続・サンタロガ・バリア  (第19回)
津田文夫


 台風がきて急に寒くなってきた。月初めにマーラーの「復活」を聴きに行った頃は真夏だったようだが。
 真夏はCDを聴くのも大変なので買うこともないのだけれど、ちょっと気になった「エヴァネッセンス」を買ってみた。ヘビ・メタなのかどうか知らんけど、昔風なハードロック様式のサウンドに乗せて、野郎の金切り声の代わりにあまりハードでない女の子ヴォーカルが響く。これといって特別な魅力はないものの一つ二つ聴くのはいい感じだ。

 冲方丁『マルドゥック・スクランブル』全3巻を1週間ぐらいかかって読み終える。あまりに評判が良くて、ちょっと斜に構えてしまうが、奥さんが「作者がまだ若いんだからケナすのは止めなさいね」というのでそうする。でも、編集にはひとこと、ヒロインが少女娼婦っていうキャラ紹介は「元」の一語を付けるべきだよな。
 ウフコックの能力設定はたぶん「プリンセス・プラスティック」シリーズのシファと同じようなものなんだろうが、シファにはウフコックのような相方がいないので苦しいわけだ。冲方丁の抱えている抽出しはたくさんあって、資料の使い方も十分心得ている。なおかつ果たされるべき目的にブレがないので物語がコンパクトだ。ベスト・エンタテインメントな評価は間違いないんだが、この作品に先行するものが小説としてのSFとは思えないところに躊躇があるのだね。表面的な類似でしかないけど『机上の九龍』とかのマンガやアニメの感触が強いんだよなぁ。

 牧野修『黒娘』はポップ・エログロともいうべきシロモノ。ヒロイン・コンビの「アトム」と「ウランたん」で、陰鬱な世界がカラフルに楽しめる。しかしこれはさすがに読者を選ぶでしょ。牧野修作品の女性ファンているのかなあ。

 京極夏彦『塗仏の宴 宴の支度』が文庫になったので読む(「とぶつ」だと思っていたら「ぬりぼとけ」だった)。京極堂シリーズは文庫で読むことにしていたが、さすがにこれは新書の『塗仏の宴 宴の始末』で続きを読んでしまった。で、後悔している。しかし、世の中何があるか分からないので、読んでおいてよかったともおもう。
 「支度」はあくまで「支度」に過ぎず、「始末」は「始末」で別なのだった。読んでる最中は時間あたり最速のページ・ターナーなこのシリーズも前作、今回作と読み終わって反芻すると不満が多い。今回は『絡新婦の理』よりも不満が増えた。元々散漫な構図になっているのだからしょうがないと云えばそれまでだが、とくに感じたのが女たちの扱いだ。今回は女たちがみんな陰に入っていて華やかさに欠ける。そんななか引っ張り出された絡新婦が唯一花しょって登場するんだが、闇の巣から降りた女郎蜘蛛は裸で、あっさり獲られてピン留めされてさらし者になってしまう。ああ勿体ないというのが素朴な感想。「始末」に入ると女郎蜘蛛は遙か遠景に霞んでしまって、話題にされるときは京極堂も敵方もことのついで扱い。お前らは少年探偵コナンかい、と供養のなさに呆れるのであった。
 ま、ミステリなんだからそんなものかとはいいながら、家族/血縁を表に「日常」を裏に置いての話の土産が、家族/血縁を解体した女郎蜘蛛をはじき出したのだろうと見当する。でも勿体ない。

 スタージョン『海を失った男』はすばらしい。50年近く前の作品群がその風俗の古さを越えてスタージョンという「SF」作家のクリームを今に伝えている。作品としては表題作と「ビアンカの手」がやはり優れているけれど、そのほかの作品もとてもいい。「三の法則」なんかスタージョンの趣味がよく出た作品で、編者は「SF作家としてのスタージョンの栄光と悲惨を見る」といっているが、スタージョンはこうだからこそSFファンには最高なのだといえる。
 「墓読み」と表題作を喫茶店のガラス窓に向かったカウンターで読みながらふと目を上げると、窓の外の燦々と降り注ぐ陽光と台風がもたらした強風が無音のうちに、道路の植樹の茂った葉叢を吹き流し、そのたくさんの葉っぱを様々に反射させている。目の下にはそれ自体が意志を持っているかのように行き来する車の群と、長い髪を吹き上げられる若い女やベビーカーを押す夫と小さな娘の手を引く妻が通り過ぎていく歩道。向こうから走ってくるスポーツ大会帰りの中学生たちやゆっくりと歩く老人たち。そんなものが久しぶりに天啓のような感覚をもたらした。BGMのピアノのバラードやボサノバを刻むギターが鮮烈に耳に入ってくる。ちょっと涙がにじむ。
 ありがたきスタージョン。

 吉本隆明/大塚英志『だいたいで、いいじゃない』は、富野由悠季の解説がヘン。


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