みだれめも 第196回

水鏡子


■ごぶさたです。あいかわらず書庫と遊んでいます。

 京フェスの合宿企画で書庫の話をひとしきりしゃべったあと、書く推力が落ちてしまって、そのまま横になってしまいました。書評もちょこちょこ書き付けてはいたんですけど、時期を失してなんとなくぼけてしまってどうすべえと仕上げきれずに中途半端に迷っているうち、そういうこともネックになって毎号落としを繰り返しました。ここはばっさり書評を切って社会復帰を果たすことにしました。
そうでなくてもここ数年書評を書くのがかなり苦痛になっております。
もともとぼくの書評の基本は、感想文を主体としながらも、読んでいく中で書評を書くことを前提に少なくとも毎回最低ひとつは、なんか理屈を捏ねなければということを拠り所にしているつもりなのですが、年を食うに従って理屈を捏ねる脳の体力が衰えてきたうえ、頭がかたくなったせいで、書くことにより、かたちを与えてみることにより、自分の中で視えてくる<なにか>がなかなか見つけ出しにくくなってきている。さらには読む本の半数近くがシリーズものの続編という状態でますますそういうことが難しくなった。「最近作はテンションが上がってきた(落ちてきた)」なんて現状報告を連ねても(自分にとって)あんまり意味が見出せない。感想を書いて遊ぶということ自体は三〇年以上にわたるぼくの遊び方の中軸で、それをやめると自己崩壊の引きこもり状態になると思うので、苦痛にならない素材や手法を模索しながらなるたけ連続出場を目指していこうと思っています。リスト遊びがいちばん気楽でたのしいかなあ。

 さてとりあえず苦痛の少ない書庫話。前回、大野万紀が載せた仕様(京フェス段階)から、書庫の配置はまた少し変わっています。堺・小笠原組が見物に来たのが正月で、これで現時点での安定形に落ち着いた気がします。もう一度たぶん最終回の書庫話をしてそのときに再度仕様図を載せて終えようかと思っています。
 小説本についてはほぼ決着がついたのですが、それ以外の本の扱いにまだ悩んでいます。個々のジャンルで区分けし、さらに効率収納のため本の大きさで区分けすると、ひとつひとつの塊が小さくたくさんできてしまって収拾がつかない。とくに何を置いたがわからなくなりがちな2列配置の奥の列をどうするかが難しい。すべてを書庫に入れるのは不可能なので、SF、書評、ブックガイド、出版・文芸評論系を主体に書庫に、残りを2階に置こうとしたら、文芸評論系と哲学、人文科学、社会科学との端境で混乱した。作家のエッセイなんて2階でいいと思うのだけど、書評や文学論とどこで分けたらいいのだろう。タカハシさんの文芸本と競馬本はひとかたまりにすべきかどうか、橋本治はどうすべえ、などなどなどなど。1階と2階と遠く離れるだけに悩む部分は前列と奥の列の比ではない。2階の二部屋はコミック中心と日本作家の単行本が中心になりそうで、じゃあ漫画論やおたく本は2階の方がいいんだろうかとか。その他、ヴィジュアル系資料系の大型本や大型雑誌とファンジン、消耗的要素の強い小説雑誌やPR誌、出版目録の取り扱いなど迷うところはきりがない。出版目録ってゴミみたいに見えるけど、そこの出版社からどんな本が出ているか(それはその出版社が得意とするジャンルの俯瞰にも役立ったりする)だけでなく、ある年に何が本屋で手に入り何が手に入らなかったか、そのとき定価がいくらだったかなどのチェックができる史料的価値にもなかなか侮れないものがあるのだ。そもそも本の中味を数行でまとめてくれた重宝なあんちょこ本である。最近こそあんまり目を通さなくなったけど、金と知識に欠けていた学生時代は何十回と舐めるように読んだものである。うちにある出版目録はたいした数ではないけれど、それでも創元とハヤカワの文庫目録だけで棚1列が埋まっている。文庫目録だけで数百冊持っていそうな知り合いが何人も思い浮かぶ。

