みだれめも 第125回

水鏡子


 「性的魅力」は、フリッツ・ライバーの数ある作品中でも屈指の名品のひとつで、SFMで初紹介されたあとも、短編集『バケツ一杯の空気』、アンソロジー『ギャラクシー』などでくりかえし目にすることができている。内容もさることながら、強く印象に刻み込まれたのは、内容に似つかわしいのかどうか判然としない、この謎めいた題名だった。
 宮脇孝雄『翻訳の基本』(研究社出版・1700円)を読むと、じつは、

「「次回上映作」は、英語では、coming attraction(まもなくやってくる呼び物)ともいうが、その昔、この言葉を「性的魅力」と訳した人がいたという。「coming=ぐっとくる」「attraction=魅力」というふうに連想したらしいのである。」

 ということらしい。
 そうなのですか。教えてもらってちょっと残念な気がするのは、この題名の謎めいた気配をとっかかりに作っていった、自分のなかでのこの話に対する印象がちょっと色あせたのではないかというところ。
 まあ、しかたのないことですが。
 翻訳についての本はおもしろい。基本的には文章読本であるのだけれど、作家やエッセイストのものよりも、「読ませるためには読ませる技術が必要である」という認識が、徹底している。英語が読める読めないに関係なく勉強になる。あー、勉強という言葉はきらいだなあ。読んだことを応用できないから、こういう文章になるのだけどね。
 文章読本であるとともに、比較文化論でもあり、英文学講義でもあり、社会考現学でもある。さらには薀蓄本であり、しゃれた小話をまじえたエッセイであり、おまけに業界本でもある。タイトルは堅苦しいけど、硬派のわりにとっつきはいい。お勧め本である。一点だけ瑕疵をあげると、日本語を大切にした本であるというのに、句読点がコンマとピリオドなのはいただけない。

 業界本といえば、このまえとりあげたブックオフ本の著者小田光男永江朗安藤哲也という出版関係者が集まって出版システムの危機的状況をめぐって鼎談した本をまた読んだ。どうもくせになってきたらしい。『出版クラッシュ』(編書房・1500円)という本で、これを読むと、出版システムは業界が膨張することでかろうじて延命できていただけだそうである。業界が収縮に転じた段階でほころびがすべて表面化し始めたということである。説明を聞くかぎり嘘ではなさそうに思える。
 ただ、制度疲労を語るとき、戦後50年の時間とここ十数年の大量出版の蓄積のなかで、最終漂着地である読者・買い手についての住宅事情を含めた制度疲労の問題がすっぽり抜け落ちている。たとえば東京近辺で10万冊の本を抱えようとしたら、仮に全冊100円1千万円しか使わなかったとしても(じっさいの平均単価はぼくの買い方で400円くらいか)、収納スペースの確保のために、家賃だけで年間100万円前後必要となる。ちがいますか、まきしんじ殿。リサイクル市場の出現にはこうした読者の所有限界の問題も一端にあるはずである。(註 ぼくの蔵書数は、雑誌コミック含めてたかだか2万冊弱といったところ。アノ人たちとは格がちがうので念のため)

 宮田昇『戦後「翻訳」風雲録』(本の雑誌社・2200円)も面白い。1960年代の早川書房を中心としたミステリ、SFの翻訳シーンについての鎮魂調の貴重な証言集。関係者の間で物議をかもしそうな微妙な人間関係に触れる部分も多く、部外者にとってそれが魅力でもある。

 ついでに、この時代について書かれた本を並べておくと、SFM初代編集長福島正実『未踏の時代』、ヒッチコックマガジン編集長だった小林信彦の小説『夢の砦』、ミステリマガジン2代目編集長だった生島治郎の小説『浪漫疾風録』などが思い出される。本がしまいこまれてしまっているので、もしかしたらタイトルがまちがっているかもしれない。

 今回はノンフィクション特集ということで、読みためていた本をまとめてかたづけようとしたのだけれど、ちょっと前に読んだ本にははやくも記憶に霧がかかっている。やっぱりこまめに記録していかないといけないなあ。

