続・サンタロガ・バリア  (第113回)
津田文夫


 ステレオの季節だというのに最近は何故かご無沙汰である。Youtubeばかり見ている所為だな。そうはいってもケンペのバイロイト・ライヴ版「ローエングリン」が出たので聴いてみた。ケンペの「ローエングリン」といえばウィーン・フィルとのスタジオ盤が素晴らしい出来で有名だけれど、このライヴも凄くいい。第1幕の終わりの方でソリストとコーラスとオケが一体となって盛り上がるところなんぞ、セリフの中身とは関係なく目頭が熱くなる。ワグナーの作品中では第3幕への前奏曲とそれに続く結婚行進曲が、聴けばだれでも知っているメロディーというくらい有名な作品だけれど、主人公に名前を訊ねてはならんというストーリーは何が面白いんだかよく分からない。このライヴでは男声陣がジェイムズ・キング、カール・リーダーブッシュにドナルド・マッキタイアと粒ぞろい。ヒロインを演じるヘザー・ハーパーは癖のない声で可憐だけど強い個性はない。でも全体的にはケンペの棒に良く乗っている。Youtubeを見るのをやめて、ステレオを聴くべきだなあ。

 ハヤカワ文庫JAラノベ作家シリーズの瀬尾つかさ『約束の方船』上・下は思ったよりずっと読み応えのある作品だった。文章、物語とも作り方がオーソドックスなので、良質なジュヴナイルを読んだ気分だ。何かの事故でベガーと呼ばれるゼリー状のボディに知性体のコアを収めた生物と戦争状態になって船の多くの部分が失われた世代宇宙船が舞台ということで、これまたオーソドックス。主要登場人物となる少年少女や大人たちの描き方もエキセントリックになることなく行儀がいい。こういう風に説明しているとおとなしいタイプの作品のように思われるが、筋運びの上手さで最後まで物語を追うことが出来きるし、主要キャラの扱いのシビアさにビックリさせられることもあって、印象に残る。特に主要女性キャラに対する厳しい試練と主人公の男の子のボンクラエリートな造りは、作者の嗜好が判って面白い。

 読んだのは10月だったけれど、後半の作品を訳者山岸真後書きと大野万紀解説を参考にして再読してみたグレッグ・イーガン『プランク・ダイヴ』は、その数学的物理的ハードSFとしての語りと物語づくりのための登場人物のあいだに乖離が強く意識された作品集だった。「クリスタルの夜」はチーラ人を思い出しながら読んでしまったが、作者の倫理観は今のところまだ過激ということになるだろう。それもSFには違いないが。「エキストラ」はさんざん使い古された話を最新の科学で再話したものだけれど、やっぱり話が古い。「暗黒整数」はあの「ルミナス」の続編。話が冗長な分ずっと読みやすくサスペンスも通俗的で、普通に楽しめる。その分不気味さが減ってけれど。
 次の「グローリー」あたりからイーガン節が堪能できるハードSFぶりとキャラクターによる物語の進行との間の齟齬が感じられるようになった。最初読んだときは眠い頭で読み流したため、冒頭のハードSF中のハードSFな描写がピンと来なかった。本題の異星文化人類学的調査風な話は普通に読めたが、読後感がどうも変だった。再読して冒頭の描写の抜群のかっこよさが理解できたが、物語に入って、今度はこのハードSF的格好良さが物語の成立にほとんど寄与していないことが気になった。先住民族の数学的遺跡調査にやって来た女性らしき調査員の意識や行動とカリカチュアっぽい惑星住民の政治形態から来る危機は物語を荒っぽいものに見せていて、物足りなさを感じさせるのだ。
 「ワンの絨毯」がクラークの「メデューサとの出会い」を想起させながら、目眩くワンダーをコンピュータの論理を使って実現してしまう決定打であることは間違いない。しかしここでの「人間たち」は文字通りキャラクターとして存在し、それはあの超オタクSF『ゴールデン・エイジ』のキャラクターたちを思い起こさせる。ひとつの人格が多数のコピーとして存在する設定は、コピー以降の人格が一回性の経験を積み重ねることでどのコピーも自分自身として生きることになるのだろうが、その人格をヒトとして捉えたときに生ずる倫理性がおそらく乖離の予感だったのだろう。自分でも何を書いているのか明確ではないけれど、光速を絶対の限界として恒星間や銀河間を舞台とした場合にソフトウェア人格が登場人物として動き回ることの相対性と絶対性みたいなところにイーガンのハードな設定がある種の齟齬を感じさせるのだと思う。「プランク・ダイヴ」はそれを正面から採りあげているように見えるが、「播種」になると生の唯一性は保持されるオーソドックスな設定になっている。「クリスタルの夜」はイーガンのソウトウェア知性に関するマニュフェストなのだろう。

