にも強い影響を与える少女がおり、そこに科学的な裏づけが与えられる。ここで必要条件と十分条件の混同がおこり、幸福を求める人々が彼女に殺到する。幸福感を科学的事実がもたらすとして、幸福に科学的裏づけが必要なのだろうか? もちろんそんなことはないだろう。だが、この混同は現実に存在する深刻なものである。やがて人々の狂騒は反動に変じ、理不尽な運命が彼女と、彼女に関わる人々を襲う。
 そしてこれらの全てを別のレイヤーから描こうとする「私」がいる。それが本書のもう一つのテーマとなる。物語の虚構と現実は、ちょうど遺伝子とその表現型のような関係を示す。遺伝子が人間を描き出すとして、人間が遺伝子とイコールではないように、作家が小説を書くにもかかわらず、作家にはそのすべてをコントロールすることはできず、小説には独自の生命が宿るのである。

『アリス殺し』 小林泰三 東京創元社
 不思議の国で起こったハンプティ・ダンプティ殺人事件。それが恐るべき連続殺人に発展し、アリスが犯人と疑われる。一方、不思議の国は、こちらの(小説中での)現実世界と、夢を通じてリンクしている。とある大学の研究室の学生や教授たちが、不思議の国の人間や動物や怪物たちとリンクしており、互いの世界の記憶を(夢としてだが)共有しているのだった。
 だが、単に夢の世界というだけでなく、不思議の国は現実への影響力があるのだ。不思議の国で殺されたら、現実世界でもリンクしている人が事故死する。そこでアリスは、両方の世界で真犯人を捜そうとする。さもなければ、(アリスにとっては冤罪なのだが)不思議の国の女王に首を切られてしまうから。そうなれば現実世界のアリスも死んでしまうのだ。
 というわけで、本格推理小説なのだが、そもそも論理がねじくれており(でも論理的ではある)、登場人物たちはみんな一くせも二くせもある連中なので、頭が痛くなる。とにかく、冒頭のアリスと蜥蜴のビルの会話からして、小林泰三のひねくれ具合が大爆発。あー言えばこう言う、揚げ足とり、誤解・曲解、屁理屈、いちゃもん、いいがかり……聞いていると「いーっ」となるが、そのうちまるで論理学の教科書に見えてくるから不思議だ。
 最後はちゃんと謎も解けて結末がつくのだけれど、言葉によって築かれた小説世界は、言葉によっていかようにでも描くことができる。だからこそ、うっとおしくても、言葉の論理を追っていくことが重要なのだ。SF的な情報宇宙と、ごく近いところにあるのだといえるだろう。不思議の国の連中は、日常的な常識を解さないコンピュータ・プログラムのようで、だからフレーム問題を避けるため、これほど会話が細かくややこしいのだろう。いやー、変な人ばっかり出てきて、面白かった。みんなどんどん死んじゃうし。死に方はえげつないし。ぐちゃぐちゃどろどろでねじくれていても、論理の筋はしっかりと通っているという、いかにも作者らしい作品である。

『MM9 デストラクション』 山本弘 東京創元社
 SF怪獣小説の第三部。いよいよ最終決戦である。今回は〈気特対=気象庁特異生物対策部〉はほとんど出番が無く、地球を狙う宇宙怪獣(というか、これはもはやビッグバン宇宙対神話宇宙の闘いなのである)対、15歳くらいに成長した巨大化する幼女ヒメと、ヒメを助ける地球怪獣たちの最終決戦なのだ。
 語り手というか狂言回しの高校生一騎と、その幼なじみで彼に好意を持つ亜紀子、それにヒメとの微妙な三角関係は前作から引き続いており、おまけに今度は美少女の巫女ひかるも、ヒメの謎を知る鍵として関わってくる。一騎くん、まさにハーレム。しかもお約束のほんわか(エロはないけど妄想あり)シーンあり。まあ本書の前半はほとんどこの4人のいちゃいちゃと、古代神話の真相についての面白いがちょっとトンデモの入った蘊蓄(作者の得意技が炸裂し、怪しいくせにひょっとしたらと思わせ、とても面白い)が大半を占めているのだ。
 しかし、小学生のころ見て刷り込まれた東宝怪獣映画の記憶からすれば、ヒメは明らかにモスラであり、宇宙怪獣はキングギドラで、この闘いは三大怪獣地球最大の決戦なのである。数が合わないとか、姿形が違うとか、関係ない。地球を守るいいもんがモスラで、わるもんがキングギドラだ。作者がどこかで明らかにしているのかも知れないが、年寄りの怪獣ファンからすれば、それっきゃない。少なくともヒメに関しては、卵から生まれ蛾になるという伝説からも、殻に包まれて動かなくなったヒメが、最後に殻を破って出てくるところも、モスラであることは間違いないだろう。つまり萌え美少女化したモスラである。するとひかるは小美人か。いっそここは亜紀子とひかるで、ザ・ピーナッツだ。
 後半の、東海村を戦場とする怪獣同士の決戦は、自衛隊の活躍も含め、大迫力で素晴らしい。怪獣ものはこうでなくちゃ。となると、やっぱ前半のうる星風ハーレム展開はちょっと余計だったかも。

