続・サンタロガ・バリア  (第93回)
津田文夫


 久しぶりの東京出張で、新聞も読まずテレビも見ず、ましてやインターネット環境にも近寄らず(これでケータイも手放せたらなあ)、昼は永田町と恵比寿の図書館に籠もり、夜はあちらこちらフラフラして、東京から帰ってきてミクシを見たら、浅倉さんが亡くなっていた。なんということだ。量子脳計算機は何処にあるのだ。浅倉さんの新訳が読める世界があるに違いない。野田さん、柴野さん、浅倉さんと、ずっと当たり前にいてSFの面白さを伝え続けてくれた神様たちがこの世界からいなくなってしまったことになにか違和感を覚える。

 2月の半ばの東京はどこのホールも3日連続休館またはリハーサルばかりで、選択肢は東京文化会館の二期会オペラか東京芸術劇場のアマチュア合唱団の「ミサ・ソレムニス」ぐらいしかない。同じ日の公演だったが、財布と相談して東京芸術劇場へ。3階席にいったら巨大な空間の向こうに超モダンなパイプオルガンの演奏席が見える。おお、これは「ミサ・ソレムニス」のオルガンが聴けるぞと思っていたら、意外に聴き取りにくい。空間が広すぎだ。オケは東京フィルハーモニーで、ソリストは知らないメンバー。バリトンの人が総勢200人を超えそうな中高年合唱団の指導者らしい。実際に鳴った音は聞き慣れたレコードの崇高な響きとはとはだいぶ違う印象だったけれど、まあ生で聴くことは滅多にないのでよく分からない。とにかく巨大な空間で「サンクトゥス」でコン・マスによって奏でられる長いヴァイオリン・ソロも途切れがちに聞こえてくる。終演後、7割方埋まった客席の拍手がひどく薄っぺらに聞こえる。サントリーホールとはえらい違いだ。東京の天気は雨降りに雪模様だったし、残念。
 帰りがけに買ったマッシヴ・アタックの新作はイマイチ。デーモン・アルバーンが歌うとフツーのロックに聞こえる。

 「想像力の文学」の円城塔『後藤さんのこと』は収録作がそれぞれ何かのパスティーシュのように読める作品集。でも相変わらず分かるということがない。それはオビ小説からしてそのようになっている。ある種のパズルのようなつくりが円城塔の作風を予告しているのだけれど、「目次」は同時に「奥付」でと、あれこれ工夫に付き合っていると頭が疲れるので、中途半端な努力は報われない。表題作は贅沢な4色刷にビックリする。冒頭の「一般の性質」に付けられた色の文章を追いかけてみると文章がつながっているように見えたりするが、それも仕掛けの一つなのだろう。巻末の「墓標天球」が一番普通のファンタジーに近い。近いと思わせてるだけみたいだけど。

 執筆再開後のクラークは啓して遠ざけたためまったく読んでいないのだけど、これが最後でしかもポールとの合作というので読んでみたアーサー・C・クラーク/フレデリック・ポール『最終定理』。30年前ならあり得ない組み合わせだったろうけど、80歳代と90歳代のもはや同世代の大物現役SF作家がほとんど逝去してしまった老大家同士ということなんだろう。まあ何も期待しないで読み始めたら、クラークの素朴な願い/想いのちょっと侘びしい感じと政治性が少しも衰えないポールの攻撃性が相俟っておかしな具合の作品に仕上がっている。タイトルの数学史のエピソードと天才数学者の主人公の話はあまりリアリティがないけれど、ポールが描いたと思われるテロや失敗国家への揶揄はくどいくらい繰り返される。その一方でスリランカ出身者ばかりで構成されたの主人公周辺は変にオプティミスティックだ。全体的はユルい感じで、貶してもしようがない境地の大家たちの作品ではある。

 出張中に読んだのが、ダン・シモンズ『ヘリックスの孤児』。ダン・シモンズの話づくりの上手さは認めるけれど、好きになれないということはもう何回も書いたような気がする。なにが気にくわないのか自分でもよく分からないのだけれど、その作品にどこかピッタリと来ないものを感じ続けている。各作品に付けられた饒舌な作品紹介エッセイもどこか気に障る。冒頭の「ケリー・ダールを探して」などはよく考えついたなあと思う一方、こんな話は面白くないよ、第一偽物っぽいじゃないか、という感じがつきまとう。いわゆるSF作品ではその感覚が少し薄れるが、「アヴの月、九日」などは作品紹介エッセイを読んでゲンナリしてしまう。「カナカレデスとK2に登る」が山登りの描写が達者で一番楽しめたか。もしかしてダン・シモンズはレムいうところのスタージョンかもしれない。

 出張前に読み始めて、帰ってきて読み終えた東浩紀『クォンタム・ファミリーズ』はなかなかの力作。『動物化するポストモダン』を実作化したというか、この評論の中で言及されるパソコンゲーム「この世の果てで恋を唄う少女 ユーノ」の影響が強いのではないかと思われる。パソコンゲームはまったくやったことがないので、当て推量も良いところだが、パラレルワールドのシナリオ構成を消化した成果がこの作品に現れているように思われる。量子脳計算機というちょっと語呂が悪いが、平行世界の持ち込みにぴったりな仕掛けで作品のSF性を保証しつつ、家族物語というそれこそ普遍的なテーマを過激に語ってモラル・ファンタジーを作り上げてしまう手腕は大したものだ。


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