 大森望編『NOVA6』の感想をと思ったら、『NOVA5』の感想を書き忘れたようで、自分の頭の中では確かに書いたように記憶されていたのに不可解。老人ボケか。ま、いいや、覚えている範囲(相当忘れている)でコメントしておこうっと。手元に5がないので、目次を検索してみた。上田早夕里「ナイト・ブルーの記録」はソフトウェアに人の癖が移るような話だったけれど、いかにも作者らしい正攻法な感触が残っている。図子慧「愛は、こぼれるqの音色」は変なサスペンスもの。エロいのか、これ。須賀しのぶ「凍て蝶」は思い出せない。石持浅海「三階に止まる」手慣れた怪談のように読める。友成純一「アサムラール バリに死す」これまたホラーで中島らもかい、とも思ったがけっこう好きな話だ。宮内悠介「スペース金融道」こういうネタで書ける人がちゃんといるんだねえ。東浩紀「火星のプリンセス 続」は最初の短編の簡素な透明度がかなり濁ってきた感じが強いけれど、どう締めるのかはちょっと期待しておこう。伊坂幸太郎「密使」みんな面白かったと書いているけれど、さっぱり覚えていないのだった。

 で、『NOVA6』の方に移ると、こちらは全体として地味なイメージがある。それは死者が語るというイメージが後半に集中しているからだろう。斉藤直子「白い恋人たち」から高山羽根子「母のいる島」まで、テーマ的な重さは別として軽みが残る読後感だけれど、船戸一人「リビング・オブ・ザ・デッド」から後は軽みは消えて深刻ぶりが強くなる。巻末の宮部みゆき「保安官の明日」がストーリーテリングで一日の長を感じさせるのは当然としても、SFとしては保守的な部類だろう。集中では七佳弁京「十五年の孤独」が昔ながらのSFで古くて新鮮。結末はもう一ひねり欲しいけれど。

 円城塔『これはペンです』に収められた2編はリーダビリティが普通で内容はちっとも普通じゃない。でも、内容の方も既に普通になっているのかもしれないと思わせるところがミソかな。表題作が芥川賞の候補作ということで、選考委員の好悪がはっきりと分かれたらしいけれど、昔文芸誌で、星新一がインタビュアーから公害が文学になるんですかねえと呆れられたという話を思い出した。作家が言葉を使う以上言葉が文学として機能すると云うことを考察した小説はいくつも書かれてきたことだろう。これもその流れの中にあって仕組みが真新しい、もしくは今のところ円城塔にしか出来ない書き方がしてあるため、評価が分かれたと思う。「良い夜を持っている」の方はより普通の小説らしく見えるし、最後の叙情的な描写がどのような運命に有ろうともヒトには希望があることを語っていて、表題作冒頭の一文「叔父は文字だ。文字通り。」という不逞な宣言をキャッチしている。

 都筑道夫『推理作家の出来るまで』上・下も『都筑道夫の読ホリデイ』同様フリースタイル社のディスカウント本。既に大いに話題になった本だけれど、一部に早川SFシリーズ創刊に関わるエピソードがあったからといってほいほいと買える値段でもなかった。ミステリ門外漢を自認している身としては仕方のないところ。しかし、前回に書いたように都筑道夫の文章はミステリ門外漢にも十分愉しく読めるのである。こちらは都筑道夫がまだ元気なときに書かれた半生記だけあって『都筑道夫の読ホリデイ』よりもずっと面白い。凹み気質といいながら常人には蛮勇たっぷりに見える都筑道夫はやはり作家になるべくして育ってきたことがこの本からよく分かる。文章を書くことが自らのエンターテインメントとなる人間は作家になるしかないだろう。他人の目からはビックリするような出会いも他愛のない出会いも作家にとっては同じ重みを持って語られる。そこに都筑道夫の真摯さと企みが同居しているのだ。SFファンにとっては早川書房時代の部分がなんといってもうれしい。それにしても寸暇を惜しんで原書を読みまくるって云う時代がうらやましいな。
 


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