『宇宙はなぜこのような宇宙なのか』 青木薫 講談社現代新書
 副題は「人間原理と宇宙論」。著者はサイモン・シンやブライアン・グリーン、マンジット・クマールなど、多くの一般向け科学書を翻訳している翻訳家だが、自身、京大で理論物理を専攻した理学博士である。
 「人間原理」と聞くと、ちょっと身構えてしまうのだが、この人の本ならと安心して読める。わかりやすいし、科学史をふまえつつ、あまり知られていない情報もたくさん出てきて(例えば「コペルニクス的転回」という言葉の誤解や、アインシュタインの宇宙項の真の意味など)、とても面白い。
 本書の前半は、宇宙論の歴史が、はるか古代のバビロニア占星術からルネッサンスを経て近代、そしてアインシュタインの登場あたりまで、いくつかのトピックを中心に説き起こされる。先ほども書いたように、大体は知っていると思える内容なのだが、その中にそうだったのか、というような科学史の新しい知見が含まれていて、退屈しない。そんな昔から語られるのは、「人間原理」を理解するのに、科学がどう普遍化を目指し、地球や人間が特別な存在でなく、さらに宇宙にも特別な時間や特別な場所などはなくて、巨視的に見れば全ては平坦で定常な存在である、という原理を見いだそうとしてきたか、そしてそれに反するものは胡散臭く思ってきたか、との理解が必要だからである。
 ところがビッグバン宇宙論により、それが崩れる。宇宙に始まりがあるということは、無限に続く永遠の、どこを見ても常に同じ物理法則が支配する、本来そうあるべき「宇宙」ではなく、「この」宇宙、「今の」宇宙、「われわれ人間が存在している、このような」宇宙を考えざるを得ないということなのだ。だから「人間原理」である。といっても「弱い」人間原理、今の物理定数がこの値であるのは、「たまたま」「偶然に」そうなっているから、というのは、当たり前すぎるし、「強い」人間原理、宇宙は人間が(観測者が)このように観測できるように誕生した、というのはまさに宗教くさく、怪しすぎる。
 最初この言葉を知ったとき、ぼくも著者と同様に、とても胡散臭く感じたものである。だが、弱い人間原理だけでは説明できないパラメータも存在し、話をややこしくしていたのだ。
 ところがまたパラダイムが変わる。もし宇宙が無数にあるなら、「この」宇宙では偶然といえないパラメータも、無数にある宇宙の中で「たまたま」この宇宙に現れたものだということができる。強い人間原理が弱い人間原理と同じことになるのだ。宇宙論のようなマクロの方からも、ひも理論のようなミクロの方からも、多宇宙の考えが出てきて、それがつながる。そこで「怪しい」人間原理は当たり前のものとなるのだ。知識を整理する上でも、大変わかりやすく納得のいく良書である。
 ところで多宇宙と人間原理の関係はそんな言葉が一般的になる前から、ブリッシュやアンダースンの作品の中でも描かれ、SF的にはごく普通のものだったということは指摘しておきたい。

