続・サンタロガ・バリア  (第131回)
津田文夫


 岡本俊弥さんの記事を見るまで300号記念と気付かなかったウツケだけれど、通巻300号達成はめでたいですなあ、善哉、善哉。
 めでたいと言えば今月は、結婚式の乾杯役などというものを新婦から仰せつかって、ええ加減な事をボソっと話してお役御免してもらったけれど、新婦の友人たち芳紀(昔は18いまは?)25歳の独身嬢が沢山いてちょっと蒸せた。当然隣にも25歳独身嬢がいたのだけれど、彼女は新婦同様5年来の知り合いなので安心して飲んでいられた。もう片方の席には同年代のわが同僚ということで新婦の配慮が嬉しい結婚式だった。息子の時もそうだったけれど、結婚式場のキリスト教風式典で聴く司祭の話しぶりはどうにかならんのかねえ。

 日本SF作家クラブ編『日本SF短編50 1973−1982』は前巻同様割とストレートな作品選択で、読んでいても忘れているものがほとんだから、それはそれで正しい選択といえる。ちょっと長めの作品が多くて読後感が結構もたれる。
 最近眉村卓の作品が面白く読めるようになっているのに気がついた。今回の「名残の雪」も、今や常套ともなった手法で書かれた作品だけれど、ドラマそのものが持つあの時代の大人っぽさが懐かしい。小松左京の「ゴルディアスの結び目」は今読むと、バラードが精神の歪みで「現実」を歪ませるのに対し、精神の歪みで物理学的な空間の歪みを発生させてハードSFを成立させている。それにしても少女のレイプショックが負のエネルギーに転じて・・・というのも常套のような感じだけれど、海外のSFではここまで直接的には描かれていないような気がするなあ。ある意味英米SFは基本的な上品さを強制されているか、または「女嫌い」は排除されるのかもしれない。その点では、新井素子の「ネプチューン」が「女性」性を謳い上げてカウンターパートを作りだしているのかも。

 『巨獣めざめる』を読み出したら、余りの常套に読む気が失せて、何か積ん読にしているような気がするなあと思って、本屋の袋に入ったままだったハードカヴァーを取り出すと、デイヴィッド・ミッチェル『クラウド・アトラス』上・下だった。映画を見てからとか思っている内に映画を見ないまま埋もれていたのである。タイトルは6種のエピソードの内、2番目の主人公である若い作曲家が遺作として書いた六重奏の曲名から。音楽ファンは「世の終わりのための四重奏」を思い出すかもしれないし、遠未来編「スルーシャの渡しとそん後すべて」を中央に1/2/3/4/5/6/5/4/3/2/1 というエピソードの置き方に「反行形」という音楽用語を思い出すかもしれない。バッハなどの曲の解説によく出てくる用語で、上昇する音符の並びが鏡に映したように同じ形で降りていくような旋律の形を指している。個人的には若い頃よく聴いたバルトークの「弦楽器、打楽器、チェレスタのための音楽」の第1楽章の強烈な弦楽合奏を思い出す。もっとも「クラウド・アトラス」自体はそこまでの作品とは思えないけれど。この若い作曲家のモデルとなったフェンビーとその師匠であるディーリアスの音楽は強烈さからはほど遠いところにある。ディーリアスの曲は好きなんだけれどねえ。
 音楽の話が長くなったけれど、個々のエピソードは、お手本に乗っ取って書かれているようであり、遠未来の物語は解説にもあるように『リドリー・ウォーカー』をお手本にしているようだ。30年前に10ページほど読んで、その未来の発音通りに書かれた文体というアイデアに付き合うのが面倒くさくて投げ出した人間の言う事じゃないが、ここでのエピソードの冒頭に似て、『リドリー・ウォーカー』も最初に死んだオヤジを埋める穴を掘るシーンが出てきたように記憶している(われながら全く信用できない記憶だけど)。お手本通りに書くというのは、常套のオンパレードでもある。すなわち通俗的。しかし、この作者のアイデアと技量の勝利は小技大技を入れ子にして繰り出したところにあるので、通俗的だということは批判にならずむしろ作者の目指したことに違いない。でなけりゃ、誰も読めない物語ができあがってしまうだろうから。

 いかにも気軽に読めそうな表紙絵が付いた小川一水『コロロギ岳から木星トロヤへ』は、広大な時空の事件を室内劇で処理した一品。基本は息抜きとして読めるようなものをということで、ほぼその通りな仕上がり。舞台化できるんじゃないかと思われるほどコンパクトで面白い中編だけれど、SFとしての説得力は弱い。

 ページ数こそ350ページだけど物語としては中編の結構を持つ藤井大洋『GENE PAPPER -full build-』は、仮想現実とバイオ・テクノロジーの描き方がかなりハードな一作。物語と登場人物のキャラ立ちとの間に少しズレが感じられる。読んでる間はあまり気にならなかったけれど、物理的な肉体が動く部分での物語づくりが弱いのかもしれない。

