みだれめも 第115回

水鏡子


●秋山完『ペリペティアの福音 上中下』(ソノラマ文庫)
 三村美衣に謀られたれた気がしないでもない。

〈惑星ペリペティアから、伝説の人物フォークト大帝の聖墓が発掘され、死後千年を経て大帝の葬儀が開かれることになった。(中略)
 原始的な種族しか住まないはずの砂の惑星ペリペティアだが、いざ惑星に降りてみれば、そこには帝国の世継ぎを名乗る謎の美少女が暮らしているばかりか、千年も昔に死んだはずのフォークト大帝本人だと自称する老人までもが出現。大帝の遺伝子を入手したい医療法人ゲルブクロイツ、銀河世界の覇権を握らんと画策する〈連邦〉の思惑がからみ、ペリペティアには一触即発の不穏な空気が流れる…〉(SFM11月号レビュー)

 これを次の文章と比べてみよう。

〈神皇帝の治世が終わり、大離散が起こった。だが、世界ははたして本当に、神皇帝の呪縛から開放されたのだろうか。諸勢力の疑心暗鬼の中、今なお聖地として栄えるアラキスに、砂虫を自由に駆る少女が出現したことから、勢力間の動きはにわかにあわただしいものとなる。ベネ・ゲセリット、ベネ・トライラックス、イックス、ギルドといまやなじみとなったグループ間に、大離散から帰還し、性文化を基盤とした文化を打ち立てたオナード・メイトレスがあらたに荒々しく参入する。そのはざまにあって奮闘するのは、今なお死してよみがえり続ける、ダンカン・アイダホだった〉(『SFハンドブック』)

 うーむ。どうみても一緒じゃん。ちなみにあとの文章はぼくのものである。
 未完であるにもかかわらず(もしくは未完であるからいっそう)、『砂漠の異端者/砂丘の大聖堂』は、その猥雑さ混沌性をもってぼくの推すSF名作群の一方の将を成す。フランク・ハーバートはグレードアップしたヴァン・ヴォークトであるというのもまた、ぼくの持論であったりする。これは読まないわけにはいかない。「『ノーストリリア』を思わせる破天荒なアイデアを盛りこんだ本格SF」なんて表現には、それほど触手じゃない食指を動かされないのだけどね。(あとで三村美衣に聞いたら、〈デューン〉のことなんかこれっぽちも考えてなかったとのこと)
 まあ、はっきり言って、ハーバートとはぜんぜんちがう。まるっきり別ものである。
 けれども、さきほど言った猥雑さ混沌性といった表現はこの小説にも十二分に当てはまり、さらに加えて、内容的にも文体的にも熟成を感じさせる一面と目を掩うばかりの稚拙さがごっちゃごちゃに混じりあい、絶賛していいしこきおろしてもいいような収拾のつかない混乱した読後感を提供された。ちなみにメインアイデアのひとつ「神の遺伝子計画」はぼくとしてはゴミだ。いろいろ不満はあるけれど、これもやっぱり色気づいた今様のガキに向けてレベルアップしたヴァン・ヴォークト系スラプスティック本格SFとして今年の収穫に数えたい。

 じつをいうと、読書感からいって、過分ともいえる期待を抱えて本に接して、期待にたがわぬ読み応えを与えてくれた(これはなかなかできないこと)、神林長平『グッドラック』と、読んでる途中で、なんか期待しているのだけど、いったいなにを期待して読んでいるのか頭ん中がぐちゃぐちゃになった、不満だらけの『ペリペティアの福音』のどっちを今年の上位に持ってきたらいいのか、現在思案中である。
 常識的には当然『グッドラック』なのだけどね。

 というわけで秋山完の前二作を読んでみた。

 まず前作『リバティ・ランドの鐘』
 遊園地惑星に侵攻してきたバーサーカー軍団から二千人の観客を護るため、八百万体のロボットが自らを犠牲にして戦い抜く話という設定で、昔、SFセミナーで本人と一緒に来ていた森下さんがこの本を絶賛してたっけと記憶が蘇ったりもした。
 泣ける話で、これはジュヴィナイルの枠を意識しないでもっと稠密にしあげてほしかったと、ストレートな話だけに、かえってできあがりに物足りなさをおぼえた。
 うーむ。
 人間のために壊れていくロボットたちに涙しながら読んだのだけど、作品から離れてふと思ったのは、これで人間を〈天皇〉とか〈国体護持〉に、ロボットを〈国民〉に置き換えると、泣かせの構造は生き残ってとてもこわい物語が派生するんじゃないかということ。ある種の思想的言い回しに感動させられたとしても、じつはその感動の大本は、思想信条的に中立である構造的な感情的誘導装置によって引き起こされているにすぎないのだと意識しておくことも大切である。

