続・サンタロガ・バリア  (第50回)
津田文夫


 ぼろアパートの1室に運び込まれた140箱あまりの本は、そこへ並べられた11本の本棚に戻されることなく積み上げられたままである。どう見たって梅雨や夏の湿気とカビそして紙魚に勝てなさそうな感じだ。水取ゾウさんと樟脳では乗り切れそうにないな。梅雨時はまめに立ち寄ってみなくては。

近所のCD屋のひとつに売れ残りの輸入盤を999円でワゴンセールをしている店があって月に1回くらい覗くんだけど、この間はブライアン・ウィルスンの「イマジネーション」が目に付いたので拾い上げてみた。ビーチ・ボーイズに関心はないけれども「ペット・サウンズ」くらいは持っている。デノンのCDプレーヤーで聴いたときはフーンぐらいだったが、その後壊れかけの真空管入りCDプレーヤーで聴いたら見事に目の前に音の壁が立ち上がったのでビックリした。こういう経験は数年に1回しか来ないから嬉しかったなあ。機械の調子、空気の乾き具合、こちらの体調と少なくともこの3つの要因が上手く重ならないとこの背筋がゾクゾクする音が聞こえてくることはない。で、「スマイル」が聴きたくなったかというとそうでもないんだけれどね。

 ロン・グーラート『ゴーストなんかこわくない マックス・カーニイの事件簿』。本当にグーラートの短編シリーズが1冊本で出るとはねえ。凄いなあ。アンダースンといいグーラートとといい浅倉さんが好む古き良きアメリカのユーモラスさが日本の読み手にも通じるようになったのか。いや、やっぱり浅倉さんの人徳だよな。昔F&SFでたまーに読んだグーラートって何が面白いんだか分からないことがほとんどだったけど、こうして読むとアメリカン・コメディの型を持った話を書いていたんだなあ。

 藤崎慎吾『レフト・アローン』はちょっと期待して読んだのが悪かったのか、表題作があまりノレない。設定の把握がなかなかできなかったこともあるけれど、気になったのは男と女の言葉遣いがステレオタイプなこと。たとえば語尾の「よ」が多すぎるとか。後の作品は表題作よりも読みやすく、より具体的なSF感覚がうかがえる作品群になっている。「猫の天使」や「星窪」あたりはいい感じだ。

 ウィル・マッカーシイ『コラプシウム』の表紙はさすがにどうかと思うよな、読んだ後では特に。『アグレッサー・シックス』は紹介を読んだだけで読む気が失せていたのでこの作者はこれが初めて読む作品。長編かと思ったら連作中編集みたいになっていて読みやすいと言えば読みやすいが、ハードSFな設定の上で展開されるドタバタはどちらかといえばウンザリさせられるタイプのお話だ。天才科学者に女王様にロリなボディの女警察長官と、上手く描けばライトノベル的な楽しさがあったかも知れない。

 中村融編『地球の静止する日 SF映画原作傑作選』はよくできたアンソロジー。どれも結構読ませる。スタージョンの「殺人ブルドーザー」なんてSFの説明がなければマジックリアリズム的ホラーになるんじゃないかと思ってしまった。何回読んでもすぐに忘れる人間なので、たぶん3回以上読んでるムーアの「ロト」も、クールじゃん、なんて感想が湧いてくるのだ。ウォルハイムの「擬態」が予想以上の出来だったのでびっくりした。今更という人も多いだろうけど好きだよこの話は。

 小林泰三『脳髄工場』。あいかわらずベタなタイトルの表題作は、確かにイーガンぽく始まるが、後半は小林泰三的に延びていく。あの副脳みたいなのは不気味だなあ。2000年前後に発表されたアンソロジー掲載作はどれも水準をクリア、作者が以前見た映画や小説から得たアイデアが多いようにも見えるが、「友達」とか「C市」とかはオチが分かっていても読ませる。しかし社内誌に「声」みたいなタイムパラドックスものを連載してそれを文庫に入れてしまうというのもたいしたものだね。

 新装開店50回目だったのに記念になるほどのものがなかったな。ああ、大森望『特盛!SF翻訳講座 翻訳のウラ技、業界のウラ話』のことを書くのを忘れてた。


THATTA 216号へ戻る

トップページへ戻る