『パラークシの記憶』 マイクル・コーニイ 河出文庫
 『ハローサマー、グッドバイ』の続編。あれから何百年も後の話で、当然登場人物も代替わりしているのだが、それでも前作を読んでから読む方がいい。そのあたりのいきさつや、前作との違いについては、訳者後書きで簡潔にまとめられている。別にネタバレではないから、先に読んでおいてもいいだろう。
 地球人とは違う異星人の話なのに、ほとんどそうは思えないといったところも、ふたたび若い二人のいちゃいちゃでラブラブな、ちょっとイラッとするくらいのラブストーリーであるところも、前作と同じで、それは欠点ではない。前作では19世紀的な社会だったが、ここではそれが崩壊し、農業と狩猟採集の村落社会に戻っている。だからとても保守的な「田舎小説」の味わいもあり、殺人事件や権力闘争もあるのだが、あんまり殺伐とした感じではなく、田舎ものの頑迷さといった部分も含めて、どこか牧歌的である。
 SF的な設定は前作よりも多く、地球人や別の異星人も出てくる。また何十年も続く極寒期が訪れようとしており、人々には深刻な危機が迫っているのだが、それを気にしている人は少ない。SF設定はごく普通のありがちなもので、特に目新しくはなく、厳しくいえば色々と突っ込みどころはあるものの、それが弱点というわけでもない。わかりやすくていいと思う。
 とにかく、山の村と海辺の村の、権力者の血を引く少年と少女が、村の因習に逆らった恋をし、殺人事件に巻き込まれ、若さゆえのバカな行動や思慮のない行動もしでかしつつ、様々な障害に立ち向かって、やがて人々を危機から救うことになるというお話だ。いい話だよ。主人公や周辺の人物たちも情感豊かに描かれていて、はらはらしつつ読み進めることができる。SF的な物足りなさはあるものの、前作同様にロマンチックでほろ苦さのあるラブストーリーだ。まあ、基本的にはジュヴナイルだから、ずっと若い頃に読めば、もっと共感できたようにも思うのだが。

『星を創る者たち』 谷甲州 河出書房新社 NOVAコレクション
 25年前の「小説奇想天外」に掲載された3編(月のトンネル工事現場に漏れ出る砂、火星のドームでの火災、水星のマス・ドライバ建設現場での地震)、と、3年前から「NOVA」にその続きとして掲載された3編(木星大気に浮かぶプラットフォームの異常振動、金星の巨大な凧のような構造物への落雷、土星の衛星での陥没事故)、そして書き下ろしの1編(これらすべての背後にあるもの――そして太陽の上空に浮かぶ浮遊構造物)を加えた連作短篇集である。
 太陽系土木SFというのが一番ぴったりくる。ただし、書き下ろしの最終話で、ずいぶんと印象の違う話になった。ともあれ、本書は間違いなくハードSFの傑作である。巨大工事の現場管理者が、工期、予算、労務管理、コストカットで苦労しながら、現場のひやりハットを見逃さずに追求して、大事故を防ごうとする話。地味だけど、身につまされる人も多いと思う。
 88年の3篇が(改稿されているとはいえ)、最近のNOVA収録作と、ほとんど違和感なくつながるのも見事だ。前の作品に登場した主任が部長になって登場したりもする。1篇1篇は小さく解決はしているが、すっきりとしない終わり方だ。そして最後にとてつもない展開が――。
 もっともこのテーマ自体は昔からあるものだ。それがこんな文脈から出てくるのがすごい。しかし、このアイデア。何と超巨大な宇宙的インクジェットプリンターだ。メカニズムさえちゃんと作れるなら、何を印刷するかはソフトウェア次第。インクジェットプリンターの、ソフトでコントロールされたインクの一粒一粒は、まさか自分が美少女の絵になっているとは思わないだろう。てな話だね。
 クラークの「前哨」みたいに、異星の技術が関わってくるけれど、全体としてはとっても地味で、こういうのも「マンデーンSF」といっていいのかも知れない。本書は紛れもなくハードSFの傑作なのだけど、野田司令が言っていたようなハードSFとは、かなり方向が異なる。予算やら工期やら現場の管理やら、そんな「人間ドラマ」が中心だし。でも大好きです。


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