内 輪   第163回

大野万紀


 やっぱり鳥インフルエンザはカラスにもうつるんだ。でも大事にはならず、ほっと一息かな。

 下の大塚英志の書評でも書いているけれど、80年代のおたく論があちこちで話題を呼んでいるようです。ぼく自身は80年代というのがちょっと苦手な感覚があり、特にマンガやアニメやサブカル系(?)には同時代感覚がなくて、SFを別にすればPCとゲームにしか語る言葉をもっていないというのが実感です。それでも充分おたくだって? NECのパソコンPC8001が発売されたのが79年。任天堂のファミコンが83年。ファミコンはまあおたく文化よりもっと広い範疇の話かも知れないけれど、初期のパソコン雑誌の雰囲気は、あれは絶対おたく文化に違いない。なんせ、彼らがPCを手に入れてまっ先にやったのが、あのころのとてつもなくしょぼいグラフィック画面で、うる星やつらのラムちゃんやミンキーモモをいかに素早く描くかということだったのだから。その点、ぼくはそっち方面の真のおたくではなかったのだろう、そういうのを(青春の一場面として)面白いとは思ったけれど、自分で入り込むことはなく、もっぱらツール的なプログラムを作ったり日本橋を回ってPC8001にフロッピードライブをつないだり、PC9801を手に入れてからは(これも80年代)さらにマニアックな面にも走ったけれど、おたく系とはちょっと違うという感覚でいた(昔からのマニアの延長? でもこれってやっぱりおたくだよねえ。アメリカではコンピュータおたくこそが真の――マスで語ることのできる――おたくだったりして)。
 70年代にはまだ「おたく」という言葉はなかったが、おたくはいた。ぼくらはただSFファンと思っていたし、その集団はファンダムで、その感性はファニッシュだった。つまり、言葉は輸入品だったわけだけど、当時のファニッシュなファンジンを見ればわかるとおり、マンガにアニメにアイドルに、今も昔も本質は変わっていないと思う。ぼくら海外SFファンは、むしろそんなおたく化したファンダムの中で、もっと活字SFを中心に、おたく的でない活動をしようと目指したわけだ。でも決してそういうものを否定しようとしたわけではなかったことも明記しておこう。だって、ぼくらのNOVA EXPRESSの一番のコラムは『エンパイアスター』の訳者、米村秀雄が少女マンガを語るというものだったんだもの。
 もうひとつ、「おたく」と宮崎勤事件の関係がよく語られているのだが、これもぼくの実感としてはよくわからない。まあ、これもぼく自身がその手の「おたく」ではないという証拠なのかも知れないが、宮崎事件はとても衝撃的ではあったけれど(特に小さい女の子の親として)、彼をもって「おたく」の代表であるとか、「おたく」的感性が事件に結びついているとか、そういうのをパンピーがいうならともかく、「おたく」であると自分を規定している人たちが自らの問題として語るのが理解できなかった。ぼくにとって「おたく」とは単にコミケに行ったり、秋葉原に集まったり、カラオケ喫茶でマイナーなアニソンばかり歌うやつらといったカテゴリーであり、月刊アフターヌーン連載中の「げんしけん」に出てくるような連中であって、ぼくの身近にも多いし、自分自身も心情的に近いものがある、いや自分もその一人なのかも知れない、うっとおしいけど愛すべき存在、というものだ。けっこう同質性があるので、社会の中でも閉じた集団を作る傾向があり、その中には変な人もいるだろうし、犯罪者だっているだろう。ただそれだけのことだ、と思っていたのだが、そんなに深刻に自分のこととして受け止めるべき何かがそこにはあったのだろうか。だったらやっぱりうちの娘はおたくには近寄らせないようにしなくっちゃ――って、全く手遅れですね。

