内 輪   第202回

大野万紀


 誕生日が来て、54歳になってしまいました。50を越えた時点で、特にもう何も感慨はないのですが、それでも先のことをつい意識してしまいます。あと何冊本が読めるのだろうか、この勢いで積ん読がたまっていくと、どこでタイムリミットになっちゃうんだろう、なんてね。今月も4冊しか読めなかったし。
 朝日ソノラマが解散するだとか、ロジャー・エルウッドが亡くなったとか、寂しいニュースが飛び込んでくると、さすがにしんみりしちゃいますね。でも、若い新たな才能も次々と出てきているわけで、21世紀も7年たってそろそろ新しい時代に変わろうとしているのかな、と思います。

 それではこの一月ほどで読んだ本から(読んだ順です)。

『擬態』 ジョー・ホールドマン 早川書房
 ホールドマンのネビュラ賞受賞作。ストーリーと設定は何ともオーソドックスなオールドスタイル。まるで50年代SFか、ジュヴナイルSFを読むようだ。もっとも50年代SFやジュヴナイルSFにはこんなあからさまなセックス描写はなかっただろうが。なにしろ、何にでも姿を変えることのできる不死の異星生物が太古から地球に来ていて、サメになったり、イルカになったりして暮らしていたのだが、今はヒトの姿となって人間に混じって暮らしている。その「彼女」が、海底で異星人のものらしき人工物を発見した研究者と恋に落ち……というお話なのだ。おまけに、吸血鬼伝説のもとになったという別の「悪い宇宙人」――こいつも不死で、変身能力をもっている――がからんでくる。本当にストレートで、わかりやすく、ほとんどヒネリもないお話なのだが、すらすらと読めるし、面白い。定型の勝利といえる。とはいえ、淡々と描かれるエピソードの奥には、意外に奥深いテーマをかいま見ることができる。ホールドマンはそれらのテーマについて大声で議論することはせず、あっさりと流しているのだが、その視点には確かなものがあるといえる。

『双生児』 クリストファー・プリースト 早川書房
 傑作。二つの並行世界が入り乱れて、といった複雑な謎解きはとりあえず置いておいて、ジャックとジョーという二人の一卵性双生児のたどる第二次大戦が舞台の波乱に満ちたドラマをじっくりと楽しむのが良い。どこまでが史実でどこからがフィクションか、といったことも後回しでいい(気になる人は大森望の解説に詳しく書かれているので――本書を読み終わった後で――読めばいいし、ネットで検索してもいい)。それよりも、人々の暮らしを押しつぶす巨大な戦争の重い大きな流れの下で、一人は爆撃機のパイロットとなり、一人は良心的兵役拒否者として赤十字の仕事に従事する、二人の青年の恋と戦いの物語として、当時のヨーロッパの雰囲気や様々な日常的な細部、戦争を憎みながらも愛国心に燃えるといったアンビバレンツな心の動き、妊娠した妻を(あるいはもう一人から見れば片思いだった恋人を)愛しながらも疑心暗鬼に捕らわれる苦しみを、プリーストは見事に描ききっている。その描写力は圧倒的で、読み出したら止まらない。小説を読む楽しみを存分に味わうことができる。確かに謎は多いのだが、小説としてはとても読みやすく、その謎のために流れが止まるということはない。名も無き二人の日常描写だけではない。本書ではその二人の行動に、チャーチルやルドルフ・ヘスといった戦争の親玉たちがからみ、歴史の転換となる大きな物語も同時に描かれる。まさに歴史が改変されるその瞬間が、重厚なタッチで目の当たりにされるのである。和平交渉の行われる場面など、風景描写や会議の描写がすばらしく、もし映画化されるならビジュアル的にとても美しい画面となるだろうな、と想像される。二つの歴史の時間線(そのいずれもわれわれの歴史とは異なっているようだ)が、どのように別れ、混交し、謎を生んでいるかということについて知りたければ、解説を読めば詳しいヒントが得られるだろう。だけど、それってゲームクリア後のお楽しみみたいで、あんまり重要ではない。第一、いくつかのピースを組み合わせたところで、どうしてもはまらないピースが出てくるだろうし、おそらくこの双子の物語は、決してリニアにたたみ込まれることはないのだろう。でも、それがあるからこそ、本書は紛れもなく現代のSFだということができるだろう。

『Self-Refrrence ENGINE』 円城塔 ハヤカワSFシリーズJコレクション
 ハヤカワSFシリーズJコレクションの新シリーズは黄色の装丁で、第一弾が文學界新人賞作家の小松左京賞落選作という本書。ひとことで言えば数学SFで、ぼくの持論だが数学SFといえばファンタジー。そこで本書もファンタジーというか、寓話というか、帯の飛浩隆さんの言葉にある「SFファン同士の愚にもつかないバカ話」「爆笑ソラリスジョーク集」というのがとても言い得て妙である。とはいえ、まだ若い新人作家なのに文章は達者で読みやすく、「愚にもつかないバカ話」にしては奥が深い。北野勇作を思わせるという人もいるが、ぼくにはカルビーノや昔の筒井康隆を思い起こした。特に、祖母の家を解体してみたところ、床下から大量のフロイトが出てきた、なんて話はとりわけ筒井康隆テイストが強いように思う。本書を構成する18編の断章は、基本的にシンギュラリティ後の、巨大コンピュータ(巨大知性体)たちが宇宙の時空をカオス状態にしてしまった世界での、おとぎ話なのである。Self-Refrrenceというと自己参照。つまり、メタ何とかを生み出すもとであり、無限のループやカオスや、あるいは人工知能や意識の創出されるみなもとでもある。ダグラス・ホフスタッターの『ゲーデル、エッシャー、バッハ』を夢中になって読んだのはもう30年近く前になるのだなあ。自己言及、再帰的構造、コンピュータサイエンスと認知科学が幸福な結婚をし、めくるめく未来が開けていた(ような気がした)時代でした。で、シンギュラリティを越えちゃうと、こういう脱力の世界が広がってしまうのだなあ。お嫌いですか? いえ、お好きです。

『恐怖記録器』 北野勇作 角川ホラー文庫
 夢を記録するという実験に参加した売れないホラー作家が、現実と悪夢の混交にとりつかれてしまう。よくあるといえばよくある話。何層にも世界が重なり合った現実を描くといえば、実に現代的なSFっぽさもある。しかし、北野勇作はいつものどこか懐かしい路地や古びた集合住宅、恐いけれどもさほど恐くもない、夜になるとくるくる回る信楽焼の狸だの、グレイっぽい宇宙人や、MIBの男たち、そういったイメージでその世界を塗りつぶす。結果、いつもの北野ワールドが現出するわけだ。恐いけれど、どこか懐かしい悪夢。もっとも、後半になると、グロテスクさが増してきて、いよいよ狂気の世界に突入していく。それもいいけど、もう少しあの北野ワールドを楽しみたかった気もする。


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