ウィアード・インヴェンション〜戦前期海外SF流入小史〜004

フヂモト・ナオキ


フランス編(その三) パリは萌えているか―ロビダの『20世紀』

 今回は新刊書の紹介。え、半年ぐらいたっとるって。そんなもんは誤差の範囲だ。ところで、この本売れたの? おぢさん、とーっても心配。このボリュームでこの値段ということは、それなりに刷ってるんやと思うけど、大丈夫なんか。
 ま、大きなお世話やろけど。ともかく買ったという話は見聞きしても、読んだという話はほとんど聞かない気がする。だいたいの人は買って、イラストを見て、のんきな未来予測だねえ。レトロだねえ。といってオシマイにしているのでは。ということは無理してでもイラストをごっそり入れた訳本にしたのは大正解で、文章と口絵だけで出そうものなら大惨事やったってことか。
 書評は、まとまったのは池内紀しか知らないんですけど他にもありますか。<SFマガジン>は、一応、言及しときます、って感じで、読まなくても書けるようなことしか書くスペースを割いてもらえてません。こーゆーのを、オナラブルメンションというのか(←違います)。さらに紙幅が限られる気はヒシヒシするが、この際、通年回顧に期待したい。
 ということで、これまた昔から有名だし今更と思ってたんですが、読んで感想を書いてみることに。

 さて、イラストが重要なファクターとなっている小説ジャンル。って、ラノベやん。と、みるとこの『20世紀』、まさしくラノベなのである。なんてったて主人公はドジっ娘ニートだよ。で、それがいろんな職については、私こんなの無理っ。ってやめては次の職へと自分探し(本人はやる気がないので、無理やり探してこいっ、と背中を押されてうろついてます)するという今日的な展開。海野十三だの小栗虫太郎をラノベ化している場合ではありません。時代はロビダだよ。絵柄が今時のハヤリからするともっさりしているので、レトロ感覚を生かした上でリビルドたらゆーことをするとええのんちゃう。ということでラノベ作家志望の人は書店へ走れ。

 ところで『20世紀』に横溢するガジェットに空中飛行船とテレフォノスコープがある。後者は二十世紀当時はTVを予言したものとされていて、それをふまえて鹿島茂は「テレビも絵つき電話のレベルでしか考えられていない」(『それでも古書を買いました』)などと否定的な評価を下しているが、今この「絵つき電話」の描写を見れば、もうこれは今日のインターネット的なメディアを予見したものとしか思えない。契約しておいた情報(コンテンツ)が朝起きたら配信されて、たまっているんだぜ。周回遅れでトップにたったというべきか、非常に今日的なテクストとして読み得る絶妙なタイミングで新訳が刊行されているわけで、是非とも買って絵を眺めるだけではなく、本文も読みましょう。
 疑似イベントとして周期的に繰り返される「革命」のくだりなんて、笠井潔御大が読んだら絶対泣いちゃうと思う(いろんな意味で)。

 ま、念のために書いておくと、この本は基本的には『楠無益委記』と同じように同時代を戯画化したもので、未来予測小説として読めてしまうのは、メカニカルなガジェットが登場するからに過ぎない。それゆえ、前回の『新未来記』とは全く別種のテクストとして読まれるべきなのだが、それが同時代的どれほど意識化されていたかというと、かなりあやしいところである。

 明治翻訳文学研究の中で、『20世紀』の存在は意識されていたようで、柳田泉も言及している。ちなみに吉野作造は「世紀」という言葉が使われ始めたのはいつからだろうという話題で、明治6年の<東京新報>に「第十七回百年の間に支那北京に住せし学者の名」という記事が載っていて「第十七回百年」に「千六百一年ヨリ千七百年マデノ間」と割注がついていたことを紹介した後、「明治十九年頃の出版に『世界進歩第二十世紀』(服部誠一訳)など云う様な本のある所を以て観れば、さう新しいものではなさゝうだ」と書いていた(『閑談の閑談』書物展望社、1933/初出は1928年の<経済往来>とあり)。先月触れた田口卯吉も『日本開化小史』で、二千何百年代とか「百年代」を単位にしていたし、「世紀」は一日にしてならず、でも百年はかからずといったところか。