 2階の片づけがたいへんだった。
 意味なく積上げられていた本やその他の書類の巨大な山を内容別大きさ別に弁別し、かなりのものを書庫に搬送したわけだけど、食い散らかした残飯みたいに、それまでひとかたまりだった残りの本が埃だらけの小山に化けて部屋中に林立し、掃除機すらかけられない状況がずいぶん続いた。

 計算外だったのが、十数年の、本に積もった埃の層。部屋の掃除の領域からはずれていたので動かすだけで埃の塊がこぼれ落ちたり舞いあがるのはある程度覚悟していたことだけど、屋根に近い2階の部屋は暑いのだ。夏日の中で溜まった埃が溶けては固まりなおすということが何年も繰り返されてきたようで、本の埃はべたついて、削ぎ落とすのが大変な作業であると動かしてみてはじめてわかった。ビニールのブックカバーは縮んで本の表紙を無残にゆがめているし(とくに中公新書)、プラスチックのカバーは紫外線で劣化して動かしたとたんバラバラのかけらになって部屋の中に散らばった。それに較べれば黒ずみパリパリになる岩波文庫のパラフィンなんか可愛いものだ。そもそもあのパラフィンは自己犠牲により本を保護するためのものであるわけだし。

 書庫移動の途中で出てきた本を読みふけるのは読書体力が落ちているせいかあまりしていなかったのだけど、はじめて書架に並べて整理のできたコミックの方は別。立原あゆみや樹なつみやひかわきょうこやなんやかや、だらりだらりと読み返し作業がなかなか終わらない。

あと、買ってきた本を書庫にしまいこむとそのまま意識からはずれてしまうというこわさ。ブックオフの100円本はもともと書庫詰め用で買っている部分もあるのでかまわないけど、新刊で買った本がそのまま意識から抜けていくのは問題だ。やはり生活居住空間にもう一基、暫定利用の本棚を設置しておく必要がある。

 それにしても本が見つからない。こんな本を持ってたんだといった感動はいくつかあったりしたけれど、圧倒的に行方不明の本がある。この前書いた、寿行、三好徹は出てきたけど、フリッツ・ライバーのペーパーバックはやっぱり出てこない。『空の中』『海の底』『レキオス』『シャングリラ』『七王国の玉座』『妖魔の宴 ドラキュラ篇』『戦後少女漫画史』『うしおととら(8巻以降)』、広瀬正の単行本といった、気づいただけでもまちがいなく買ってしかも読んだ本がたくさんみつからない。おまけにこの内容を眺めてみて、どう考えても同じ場所、同じ箱から出てくるとは思えないのだ。本を詰めていた箱もほとんどなくなった。謎である。2階の重量を不安視した親にこっそり捨てられていたのでないかといった不安が浮上してきた。

