続・サンタロガ・バリア  (第85回)
津田文夫


 相変わらず訃報が続くなあ。これといって面白いこともないし、低空飛行ですね。

 bk1から届いた箱から出してパラパラしている内に読み終わってしまったのが、吉本たいまつ『おたくの起源』で、70年代半ばから80年代半ばくらいの10年ほどはここに書かれている現場に近いところにいたせいか、あれは現在から見るとそういうふうに見える訳かと感心しつつ、ちょっと違和感もあるという感じだ。活字SFがコアなSFの一ジャンルという考え方がいつ頃から出てきたのか気になるけれど、いわれてみれば既にそうなってしまった状況がある。「SF冬の時代」はそういう曲がり角のひとつだったんだろうな。元を正せば1977年あたりからそちらへのベクトルが鮮明になったのかも。今思えば「SHINCON」は衝撃的だったんだ。

 ハヤカワの新シリーズ「想像力の文学」の1冊、田中哲也『猿駅/初恋』は熟練のホラー短編集という面持ちで、ある時期の筒井康隆を彷彿とさせる作品が多い。そのなかで巻末に置かれた若書き(?)な「猿はあけぼの」がライトノベル時代の作者の美質をたたえていて楽しく読める。荒唐無稽をなんのいいわけもなく唯々突っ走って見せ、読者をなめてるかのようにもとれるが、その軽さ清新さが作品を気持ちよいものにしている。

 ヴィンジを先に読んだ方がよかったかなと思わせたマイケル・シェイボン『ユダヤ警官同盟』は、どう見たってよくできた警官もののミステリで、主人公が何回も気絶するのはいかがなものかとは思うものの、とにかく小説が上手い。それが改変歴史物ものの大きなターンテーブルの上で展開しているという、ある意味理想的なSFのひとつになっている。SFもミステリも広義のファンタシイとみれば、ユダヤ人社会の様々なディテールも強力な想像力によってもたらされたリアリズム趣向となる。遠く離れた日本人だってSF読みならそう思うわけで、アメリカの主なSF賞を総なめにしたのは、アメリカのSF読みにとってもそのような感覚があったからではなかろうか。

 無呼吸症の検査入院のため顔と頭にたくさんのセンサーを付けられてターミナルマン(?)状態で読み終わったヴァーナー・ヴィンジ『レインボーズ・エンド』は、シェイボンの後で読むとさすがにスカスカな感じのする文章で、読むタイミングを間違えた感じがする1作。イントロの奇現象とその解析はレムの『枯草熱』を思わせて、世界的陰謀が進むかと思いきや、ちょっと進化したITの手品がもたらす風景とサスペンス・コメディが延々と続くだけだった。これがシェイボンのすぐ後じゃなかったらもう少し楽しく読めたと思うんだが、ちょっと残念。ところで「虹の果ての黄金」ていうのが昔フレッド・ポールの短編にあったけれど、この楽天的な話の結末は「黄金」がシンギュラリティの到来であることを意味しているのだろうか。

 ぽつりぽつりと読んでいた巽孝之『想い出のブックカフェ−巽孝之書評集成』は、スラスラ読むにはちょっと辛い構成で、まあ、採りあげられている書籍の雑多さや専門性を考えれば当然といえるだろう。購読紙は「朝日」なのでその部分はすべて再読だけれど、記憶に残っていたものもあれば、こんなのあったっけと思うものも多々ある。それはこちらの関心度の高低が原因だけれど、巽さんのその時の執筆状況もあるかもしれない。ようやく対談編にたどり着くと、巽さんの口調を思い出しながら読めることもあり、スラスラと進む。それにしても高山宏って素晴らしくヘン。


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