みだれめも 第128回

水鏡子


 『天狗岬殺人事件』 山田風太郎
 風太郎の単行本未収録作品を分量八百枚近く掻き集めたファン垂涎の短編集。さすがに凡作がかなりを占めるが、特有の文章が醸しだす風太郎世界の香気を堪能するだけで充分1700円の価値はある。とりわけ残念だったのはPART3に集められた「女探偵捕物帳」五篇。解説では悪人たちが、次々自滅していき、はっきりとした結末がつかないのが惜しい、と書かれているが、むしろこの嘘くさい収束を律儀に踏襲していくところがいかにも風太郎的美意識を感じさせて好ましい。短篇を重ねていって、最後に核心に迫る重量級の中篇で締める予定であったように思えるだけに、この五編で終わってしまったところがなんとも惜しい。夢遊病夫婦を扱った「夢幻の恋人」は時代劇で同じ話を読んだ記憶がある。たぶん忍法帳の一篇もしくは一部だろう。
 興味深かったのがほとんどSFといっていい「二つの密室」。昭和26年の小品で小説としてはゴミだけど、タイムトラベル系の思考実験として相当なもの。この中で現れる次の文章「彼の見るレンズのなかで、時間の流れはよどみ、たばしり、ときには映画のフィルムを逆に回すように逆流しはじめたからだった。死人は墓場から起きあがり、糞は尻に舞いあがり、ヘーツクばっていた敗戦国ニッポンは急にいばり出して真珠湾で米国艦隊を撃滅した(55p)」は、『魔天忍法帖』の着想のルーツが那辺にあったかを指し示すようで想像を刺激される。

 突然菊地ツマが21世紀到来記念少女漫画ベスト選びを発案して、勢いで大野万紀がSF漫画ベスト選びを言い出した。もともときらいじゃないから、調子に乗って、すぐセレクションにかかったのだが、困ったのはやっぱり伝奇・ファンタジイ系の取り扱い。ファンタジイ込みなら『ベルセルク』はぜひ入れたいけど、さすがにここまでいくとSFには含められない。ぼくのなかでは『デビルマン』は微妙なところでSFではなく、『ハンター・ハンター』が微妙なところでSFになる。吾妻ひでおはSFのコアだけど、杉浦茂は非SF。選べないのも腹が立つので、勝手に伝奇・ファンタジイ20とかも選ぶことにした。ということで、こうなりました。

●SFコミック・ベスト20(順不動、著者名・タイトル若干不確実)

 とりあえず次候補には同じ作者のものか、なにかのかたちで同系統といえそうで、選出作品の代替を担えそうなものを目ざした。半分近くの次候補は力不足かなあ。若干の弁解をしておくと桑田二郎・松本あきらはノスタルジア。弓月光は筒井系スラプスティックの正嫡だと思っているのだけれど、作品の完成度で選出作か『甘い関係』かとなって、派手さでこちらに。『トラブル急行』というマニアックな話もあるのだけどね。『燃えよ一歩』は将棋漫画。クライマックスは将棋の世界観がひっくりかえる驚異のヴィジョンで、SFとはなにかを語るためのぼくの隠し玉のひとつである。でも読み返すと絵が稚拙。やっぱり絵柄や構成というのは時代とともに間違いなく進歩しているところがあって、とくに同じ作者の現在の絵と比べると、昔のものは稚拙さや粗雑さが目について、愛着とは別に、やっぱりつらいものがある。それでも、ヴィジョンそのものは昔のもののほうがノヴェルティへの興奮が横溢していたりして、近作に惰性と弛緩を読み取って稚拙なほうに軍配をあげたりしている。 

 ●伝奇・ファンタジイコミック・ベスト20(同上)

 いやあ、伝奇・ファンタジイ系はSF系の倍以上読んでいるはずなのに、選び出そうとすると思いのほかに苦労した。20点が埋まらない。予定調和の型にはまった話であったり、パンチ力に欠けていたりでどうも選ぶのが難しい。善玉チームが土俵の上で戦って、勝ちあがっていく話をできるだけ減らしたいと思ったりしたから余計困ったのかもしれない。上位で選んだ作品にパワーがありすぎるのも理由のひとつ。『3×3EYES』『BASTARD』『彼方から』『月の子』『ロトの紋章』『ああ女神さま』などなど、なんかSFに比べて選び切れないひよわさがある。たとえば桂正和や新谷かおる、柴田昌宏、など、一流どころであるはずなのに、どうしても次候補にも選びきれない作家たちに似ている。
 少女コミック・ベスト20で選択したのもの、<パーム>『イズアローン伝説』『妖精王』は除いた。ちなみに、最初に選んだ少女漫画ベスト20は次のようなものである。

  1. 三原順   『はみだしっ子』
  2. 伸たまき   <パーム>
  3. 萩尾望都  『3月ウサギが集団で』(短編集)

 大和和紀、坂田靖子、大島弓子、倉田江美、渡辺多恵子、池田理代子、志賀公江、忠津陽子、高橋亮子、市川みさこ、あたりが入れそこなった気がかり作家。

 ここまできたらついでである。ノンセクション20。上の3つのベストで選ばなかった<漫画家>の作品から。(次候補選出の作家も除外)