 『蛇の卵』につづいて、こちらは満を持してというべきか、いまごろ翻訳なったというべきか、すごい昔からそのタイトルは知られていたR・A・ラファティ『第四の館』。原題はFourth Mansions と複数。ググッてみたら、聖テレサの文章らしいものが引っかかって、「これらの館は王の家にほど近いので、とても美しく・・・」とあったので、やはり複数あるようだ(原文はおそらく訳者解説に出てくる文章と同じだけれど、館が複数であることを確認したかっただけです)。それはさておき、『第四の館』は『蛇の卵』に比べるとずっと60年代を感じさせる作品だった。『蛇の卵』には60年代っぽさはなく、何を感じていたかというとディックっぽさだったのかもしれない。60年代っぽさというのは、これがテリイ・カー肝煎りのオリジナル・ペイパーバック叢書(一部再録あり)、エース・サイエンス・フィクション・スペシャルの1冊だったことが大きいのだけれど、原書のイメージはなぜかハードカヴァーなんだよねえ。
 これで当時出ていたラファティの初期長編4作が翻訳されたわけだけれど、どの1冊も一応物語を追うことはできるが、本当は何が書いてあるんだかよく分からない。伊藤・浅倉コンビによって訳された短編でのラファティの面白さと長編で見せるラファティの難解さの落差は大きい。でも、読まずには居られないんだなあ。

 積ん読の棚から今回引っ張り出したのは、2002年初刷りの岩波文庫で吉川幸次郎『漱石詩注』。漱石の小説をまともに読んだこともない人間が、なんでこんなモノを読むかという気がするのだけれど、実は何十年か前にソフトカヴァーにビニールが掛かった漱石の漢詩解説書を読んだ覚えがある。ググってみてもそんな本の存在は見つからないのだけれど、これもニセ記憶か。それにしちゃあビニールが破れた記憶もあって確からしいんだが。何かと何かの記憶が合成されたのかとも思うけれど、まいいや。
 吉川幸次郎も嘆くように、戦後日本人の漢詩(漢文)読解力はすごいスピードで低下した。自分もその一人だが、なぜか漢詩を書く日本人を取り上げた本を何冊か読んでいる。石川淳が好きということもあって、和漢洋の豊かな教養というヤツにちょっとあこがれがあるのかも。
 漱石の漢詩は素人目にもその没年の半年で成された数多くの「無題」詩が素晴らしい。それはたとえ中途半端な形でも読むものに何かの境地を感じさせる。巷間流布した漱石の生涯を思えばなおさらだ。
 ちょうど読んでいる時に、県立美術館で「夏目漱石の美術世界」展が開催されているのに気がついて、これも何かのシンクロニシティと思い覗いてみた。都合よくタダ券も手に入ったし。美術展としては一種のゲテものだけれど(だって漱石が触れた超有名作は写真パネルなんだから)、面白い試みであることは確か。監修者が比較文学が専門で現在静岡県立美術館館長の芳賀徹ということもあり、いかにもそういう感じだ。イギリスで漱石が気に入った西洋画はラファエル前派みたいな一種のアンチ西洋画だったらしい。初めて見た漱石自筆の山水画はどれも窮屈で漱石の性格の一端を窺わせる。また何人かの優秀な画家に装幀させていた漱石は一時装幀にも手を出していた。よく見る柿色の地に漢字を施した漱石全集がそれだった。俗なところでは、自筆画を含め漱石の遺作原稿のほとんどは岩波書店所蔵ということが分かるし。このあと静岡と東京芸大を巡回するらしいので、お近くで興味のある向きは見るがよろしい。

 音楽本では、井上太郎『レクイエムの歴史』が拾いものだった。著者自ら言うように世界でも類がないというレクイエムだけを歴史的に通観した本。グレゴリオ聖歌とレクイエムの歌詞の解説から始まって、14世紀のギヨーム・ド・マショーから20世紀末の三枝成彰まで130曲を超えるレクイエムを取り上げて曲を聴き解説したもの。好事家以外には用はないシロモノだけれど、趣味の本は大抵そんなものだ。最初、なんでバーンスタインの名前がないのかと思ったが、バーンスタインのはミサ曲だった。暇な人はクセジュの『西洋音楽史年表』と合わせて読むのが吉。

 積ん読の棚からもう1冊、司馬遼太郎『アームストロング砲』。講談社文庫1988年初刷、1991年7月4日7刷。これは中身より個人的なアイテムな1冊。当時は毎年7月の終わりまたは8月始めにSF海水浴に行っていたけれど、ちょうど仕事が今に繋がる歴史部門になったので、それまで歴史なんぞに興味はなかったから、少しは参考になるかと思い、列車の中で読もうとキオスクで買い求めた。短編集で読みやすそうだったし(バカですね)。SF仲間との海水浴に行くのに、そんな本が読めるわけもなく、そのまま持って帰って以来ずっと今まで積ん読になっていた。
 で、今頃読んでみたわけだけれど、中身は昭和41年頃に集中して書かれた幕末ものを集めた短編集。1991年の夏にこれを読まなかったのは正解。こんなモノを歴史の副読本にしてはいけません。それは歴史的な資料がまともに扱われているかとかいう問題ではなく、これはエンターテインメントとして書かれていて、その意味では半村良の「およね平吉時穴道行」と変わりはないのだ。そして当然面白い。
 仕事的には表題作が興味深い。鍋島閑叟の下には、ここで取りあげられた田中儀右衛門や佐野常民ほど今に伝わっていないし、この作品には出てこないが、彼らと同時代を生き、その後明治海軍の重鎮となった佐賀藩士中牟田倉之助もいた。長崎海軍伝習所2期生(佐野は1期生)として操船を学び、また英語を習得した後、高杉晋作と上海に渡った若き日の中牟田の影がこの作品にも見える。
 「司馬史観」というのは、おそらくその膨大な歴史エッセイからつけられたのだろうが、少なくともこの短編集に「史観」はない。あるのは無類のエンターテインメント(ポルノだってある)であり、SF読みとしては大して縁のある小説ではない(いくら面白くてもSFじゃないからね)。
 


THATTA 301号へ戻る

トップページへ戻る