 それとは別に本がない。
 アンソロジー(の目次)は評論であるというのが持論のぼくからすれば、整理されずらり並んだ背表紙はひとつの作品であるべきだ。奥に配置された見えない本の背表紙も奥行きを増す隠し味である。二百万かけて書庫を作ったのだ。せっかく作ったのだから、ひとに見せびらかして自慢なんてのもしてみたい、そんな思いもあったのだけど、すこおし鬱になってきた。
 そういう気持を託すには、並んだ本があまりに貧弱なのだ。 
 本がない。
 3千冊、あるいは5千冊くらいなら、こんなものでもまあ許される。
 けれどもひとりの人間の趣味で揃えた本として、2万冊のオーダーで揃えるのなら正直バランスが悪い。あるべき本で欠けてるものがありすぎる。国書刊行会や白水社、思潮社その他の格調高いハードカバーの惨たることがいちばん大きなりゆうだろうけど、たとえばレベルの低い最近のラノベや児童ファンタジイが並んでいながら「ロードス島」や「ハリーポッター」なんかがないというのもじつはだめなのではないかとか思う。漱石や鴎外、ドストエフスキーやカフカなんかは、全部はともかく代表的なところくらいは片隅にこそっと並んでなければいけないのではと思う。そういう抑えがあってこそ、石川淳も泉鏡花の全集類にも箔がつく気がする。志賀直哉やトルストイはなくてもいい。宮部みゆきや池波正太郎はそこそこ揃ってなければならない。松本清張、司馬遼太郎は特になくてもかまわない。などなどいろいろ。
 貧相なのである。積み重ねられた本の背表紙というのは、蒐集者の意識の外部展開でもあったりする。冊数が大きくなればなるほど、その総体の貧相さは集めた当人の貧相さそのものとなっていく。だからといってそんな体裁を整えるためだけに本を買い集めるというのはそれこそ姑息の極みでしかない。読むつもりで買うというならまた別だけど。
 書架の貧相さは自分の心の貧相さであるのだとすなおに受けとめ、解消に向けて読書のかたちを変えていくこと、それが王道であり、けっして並べるためだけに本を買ってはいけないと自戒の念を新たにしたい。新たにしないとなあ、歯止めを作らないとマジにそんな行為に走りそうな性癖があるのだ。
 そうでなくても空いてる書架空間には本を詰めたくなる誘惑に満ちている。なにを隠そうこの半年でうちの本は500冊くらい増えている。500冊買っても5万円くらいしか使っていないところがまあゴミ集め。弁解するなら一応別枠で新刊本も40冊くらいは買っている。そっちはトータル10万円くらいの支出でしょうか。読み応えのある40冊を積み上げて、ゴミ値で買った本ばかり目を通すのはなぜなんですかねえ。だからますます本棚が貧相になるのだと思ったりする。買い集めた本の大半はライトノベルと昔立ち読みで済ませていたコミック類。かなりの余剰空間を確保していたはずの日本作家の文庫本棚が早くもキチキチになってきている。果たして現在配置で来年まで持ちこたえるか。乞御期待。


 掲示板でのご質問にはごめんなさいと謝っておきます。(*)
 2年つづけて日本SF年度ベストの1位にしてしまった冲方丁の『スプライト&オレイン・シュピーゲル』第四話です。過去の3作と比較しても、二つの物語が主従に分かれずたがいに異なる役割を果たし、メッセージ性を強く打ち出しながらジャンルの約束事を律儀に守り、その一方で美学的な効果と興趣を狙ったキャラチェンジや合わせ鏡のストーリー展開など満足度は最高。不満はないわけではない。文体は相変わらず。次回完結予定という意外と短い分量で、充分てんこもりの素材のなかにレベル3の問題と敵の児童の投入は物語を派手派手しくしすぎてかえって全体を薄っぺらくしている感がある。オールタイムベストクラスの傑作と呼べる内実を十分備えているシリーズと思うのだが、そういう評価をくだされる作品類に共通する傑作としての<風格>に欠けるのだ。

 あと評価の変更がひとつ。
 北方謙三を作家性よりプランナー性が強いと言った件について撤回する。『楊令伝』は第6巻あたりから急速に作家らしさにあふれた小説に変貌している。6−8巻に関する限り『水滸伝』より面白い。読者に膾炙している水滸伝原典とイメージとしてのキューバ革命とを重ね合わせ、<志>を中心にすえての調整や整合性を終始意識せざるを得なかった前作と異なり、最初の5巻をかけて図面を広げきり、やっと自由に動ける舞台を作り上げ、もともとの作家的本領が発揮されだしたということなんだろうかと感じたりしている。いやいやもしかしたらその本領は『水滸伝』でも十分発揮されていたのに、1ヶ月での30冊一気読みという読み方のせいで横溢する細部を感じとり損なってたのかもしれないと思うところもあったりする。

(*)「みだれめも(194)でほのめかされた、『北方水滸伝』読後直後でなお高い評価を下したというライトノベルがなんなのかがずーーーっと気になってます」という「すけあくろう」さんの質問のこと。(大野万紀)


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