 自分のリストながらとんがったところがない保守的な代物になった。山松ゆうきち(だったと思う)のバクチ4コマは、心情的リアルさが強烈で昔から好きなのだけど、だれも言及しないし、ぼくも本としては、若干薄味のものを一冊持っているだけである。四〇点中四分の一が現在継続中の作品。

 SFの重要作品の見落としをしないように、昔買ったまま読んでなかった米沢嘉博『戦後SFマンガ史』(新評社・1980)を引っ張り出した。気がつくと、全編読みきってしまっていた。傑作である。というか、著者の文法がコミック評論のそれであるより、かってのSFファンダムの文法で書き上げられている。SFを読み、漫画を読み、福島正実、石川喬司、小松左京、伊藤典夫、ジュディス・メリル等々の口調に薫陶を受け、理屈や方法論を内面化し、表現してきた世代。要するにぼくの同世代のファンダム・ファンがファンダム内で主流・オーソドックスであったSF観・SF漫画観を自分の言葉で語ることに成功した本である。こちらの『みだれ殺法』と同じ文化圏の産物である。展開されるSF論も、使っている単語も共通するものが多い。向こうの方が10年早い。
 縦横に二つのしっかりした軸があり、わかりやすく、しかも奥行きのある構成になっている。
 暦年単位に章分けしてSF、コミック、映画、TV作品のリストを巻頭に置き、社会状況、文化状況を俯瞰しながら、各作品と作家について詳述していくのが基本構成であるこれが横の軸。。ポジショニングの取り方が理想的。安定した見やすい構成のなかで個別の作家論・状況論については、相当に突っ込んだ論評を加えている。
 その論評の軸になるのが、SF漫画史を、手塚治虫による人気のブレイクしないSF漫画と、少年たちの心を捉えたSFもどきのヒーロー漫画との二項対立と、その歴史のなかでいかに手塚が自己の理想を守りつつ、人気作の動向を自分のなかに取り込もうと頑張ったかの検証である。
 今では神様扱いされている手塚が、けっして子供たちの人気の中核を担えてこなかったことをはっきりと主張し、しかもその理由を手塚のSF性に求めたところに、いかにもファンダム・ファンらしい視線がある。
「手塚治虫が異世界の自律をめざし、多元宇宙の確立を求め全ての対象を自らの言葉に変えていく時、手塚治虫の宇宙は閉ざされていく。(中略)
 手塚マンガを読むことで描き始めた作家たちに欠けていたのは、「世界」の認識だった。世界の完結を目に入れることなく、マンガで語ることに身をゆだねた描き手たちは、SFにおける科学的認識をすっとばしたところで、操ることを楽しむ。パターンとして提示された「闘い」を軸に面白さを追及することは一方で、ファッションの増殖自体へ突入していく。(中略)
 しかし、また一方で、操ることそのものの楽しさを追うことは、世界を拡大していくことであった。闘いのパターンはそれにも力を貸す。(中略)巨大な存在を弄ぶことの楽しさは、マンガにおいて易々と行なわれていく。その為の広大で自由な場を作りあげる為に、SFは使用される。スーパーヒーローマンガは、そのファッションのバリエーションの一つとしてSFを選ぶのだが、物語の巨大さは必然的にSF的設定を招きよせる」(終章)
 ここで語られる、SFとSFもどきの区分け、それぞれの限界と可能性、相互交錯に関する言及は、現在のSFとヤング・アダルトの状況にもかなりの部分応用可能な普遍性を持っている。
 「SFとして見た場合、それはご都合主義的であり、リアリティのない部分を多々持っていた。が、この作品は少年SFマンガそのものだったのである(「宇宙戦艦ヤマト」)」
 たたきあげのSFファンとしてのSF原理論を根底に持ち、その視点からSFマンガとSFもどきマンガをくどく区分けし、SFマンガの側に立ちながら、SFの高踏性の閉塞性、SFもどきのヴァイタリティを評価していく姿勢が好きだ。
 それにしてもうらやましいのは、SFジャーゴンをどこまで噛み砕かずに語れるかに関しての読者との共通了解部分に対する信頼感の強さだ。SFが天下を謳歌していた時代の刊行物という一面もあるのだろう。たとえば次のような文章がある。
「それは読み手によってなされるシジジイにも似ている。いや、スタージョンを引くならそれは「夢見る宝石」と呼んだ方がいいだろう。宝石は夢見、作品を創り上げる。一対の宝石が完全な夢を見た時完全に同じ物が出来るが、多くは奇形の「似たような物」を創りあげるにとどまるという設定は、そのままマンガの作られ方にあてはめることができる。」
「身近な夢としてのロボケットや快球X君は親近感を持って受け入れられた。言うなれば「ブラボー火星人」の少年マンガ的展開である。」
「アルゴールの目の下で繰り広げられる「フェッセンデン宇宙の闘い」から有と無という巨大なる純化された闘いへと突っ走り続けることで、「幻魔大戦」は絶望的な闘いと虚無の広がりを思わせる。」
 正直こういう直喩ができたのがうらやましい。シジジイとかスタージョンとかを周知の単語のつもりで語れることで、著者と読者の間の距離が戦友感覚に満ちたすごく緊密なものとなる。昔ならぼくもできたのだけれども、今はこわくてもうできない。


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