 森下一仁『思考する物語』(東京創元社・2000円)は、センス・オブ・ワンダーをめぐる物語。センス・オブ・ワンダーとはなにか、という問題は、SF論の根幹をなす問題だと思っているのであるけれど、出発点は同じところだと思うのに、ぼくは科学とはなにか制度とはなにかといったところにひっかかり、森下氏の場合、むしろ認知科学にインスパイアされていくのが面白い。
 非常に誠実な本だけど、誠実さがあだになって、パンチ力に欠けるというのが、本書に対する率直な意見。
 SFの核はセンス・オブ・ワンダーにある。センス・オブ・ワンダーとはこういうものだ。
 そう決めつけて、あっちこっちの学問知識のきれっぱしを貼り付けて、<らしきかたまり>を組み立てていくのがたとえばぼくのやりかただけど、本書の場合、逆のベクトルを感じてしまう。
 SFのなかのセンス・オブ・ワンダーを自明の前提としたうえで、同じセンス・オブ・ワンダーにあたるものを追求している種々の学問ジャンルについて、誠実にガイダンスをしていくかたちなのである。他ジャンルの断片知識を本来性を無視して強引に引きつけるぼくみたいなやり方と正反対、それぞれのジャンルに対し尊敬の念をもってきちんと全体像を紹介していく。そういう誠実さが結果的に印象を収束させず、拡散させてしまったように思えるのだ。
 もう一点、センス・オブ・ワンダーというのは、結局のところ美的感動であると思うので、学問ジャンルに本質を求めていくなかで、美的の部分が飛んでしまったような気がする。

 ということで、今年読んだ本のなかで、センス・オブ・ワンダーを見事に具象化させていた本を2冊紹介しておこう。1冊目は詰将棋の傑作を集めた『看寿賞作品集』(毎日コミュニケーションズ・3800円)。活字倶楽部の昨年の収穫本で、竹本健治、福井健太が絶賛していた。
 いやあ、すごい世界です。とりわけ感動的だったのが第41番。持ち駒なし、盤面飛車飛車馬香車の攻め駒に玉のみという初形から、終了図は詰上り4銀詰。この論理と結合した美しさは、まさにセンス・オブ・ワンダーだった。

 もう1冊は浅羽通明『野望としての教養』(時事通信社・2200円)。
 SFとはなにか?みたいなものの考え方をくりかえしてきた人間にとって、教養とはなにか?をめぐってぐるぐる回りながら、コミック、大衆小説、アカデミズム、芸能現代風俗なんでもかんでもが同一線上の重要性をもって引用されていくのは快感である。本屋で見かけたら一度巻末の索引を覗いてみてください。この百花繚乱ぶりはそれだけでひとつの快感である。基本領域は教育学のようだけど、橋本治なんてのが根っこにあったりするようで、若干右がかっているかなとか思うけれども、とにかく面白い。寺子屋とか朱子学とか和算とか、知らない話がそれこそ目からうろこがおちるように面白たのしく制度的思考が流れこんでくる。うー、流れこんだはずなんだけど、なにが流れこんだっけ、霧がかかっている。でも、この、目からうろこがおちるように面白たのしく流れこむ制度的思考、というやつがセンス・オブ・ワンダーなのだと思う。

 少なくとも、ぼくとしては、このふたつの本は、同じセンス・オブ・ワンダーの本質を体現しているという意味で、最近読んだどのSFよりSF的感動を有していた。

 この本に触発されてひさびさに橋本治を読んだ。『ああでもなくこうでもなく』(マドラ出版・2350円)は「広告批評」に連載された「時評のようなもの」である。
 こっちが変わったのか、あっちが衰えたのか、読んでて、もひとつ一体化できない。文体が橋本治口調になって頭を抱えた時代というのもあったというのに。時代の空気を皮膚感覚で受けいれて文体にまとわりつかせていた人だけに、田舎に引っこんだのはマイナスだったのではないか。じつは風太郎の末期作品のものたりなさも同じ理由でないかと思っている。連載を「広告批評」で流し読んでいたときはそんなに気にならなかったけど、本になってまとめて読むとなんか少し衰弱を感じる。

 そういえば朝日新聞にちょこちょこ載っていた佐野洋子の雑文も、なんかどっか微妙に壊れた感じがあって、読んでてけっこうつらかった.ある種私淑してきた人たちだけに距離が生じてくるとけっこうさびしい。

 朝日で読みごたえがあるのが月曜日の川上弘美の書評。きちんと芸を見せている。小説はここんところ全然読んでないけれど、この書評は本にまとまったら買うつもりでいる。


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