 第一長篇『ラストリーフの伝説』は、空を飛ぶシーンからはじまってボーイ・ミーツ・ガールで、自然との交感、世界を救う少女の死と再生、と、もろに宮崎アニメのオマージュで、伝え聞くところ本人が広言して憚っていないとのこと。
 ひねりのないまっとうなオマージュだけに、いかにも習作っぽく世界にふくらみが欠けるところがあるけれど、予感させるものを予感どおりに読まされる予定調和のきもちい話。○です。
 今後贔屓したいと思うけれども、まだ未完成。必要なのはメジャーの筆法。

●最近話題の最たる本が梅原克文『カムナビ』(角川書店)である。読んだ人間のほとんどが話題にしたがり、周りの人間に読ませようとけしかけているようだ。〈この怒り、ひとりでも多くの仲間と分かちあいたい〉 そんな思いが伝わってくる。
 じつは、わたしは『二重螺旋』も『ソリトン』も読んでいなくて、本書がはじめての読書体験であるわけだけど、「神は細部に宿り給う」ということわざを、じっくりかみしめさせていただいた。アナビス仕様のメインアイデアは、まあそれなりにそれなりだけど、とにかく、「細部」が「ない」。文章表現、情景描写、登場人物たちの言動、すべからくが現実離れしている。小説に期待する最小限の文章的な気配りが成されていないどころか、そんなものがあると思っている気配すらない。読みながら頭を抱え続けた。ただし、それでも一応小説としてのていをなし、上下2巻をそれなりに一気に最後まで読み通させたわけだから、ある種の筆力、作家的才能はあるということなのだろう。文章力と筆力がちがうものだということが、実感できた。

●マイケル・マーシャル・スミス『ワン・オブ・アス』(ソニー・マガジンズ)にはクライマックスのどんでん返しにひっくり返った。単なるにぎやかしだと思っていた連中がこんなかたちでかかわってくるとは思わなかった。基本的にはシリアスタッチなのだけど、このひとのユーモア感覚には非凡なものがある。最初のシーン、酒場で時計と口論するところなんか絶妙である。『スペアーズ』に比べてガジェット的にはずっとこじんまりして、そのぶん話がしまった。ディック風といえばディック風なのだけど、それよりまっとうなころのロン・ハバードの作品に近い印象がある。好き。

●オー・ヘンリーの「賢者の贈り物」を思い起こさせるエピソードに始まるゴールドストーン夫妻の『古書店めぐりは夫婦で』(早川NV)。快調なテンポで語られるお宝探しの小旅行はただひたすらに気持ちよい。と、快感にひたっていたら、どんどん初版本・稀こう本の世界に突入する。10ドルで誕生日プレゼントを手に入れた初志はいったいどこにいったのか。仲間と思っていたのにちょっと裏切られた気分。高橋直子の競馬エッセイが巻を重ねるにしたがって、こっちの人からあっちの人に移っていってちょっとつまんなくなったのとおんなじような軽いものたりなさが残ったけれど、基本的に文章タッチがきもちいいので、高橋直子同様今後も続きを楽しみたい。

 とりあえず、最近入手の百円本。『筑摩文学全集・ハイネ』『天のろくろ』『時は準宝石の螺旋のように』『女の千年王国』『集英社文庫・荒俣宏コレクション』たくさん『日本中世史を見直す』『クセジュ文庫・ファシズム』『アーレニウス・宇宙のはじまり』『文庫版・はみだしっ子1』『思い違いの科学史』『時計の社会史』『病気の社会史』『工芸の社会史』『地図の歴史』『楽園と庭』『佐和隆光・現代経済学の名著』『加藤秀俊・アメリカの小さな町から』『中村雄二郎・正念場』コミックたくさん、など。

●ロバート・アスプリン『こちら魔法探偵社』(早川FT)はマジカルランドの第7作。この種の軽いタッチのシリーズものが、それなりの読み応えを提供してくれるのは、書き分けられたキャラクター間の掛合いや気配りぐあいがけっこう味あるものにしあがってることが多いせいであるのだけれど、今回は、そんな人間ドラマの核である、主人公の変心ぐあいとそこんとこからの改心が、どっちもちょっと強引もしくは拙速で、脇役陣の奮闘むなしく、話がちょっとうすっぺらくなったきらいがある。不満といってもほんのちょっとのものたりなさだけだけどね。

●ハリー・タートルダブ『精霊がいっぱい』(早川FT)は正統派力作アンノウン・ファンタジイ。力作、というのがじつはけなしことばであったりする。全体にがんばりすぎて、緩急やめりはり、軽快さに欠けている。クライマックスに向かってもっと派手にもりあがってほしかった。物語的にはあきらかにそうなるはずのものなのに、なんかもひとつ、歯切れが重たい。そういえばアンダースンの『大魔王作戦』も、出だしの軽快さが嘘のように後半重たくなったことを思いだした。

 アスプリンとタートルダブ、ふたつの本のいいとこ取りをしたような話を読みたい。


THATTA 139号へ戻る

トップページへ戻る