 それではこの一月ほどで読んだ本から(読んだ順です)。

『「おたく」の精神史 1980年代論』 大塚英志 講談社現代新書
 大塚英志って、いつもどこかちょっと違う感じがつきまとうのだけれど、この本は面白かった。まず80年代というのが、ぼくが一番ピンと来ない時代なので(日常生活に汲々していたからということもあって)興味深かったというのがある。それを高所からの批評というより、現場にいた感覚で描いている。マンガやサブカルの現場。もうひとつは、虚構と現実の関係に関する言説。これもぼくの実感とかなり近い感覚がある。日常性を一歩越えたところにある「現実」なり「物語」なりは、結局メディアを通じての情報にすぎない。しかし、人間は肉体的なリアルだけでは生きられないのだし、といって情報だけでもやっていけない。わりとつまらない常識的なところでの止揚が必要なのだろう。タイトルとは違って、「おたく」についての評論ではなく、もっと一般的な80年代論と感じた。著者はおそらく「おたく」に関する理解がぼくなんかよりずっと深いに違いないが、それでもここで語られる「おたく」はぼくの実感と微妙にずれている。いや東浩紀の「オタク」よりは近いようにも思うが。一番大きいのは、SFとの対し方だろう。またパソコン通信や電気街系についても抜け落ちている(他のところで書かれているのかも知れないが)。ぼくにとって「おたく」との接点はまず何よりもSFファンダムであったし、80年代はマイコンがパソコンとなっていき、ゲームや草の根ネットが広がっていった時代としての実感が大きいものだから。

『ふたりジャネット』 テリー・ビッスン 河出書房新社
 ビッスンの日本オリジナル短編集。初訳は一編だけだが、それでもこんなしゃれた短編集でまとめて読めるのは喜ばしい。ビッスンというと、ちょっとハードなアメリカホラ話という印象がある。若々しいラファティ。いや、そんなに若々しくはないから、中年のラファティ。実をいえば、ラファティじいさんのお話の方がずっとぶっとんでいるのだが、ビッスンの小説には独特のバランス感覚があって、読んでいて気持ちがいい(そりゃあ、暗いグルーミイな話もあるのだが。「マックたち」とか)。日本でいえば北野勇作みたいな、地に足のついた軽さみたいなものがある。マッド・サイエンティストのウィルスン・ウーもの(この連作がまとめて読めるのも嬉しい)にしても、いかにもぶっとんだホラ話SFのように見えるが、実は語り手たち、まわりの人間のありさまの方に主題がある。月まで通じる穴があろうと、宇宙のエントロピーが逆転しようと、にやりと笑って日常生活を続けるおじさんやおばさんたちの物語なのだ。ラファティのエピクトものや、ラッカーの諸作に比べれば、違いは明かだろう。それがいいという人もいるだろうし、物足りなく思う人もいるだろう。

『新・地底旅行』 奥泉光 朝日新聞社
 漱石の『我が輩は猫である』とヴェルヌの『地底旅行』が合体して、さらに著者の『鳥類学者のファンタジア』へとつながる奇想SFである。登場人物たちがみなユーモラスでおっとりした連中で、そのくせなかなか饒舌であり、面白いのだけれども、途中その悠然としたテンポにちょっと疲れるところもある。しかし、地底世界の真実が明らかになるあたりから、がぜんこの作者らしい本格SFとなって、最後はもう、めくるめくセンス・オブ・ワンダー! 本格SFとはいっても、もちろん今時のハードSFではなく、その昔の、SFらしいSFという意味で、そうだ、この読後感は手塚治虫だ。実に楽しいお話となっている。でもルーディ・ラッカーにも通じるところもあるなあ。地底探検というだけじゃなく、数学的宇宙論という面でも。これ、作者も楽しんで書いているし、ぜひ続編が読みたい。

『家守奇譚』 梨木香歩 新潮社
 なんとも風流なファンタジー。梨木香歩って、児童文学の人だよねえ。でも本書は明治の頃の、京都の外れ、疎水から引いた流れが庭を通って池となる古屋敷の守を頼まれた、浮世離れした小説家の見聞きする物語。四季折々の風情があり、そこへ幽霊は出るは、仔竜、河童、小鬼、人魚、狸、狐と様々なものたちが出没する。淡々と描かれて、ごく日常的に出入りするので、ほんわか、のんびりとしていて、おどろおどろしさや派手派手しさは全くない。のびやかな和風の美しい雰囲気である。作者はぼくよりずっと若いので、ちょっとびっくり。とても心地よく読み終えることができた。犬のゴローくんがとてもいい。彼はとてもすごいやつなのだ。ぜひぼくも会ってみたいものだ。

