内 輪   第252回

大野万紀


 小松さんの訃報を聞いて、やはりショックだった。会社で仕事の文書を作りながらも、何となく小松さんのことについて考えていた。
 SF御三家というけれど、ぼくにとって日本SFのど真ん中は小松左京である。小松さんがいなかったら、日本SFは中心を喪失したままだっただろうと思う。
 小松左京が書くようなSFを書く作家は(光瀬龍は少し近いものがあったが)、他にいなかった。
 つまり、「すこしふしぎ」なSFを書く人はいるだろう。タイムトラベルものやIFの世界、『復活の日』や『日本沈没』のような大災害や大破滅を 書く作家も間違いなくいるだろう。本格宇宙SFは数少ないだろうが、宇宙開発ものや宇宙からの侵略、スペースオペラも書かれるだろう。
 『継ぐのは誰か』を継ぐのは誰かと考えていたら『ジェノサイド』のような作品も書かれた。
 書かれなかっただろうと思うのは、『果しなき流れの果に』や中篇「神への長い道」といった作品である。人間や社会、世界といった視点ではなく、裸の 「自分」と巨大な「時間」「宇宙」が直接向き合うような哲学的なSF、宇宙の向かう先に、果てしなき時間の果てに何があるのか、それを知りたいとするSF だ。
 これこそ英米SFではステープルドンからクラークへと続くテーマであり、中学・高校生のぼくがSFにめくるめくセンスオブワンダーを覚えたテーマでもある。
 小松さんは(そしてある時期までクラークも)、進化には目的があり、宇宙には意味があると考えていた。これはもちろん現代の科学とは相容れない考えである。
 神への長い道はなく、果しなき流れの果により「善い」宇宙を選択できたとしても、選ばれなかった宇宙もまた等価である。進化に目的はなく、それは多様性と適応の問題であり、秩序はカオスの中から現れる。
 カオティックな宇宙の中で、小松左京のSFは敗北したのか?
 そんなことはないと思う。小松さんが元気なら、何らかの答えを持っていたと思う。そんなカオスな世界の中での、未来を夢見る霊長類の行く末を。
 イーガンの日本オリジナル短編集の解説を書くことが決まった日、小松さんが亡くなったことを知った。知の巨人、SF的想像力の活火山である小松さんが、もしもイーガンに対抗する作品を書いたとしたら、とふと思ったのでした。

 そして、夏の1日、神戸文学館で9月25日まで開催されている小松左京展へ行ってきた。
 こぢんまりした静かな空間に、小松さんの生原稿や当時の写真や資料などが展示してあり、小規模だがじっくり見れば興味は尽きない。
 びっくりしたのが、『日本アパッチ族』を執筆したときの構想ノート。アパッチ族が鉄を消化するという設定を、化学式を駆使して検討している。ハードSFだ。
 ぽつりぽつりと訪れる客は、みんなぼくと同年代かそれ以上のおじさん、おばさんばかり。みな静かに展示を見ている。
 追悼ノートが置かれていて、昔からのSFファンらしき人の追悼の言葉が書かれている。機本伸司さんの名もあったような。ぼくもその場で思いついたことをメモして帰る。
 神戸文学館へ来たのは2度目だけれど、いい雰囲気だ。とても落ち着きます。また行きたい。
 下の写真は、神戸文学館の入り口、アパッチ族の構想ノート、そして日本沈没を計算するのに使ったという当時13万円の電卓。
 (クリックすれば拡大表示されます)

 それでは、この一月ほどで読んだ本から(読んだ順です)。

『マルドゥック・フラグメンツ』 冲方丁 ハヤカワ文庫JA
 マルドゥック・シリーズを補完する短編集、ということで、『マルドゥック・スクランブル』を補完する3編、『マルドゥック・ベロシティ』を補完する1編、これから書かれるという『マルドゥック・アノニマス』を補完する2編、それに編集者との対談が1つ、おまけに『マルドゥック・スクランブル』の初期原稿だという「事件屋稼業」の冒頭抜粋も載っている。これでもか、というお得感のある一冊だ。
 マルドゥック・シリーズの裏テーマ(というのか)の一つに、「法令遵守」があると思う。マネーロンダリングがよく出てくるが、要するに表面上はきれいに法令遵守しているように見せながら、裏でえげつなくやっているというわけだ。そもそも〈スクランブル-O9〉こそ、人が決めたルールの中でしか生きられない、いや逆にそれを根拠として生き抜く連中のことなのだから。
 そういう意味で、ぼくが本書で一番好きなのは「マルドゥック・スクランブル”104”」だ。ごく短い短篇なのに、法令遵守で手続き重視な几帳面さと激しい生き死にの戦いとが、笑うしかないギャグとなってぶつかり合っている。かたや、法令が執行されて相手を守る根拠が得られるまでの時間待ち、かたや、ホテルを1階ずつ買い取って軍事演習をするという、形式主義もここまでくればりっぱだ。しかし、こういう形式的なルールこそが、マルドゥックを存続させている根拠なのだろう。