 ともかく、SF畑以外での、まとまった紹介としては<放送文化>1955年2月掲載の高橋邦太郎「テレビを予言した小説―一八八三年のフランス書」が最初のものになるらしい。というのは武田寅雄の「百年前の百年後の世界―A・ロビダ『二十世紀の世界』について」<園田学園女子大学論文集>19号、1984年にそう書いてあるのである。この時期、国文学が専門という武田寅雄が大学紀要にロビダをとりあげるのはかなり冒険だった気がする。論文は、明治期の出版状況を紹介し、岡島宝玉堂本の訳文と対照できるように冒頭部を岡村雅史と共訳したものを掲載しており、なかなか貴重なものであった。
 武田には「SFの原点 珍書 ア・ロビダー『第二十世紀』」という一文もあり、こちらでは戦前に阪急古書展で第一巻を手にいれたこと、原書について木村毅や高橋邦太郎に聞いたがよくわからなかったこと、フランス留学中の若者に調べてもらったがソルボンヌ等の図書館になくて、ようやく古書肆にあるのが見つかって5200フランで入手したとか書いてあります。この文章の末尾には「近くこれを翻訳し現代に即さない処をカットし興味本位の読物として一般読者に前に提供したいものだと思っている」と書いておられたんですが。
 どうされておられるのだろうと調べたら、1992年、85歳で死去されたとのこと。合掌。歌人としても知られていたらしいが、学者一筋の人ではなく、早稲田大学卒業後、大陸に渡り、奉天毎日新聞記者としてブイブイいわせてたとか。その傍ら古書展で古本を漁ってたの?

 その後、荒俣宏が盛んに図版を紹介していたという印象が残っているし、世紀の変わり目にはそれなりにメディア上で盛り上がった気がするが、そこでアクションがなかったのに、今頃邦訳が出たのは吃驚だ。いや、なぜか2004年に英訳が出たんで、次は日本で明治以来の新訳だろう、などと言ったけど全く期待はしてなかったもんね。

 ところでロビダ・マニアの人は講談社学術文庫の『絵で見るパリモードの歴史』は押さえていると思うが、オクターブ・ユザンヌの『愛書家鑑』奢霸都館を忘れがちなようなので一応注意を喚起しておきたい。

 などと、知ったようなことを、適当に書き飛ばしていると。悪いことはできません、かの会津翁にバッタリ遭遇してしまいましたよ。「ほほぉ、ロビダねえ。フヂモト君は、当然、大正時代に上映されたロビダ映画は見ているよね。」
 ええっ、そんなの知りませーん。「いやはや、近頃の若いモンは物を知らんのお」と呆れられてしまい、泣きながらDVDを注文することに、……という話は別のところで書くことになったので略。

 ここで一応、明治に出たロビダをリストアップすると以下のようになる。まあ、ヴァリアントもあるはずだが、そこいらの詳細は後考をまちたい。

 富田兼次郎、酒巻邦助『開巻驚奇|第廿世紀未来誌巻一』稲田佐兵衛(発兌)、1883年12月
 服部誠一譯述『世界進歩|第二十世紀』岡島寳玉堂、1886年6月
 蔭山廣忠譯『社会進化|世界未来記』春陽堂、1887年6月
 服部誠一譯述『世界進歩|第二十世紀 第二編』岡島寳玉堂、1887年11月
 服部誠一譯述『世界進歩|第二十世紀 第三編』岡島寳玉堂、1888年5月

 服部誠一は、序文で『第二十世紀』をデュマ作品としているので、名義を貸しているだけということは割りと早い時期からバレバレだったようであるが、それ以外の関係者については全くわからない。唯一、酒巻邦助が明治13年に浅草に住んでいたという文書は見たことがあるが(奥付の住所は御徒士町)、同一人物かどうかも不明。
 さらに、明治の人がどのように読んでいたかというと、これがやはりよくわからん。
 とりあえず基本ということで<読売新聞>1886年9月17日、3504号の紹介記事を句読点を補って引用しておく。

