内 輪   第111回

大野万紀


 THATTAの例会で、医薬品と医薬部外品という話題から、SF品とSF部外品という冗談が出てきた。SF部外品はコンビニで売ってもいいが、SF品はちゃんとした資格のあるSF師のいる書店で、処方箋がないと買えないというわけ。これはまあつまらない冗談だけど、確かに本格SFと呼ばれる小説の中には、SFを読み慣れていないとなかなかその面白さがわかりにくい話があるというのも事実でしょう。処方箋に従って、適量ずつちゃんと服用していれば、そのうちとても幸せになれる――のだろうか。
 でも、ぼくらが好きなSFは、やっぱりそういう類のものが多いんだなあ。
 例えば(今思いついたのだが)こういう文章で始まる小説があったとしよう。

 冷たいオールト雲の静寂の中、時空のメトリックスを揺らめかせ、青白いチェレンコフ光のひそやかな輝きをまとって、6500万年ぶりに、そいつはこの世に姿を現した。

 いや、これはまあ典型的に陳腐な文章ではあるけれど、SFを読み慣れた者にはある種のイメージが湧くでしょ? まずオールト雲という所で、舞台はどこか銀河の果てではなく、太陽系か地球だろうと思うし、時空のメトリックスがどうとかチェレンコフ光がどうとかいうので(これ自体はいかにもこけおどしな表現だが)何か超光速に関連したテクノロジーとかそういう連想ができる。さらに6500万年という数字から、恐竜絶滅を思い浮かべ、これから地球に再び大破壊が襲ってくるのだということまでわかるだろう。
 この文章には特別にSF固有の用語は使われていない。でも、SFに慣れていない読者には、せいぜい宇宙空間に何かが現れたというだけの意味しか伝わらず、ここからSF的なイメージの広がりを楽しむことは難しいように思う。そこにはやはりある種の壁があり、それがSFのとっつきにくさというものを形作っているのだろう。ぼくらがSFらしいSFを礼賛する一方で、それが壁を高くする行為であるかも知れないということは自戒しないといけないね。あーでも面白いものは面白いし、好きなものは好きなんだから、しょうがないよねー。

 えーと、上の文章は今回の書評とは何も関係ないです。念のため。

 それではこの一月ほどで読んだ本から(読んだ順です)。

『マーフィの呪い/魔法の国ザンス12』 ピアズ・アンソニイ (ハヤカワ文庫)
 今度は17歳になったアイビィ王女が、いなくなった魔法使いハンフリーを探す旅に出る話。それが何とマンダニアに着いてしまい、マンダニアのさえない大学生グレイ・マーフィと恋に落ちる……。いや、グレイといっても綴りは違います。催眠ひょうたんの世界を通って二人はザンスへ帰り着き、様々な冒険をして……とまあ、いつもの楽しいお約束ファンタジーが描かれるのだが、この新シリーズにはどうもコン・ピュータというやつが重く影を落としているように思う。ヴァーチャル・リアリティ・テーマというか、いわば神林的なメタな構造が今まで以上に表面に出てきているようなのだ。コン・ピュータの魔法というのが、現実を変更してしまうという種類のものだし、今回出てくる重要な魔法も、物事に対しての効果ではなく、魔法のルールに対する魔法という、メタな魔法である。考えてみればアイビィの魔法だって、相手の魔法の効果を強めるというメタ魔法だし、そういうのはRPGでは補助魔法とかいうんだっけ? まあとにかく、場のルールを変更してしまうような、ワイルドカード的で強力なメタ魔法が出てくるのでは、ザンスのほのぼのとした雰囲気も変わってしまうというものだ。物語がいかにほのぼのと描かれていても、例えばゴブリンなんてずいぶん残酷なことをしているんだし、いくら主人公たちがまるで中学生の恋愛ごっこをしているように見えたとしても、ザンスはやっぱりちょっとへんてこな小説だと思う。これからも読み続けたいし、早く続きが出ないかなあ。

『SFバカ本/ペンギン篇』 岬兄悟・大原まり子編 (廣済堂文庫)
 好みの話も、それほどでないのもいろいろあり。好みはやっぱしSFでしょう。岡崎弘明「われはロケット」がいい。種馬ならぬ種ロケットという発想が好きだなあ。吾妻ひでおっぽいイメージが浮かぶ。SFというよりホラーのアンソロジーにふさわしそうなのが友成純一「バーチャル・カメラ」。かんべむさし「因果応報」も面白くて怖い話。はちゃめちゃをやりながら醒めているのが怖いわな。牧野修「演歌の黙示録(エンカ・アポカリプシス)」は何で演歌なのかよくわからないけど、異様な怪作というのは正しい。安達揺「老年期の終わり」はパワーを感じる。どの作品も楽しめたが、しかし、もうちょっと全体にSF側にシフトしてくれたらもっと嬉しいんだけど。

『カムナビ』 梅原克文 (角川書店)
 話題作だし、よく売れているようで、梅田の旭屋では売り切れだった。ぶあついハードカバーの二巻本だが、読みやすさについては心配していなかったのだが……。縄文土器、邪馬台国の謎、蛇神信仰、異常気象、アメダス、三種の神器、オーパーツ……こういったキーワードから、読者は古代史テーマの伝奇SFを思い浮かべるだろうし、それは間違っていない。オカルト的あるいはトンデモ本的といった批判は予想されても、面白い伝奇SFならそんな批判は無視してかまわないだろう。実際、本書でも伝奇SFとしては十分な水準に達していると思うし、伝奇小説から純然たるSFに変わる(もちろん作者は主義としてそれをSFとは呼ばないのだろうが)後半の大パニックにしても、科学的SF的な理由付けがどれほど無茶苦茶であろうと、その描写には迫力があり、読み応えがある。このあたり、作者には本来並々ならぬ筆力があることを伺わせる。で、問題はむしろ登場人物やストーリーの日常的な描写の方だ。全く感情移入のできない魅力のないキャラクターたちが、非常識な行動を繰りひろげ、しつこいくらいに同じ叙述が繰り返される。水増ししたみたいな文章、しらける描写、校正ミスとしか思えないような文章がだらだらと続く。これが『ソリトンの悪魔』を書いた同じ作者とは信じられない感じだ。とにかく登場人物に魅力がないことが、エンターテインメントとして致命的である。