『はぐれ猿は熱帯雨林の夢を見るか』 篠田節子 文藝春秋
 「深海のEEL」「豚と人骨」「はぐれ猿は熱帯雨林の夢を見るか」「エデン」の中・短編4編を収録している。SFとは書かれていないが、いずれも間違いなくSFである。
 面白かったのは「深海のEEL」。駿河湾に大量発生した巨大ウナギ、深海のレアメタルを巡る国際間の緊張、特許問題といったタイムリーなテーマを扱いながら、企業小説や国際謀略小説に向かわず、しっかりとSFに(それもユーモアたっぷりに)している。科学的アイデアが底にあり、それが社会にどのように関わっていくかという意味で、きわめて正統的なSF小説である。
 「豚と人骨」はマンションの建設用地に古代の人骨が大量に見つかったところから、調査発掘の話につながり、そして縄文時代のある秘密が明らかとなる。これも様々なテーマが複合しているが、根本にはきわめて科学的なアイデアがあり、SF的な仮説が描かれる。
 「はぐれ猿は熱帯雨林の夢を見るか」はちょっとタイトルがミスマッチで、これは地方のハイテク企業に働く女性を主人公にした、人工知能・ロボットSFである。ちょっと菅浩江のロボットSFを思わせるところもあり、本書の中ではもっともほのぼのと読める話だ。
 最後の「エデン」は問題作。カナダと思われるリゾート地から拉致され、極北のトンネル建設現場で働かされる日本の学生が主人公。この現場が異様で、ほとんど異星の植民地。自給自足で、年1度のコンボイが資材と補給を運んでくる。脱出はできない。暴力で支配されているわけではないが、家族的なコミュニティを形成しており、63年の工期を完了するまで、この小世界を抜け出せないのだ。そのあたりの理屈はもう一つはっきりせず、納得いかないところもあるのだが、この小世界のリアリティは衝撃的で、シチュエーションとして最もSF的な一編である。

『希望』 瀬名秀明 ハヤカワ文庫
 瀬名秀明のSF短編集。連作短編集を除けば、これが第一短編集となる。2008年以後に発表された7編が収録されているが、うち5編が2010年の作品である。まさに最新の短編集である。そしていずれも傑作である。
 風野春樹の解説がいい。そこで指摘されているように、本書の作品はいずれも挑発的で、物語としてのストレートな結末はなく、不条理な展開に満ちている。読者を突き放すような小説ではあるが、どれも刺激的で、どこかロマンティックな魅力があり、美しく、読み応えがある。
 科学者あるいは理系の教育を受けた男女のラブストーリーが中心にあるのだが、”普通の”ラブストーリーにはならない。キーワードだけあげると、9.11以後の不条理なテロリズム(とりわけ自爆テロ)、物理学的「エレガントな宇宙」への疑問、質量と慣性、ロボットと人間、未来の不確定さ、コミュニケーションの構造分析、人間の(心ではなく)肉体が、手と指が作り出すもの、といったものが繰り返し描かれている。
 人間はなぜ科学の方法論で世界を見ようとするのだろう。それもオッカムの剃刀を使って、なるべく単純に、すっきりと、エレガントに美しく表そうとするのだろう。現実は複雑で対称性は崩れ、カオスの中にあるというのに。その苛立ちが「希望」に爆発している。だが、作者は反科学を主張しているのか。そうではない。それは「鶫(つぐみ)と鷚(ひばり)」のような、作品を読めばわかる。これは実に力強い、空の冒険者たちの物語であるが、同時に未知を目指す人間の意志の物語である。日常性を切り捨て、命を賭けても荒野を目指す、荒々しい欲望の物語。エレガントではない「科学」がここにはある。「科学」といってしまってはいけないのかも知れない。それは「物語」であり「哲学」なのかも知れない。風野春樹が指摘しているように、それは小松左京のビジョンに通じる、SFの王道でもあるのだ。もっとも、そういう小松左京的ビジョンへのアンビバレンツな反発もここには確かに描かれている。

『隠れていた宇宙』 ブライアン・グリーン 早川書房
 超ひも理論の研究者で、ベストセラー『エレガントな宇宙』の著者による、多宇宙(マルチバース)の一般向け科学解説書。
 科学の最先端で現れる多宇宙、並行宇宙の様々なありさまを解説していて、とても面白い。すらすらと読めるのだが、内容は本格的で理解するのは大変だ。でも、本文ではたとえ話で煙に巻かれたような気がするところも、巻末の原注を読めばきちんと考察されていることがわかり、やっぱり理解は難しいにしろ、安心感がある。
 実にたくさんの多宇宙(何と9種類)が解説されているが、それぞれは別の理論から出てきたもので、互いに関連するものもあれば、関連のないものもある。章題の付け方とか、いいですね。「近所をうろつく宇宙」なんて。こら、そこの宇宙、うちの近所をうろつくんじゃない! みたいな。
 それにしてもエベレット的な量子多宇宙はもう定説なのか。でも本書の他の多宇宙と違って、一体どこにあるんだろう。原注で、量子多宇宙の数は有限個だというのにはびっくり。無限の可能性があるわけじゃないんだ。
 ホログラフィック多宇宙は、雑誌などで時々目にしていたが、きちんと整理された話は初めて読んだ。これにはすごくセンス・オブ・ワンダーを感じた。
 シミュレーション多宇宙については、著者があんまり真剣に考えていないみたいで、ちょっと物足りない。
 一番面白かったのは、多宇宙のような検証困難なものが、科学の対象たりうるのかということを考察した章。実験で検証できない数学的思弁の産物であっても、間違いなく科学の対象だというのが著者の結論だ。これには同意したい。