「○世界進歩第二十世紀 進歩尚ほ歩を進めて止まず。到る所の如何なる度を知るべからず。仏国ロビター氏、今より百年後の世界を想像して、空中の楼閣雲裡の気船より、種々人智進達の有様を写して、一部の小説とせしを今回服部誠一氏が翻訳して石版画を加へ、美麗なる西洋仕立になして、発兌せられたるが、珍奇の趣向のうちに諷誡の意を含みて近ごろ面白き書なり」

 そいでもって以下は<読売新聞>1887年12月13日、3879号より、これまた適当に句読点をつけて引用。

「○第二十世紀第二編 仏国アーロビダー氏原著。服部誠一氏の翻訳にして、其第一篇は世に行はれし。世界進歩の未来記にて、此篇には、巴里府の高堂に座して清国大乱の戦状を見る事より、伊太利全国を買潰し、人民を米国に移住させて其跡を欧羅巴の大公園となすなど、奇にして奇にあらざる好小説なり。発売元は大坂の岡島宝玉堂なり」

 この二編刊行時には結構でかい広告が掲載されていて、粗筋というか趣向が詳細に紹介されているので、図版で紹介したいところ(書き起こすのが大変なので)だが、マイクロフィルムから焼いた図版はかなりキビシイ。一応、最後にまとめてアップしときますけど。ま、俺が朝日出版社の人間だったら原紙所蔵機関と交渉してブローニーで撮影して、広告図版に使ってるな。
 新聞紙上の紹介記事はもう何点か押さえているのだが、それほど代わりばえもせんということで今回は略しておこう。

 おそらく同時代的に読んでいたと思われるのは文学のエンターテイメント路線撲滅に暗躍した内田魯庵。「若し小説は徒に偉大(君が偉大なり余が偉大にあらず)にして可なりとせば服部誠一氏が訳せし第二十世紀は小説の上乗にして是に卓絶するものなからん。」(不知庵主人「龍渓居士に質す」)って、文句つけてるんだから多分読んでるんだろう。坪内逍遥だって未来小説研究のために読んでいそうなものだが「翻訳物の部類より言へば第廿世紀とかいふ小説あり新未来記とかいふ訳書もあり其外表題は申さずとも読者が御存知の諸稗史ありいづれも現在を遥に離れて未来を写さんと試みたる者なり」(「未来記に類する小説」)という書き方ではちゃんと読んでいるのかどうかよくわからん。明治20年の日記があれば、いろいろわかるはずだが、残っていないそうである。坪内には「一円紙幣の履歴」という、お金を主人公にした、いわゆる我輩物がある。これについては執筆当時の日記が残っていて『坪内逍遥研究資料第三集』1971に翻刻が掲載されているので、元ネタはアヂソンだとか、資料として<国家学会雑誌>を買ったとか、いろいろわかるんだけどねえ。

 同時代じゃないのに読んでいるのが横田順彌氏がSF詩人としてその生涯を追っておられる中山忠直(1895〜1957)。おそらく普通この年代の人は読んでないと思うので、やっぱりそーゆーのが好きだったのであろう。中山啓名義で刊行した『火星』という詩集の中の「未来への遺言」という詩の中に以下の一節がある。「諸君等は夢物語の小説「二十世紀」を読まれたか|あれは四十年ばかり前に作られた架空小説で|その中には空を飛ぶ機械、潜航機のこと|遠い処からの通話のこと千里眼のこと|夢のやうな夢が綴られてあつたんだ|それが残らず実現してゐる――いやそれ以上に」と触れています。(横田順彌『明治「空想小説」コレクション』PHP研究所、1995より引用。「未来への遺言」は同書に全文収録されている)

 ともかく、キャラデザに萌えが足りないと敬遠しているそこの君、嘘だと思うかもしれないが、爆弾テロで、ロシアが沈没しちゃう小説なんだよ。
 イタリア全土が企業体に買収されてヨーロッパの公園として運営されとったりするし、文化経済とか文化経営とか言ってる人も、是非手にとってロビダに学んで欲しいところ。
 ええぃ、買いだ、買いっ。←あいかわらず説得力なし。


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