『地球間ハイウェイ』 ロバート・リード ハヤカワ文庫
 伊藤典夫さんの久々の長編翻訳。パラレルワールドの無数の地球を結ぶ〈輝き〉と呼ばれる道。それを巡って、それぞれの地球を訪れ、文明の発展を助け、人類を導く〈巡りびと〉たち。という、確かに面白いアイデアのSFである。でも、正直いって、物語が動き始めるのは中盤以降。それまではいかにも退屈で、だらだらと人物紹介が続く。どうもバランスが悪い。ようやく物語が動き出してからは、確かにSF的な衝撃があり、サスペンスもあって面白くなる。でもねえ、最後の方で登場人物たちもいっているが、このひとつの宇宙だけでもとっても広いのであって、地球(とその周辺)に閉じたパラレルワールドを探るだけが最重要課題とは思えないのだ。そのあたり、アイデアは面白いけれど、納得しがたいものがある。もうひとつは登場人物のキャラクターの問題。はっきりした特徴のあるのは味方と敵のひとりずつくらいで、他のキャラクターは正直いらないに等しい。うじうじと苦悩しているのだが、それがどーしたの、という感じ。

『ハイウイング・ストロール』 小川一水 ソノラマ文庫
 空想飛行機野郎(お姉さんもいるけど)小説。「紅の豚」よりはずっとSFだ。重い気体の海に覆われた地球(らしい)。プロペラ飛行機を操って、空中に棲む「浮獣」を狩り、食糧や製品原料として供給する飛行機乗り「ショーカ」たち。主人公の少年リオは、そんなショーカの一人ジェンカに「浮獣ハンター」としてスカウトされる。いかにも少年向き成長小説(軽いお色気もあり)の雰囲気で、明るく楽しく描かれており、結末にはSF的というか、大きな物語の要素も含まれている。ただストーリーラインはとてもストレートで、複雑な謎やはっとするアイデア、細やかな心理描写などというものよりも、物語がぐんぐんと進んでいくことに力点のあるタイプの話である。世界の成り立ちや結末で明かされる大きな謎についても、まあ余所ごとですな。主人公たちの行動に影響を及ぼしはするが、生き方を変えるような衝撃があるわけでもない。少年少女向けエンターテイメントとしては正解だし、バランスも悪くなく、よくまとまった面白い話に仕上がっているのだが、おじさんにはちょっと物足りなかった。しかし、狩りをして獲物を集め、装備や飛行機の強化をしてさらにレベルの高い獲物を目指し……と、いかにもゲームの雰囲気。何より平和な話であることが好ましい点です。

『陋巷に在り11 顔の巻』 酒見賢一 新潮文庫
 いやあ、顔儒の里がえらいことになってます。主人公のはずの顔回はほとんど出てきません。孔子もぜんぜん冴えず、かっこ悪いし、かっこいいのは子蓉や、といった女性たちばかり。しかしこれからどうなるんでしょう。後、この付録はいらなかったんじゃないかなあ。

『文学賞メッタ切り!』 大森望・豊崎由美 PARCO出版
 何というか、痛快な本。まったくSFセミナーや京フェスの合宿で深夜に話されるような話題がそのまま本になったという感じだ(水鏡子もそんなことを言っていた)。芥川賞・直木賞から星雲賞まで、よくもまあというくらい文学賞を網羅して、それぞれについてズバリ勢いのままに語っている。それにしてもたくさん本を読んでいるねーというのが一番の感想だ。話している内容は、まあ大森望ならこんなことくらい言うだろうという内容(だからもちろん面白い)。個々の批評がどのくらい的を射ているのかは、そんなに読んでいないぼくとしては保留しないといけないのだけれど、書評としても面白くて、そんな本ならちょっと読んでみたいなという気にもさせられる。お得感のある本でした。


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