『GOD』 井上雅彦編 (廣済堂文庫)
 異形コレクションの12。テーマがちょっと難しいという気がする。ホラーでの神というと、クトゥルー風の邪神や、新興宗教の怪しげな神様、あるいは古い土俗的・アニミズム的な神のイメージが強く、それらは他のテーマと差別化しにくいのではないかと思う。神様というより、怪物なわけだ。そういうわけで、キリスト教の聖女のイメージがそのまま恐怖へとつながる久美沙織「献身」が本書の中で特に印象に残った。その他面白かった作品としては、おぞましい生贄の儀式を少年の目からほのかなエロティシズムと共に描いた田中哲弥「初恋」、あいかわらず駄洒落をかましながら、異常に迫力のある怪獣SFを書く田中啓文「怪獣ジウス」、残酷でパンクな言語世界を作り上げる牧野修「ドギィダディ」(とにかくこの御三家は、それぞれ全然作風が違うのに、これまでほとんど外れがない)、まさに異形なる変容を描くが、その筆致がせつなく美しい竹河聖「DOG」などが挙げられる。また、横田順彌「遊女神」もマンガ風で面白かったし、倉阪鬼一郎「茜村より」はかなり無理のある話ではあるが、どこかラファティを思わせるところがある。菊地秀行の中編「サラ金から参りました」はドタバタ風のクトゥルー話。こうしてみると、今回も結構読み応えのある話が多かったようだ。

『偏執の芳香―アロマパラノイド』 牧野修 (アスペクト)
 遅まきながらようやく読み終えた(ハードカバーは通勤中に読みにくいので後回しになるのだ)。要約してしまうと、危険な力を持つカルト集団と戦う、子連れの母とその仲間たちの話。こういってみたところで、何も語ってはいないのだが。本書のキモは、多くの人が指摘しているとおり、カルトでサイコで電波な連中の恐ろしく怖い描写にある。もう夢に出そうなくらいおぞましい。夜の帰り道なら、きっと何度も後ろを振り返って見たくなるだろう。もう一つの魅力は、ホラーでありながらはっきりとSFでもある点。この、理屈を述べることがホラーの怖さを減じているかというと、全然そんなことはない。説明がつこうがつくまいが、怖い人は怖いのである。一方で、それに立ち向かう側も、ちょっとかっこいい女の子や男の子がいて、マンガっぽいといえばマンガっぽい(こういう言い方はマンガをバカにしているようでよくないか……要するに型どおりでパターンにはまっているということだ)のだが、エンターテインメントのツボを押さえていて、気持ちがいい。この終わり方もイヤな終わり方ではないし。ま、SFとはいっても科学的にどうこういえる話ではないが、後半のファンタスティックな戦いが、ちょっとバーチャルな感じで面白かった。

『沈黙―rookow』 古川日出男 (幻冬舎)
 『13』でどぎもを抜かれた作者の2作目。前作同様ファンタスティックな要素はあるのだが、SFとはいえないし、ファンタジーともいいにくい面がある(というか、ちょっと留保したいところだ)。しかし、これまた傑作といっていい、読み応えのある作品だった。19歳の美大に通う女子大生が主人公で、彼女がそれまで面識のなかった大叔母と出会い、祖母の実家であるその屋敷に下宿して、地下室にある膨大なレコードにふれる。そして数百年前のカリブ海に発するルコという音楽の壮大な歴史と謎を知ることになる。まず登場人物たちがいい。主人公と大叔母が一緒に暮らしながら、料理を作ったり猫と遊んだりする日常が、温かく細やかに描かれている。古い屋敷のひんやりとした静けさや、それまで一人暮らしだった老女の上品で豊かな日常性が快い。そして、そこから交友関係が広がり、大きな展覧会プロジェクトを推進しようとしている芸術家集団との交流が描かれる。作者は知的で才能のある芸術家たちを描くとき、とりわけその筆が冴え渡っている。このグループのメンバーたちはみな、生き生きとして知的な魅力に満ちている。読者は主人公と一緒になって彼らの活動に参加し、話を聞き、共に仲間となってプロジェクトを成功させたいと思うだろう。そして、本書のメインテーマである「ルコ」の歴史。これまた緻密で謎に満ち、魅力的である。読者は何とかしてその一曲でも聴いてみたいと思うに違いない。この歴史を研究していた(そして主人公がその後をついだ)彼女の大叔父の息子である(何ていうの?)青年の物語もまた謎と魅力にあふれている。そこにはまた、様々な人物と物語が織り込まれ、多層で豊かな世界を形作っている。しかし、本書にはもうひとつ重要なテーマがある。これらすべてと関わりながら、そこへ収斂していくべきテーマ、主人公の大叔父や、主人公の弟に代表される、純粋な悪意、あるいはルコの音楽的な生に対峙する闇、死、破壊というテーマが。ところがこれがもうひとつわかりにくく、理解しがたいのだ。魅力にあふれる生のテーマに対して、対峙しきれておらず、中途半端な印象を受ける。突然オカルト的になったり、どうもよくわからない。十分には描き切れていないように思う。そのあたりが少し残念な点だが、いずれにせよ、読書の楽しみ、喜びを感じさせてくれる作品だった。


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