『年刊日本SF傑作選 結晶銀河』 大森望・日下三蔵編 創元SF文庫
 2010年の日本SF14編と、第2回創元SF短篇賞の受賞作と選評が収録されている。
 さすがに読んだ作品が多い。それにしても『結晶銀河』というタイトルはいかにも大仰で、本書の内容には合わないように感じた。小松左京的、本格SF的な作品というよりも、もっと私的で、幻想的な作品が多いように思う。
 長寿の子供が生まれることになった世代を描いた冲方丁「メトセラとプラスチックと太陽の臓器」は軽妙な文体で昔からある面白いテーマを扱っている。
 星雲賞受賞作である小川一水「アリスマ王の愛した魔物」は千夜一夜物語風の寓話で、人力コンピュータを扱っているが、正直いって作者の力量ならもっと突っ込んだ内容にできたはず。ちょっと物足りない。
 上田早百合「完全なる脳髄」は『華竜の宮』と同じ設定で、機械人と人間との関係を描く、まさにフランケンシュタイン・テーマの作品。
 津原泰水「五色の船」はSF用語を使わない多宇宙ものSFであるが、それより何より、フリークたちの物語としてあまりにも切なく、美しい。やはり傑作だ。
 瀬名秀明「光の栞」も美しい作品であるが、本書になぜこの作品が選ばれたのか、選者の説明が欲しかった。
 円城塔「エデン逆行」も端正な作品だが、こちらは数学SF。とはいうものの、山尾悠子の書くような幻想的な都市の小説として読める。
 伴名練「ゼロ年代の臨界点」は架空評論。この人の作品を読むのは初めてだったが、京大SF研のWORKBOOKに載っていたのか。20世紀のゼロ年代、明治時代の女学校で優れたSFが書かれていたという話だが、まさに古典SF評論のノリで、とても面白かった。ここで紹介されたSFを読んでみたいね。
 谷甲州「メデューサ複合体」は宇宙土木SFだが、すごく地味な話(そこがいいのだが)。
 長谷敏司「allo,toi,toi」は脳に人工神経を埋め込むことで、犯罪者の人格改造を図ろうとする話だが、幼女殺人の服役中の犯罪者を主人公に描いた、イーガンの作品にも通じる傑作である。
 さて、創元SF短篇賞の酉島伝法「皆勤の徒」は、おそろしくグロテスクな世界を独特の表現で描いた、とてもインパクトのある作品である。大森望の選評にある、ティプトリー「愛はさだめ、さだめは死」と北野勇作の会社員SFが合体したような、という言葉は納得。会社員というか、ぐちゃぐちゃどろどろの工場ものですね。『ねじまき少女』の工場もちょっと感じが似ているような。しかし、独特の用語はインパクトはあるが、とても読みにくい。次回作がどのようなものになるのか、ちょっと不安もある。

『MM9 インベーション』 山本弘 東京創元社
 怪獣SF『MM9』の続編。前作のような連作短編ではなく、長編となっている。
 前作でも大変インパクトのあった巨大化する幼女、ヒメが、何と15歳くらいの美少女となって再登場。彼女がビキニ姿で、東京中枢を破壊しようとする宇宙怪獣と戦うのが本書のメインストーリーだ。しかし、表紙に宇宙怪獣はいるが、半裸の美少女はいないぞ。ダメじゃないですか。
 面白かったから別にかまわないのだけれど、実は本書の三分の二(適当)くらいを占めているのは、怪獣と美少女の戦いではなく、突然家に異常な美少女(ヒメ)がやってきて、しかも幼なじみの女の子に誤解され、おたおたする高校一年生の男子のベタベタなラブコメだ。ラムちゃんとしのぶの間で翻弄されるあたると同じシチュエーション(古くてごめん)で、臆面もないというか、実にストレートに描かれている。
 後半の、怪獣パニックはさすがに力が入っていて、迫力がある。もっともぼく自身は怪獣への愛はあるがウルトラシリーズへの愛はあんまりないので、パロディ部分はあんまり興味なかった。ヒメも宇宙人の意識を憑依させていて、ちょっと変わった女の子として、男の子とラノベ風に意思疎通できるのだが、ここは本来の「怪獣」として描かれていればもっと面白かったように思う。
 ところで、最後にしのぶ役の彼女が男の子に「獣姦はだめだぞ」というのはちょっといただけない。高校1年生のちょっとウブな彼女が幼なじみのボーイフレンドにいうべき言葉じゃないし、そもそもヒメに対して残酷だ。いくら何でもどん引きでしょう。
 エピローグはまたありがちではあるが、悪くない。でもこの方向で進むと、気特対の存在は重要じゃなくなっていくような気がする。


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